【序の章】
【注意】この作品は、同著者作「魔剣伝〜アリシア〜」を構成しなおした『新訳』の作品です。内容は97%同じなので、ご了承下さい。
『魔』の力を持つ者達の住まう世界、『アゼル』。
それは、三人の神が「無」の中に創り出した混沌の異界である。
兄神アグニは、世界の素となる『ピース』を作り上げた。そして弟神ドルマがピースを組み合わせ、世界の『基盤』を作る。最後に妹の女神アリーシアが、残ったピースを使って『生命』を作ったのだ。
それが異界『アゼル』誕生の瞬間だった。
それから暫くの間、三神は世界を見守り続けたのである。
だが、悠久の時の果てに、自我を持ち、知恵を持ち、文化を持ち、やがてその手に武器を持つ愚かな種族が現れた。
それは「人間」と呼ばれる一族である。
人間たちは、私利私欲の為に秩序を放棄し、『戦』を繰り返す日々を送っていた。
その永い時の中で、人々は神の存在を忘れ信仰をも失っていく。
兄神アグニには、その愚かで野蛮な人間が許せなかったのだ。
兄神は怒りのあまりに、世界を形成する『ピース』の全てを無に還そうとした。だが弟神ドルマと、女神アリーシアがそれを強く拒む。
二人にとっても、人間は愚かしい存在である事は紛れも無い事実。
しかしその存在は、広大な世界の小さな点でしかない事もまた事実だった。
その小さな点の為に、世界そのものを無に還そうとする兄神の考えを、二人には理解できなかったのである。
人間の『ピース』だけを無に還せばいいと、弟神ドルマは言う。
しかし、女神アリーシアはその意見にも反対した。自分が作った命を、そう簡単に消されたくは無かったからだ。
女神は、人間に対し最後のチャンスを与えたかった。それでも『戦』が減らない時は、ドルマ意見を実行しても仕方ないと思うのだ。
三神は長い時間をかけて話し合い、3つの意見を1つにまとめる。
その結果として、愚かしい人間に『罪の規則』を与えた。
まず手始めに、女神アリーシアが『ピース』から作った『魂石』を、人間の体内に埋め込んだ。 そして、人間が犯した『罪』を、『魂石』に蓄積するようにしたのだった。
更に、戦の好きな人間の興味を惹く為、罪が溜まると戦闘能力が上昇するという利点を与える。
結果、人々の罪はすぐに溜まり、更なる力を得た人間の争いは激化の一途を辿った。
やがて、中身の能力だけではなく、その外見にも変化が現れ始めた。
より多くの罪を得た者達が、次々と人の姿から異形のモノへと進化したのだ。
それが、後に『魔』と呼ばれるモノだった。
体内の『魂石』の形状や、そこに蓄積される『罪』の種類、更には遺伝子等でその外見や能力が決まる。また、それらの情報が子孫へと遺伝する過程で分岐していき、様々な『魔』の種類が生まれていったのである。
やがて人間は、『魔』を分類する為に、勝手に名前を付け始めた。
その中に、この物語にも登場する「魔剣」や「魔銃」という物質的な物を由来とする呼び名や、「魔鬼」や「魔に堕ちた天使」等の想像上のモノが由来の呼び名があるのだ。
姿が『魔』へと変化する事で、更なる力が発揮できる事を悟った人間は、戦いを求め、罪を求め、アゼル全土が真紅に染まっていった。
しかし、この最低最悪とも思える状況でも、全ては三神の考えた思惑通りに進んでいたのである。
三神は人間を喜ばせる為に『罪の規則』を作った訳ではもちろんない。
『罪』を重ねる先に得るものは、利点だけでは無いのだ。
当たり前の事なのだが、『魂石』は有形物であり、限度もある。故に、『罪』を無限に蓄積できる訳ではない。そして、その限度を超えた先ある本当の罰、それが弟神ドルマが望む、人間のピースを無に還すという事なのだ。
人間が死を迎えると、体を形成していたピースが長い時間を掛けて分解され、やがて神の元に還る。そして女神によってピースを組み替えられ、新しい生命として再生されるのだ。
しかし、人間は生まれ変わっても人間。それが、アゼル誕生時に作られた『循環の規則』である。
その規則を踏まえ『無に還る』というのは、循環過程から除外され、『ピース』そのものが消滅してしまうという事である。人間を作る『ピース』が全て無くなれば、それは弟神ドルマが望む『人類滅亡』を意味するのだ。
やがて、『無』を恐れ始める人間たち。
いくら罪を得て、強力な力を得たところで、存在が消えてしまえば意味が無いのである。
やがて無益な争いを減らし、秩序を取り戻すが、それでも、『戦』や『罪』が全て無くなる訳ではない。
もちろんそれを回避する術を、神々は用意してあった。それが神への「祈り」や「懺悔」なのである。
人間は神々を奉り、崇め、祈りや懺悔で『戦』と『罪』の均衡を保ったのであった。
三神の作り上げた『罪の規則』は、人間が忘れていた信仰心を取り戻し、神々の存在を知らしめる結果となった訳だ。
やがて、更に時は流れ、人間たちの中に『二つの思想』が発起した。
一つは、神より授かりし『ピース』を無に還す事を恐れ、『戦』を捨てて平和を求める思想。普通の暮らしの中で得てしまった『罪』を、祈りや懺悔によって神の元に還すことが最高の幸せと考える『ドルマ教』。
もう一つは、神々が創った『罪の規則』に身を任せ、無に還る事が神への最高の信仰だと考える思想。『戦』を好み、その中で得た『罪』こそが、彼らにとっては名誉なのだ。誇りとプライドを重んじ、『戦』以外で他人の命を奪うようなマネは決してしない。名誉の罪を得て、無に還った先に新天地があると信じる、それが『アグニ教』である。
しかし、『ドルマ教』にしても『アグニ教』にしても、人間が勝手に考え、作り上げた、ただの理想である。
弟神ドルマは人類滅亡を望み、兄神アグニは世界の全てを無に還そうとしていた。そんな事など知らずに、自分達が掲げる理想に二人の名前を付けたのだ。
その事実が、人間が何処までも愚かな存在なのだという事を物語っている。
こうして人類は、アグニ派をドルマ派に二分された。
それぞれが独自の文化を持ち、生活様式を持って、その二つが交わる事は無い。
お互いを肯定する事も否定する事も無いまま、数千年の時が流れ、今でもそれは不変であった。
神々の本当の意思を知らぬまま、人間は愚かに生きている。
ようこそ、醜い『魔』の力を持つ者達の住まう世界、『アゼル』へ……。