一周忌
僕の作戦は面白いように功を奏していた。
ことあるごとに彼女の手を握ってみたり、太腿がぶつかるほど近くに座ってみたり……。スキンシップを取ろうとすると、彼女は別人のように怯んで恥じらう。
彼女から僕に触れることもたまにある。
でも大抵は手の甲をつねるか、つま先で僕の足をどつくくらいだ。単にいたぶっているだけで甘い雰囲気はない。
攻撃性を含んだスキンシップは、彼女的には恥ずかしくないみたいだ。
付き合い始めた日なんて、自分から僕の指を噛ったくらいだからね。
とにかく、僕は彼女が僕に触れられたときだけに見せる表情にすっかり虜だった。
いつも能面みたいに冷めた顔をしてるので、時折恥じらって頬を赤らめた時の破壊力と言ったらない。僕をいじめて興奮している顔も艶っぽくていいけど、かわいいのは断然デレ顔だ。
僕はこの作戦を信じて突っ走った。
季節は巡り、中庭の木々もすっかり葉を落とした頃。
ほぼ毎日の昼休みと、月に1~2回のデートを重ねるうちに、僕達はかなり近しくなっていた。
きっかけこそ神さまのイタズラだけど、今ではすっかり本物の恋人同士だ。なんでもない会話さえ楽しくて、彼女といると毎日がふわふわと通りすぎていってしまう。
贔屓目かもしれないけど、彼女の方も僕といるのが嫌ではなさそうだった。
ただ……彼女もだんだん慣れてきて、ほっぺにチューくらいじゃ数秒しかデレ顔を拝めなくなってきたんだよなぁ。
僕か彼女が死ぬタイムリミットまであと1ヶ月。
僕はここ数日、唇にキスするタイミングを必死に見計らってた。
今まで何してたんだよ、って思われるかもしれないけど、初彼女なので許してほしい。
だって、彼女のさくらんぼみたいな唇を目の前にすると、動悸が激しくなり狙いが定まらなくなってしまうのだ。
でも、今日こそは、やる。
武士っぽく袴の帯を締めたいところだけど、残念ながら僕の出で立ちは学ランなので、代わりにズボンのチャックをシャッと勢いよく閉めた。
「次のデートだけど」
「うん、どうする?」
「バレンタインデーまでおあずけにしましょう」
「え」
昼休みの中庭。
彼女のために水筒から温かいお茶を注いでいると、突然そう告げられた。
僕はびっくりしてお茶を溢しそうになる。慌ててカチッと水筒の注ぎ口をロックした。
「そ、そんな! 今月まだ一回もバッティングセンター行ってないじゃん?」
言い忘れてたが、あれから彼女はバットでボールを打つ快感に目覚めてしまい、バッティングセンターはデートの鉄板コースとなったのだ。
「ええ。でも今月は忙しいの」
僕はオロオロとすがるような思いで言うが、彼女はまるで意に介さない。
「忙しいって?」
「それは言えない。じゃあ、また明日ね」
「ちょっ……!」
とりつく島もなく、彼女は立ち上がってスタスタと教室に戻っていく。
と思ったら、途中で僕の方を振り向いた。
「その代わり、バレンタインデーは予定を空けておいてね」
彼女はイタズラっぽく微笑んでから、くるりと前を向いて歩いていってしまう。
結局キスは出来ず……というか、ろくに発言もさせてもらえなかった。
僕は彼女のために注いだ温かいお茶をずずっと啜り、深い溜め息をつく。
「言われなくても丸一日空けてあるよ……」
だってその日は僕の命日なんだから。
――とうとうこの日が来てしまった。
あの悪夢のような日から、もう一年が過ぎたのか。
外を眺めると、ふわふわと粉雪が控えめに舞っていた。
今年のバレンタインデーは日曜日。
僕はあれから彼女に「忙しいから」と避けられ続け、キスするどころか昼休み以外で全く話すことが出来なかった。
生死がかかっているので僕も必死だったけど、彼女は一度こうと決めたら頑として曲げない。何が忙しいんだか知らないけど、会わないと決めたら僕が何を言ったって無駄なのだということは、これまでの付き合いでよくわかっていた。
だから今日に懸けている。
彼女は知らないけど、今日のデートで彼女を死ぬほど幸せにしないと、僕は死ぬ。
もしも彼女を死ぬほど幸せな気分にできたなら、そのときは彼女が死ぬ。
……うん。
一ミリも生き残れる気がしない。
僕はクローゼットの奥から、前に親戚の結婚式で来た一帳羅を取り出す。
真っ白なワイシャツに、赤にも黒にも見える深紅のネクタイ。その上に黒のベストとジャケット。胸ポケットに入れるスカーフを失くしてしまったせいで、下手するとお葬式の参列者に見えなくもない。
まあ結局、上着は通学用のダッフルコートしかないし、細かいことは気にしないことにしよう。
「父さん、母さん、タマ。今までありがとう」
僕は家を出るとき、思わず振り返ってドアに向かって呟いた。
屋根の上でひなたぼっこしていたタマだけが、にゃあ、と返事してくれた。
彼女との待ち合わせ場所は、駅前のバス停だった。
バッティングセンター以外のデートプランに全く関心のない彼女が、場所を指定してくるのは初めてだ。行き先は教えてもらってないけれど。
「おはよう久藤くん」
「おはよう志乃宮さん」
呼び方こそよそよそしいけど、僕達は目が合うと自然に手を繋ぎ、寒空の下で仲良くバスを待った。
「来たわ」
ブロロロ……とバスがロータリーに入ってくる。電光掲示板には、“◯◯山行き”と聞いたことない山の名前が書いてあった。
「少し長く乗るから、お手洗い行っておいた方が良かったわよ」
「……わざと今言ったでしょ」
ふふ、と意地悪く微笑むと、彼女はパッと僕の手を離しバスに乗り込んだ。僕もやれやれと後に続く。
日曜の朝9時過ぎ。
どの店も開店前でシャッターが閉まっており、街はまだ寝ぼけているみたいに静かだ。
乗客は僕達しかおらず、シンとした車内にはバスのエンジン音だけが響いている。
「はいこれ」
バスに乗ってしばらくして、突然彼女が小さな紙袋を僕に手渡した。
「何?」
「今日はバレンタインでしょ」
「……!」
そっか!
いや、忘れてたわけじゃないけど、まさか彼女が僕をあの世に送る目的ではなく、普通にチョコを用意してくれるとは思ってもみなかった。
「う、うわぁ……」
僕は感動しすぎて涙声になりながら受け取る。
紙袋の中には見覚えのある赤いハート型の小箱。取り出して中を開けると、テディベアの顔が描かれたトリュフチョコレートが入っていた。
「すごい! ブーさんチョコだ!」
「試作を繰り返したんだけど、トリュフチョコが一番きれいにできたのよ」
「試作?」
もしかして。
「忙しいって言ってたの、これを作るためだったの?」
「ええ」
彼女が無表情で頷いた。僕はますます歓喜に震えた。まずい、このままじゃ僕が昇天させられそうだ。
本当はずっと飾っておきたいけど、僕に残された時間はあとわずか。僕はそっとチョコを手に取り「いただきます」とその場で食べた。
「お、美味しいです……」
「そう」
彼女らしからぬ甘々な味わいのチョコレートを堪能し、思わず涙ぐむ。彼女は少しだけ満足そうに目を細めた。
“次は終点、◯◯山です”
小一時間くらい経っただろうか。
いつ降りるんだろうとそわそわしていたら、結局終点まで来てしまった。
「ちょっとここで待ってて」
バスを降りると、彼女はそう言って道路沿いの花屋に入った。
店の外で待っていると、彼女はすぐに白や黄色の花束を抱えて出てくる。
「え」
どう見ても仏花だった。
「さ、行きましょう」
戸惑う僕を置き去りに、彼女はすたすたと山道を登り始めた。
「ちょ、ちょっと休憩しない……?」
きちんと整備されてはいたが、山道を一時間近く登るのはさすがにキツい。
何でデートで山登り?
しかも、その仏花は何なんだ?
一足早めの僕への献花だろうか。いや、そんなわけない。
彼女は、今日僕が死ぬかもしれないなんて知らないはずなんだ。
「だらしない。ほら、もう着いたわ」
「!」
ぜぇぜぇ、と息も絶え絶えになりながら彼女に追いつき顔を上げると――そこは霊園だった。
頂上から少し下った見晴らしのいい斜面に、小さなお寺と立ち並ぶ墓石。そのほとんどが手入れされずに苔むしている。
彼女は慣れた様子で手桶と柄杓を取り、水を汲む。花も抱えて運びにくそうにしていたので、僕は事情を聞く代わりに手桶を持った。
鬱蒼とお生い茂った雑草を分け入って進むと、ひとつだけ全く苔の生えていないお墓があった。
彼女はその前で足を止め、何も言わずにシャバシャバと墓石に水をかける。買ってきた花束を静かに供えると、その場にしゃがんで手を合わせた。
僕は彼女の背中をじっと見ていた。
「今日は父の命日なの」
しばらくして、彼女はしゃがんだまま言う。
「ひどい父親だったわ。お酒とギャンブルが生き甲斐で、気分ひとつで私や母に暴力を奮ってゲラゲラ笑うような」
パッパッとロングスカートの皺を伸ばしながら立ち上がり、伏し目がちに振り向いた。
「でも、私が中学一年生のとき、ある日突然ぽっくり死んでしまったの」
その瞳はいつもと変わらずガラス玉みたいに何も映してないけれど、今日に限ってはひどく空っぽに見えた。
「不思議ね。あんなに死んでほしいと願っていたのに、いざ居なくなると、機嫌のいいときに頭を撫でてくれたこととか、ずっと昔に家族で動物園に行ったこととか、良いことばかり思い出すの。だから」
彼女は空っぽの瞳で真っ直ぐに僕を見る。
「いつか久藤くんが死んでしまったら、きっとこの何倍も悲しいわ」
真顔で言う彼女に、ぎゅっと胸が締め付けられる。
「だから、早く私を幸せにしなさい……ね」
気付いた時には、僕は彼女を抱き締めていた。
「何」
「ごめん」
「何が」
「何もかも」
訳のわからないことを言って震える僕の背中を、彼女はそっと撫でてくれる。僕は余計に彼女をきつく抱き締めた。
死ぬ覚悟なんてとっくにしておいたはずだったのに、何でこんなに胸が苦しいんだろう。
彼女が愛しくてたまらない。
「ねえ久藤くん」
彼女は僕に抱き締められたまま、僕の耳元で言う。一年のうちに何度も聞いたこの不吉な台詞も、今日で最後だ。
「……何?」
僕はそっと彼女を離し、潤んだ目をゴシゴシと袖で拭う。彼女はほんのりと頬を薄紅色に染めていた。
「頂上まで行ってみましょう。あと少しだから」
彼女は僕の手を引いて先を歩き始める。いたぶるでもなく、自分から手を握るだなんて、顔には出さないけど相当動揺しているんだろう。
「うん」
僕達は仲良く手を繋ぎ、天に向かって歩き始めた。
重い脚を引きずり少しだけ坂を登ると、すぐに頂上の見晴台に着いた。
「おおー」
一時間もかけて登ってきただけあって、なかなかの標高だ。遠くに小さく僕達の住む街が見える。
学校、ショッピングセンター、駅、バッティングセンター……彼女との思い出が詰まった小さな街。
「きれいでしょ」
「うん。大変だったけど登って良かったよ……あれ?」
見下ろすと、僕達が登ってきた山道と反対側の斜面には車道がありバスが走っている。
「あのさ……もしかして、ここまでバスで来られたの?」
「ええ」
ガクッと僕はその場に崩折れた。
彼女はイタズラっぽく、ふふっ、と微笑んで言う。
「自分の足で登った方が達成感があるじゃない?」
「いいや、絶対インドア派の僕への嫌がらせだろ!」
「だったらどうするの?」
怒る僕を見て至極嬉しそうに笑う彼女が、遮るもののない陽の光に当てられてキラキラと輝いて見えた。
「こうする」
僕は彼女の唇にキスをした。
帰りはバスに乗った。
僕達は終始無言だったけど、二人とも疲れていて、相談する必要もなく足が勝手にバス停へ向かっていたのだ。
彼女はあれから一言も話さない。目も合わせてくれない。
怒っているのではなく、尋常じゃなく照れているのだと信じたいけど……正直わからない。
衝動的にキスしてしまったせいで、相手を気遣う余裕がなく、肝心の彼女のリアクションを見そびれてしまったのだ。
でもいい。これで思い残すことはない。
僕は今夜眠りについたら、きっと目覚めない。あの世で神さまに役立たずと罵られた挙げ句、中卒で天界に就職するんだ。
彼女を悲しませるのは本当に辛いけど、彼女を死なせるのはもっと辛い。
こうするしかなかった――。
「?」
突然、右肩が重くなったと思ったら、彼女が僕にもたれ掛かってうたた寝していた。すぅすぅと幸せそうに寝息をたてている。
僕はそっとその頭を撫でた。
ガタガタと山道を下るバスの揺れはどこか心地よく、疲れきった僕達はいつしか深い眠りについていた。
【ぬしよ】
遠くから神さまの声が聞こえる。
目を開けると、懐かしい真っ白な世界が広がっていた。
そっか、僕はもう死んだのか。
【神使の使命は果たされた。約束通りぬしを現世界に生き返えそう】
……ん?
【その前に、神に纏わる記憶を消させてもらう】
ちょっと待って。
何を言ってるんだかさっぱりわからない。
使命は果たされた? 生き返る?
僕は死んだんじゃないのか……?
【おい死神ー。まーたしょうもないことしてんだろ】
突然、虚空から全く知らない声がした。
この脳内から直接響いてくるような話し方は、間違いなくあの世の住人のものだ。
【……ちょ、邪魔するなよ。今クライマックスなんだから】
さっきまで仰々しい喋り方をしていた神さまが、突然砕けた口調になる。僕はますます混乱した。
【ぬしの記憶を――】
【なあ、何してんの?】
【あぁもう。うるさいな】
何やら神さま同士でごにょごにょ話し込んでいる。いや、死神と言ってたっけ。
【……と、そういう遊びだ。なかなか手が込んでて面白いだろ?】
【ふーん。それで、これが何周目なんだ?】
【さあ】
遊びだって?
いや、それよりも何周目ってどういうことだ。
【人間って馬鹿だよなあ、何度やっても同じ結果になる。見てる分には楽しいけど。おっといけない。コイツのこと忘れてた】
まさか……。
【ぬしよ。また来年会うだろうけど、それまでさよならだ】
「え、ちょっと待って! 僕達はいつから……ぐああっ!!」
突然激しい頭痛に襲われる。目がチカチカするほどの強烈な痛みに、何を問いかけるつもりだったのかもわからなくなった。
意識が遠のく――。
ジリリリリリ……!
ポッポー、ポッポー。
クルッポー、クルッポー。
「ん……いっててて……」
鈍く痛む頭を抱えて起き上がる。
何だろう、今日はやけに寝起きから疲れてるなあ。
「あれ?」
何で僕はこんな一張羅を着込んで寝てたんだ?
昨日どこか出かけたんだっけ……。
うーん。
ま、いっか。
『完』