【壱の章】 1
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血の臭いがする…。
ここは、何かの研究施設のような一室。
見慣れぬ機械達は皆ズタズタに破壊され、小うるさく警告音を掻き鳴らしている。
元はファイルにまとめられていた筈の書類が、今はただの紙切れとなり床に飛散していた。
それはまるで、大きな嵐が通り過ぎた様な酷い有様だ。
部屋の至る所に、命を奪われた者達が倒れているのが確認できた。
ある者は壊れた機械にもたれかかり、ある者は床の紙切れの上に倒れこんだまま、皆ピクリとも動くことは無い。
部屋を囲む壁は、元は白一色だったのだろう。しかし今では、無残にも血痕が激しく飛び散っていた。
例えるなら、純白のキャンパスの上を、紅色をたっぷりと含ませた筆先を縦横無尽に走らせた様な感じだ。
部屋の中央部分には、二基の機械が並んでいた。
床に土台となる機械が設置され、その上に筒状のガラス、その更に上を機械で蓋をしているといった形状だった。土台と蓋の機械部分から、三本のホースがそれぞれ床と天井へ連結されている。
大人一人ぐらい軽く入れそうな大きさで、二基の内一基はガラスが割れ、中に入っていたと思われる無色の液体が床に流れ出していた。その液体は、床に横たわる白衣の男の所まで流れ出し、血の紅がまだら模様を描いている。
彼はこの施設の研究員だったのだろう。
左肩に刺繍の入った記章が縫い付けられていた。
三人の人物が跪いて台を持ち、天を仰ぐ人物がその上に立っているといった感じの刺繍だ。それが、何を意味しているのかは分からない。
白衣を着た亡骸達は、致命傷と思われる傷の位置は様々だった。だが、鋭利な凶器で切り裂かれているという点は、皆共通していた。
誰もが目を覆いたくなる様な、非情で残酷な光景。それは、この場所で何らかの事件が起きたという事実をまざまざと物語っている。
その中において、たった一人だけ他者とは異なる雰囲気を醸し出す人物がいた。
長い黒髪と、程よく引き締まった体の曲線。うつぶせの状態で横たわるその者は、一糸纏わぬ女性の姿だった。
彼女の背中には、深い切り傷が肩口まで伸びている。
何故全裸なのかは疑問だが、この事件における一被害者である事は間違いない。
他の亡骸と比べ、性別や服装だけではなく、もう一つ大きな相違点があった。微かに呼吸をし、まだ生きているのだ。
やがて、彼女の体で不可思議極まりない現象が起きた。背中の傷が、みるみる塞がり始めたのである。その回復速度は人間の能力を遥かに凌駕し、驚異的な治癒力だ。
あっという間に、深い傷があった事など分らない程に復元されていた。
先程までは微弱だった息遣いも、徐々に通常の呼吸へと移り始め、やがて目を覚ました。
始めは差し込む部屋の明かりに眩しさを覚え、完全に瞼を開ける事はできない様子だ。
目の周りの筋肉にありったけの力を送り、眉間や目尻に無数のシワを寄せる。
そして、徐々に光にも慣れ、ゆっくりと綺麗なスカイブルーの瞳が姿を現した。
「!!」
目を開けて直ぐ、目の前で倒れる男と不意に視線がぶつかり、彼女は驚きのあまり音にならない悲鳴を上げてしまう。
白衣を着たその男は、彼女と同じうつぶせの状態で倒れていた。
大きく見開かれた両目で彼女を捉え、絶望と困惑と驚愕が入り混じった表情のまま固まっているのだ。
その光景を確認して、男はすでに死んでいるのだと彼女は直ぐに理解した。
男から視線を外し、軽く上体を起こしながら部屋中に視線を配った。
室内を一通り見渡し、
「ここは…何処??」
周りの風景に全く見覚えが無かった。
更に、この荒れた一室で何が起きたのかも全く分からない。
疑問を抱え、深く考え込む。
不意に視線を落とし、露になった二つの乳房が視界に入った。彼女は驚き、
「え?え??」
と、思わず二度見してしまった程だ。
自分が裸だという事実に気がつき、慌てて乳房を隠した。
しかし、今のこの状況で隠す必要等ないのだ。周りは亡骸ばかりで、見られる心配が無いのだから。
そう思ってみても、恥ずかしい気持ちは拭い去れない。
再び部屋中に視線を巡らせ、服を探した。
すると、先ほど視線が合った男が着ている白衣が目にとまった。
急いで男の下へ駆け寄り、白衣を脱がせに掛かったが、死後硬直しかけているせいで予想以上に手間が掛かった。
最後は剥ぎ取るように奪い、直ぐに腕を通してみる。
サイズは少し大きめだったものの、全身を隠す目的にはピッタリだった。ただ、左胸の切り裂かれた穴と血痕が少しだけ気になったが、今は贅沢を言っている場合ではない。
急いで上から下へとボタンを留め始め、最後の二つを残して手が止まった。
彼女の視線は、部屋の中央の二基の機械を見据えている。
一基はガラスが割れて見るも無残な有様だったが、もう一基の方には人影が映りこんでいたのだ。
その人影は白衣を着た女性で、こちらを疑視している様に見えた。
当たり前だが、それは彼女自身の姿なのだ。
留めかけのボタンから手を離し、機械の方へと歩み寄る。そして、ガラスに写る自分の顔に左手をそっと当て、
「これが…私…なの?」
自分であるはずの顔を見てもしっくり来ない。まるで、他人の顔だと彼女は思った。
その後数秒見つめてみたが、結局それが自分だと認識できない。
不意に、彼女の中に疑問が生まれた。それは、
「私は…誰?」
この時になって、自分が記憶喪失なのだと気がついたのである。
不意に、心の中で不安と動揺が生まれた。
切れ長で二重の瞼、スカイブルーの瞳、さほど高くも無い鼻、小さめの口、ガラスに映る自分の顔を見ても、それが本当に自分の顔だという確信がない。
どれだけ眺めようとも、部分部分を注意深く見ても、他人の顔にしか思えないのだ。
部屋に響く警告音がやけに耳に付く。
不安と動揺がぐちゃぐちゃに混じり合って、頭も心も乱していった。
<一体どうなっているの?私は誰?ここは何処なの?>
彼女は心の中で繰り返し問い始める。だが、答えなど見つかるはずは無い。
頭と心の不安と動揺が肥大して、やがては一つになり、そして最後には大きく弾けた。
ガッシャ------------------ン!!
不意に、ガラスが割れて床に飛散する音が部屋中に響き渡った。
もちろん自然に割れた訳ではない。
彼女の突き出した拳が、ガラスを粉砕したのだ。
しかし彼女は、何が起きたのか全く分からないといった表情を浮かべ、床に散らばるガラスの破片と、自分の拳とを交互に見ていた。
手の甲にできた傷口からは血が溢れ、床へぽたぽたと垂れている。だが、不思議なことに、痛みは全く感じられなかった。
何故か涙が溢れてきた。悲しくも痛くも無いのに、生暖かい感触が頬を伝い落ちていく。
<もう、どうしたらいいの?私には何も分からない。何も分かりたくなんかない…>
そう思った途端、急にその場にしゃがみ込み両手で顔を覆った。
涙が溢れないように思い切り瞼を閉じる。
それでも頬を流れてしまう涙は、しっかりと両手で拭った。
そしてその時、彼女は気がついてしまう。先ほどまで血を滴らせていた右手の甲には、もはや傷など跡形も亡くなっている事に。
「もういやだぁーーーーーーーーー!!!」
彼女は喉が潰れてしまう程に、大きく叫ぶ。
再び両手で顔を覆い、激しく泣きじゃくった。
部屋に響く警告音が、頭の中で繰り返し反響する。
「うるさい!うるさい!うるさい!!」
そう叫びつつ、両手でしっかりと耳を塞いだ。それでも尚、聞こえてくる耳障りな音の群れ。
もう、居ても立ってもいられなくなり、彼女の中で蓄積されてきた不満が一気に爆発した。
「もう!!いい加減にしてよ!!!」
正にその時だった。
彼女の後方に設置された部屋の扉が、音もなくすーっと開いたのだ。だが、彼女は全く気づいてはいない。
不意に、部屋の中へと数人の人影が飛び込んで来た。
部屋に訪れた招かれざる客人達は、全部で六人。
皆、黒の防具で全身を包み、その手にはマシンガンタイプの銃を従えている。
六人の先頭に立つ人物、たぶんこの部隊の隊長であろうその兵士が、銃を持った右手を軽く挙げる。
他の五人が一斉に銃を構え、部屋の中央で泣き崩れる女へと照準を合わせた。
そして少しの間の置き、隊長が上げた右手を振り下ろす。
ズババババババババババババ!!!
室内に響く発砲音。
彼女はその音で、見に迫る危険に気がついたが、時はすでに遅かった。無数の鉛玉が彼女の背中を襲い、そのまま床へ倒れ込んでしまった。
それでも尚、執拗なまでの発砲がその後も数秒続けられた。
もはや彼女の体は、蜂の巣状態のはずである。
部屋にはそれから数秒の間、警告音をも打ち消すほどの発砲音が響き渡った。
やがて部隊長と思われる人物が、再び軽く手を挙げる。同時に発砲音は止み、五人の兵士達は一斉に銃を降ろした。
彼女は床に倒れたまま、全く動く気配がない。白衣には無数の穴が開き、全体が彼女の血で真紅に染まっていた。
部隊長は、挙げた手をゆっくり下げた。
すると、五人の兵士は見事に統率された迅速な動きで、床に倒れた女へと歩を進める。
そして一人が軽くしゃがみ、指を女の喉元へ当てて脈を確認した。そして、女に脈がないのを悟り、部隊長の方に顔を向けコクリと一つ頷く。
だが、それを黙視していた部隊長は、ある事実に気がつき驚愕した。脈を確認した兵士の腹部から、鋭い刃物のような物体が突き出ていたのだ。
「!!!」
声のない叫びをあげる部隊長。
非常事態を察した周りの兵士達四人が、再び銃口を女へと向けた。
刹那、阿鼻叫喚の悲鳴が室内に響いたのだった。