男嫌いな姫君の受難
「カリーナ、今日も可愛らしいわね。ミナ、その髪飾りとっても似合ってるわ!」
廊下ですれ違う使用人たちに声をかけながら、マリーは王城の外へ向かう。
今日は騎士団主催のパレードがあり、王族である彼女も参加するのだ。
すれ違う者は皆、その美しさに恍惚のため息をもらす。
ふわふわとウェーブを描く長い銀の髪。若草色のくりっとした瞳。いつも笑みを絶やさない小さな桜桃のような唇に、薔薇色に上気した頬。
恵まれない人々も慈しむマリーを国民のなかには天使と呼ぶ者もいた。
ただ一つ、世継ぎを産まねばならない王族としては難点があった。
「きゃっ、あぁ、すみません姫。お怪我はございませんか?」
「だ、大丈夫よマーサ。わたしが不注意だったのだから、貴女は謝らないで。というか、わたしは貴女とぶつかるなら本望……」
「え?」
「なんでもないわ!気にしないで」
マリーは慌ててその場から立ち去る。
赤く染まった顔を、マーサに見られたくないからだ。
赤茶色の髪を団子にした、すらりとした美人のマーサに、マリーは並々ならぬ想いを抱いていた。
だが、憧れという言葉では足りないこの想いは、心に秘めた人がいると以前語っていたマーサに届くわけがないのだ。
痛む胸を無視して、マリーはパレードに使う、屋根の無い馬車に乗り込む。
とある事件をきっかけに男性恐怖症になっていたマリーが乗る馬車の警備は、いつも同じ女騎士たちで固められている。
しかし、その日はいつもと様子が違った。
(……一人多い? それにーー)
「ねぇ、どうして今日は皆兜を被っているの? あと、先頭にいる人は新入りの方?」
横に並んだ騎士に尋ねる。
兜の中からくぐもった声が返る。
「姫さまの警護につく人員が増えたんで、兜で顔を隠して、後で姫さまに誰が新入りか当ててもらおうと思ったんですよ」
「あら……あっさり当てちゃって悪かったわね。でも簡単すぎるわよ。新入りさん、とっても背が高いもの」
正直、顔も見えない今の状態だと男性騎士と変わらない。
少し落ち着かない気持ちを抱えつつも馬車は動き続け、マリーらは民衆の歓声に迎えられる。
沿道には国花であるマリーゴールドの花ーーマリーの名の由来でもあるーーが所狭しと咲いていた。
美しい花に心癒されていると。
「くそったれの騎士どもめ! ちゃんと税金分働いてるんだろうなぁ⁉︎」
突然、活気に満ちた雰囲気にそぐわない罵声が響く。
(始まったわね)
実はこのパレード、騎士団の軍事演習も兼ねている。
騎士たちは王族の警備に当たる者と民衆に混じる者に分かれ、民衆側の騎士が奇襲を仕掛けるのだ。
ちなみに、一般人も腕に覚えのある者は勝手に乱入する。騎士を倒したら金一封がもらえるので、なかなか気合が入るというものだ。
この乱闘騒ぎを楽しみにパレードを見に来る者は後を絶たない。
喧騒の中、マリーの周辺にもならず者のような格好をした者たちが近づこうとする。
しかし、それは敵わなかった。
瞬きの間に、体格のいい男たちが呻き声を上げながら倒れ伏していた。
新入りの騎士が峰打ちにしたのだ。
鮮やかな手並みに思わず見惚れる。
(動きが速いし、強い……こんな人いたのね)
何度か襲撃を受けたが、新入りがすぐに倒してしまった。
鐘が鳴り、パレードは終了した。
馬車を降りたマリーは、新入りに声をかける。
「あなた、すごく強いのね。顔を見せてくださらない?」
新入りは少し躊躇うような素振りを見せたが、ゆっくりと兜を脱いだ。
一つに纏められた深紅の髪が揺れる。
「エリスと申します。美しい姫の護衛の任に就けることを誇りに思います」
女性にしては低めの声が耳朶を打つ。
柔らかな光を宿す新緑の瞳が細められた時、マリーの胸は完全に射抜かれた。
国王の執務室に、突如訪問者が現れた。
国王はパレードを終えちょうど一息つこうとしていたところだったので、何事かと勢いよく開いた扉の方を向く。
見れば、溺愛する娘が肩で息をして立っていた。
いつもなら先触れを出してから会いにくるので、珍しい事態に目を丸くする。
「どうした、そんなに慌ててーー」
「お父さま、わたし、好きかもしれない人ができたの!」
「な、なんだって⁉︎ それは誰なんだ?」
娘の爆弾発言にさらに驚き、国王はマリーの肩を掴んで問い質す。
マリーはもじもじと顔を赤らめ、か細い声で告白した。
「あのね……その、うっかり名前を聞くのを忘れちゃったんだけど、今日からわたしの護衛になった赤毛の騎士様なの」
「あぁ、エリスのことか!」
マリーは憧れの騎士の名を知ることができたからかぱっと表情を明るくする。
「お父さま、知ってるの?」
国王は自分の身体が強張るのをありありと感じた。
「し、知ってるよ。何せ、か……か、彼の武術大会で優勝した騎士だからね!」
「まぁ! 本当に強い方だったのですね!」
マリーは興奮に頬を紅潮させる。その顔は完全に恋する乙女の顔で、父親としては少し淋しい。
だが、マリーは顔を曇らせる。
「でも……お父さま、いいの? わたしが女の人と付き合おうとしても」
「お前は確かに王位を継がねばならないし、出来ることなら子も産んで欲しいが……お前が男嫌いなのも知っている。私は何よりも、お前が愛する人と結ばれて幸せになってほしい」
これは本音である。
ほんの少し、後ろめたさもあるけれど。
マリーは感極まったように抱きついてくる。
「ありがとう、お父さま!」
エリスとの恋を全力で応援すると約束すると、マリーは満足気に帰っていった。
国王は大きく息を吐く。
「計画は順調なようだな。……このまま上手くいくといいが」
マリーはこのまま死ぬんじゃないかと思うほど脈打つ心臓を心配しつつ、足早に城門近くへ向かう。
今日はお忍びで城下町に行くのだが、その護衛にエリスがついてくれるのだ。国王が手を回したらしい。
約束より三十分以上早く待ち合わせ場所に着くと、そこには馬車の御者と語らうエリスがいた。
(っ! 綺麗……)
凛とした立ち姿に悶絶していると、エリスはマリーに気づいたようで、すぐに駆けつける。
「姫。迎えにも行かず、すみませんでした」
「い、いいのよ。わたしも楽しみで早く来すぎたわ」
エリスはふっと口角を緩める。
「私も、楽しみにしておりました。今日は姫にかすり傷一つ負わせないことを誓います」
跪いたエリスは、流れるような所作でマリーの手を取り、口づけた。
柔らかな感触に、またしても脈が速くなる。
(……どうして、どうしてこんなにかっこいいんですか! わたし、今日はときめきすぎで死んでしまうかも……)
荒ぶる胸の内とは裏腹に、そこは王族、心情を一切見せない笑みを浮かべてみせる。
「お願いね」
馬車には向かい合って座ったが、緊張のあまり何を話したか覚えてはいない。
よろよろと降りようとすると、先に降りたエリスが手を差し伸べた。
エリスのエスコートは完璧だった。
マリーが段差で躓きかけると、そっと身体を引き寄せて「大丈夫ですか」と耳元で囁いてくれる。
転けそうになったことより、囁き声で腰が砕けてしまうかと思った。
道中、小ぢんまりとした花屋に立ち寄った。
愛らしい花に見惚れている内に、エリスは一本のマリーゴールドをマリーの髪に挿した。
「本当は、姫の好きなマーガレットの花を贈りたかったのですが……ちょうど盛りを過ぎてしまったらしいです」
「わたしの好きな花を知っててくれたのね! ふふ、いいのよ。エリスがくれたら何だって嬉しいわ」
好きな花まで調べてくれるなんて、とても気の利く人だ。マリーのエリスに対する好感度は右肩上がりである。
多幸感に包まれながら、マリーは街を散策した。
だが、夢のような一日はあっという間に過ぎてしまった。
ベッドに入っても寝付けないマリーは、エリスと過ごした時間を思い出しては寝返りを打つということを繰り返した。
疲れて眠る頃、窓辺に飾られたマリーゴールドを見たマリーは働かない頭でふと疑問を覚えた。
(……あれ? わたし、マーガレットが好きだなんてあの人以外に伝えたかしら……)
しかしその疑問を深く考える前に、意識は夢の中へと旅立った。
マリーは、それから何度もエリスとお出かけをした。
共に時間を過ごすほどに、エリスへの想いはいや増していく。
親しくはなっているはずだが、エリスはマリーのことをどう思っているのだろうか。
そもそもエリスは同性も大丈夫な人なのだろうか。それさえも知らなかった。
(……次のお出かけで、騎士団の見学に行くから、その時に、告白しよう)
振られたら、潔く諦めよう。
そして、当日。
騎士団の訓練などを一通り見学したマリーは、エリスにお願いをした。
「エリス、話があるの。二人きりになれる場所はあるかしら?」
「二人きり、ですか。ここではだめなのでしょうか?」
「大事な話だから」
エリスは少し考えて、騎士団の詰所の一室へと連れて行ってくれた。
既にそこにいた騎士達には、少しの間席を外してもらうように頼み、人払いを済ませた。
マリーは意を決して口を開く。
「あのねーー」
「姫、私からも話があるのです」
決死の告白が遮られてしまったが、マリーは怒りはしなかった。
エリスの表情を見たら、とても怒ることなど出来ない。
「エリス、どうかしたの? 随分苦しそうだけど……」
「そう見えますか?」
エリスは困ったように笑った。その姿はどこか儚げに見えた。
「ええ。何か悩みがあるのかと心配になるくらいには」
「姫に心配してもらえるなんて、わたしはなんて果報者でしょうか」
「大切な人を気遣うのは、人として当然だわ」
「姫は優しいですからね」
若葉のような緑の瞳が柔らかく細められーーそして思い出したかのように伏せられた。
「そんなに心が綺麗な姫に嫌われると思うと、わたしは胸が締め付けられるのです」
マリーは目を見開く。あり得ない発言だったからだ。
「まぁ、なんてことを言うの! わたしがあなたを嫌いになるわけがないじゃない」
「いいえ、姫。貴女は今から私が告げる真実を知れば、間違いなく私を軽蔑するでしょう」
本当に苦しげに胸に手をやるエリスの様子を見ると、マリーはエリスのために何かしてあげたいという衝動に駆られた。
「エリス、大丈夫だから。教えてくれる?」
エリスは頷くと、跪いた。
マリーの手をとり、強い意志を秘めた瞳が、彼女を真っ直ぐに見据えた。
「姫ーー」
「エリス〜〜麗しのお姫様とのデートは上手くいったかー? それにしても、ロンブルク伯爵家の嫡男が、女の振りをするなんて骨が折れるだ……ろ、って、あ、もしかしてお邪魔だったすみません帰ります」
賑やかで早口な声がいきなり良い雰囲気をぶち壊した。見れば、何故か酒瓶を持った短い黒髪の騎士が一人。彼は途中でマリーの存在に気づいたようで慌てて回れ右をした。
「待て」
「はい!」
魔物を統べる魔王もかくやといった底冷えのする低音で、エリスは命令した。いや、もはや脅しといってよい。
しかしマリーはすっかり変わってしまったエリスの雰囲気よりも、先ほどの騎士の言葉を処理するのに精いっぱいだった。
「ロンブルク……あの家の子は見事に男ばかりだったはず……いえ待って、さっき嫡男って……」
王族として当然の貴族の家事情に関する脳内情報を引っ張り出してまで、マリーは信じられない発言を飲み込もうとした。
それでもやはり実感がないのか、まさか、でも、といった独り言を繰り返している。
「姫……」
(申し訳なさそうに唇を噛み締めているこの美しい人が男?だとしたらわたしはーー)
「エリスはーー男性なの?」
「…………はい」
それが答えだった。
「そう」
マリーは大きく息を吐き、そして大きく手を振りかぶった。
「わたしを騙したのね⁉︎ 最低! もうわたしの前に姿を現さないで!」
ぱんっ、と乾いた音が部屋に響く。マリーはその場から走り去った。
「いや〜、姫さんやるねぇ。思わず見惚れちまったよ」
「こうなったのはお前の所為だぞ? どう責任をとってくれる」
「いやん怖い! そんな冷たい目で見ないで!
身体をくねらせる気持ち悪い同僚ーーを、ひとまず殴る。
もちろん先ほどマリーに触れたのとは別の手で。せっかくの彼女の温かみが汚されては堪らない。
頭を押さえて、痛え…と呻く声は無視し、叩かれた頬にそっと手をやる。
勢いこそ良かったが、全然力が入っていなかった。あれでは羽虫も殺せないだろう。温室育ちの彼女にとって、人など殴る機会などそうないだろうから当然だ。
「あれではまた悪い虫がたかってきた時も対処が出来ない……対策を考えねば」
「もしもーし? お兄さーん」
「だいたい何であんなに怒った顔も可愛いんだ?多少なりともこちらは反省しているのに顔が緩んでしまいそうだったーー」
「いい加減発言が変態じみているから、そろそろ現実に帰ってもらえます……?」
そこでやっとエリスはいまだに頭をさする同僚を見た。
「……あぁ、いたのか」
「ひっど!もう俺帰る!」
エリスはちょいちょいと指で酒瓶を指す。
「帰るならそこの酒は置いていけ」
「これ高いんだぜ⁉︎ 一緒に飲もう!」
結局、2人は騎士の溜まり場に行くこととなった。
仕事がなくて暇な騎士が退屈しのぎに集まる食堂は、今日も今日とて昼間からむさ苦しい騎士どもで溢れている。
騒がしいここでは、感傷に浸るような雰囲気にもなれそうにない。
運良く端の方の席を発見し、横並びに座る。
「それにしても、お前の計画がよく分かんねぇ。確かにいい雰囲気のとこを邪魔したのは悪かったけど、遅かれ早かれ姫さんに男ってことはバレるだろ。どうするつもりだったんだ?」
「正体を明かすにしても、伝え方で相手の心象はだいぶ変わってくる」
冷めた声に、同僚は頰を引きつらせる。
距離を置こうとしたが、見えない力が働いているかのように体は動かなかった。
「俺は、今日こそ姫に真実を伝えようと思った。信頼も深まった今なら、姫も俺が男だとわかっても態度はそれほど変わらないーーはずだったんだ」
「そ、そうとは限らないぜ? もし俺が乱入しなくたって、一発殴られてたかもーー」
「少なくとも、走り去って話も聞いてくれないなんてことにはならなかった。あれは最悪のばらし方だった」
「痛いっ、ごめんって! 折れる、それ以上やったら手折れちゃうから!」
衝動が抑えられず、気づけば同僚の腕を握りつぶさんばかりに掴んでいた。
しかし怒りは治らず、いっそ本当に折ってやろうかとも思ったが、それはそれで問題になるのでやめておいた。
代わりに、酒を一気に呷る。高いだけあって確かに上手い。喉を焼く熱が、頭を冷やした。酔ってさらに逆上するほど下戸ではない。
「もっと味わって飲めよ」
不満げに言われたので、今度は落ち着いて飲むことにした。機嫌を損ねたら損ねたで面倒だ。ねちねち絡まれるに違いない。
そんなことをエリスが考えていると知ったら、お前に言われたくない!と叫ぶだろうが。
エリスは頭の中でこれからすべきことを組み立て始めた。正体があんな形で晒されたのはかなりの痛手ではあるが、可能性が全て消えてしまったわけではない。
(そもそも、騙したわけではないのだが……)
エリスはマリーに自分が女だと言ったことはない。
ただ、髪を伸ばして、少しでも柔らかな印象を与えられるように化粧をして、女騎士しかつかないはずのマリーの護衛についてーーと、マリーがエリスを女だと信じるような状況を作りはしたけれど。
全ては、男嫌いのマリーにエリスを受け入れてもらうためである。
「陛下の作戦はお前のせいで水の泡だぞ? 減給は避けられないだろうな?」
「げっ! それは困る‼︎ エリス、今すぐ姫さんのご機嫌をとってくれ!」
同僚の必死の叫びに、愛しい姫に殴られ少なからず動揺していたエリスの思考が動き出す。
(そうだ。怒らせておいて酒盛りだなんて最悪じゃないか!)
無表情で、しかし内心冷や汗を流してエリスは立ち上がる。
「え、本当に行くの? 酔いが醒めてからの方がーー」
「それくらいで酔うわけがないだろう」
エリスは食堂を出て、マリーへの贈り物を探しに街へと向かった。
マリーは城の自室に戻りながら、後悔に押しつぶされそうになっていた。
(エリスが……男だったなんて)
男だということを隠してマリーに近づいたことが、堪らなく腹立たしい。
きっと国王も共犯に違いない。
この国では同性婚は認められているとはいえ、同性同士で子を産む技術はまだ出来ていない。
(わたしに世継ぎを産ませようと必死なんだわ……)
だが男と結婚するのは、考えるだけで憂鬱だ。
そもそも、マリーが男嫌いになったのは、十年近く前の事件が原因であった。
その事件がきっかけで、マーサに好意を抱くことにもなったのだが。
事件は、王宮内の庭園の一角で起こった。
何らかの方法で忍び込んだ暴漢に、幼いマリーは襲われたのだ。
押し倒され、首も締められ、もうだめだと思っていたところに、真っ赤な髪が目に飛び込んだ。
その人が暴漢を追い払ってくれたのだ。
薄れゆく意識の中、その赤だけが鮮烈な印象を残していた。
赤い髪はこの国では珍しいから、マリーは後に出会ったマーサが、あの時の命の恩人だと確信していた。
自分からは言い出さないなんて、なんて謙虚な人なのだと惚れ直しもした。
(……でも、本当にあの人はマーサだったの? まず女性だったのかしら)
男性に嫌悪感を抱いたせいで、記憶を曲げている可能性もある。
マリーは、記憶を手繰り寄せた。
なぜ、マリーはあの時、あまり人の来ないあの庭園にいたのか。
確か、人に会うためだった。誰に?
(赤い髪の、人)
顔ももう朧気だけど、自分より少し年上の人。
事件の少し前から、マリーはあのマーガレットが咲き誇る庭園に通っていた。
城を探索している間、偶然そこで出会えた赤髪の人と話すために。
トラウマ故に、あまり思い出さないようにしていたが、なぜか今は思い出さないといけないような気がするのだ。
『わたしね、マーガレットが好きなの』
幼いマリーの声が、脳裏に蘇る。
(そうだ……マーガレットが好きなのを教えたのは、あの人にだけ……)
「あら? マリーさま、お帰りになられていたんですね」
「マーサ」
マリーは胸を押さえながら、マーサに尋ねる。
「……いきなりなんだけど、マーサはわたしの好きな花、知ってる?」
「え、お名前の由来にもなったマリーゴールドの花ですよね?」
マリーは、力なく微笑んだ。
「……ええ、そうよ。わたしは、マリーゴールドも好き。引き止めて悪かったわね」
「いえ。……お元気がなさそうですから、お部屋でゆっくりなさってくださいね」
「ありがとう」
マーサと別れて、マリーは大きく息を吐いた。
自分の心変わりの早さにも笑ってしまう。
マーサを見ても、もう胸が苦しくはならなかったから。
(落ち着かないから、お忍びで外にでも行こう)
いくつか抜け道があり、マリーはたまにそこから出入りしていた。
歩きながら、マリーは冷静になっていく。
(よく考えたら、わたしが勝手にエリスを女だと勘違いしていたのよね……それなのに騙したなんて言っちゃったわ)
我ながら最低だ。
(エリスに、嫌われたかしら)
どんよりとしていると、気づいたら街の裏道に入ってしまっていた。
薄暗い雰囲気に怯えていると、いきなり肩に手を回される。
毛深い手に、きついアルコールの匂い。
マリーの全身に鳥肌が立った。
「お嬢ちゃん、かわいいねぇ。おじさんと遊んでくれない?」
「や、やめてください!」
「つれないこと言わないでーー」
もっさりとした髭面が近づき、マリーが金切り声を上げた時。
「汚い手で姫に触れるな」
冷ややかな声が、淀んだ空気を切り裂いた。
「ひっ! は、放せ!」
腕を捻り上げられた男が呻くが、エリスは解放しない。
「え、エリス! わたしは大丈夫だからーー」
「……そうですね。姫をこんな似合わない場所から離すことが先決です」
そう言うなり、エリスはマリーを横抱きにして大通りに出る。
美しい顔が目の前にあり、マリーのときめきは止まらない。
周囲から「熱いねぇ」などの冷やかしも聞こえ、顔から火が出るほど恥ずかしかった。
「エリス! 下ろして!」
「でも、身体が震えているじゃないですか。それでは歩けませんよ。男に触れられるのは嫌でしょうが、馬車は近くにあるんで、今しばらく我慢してください」
マリーは言われて初めて、尋常じゃない身体の震えに気がついた。
同時に、エリスの温かさに安堵する自分にも。
「…………エリスは大丈夫なのに」
「何か言いましたか?」
「気にしないで」
馬車に乗り込むと、エリスは勢いよく頭を下げた。
「姫、男だということを隠して接したこと、心より謝罪申し上げます」
「あ、謝らないで! 謝るべきなのはわたしの方なの」
「しかし……」
「わたし、貴方が男だというだけであんなことを言っちゃいけなかったわ。男だろうと女だろうと、エリスはエリスなのに。本当にごめんなさい」
エリスは無言で、マリーの言葉を受け止める。
マリーは恐る恐る尋ねた。
「あと、今までわたしと一緒に過ごしてくれたのは、お父さまの命令、よね? エリスの意思じゃーー」
「確かに、陛下の計画には乗りましたが、姫を愛しているのは事実です」
「あ、愛⁉︎」
突然の告白にマリーは目を白黒させる。
「私は姫が女性しか愛せないと言うなら、手術で身体を変えることだって厭いません。……陛下には難色を示されるでしょうが。私は、貴女に愛されるためなら何だってします」
「手術なんてしなくていいわ! ……それにね、わたし、男性はやっぱり苦手だけど、エリスは大丈夫みたいなの」
「姫、それはーー」
「エリス、大好きよ!」
マリーはエリスに抱きついた。飛びついた、と言う方が正しいかもしれない。
エリスは恐々と、マリーの背に手を回す。
しばらく抱き合っていた二人だが、エリスは思い出したように、懐から小さな袋を取り出した。
「姫に渡そうと思ったんです」
「何かしら……種?」
中には小さな黒いものたくさん入っていた。
エリスは気まずげに視線を落とした。
「姫が喜ぶものは、恥ずかしいことにマーガレットしか思いつかなくて……ですが花もないので、種にしました。……これが咲くまで、もう一度、私にチャンスをくださいと、お願いしようとも思って」
マリーは可笑しくて堪らなかった。花がないからと言って一国の姫に種を渡す人が、いったい世の中にどれだけいるだろう。
「……やっぱり、あの時わたしを助けてくれたのはエリスだったのね」
マリーはエリスの真紅の髪にそっと口づけた。
胸に抱いたマーガレットは、二人が出会った庭園に植えよう。そして花が咲いたら、昔のようにそこで語らうのだ。
「エリス、わたしがどうしてマーガレットが好きなのか知ってる?」
「いえ、知りません」
「エリスと出逢えた場所に咲いていた花だからよ」
二人は揃って顔を赤らめ、幸せそうに再び抱き合った。