復讐の炎
ホットケーキの匂いがして、母がホットケーキを焼きながら歌をくちずさんでいた。朝の光に満ちた台所、母が旅芸人の頃を思い出して歌を歌うと、いつも決まって不機嫌になる父が、今日は椅子に腰かけ、タバコをくゆらせながら聞き惚れている。
「まったく、ほれぼれする歌声だぜ」
「あら、私の歌なんて嫌いじゃなかったの」
「俺は音痴だから、おまえの歌の良さがわかるのに時間がかかったのさ。いっぺんおまえのステージを見てみたかったぜ」
「私のステージなんて、歌姫のわきでコーラスしているその他大勢よ」
「世間の連中も俺と同じで音痴なのさ。おまえだったら、都会の大きな劇場で歌ってもおかしくないぜ」
「お世辞でもうれしいわ」
母はかわいらしい声を返し、焼きたてのホットケーキを重ねた皿をテーブルに置いた。
「でも私は都会の劇場に立つより、立派な農夫の妻でいる方が幸せよ」
「ホントかよ」
父は照れ臭そうにいって、母はほほ笑んだ。
こんなに仲良さそうな二人をみるのは久しぶりだった。マユラはなんだか邪魔するのが悪いみたいで、隅のほうで立っていた。
「そんなところにいないで、こっちにきてかけなさい」
母に呼ばれて、マユラはどこかぎこちない足取りで一家の食卓へと向かった。椅子に座ると目の前には焼きたてのホットケーキ。キツネ色の生地のうえでバターが溶けていた。
「お食べなさい」
「いただきます」
しかしマユラは、ホットケーキをみているだけで胸がいっぱいになった。
「どうしたの、大好物だったじゃない」
「・・・・・・」
マユラは母に顔をむけた。
「オレ、あしたから父さんと畑に出るよ」
父をみると驚いた表情で、でも、本当は嬉しそうだった。
「あんなに畑に出るのイヤがってたのに、急にどうしたの」
怪訝な母に、
「それが一番いいことだってわかったのさ」
マユラは大人ぶって答えた。
「おまえがそういってくれて、うれしいよ」
父はマユラの言葉に心底嬉しそうな笑顔となり、しかし首をふった。
「うれしいが、そんなことはしなくていい」
「どうして、オレは父さんの子供だよ」
「おまえは俺の子だが、幸か不幸か、いや、たぶん悲しいことだろうが、大地と戦うために生まれてきたのではないようだ。おまえの運命は、おまえが戦うべきものはほかにある」
「なにいってるんだよ、ほかにやるべきことなんてありゃしない。オレは父さんといっしょに畑仕事するんだ。母さんの作った弁当持って、土にまみれて働くんだ」
マユラは叫んだ。涙があふれ、父も母もなにもかもが涙のむこうにかすんで、そのまま消えてしまいそうだ。
「マユラ、どんなにつらくても、どんなに怖くても、真実ってやつから目を背けちゃならないぞ」
父の声。
「生きて」
母の声。
「弱くてもいいから、あなたは生きて」
涙にゆがむ二人の姿が、白い光に呑まれてゆく。
「待って、これからもずっと一緒に暮すんだろ。どこへゆくの、待ってよ」
白い光の中に父母の姿を求め、声の限りに叫んで、ハッと目を開く。ベッドに寝かされていた。
「ここは・・・」
見知らぬ部屋だった。マユラの家と似たような作りだが、自分の家ではない。窓は明るく、もうすっかり日の上った日差しだった。まだはっきりしない頭のままに、マユラは体を起こした。すべては悪い夢で、ウチに帰れば相変わらず口やかましい母と、仏頂面でコーヒーを飲んでいる父がいて、いつものお小言をくらうような、そんな気がした。ドアが開き、中を覗いた男が、マユラが起きているのを見て入ってきた。
「目が覚めたかね」
初めてみる顔だった。町の者ではない。小さな町でも、大人のなかにはマユラの知らない人だっている。実際には見かけたことがあっても、名前も知らず、言葉かわしたことがなく、特別意識に残らないような人なら、初めて見る顔と感じることもあるだろう。だがこの人は、単に見かけぬ顔というだけではなく、町の大人たちとはどこか違う感じがした。まぶたはたるみ頬は痩せ、総髪は真っ白で、七十は超えていそうな年恰好だ。麻のジャケットを羽織り、ズボンとシャツは綿で、どれも着古してくたくたの代物だ。首に大きな編み紐の輪をかけ、マントを羽織ったこの人物がなにをする人なのか、マユラにはまるで見当がつかなかった。ベッドに伸ばしていた足を床に下ろし、立ちあがろうとしたとき左腕がひりひりして、みると包帯が巻かれていた。
「切り傷だよ。キミが倒れていたあたりに、窓ガラスの割れたのが散乱していたから、それで切ったのだろう。痛むかね」
「いえ」
「他に痛いところはあるかね」
「ありません。手当をしてくれて、ありがとうございます。ウチに帰ります」
マユラは礼を言うと、部屋を出てゆこうとした。
「町はひどい有様だ。気を強くもつのだよ」
男の言葉にマユラはドキリとした。やはりあれは夢ではなかったのだ。脳裏に襲撃された町の情景、そして父の無念の最期がよみがえった。
「どうかしたのかね」
マユラの様子がただならぬものに見えて男は声をかけたが、それに返事もせず、マユラは部屋をとびだした。
町は打ち壊された家屋があちこちあり、焼け落ちた家も何軒かあった。だが、元の姿を保っている家も多く、大あらしがもたらすような町全体壊滅に瀕する破壊ではない。しかし自然災害ではない人間の暴虐のもたらした惨禍は、白昼の日差しも暗く澱ませるような気配を漂わせる。ドアや窓の破られた家、食器や衣類やその他いろいろなものの道に散乱して、家々のかべに飛び散った青黒い染みは変色した血なのであろう。町全体が一個の惨殺死体となって、腐臭を漂わせているかのようだ。
父が倒れた路上にその姿はなく、地面には血溜まりの乾いたようなドス黒いしみがあって、マユラはそのまえにしばらくたたずみ、家に駆け込んだ。
家の中はそんなに荒らされていない。ただ、母の愛用のコーヒーカップが床に割れているのが、不吉な暗示のようだった。
「母さんどこ、ボクだよ、マユラだよ。いたら返事をして」
マユラはさして広くもない家を捜しまわった。台所に寝室、子供部屋、つまりマユラの部屋だ。押入れにトイレ、風呂場から屋根裏まで家じゅうくまなく捜したが母の姿はなかった。
ーーかあさんまでもって、そんなことあるものか。きっとどこかに逃げたのさーー
マユラは自分に言い聞かせ、家の中にいるのもいたたまれず、外にとびだした。
目が覚めて見知らぬ男に会ってから、自分の家へ向かう途中も、いま家を出て町を歩いてみても、あの男の他に一人の人間も見なかった。以前なら、町に一軒の雑貨屋の店先にはたいてい二三人の男たちがいて雑談をしていたし、井戸端ではおしゃべりする女たちの姿があった。まだ学校に行けない小さい子たちが家の前でままごとしてたり、荷馬車が急ぎもせぬ様子で、車輪をガタゴトいわせながら通りを行きすぎる。鍛冶屋の鎚音が聞こえ、どこかから赤ん坊の泣き声がする。そんな、マユラの慣れ親しんできた町の情景や、生活のざわめきの一切が消えて、血のこびりついたような陰鬱のしじまに、町は息絶えたもののようであった。
母をもとめてあてどもなく歩くマユラは、広場に異様なものを認めて足を止めた。町の中心にある広場は、大人たちが集まってなにかを決めるときの会議場になったり、祭りのときには外からやってきた芸人一座の小屋が建つこともあった。市場が開かれるとさまざまな露店が出てにぎわい、なんにもないときには子供たちの遊び場だ。マユラも学校はサボっても、放課後になってみんなが下校してくると、ちゃんと遊びの輪には加わり、ボール遊びや陣取りゲームをして遊んだ。そんな広場が人っ子一人なくがらんとしているのは、なにかの跡地をみるようにわびしかったが、そんな感傷よりも強い好奇心で、マユラは広場の地面を見つめた。そこには、マユラのみたこともない図形が描かれていたのだ。
図形は、赤い線で直径十メートルはありそうな巨大な円を描き、円の中に数字や異界の文字なのだろうか、意味のわからない記号や紋章らしきものが書き込まれていた。マユラにはそれがなんなのか、どんな目的で描かれたものか見当もつかなかったが、一つだけ確かなことは、これはヴァルカン、もしくはヴァルムによって描かれたものであるということだ。こんな状況で、町のだれかが悪ふざけにこんなものを描くとは思えないし、それにこの図形は、意味は解らないがいい加減に描かれたものではなかった。赤い巨大な円はコンパスで引いたような歪みのない真円だったし、中に書き込まれた数字や記号や紋章も、精密に配置された印象だった。
ヴァルカンやヴァルムがなにかのしるしに書き残していったものか。近寄って図形を眺めるマユラだったが、なぜだか赤い線を踏みこえ、図形の中に足を入れるのはためらった。しばらく眺め、やがて離れていった。
町はずれで初めて人の姿を見た。近づいてみると、丸太や板にテーブルや椅子まで、町から集めてきたらしい木材がうずたかく積まれ、そのまわりに十人近くがたたずんでいる。薄汚い肌着に綿のズボンの者や、ジーンズにジャケットを羽織った者もいる。腰には、ズボンのベルトの上にさらに革のベルトを締めていた。これは剣帯という刀剣装備のベルトだ。剣帯の二重になった革の間の円筒のホルダーに剣を差し込めば、単にズボンのベルトに剣を差すよりもずっと安定して腰に保持できる。この世界の剣士の標準装備だ。剣帯に剣を差している者もいれば、ホルダーがからっぽの丸腰の者もいた。彼らは町の大人たちではない。みたこともない顔ばかりだったし、目が覚めたときにあったあの老人と同じく、町の大人たちとは違う感じがした。
「なにをしてるのですか」
声をかけるマユラに、目が集まった。
「目が覚めたか」
大男がマユラの前に来た。マユラの父親も大きいほうだったが、目の前の男はもう少し丈があり、父親は胴周りもあったが、男は腰回りの締まって肩幅広く胸板厚い精悍な体型で、二の腕太く隆隆たる筋肉は鉄のように固くみえた。
「あなたは」
「人に名を聞くときは、まず自分から名乗るべきであろう」
静かだが、揺るぎのない声音だ。
「マユラです」
「マユラか、私は志摩ハワードだ」
「シマ・・・さん」
「我らのリーダーだよ」
振り返ると、目が覚めたときにあったあの老人がいた。
「リーダー?」
「私たちはレギオンシリウスに所属する傭兵だ。傭兵はわかるかね」
「用心棒みたいなものでしょう」
傭兵はマユラの読んでいた小説にも出てきた。ただ、冒険小説では朝廷に仕える上級騎士や、名門貴族の若様とかが主役で、傭兵は悪役として描かれることが多い。
「用心棒をすることもあるし、ほかにもいろいろ働く。このユーシアの大陸では、もちろんアルスターの王国が一番おおきいのだが、その他にも五十余の諸侯が大小さまざまな国をうち建てている。王国には十万のアルスター大軍団があり、諸侯もそれなりに軍を抱えている。だが、大陸は広く王国や諸侯の軍では手の回らないこともあるし、手出しし難い状況もある。傭兵はそういう状況で王家や諸侯の軍の働きを補完し、また、民間のさまざまな要請にも応じるのだ」
老人はやさしい語り口であった。
「ヴァルカンとも戦う」
「そういう場合が多いな」
「ヴァルムもやっつける」
「ヴァルムを倒したこともある」
「おじいさんも戦うの」
マユラには、こんな老人がヴァルカンやヴァルムと戦えるとは、とても思えなかった。
「わしとてチームの一員だからな。戦力にならぬ者は傭兵のチームにはおられぬ。ただし、剣や槍をもって戦うのではない。この年寄が剣をもったところで案山子ほどの役にもたたぬでの。わしはわしの能力でチームの戦いを助けるのだ」
「おじいさんの能力って?」
「わしは魔道師なのだ」
「魔道師はロープを着て、杖を持っているんじゃないの」
魔道師は、実際に見たことはなかったが、冒険小説ではおなじみの存在である。主人公を助ける光の魔道師や、悪の手先の闇の魔道師などがいて、どちらも魔道師のロープをまとい、魔道の杖を持つという姿で描かれている。ロープの色の白や黒で善悪が分かり、稲妻を放つみたいな凄い魔道の術を使う。神秘的で怪しげな雰囲気をたたえているのがマユラの魔道師のイメージだったが、目の前のじいさん、生まれて初めて見る魔道師は、マントを羽織っているのがちょっとそれらしいが、服は野良着みたいで、神秘的な形をした杖もなく、ちょっとふうがわりの爺さんといった感じで、マユラの抱く魔道師のイメージとは程遠かった。
「私は、そんな仰々しい格好をするほど偉い魔道師ではないのだよ」
「でも、杖がないと術を使えないじゃないの」
「コレがある」
老人は首に掛けた編み紐に手をやった。
「一般に言う魔道師の杖とは、術構築の助けとなる術式を組み込んだ精密咒錬製アイテムなのだが、それは必ずしも杖である必要はない。伝統的なアイテムで愛好者も多いが、私はヘソ曲がりでね、ステレオタイプは性に合わんのだ。もっとも寄る年なみでいささか足腰も弱ってきた。そちらの用ではいずれ杖も必要になるかもしれないがね。マユラくんだったね、私はカムラン、このチームでただ一人の魔道師だ」
「母さんを捜しているんだけど、魔道師だったらどこにいるかわからない」
マユラの読んでいた小説では、魔道師が占い師みたいに行方不明の人物を探し当てる、ご都合主義の展開もあった。
「占い師ではないのでね、人探しや失せ物捜しは専門外だよ。我々が町の中でみつけた生存者はキミだけだが」
「ボクしか生き残りはいないというの」
「いや、町の外に逃れた人たちがいる」
答えたのは志摩だった。
「我らがこの町のことを知ったのは、ここから四五十キロも離れた村にいたときだ。馬車に乗って逃げてきた人々から聞いたのだ。ここに来たのは昨日、つまり襲撃の翌日だ」
「だったら、その人たちの中に母さんがいるのかも」
「その可能性はある」
「ボクを、その村まで連れて行ってもらえませんか」
「よかろう」
志摩はあっさり承諾した。
「急ぎの用もなし、一仕事終えたら俺はこの子と前にいた村へ向かう。みんなはここで待機していてくれ」
仲間たちから反対の声はあがらなかった。
「悪者どもは、あなたたちがやっつけてくれたのですか」
「いや、我々がきたときには、連中は立ち去ったあとだった」
そう聞くと、マユラの顔に悔しさがにじんだ。
「しかしおまえだけ、連中がよく目こぼししてくれたものだ」
素朴に問いかけたのは褐色の肌をしたインディオの男だった。剣のかわりにトマホークという戦闘用のアックスを腰にさげている。
「目の前に家ほどもある巨人が現れたんだ」
「トロールか」
「たぶんね。そいつが柱みたいな棍棒を振ってきて、ぶっとばされてからあとのことはわからない。気がついたらベッドに寝かされていたんだ」
「そんな一撃くらったら、アーマー着けてたってまともじゃすまんぜ。なんで無事でいられるんだ」
「ボクにもわからないよ。不思議だけど、命が助かって、文句もないしね」
結果オーライ、そのことについては、深く憶測するつもりもないマユラだった。
「おまえ、怪しいぞ」
横で聞いていた白人の若者が、疑いの目を向ける。
「怪しいって、どういうこと」
「命を助けてもらうかわりに、ヴァルカンになる奴がいる」
「ボクがヴァルカンだっていうのかい」
マユラは、怒りに小さな体をふるわせた。
「あんな奴らに、魂を売り渡したって」
「みえすいたウソをつくところが怪しいのさ」
「ウソなんかついてない」
「まあまあ、マユラくん落ち着いて。ファズも子供相手に喧嘩腰になるんじゃない」
魔道師カムランが割ってはいった。
「たとえ子供でも、ヴァルカンになっちまったものを見逃すわけにはゆかないぜ」
「そんなものになるぐらいなら、八つ裂きにされたほうがマシだ」
「そうかい、だが、この町にはヴァルムヘルの魔法陣があったんだ」
ファズと呼ばれた白人の男は、叩きつけるようにいった。
「魔法陣!」
魔法陣は読んでいた小説の中に出ていたので知っていた。地面に描かれた円形の術式で、小説の中では悪の魔道師がこれで怪物を召喚したりする。しかしそんなもの現実と結びつけて考えたことはなく、さっき見たときはわからなかったが、いま、魔法陣と聞いて腑に落ちた。
「広場に描かれていた、アレですか」
「そうだ」
答えたのはカムランだった。
「ヴァルムどもは魔法陣を人食いの儀式に使うと聞く。ヴァルムヘルの魔法陣なので詳しい解読ができず、どのような機能のものかまではわからぬが、発動の痕跡は確かに感じた。なんらかの忌まわしい儀式が行われたのかもしれぬ」
この町を襲った惨禍以上に忌まわしいこともないと思うが、たしかにマユラも、あの魔法陣にはいいしれぬ不吉さを感じたのである。
「ヴァルカンがブレイヴ体になれば、顔に邪紋が表れるはずだが」
若い傭兵ファズは、なおも疑いの目で迫る。
「ボクにそんな能力ないよ」
「いや、キミはブレイヴを覚醒させている。私はブレイヴの能力に反応するセンサースキルを備えている。寝ているところを調べさせてもらったが、確かにキミはブレイヴの能力を覚醒させている」
カムランの言葉にマユラはめんくらった。
「そんなはずないよ、ブレイヴ体になったことなんていままで一度もないし、憧れてはいたけれど、自分には無理だって諦めていたんだ」
思いもかけぬことをいわれて戸惑うマユラだったが、ファズはいよいよ疑念を濃くした目つきであった。
「それで、こんなところでなにをするつもりです。キャンプファイヤーですか」
マユラは戸惑いを紛らわすみたいに、うずたかく積まれた木材に目をやっ聞いた。
「野辺の送り火だ」
志摩が答えた。
「野辺の送り火?」
「たくさんの死体を埋めたが、手足とか、一部だけというのもずいぶんあった。それらをまとめて火葬にするつもりだ。この町にも難を逃れた人々が帰ってくるかもしれず、町中でそれをやって家事でもだしたら悪かろう。それで、町はずれのこの野原に焚き木を積んで盛大に送ろうと思ったのだ」
「一部だけ・・・・」
志摩の視線の示す先、地面に布が広げられている。毛布を五六枚も広げていて、毛布は赤黒い染みをまだらに浮かせ、その下にあるなにかを覆っている。それは直に地面に置かれているのではないらしく、毛布の端から下に敷いたシーツのような白い布がはみ出ていた。
マユラはそこでなにをみつけようという考えもないままに、そちらに歩きだした。厚地の毛布が不器用に継ぎ足すように掛けられていて、その前に立つと、少し前から感じていた生酸っぱい匂いが強烈だった。その下にあるものを考えることなく、毛布の端をつかんでめくった。まのあたりにしたものに殴られたような衝撃を受けた。吐き気を覚える前に感覚のネジがぶっとんだみたいに、潰されたり切られたり、裂かれたりちぎられたりした、かって人間の体の一部だったものの並ぶ光景を、不思議と嘔吐をもよおすことなく見ていられた。マユラはたじろぎもせず次々と毛布をめくった。白日のもとにさらされた惨たらしい陳列物。そのなかに見覚えのあるものをみつけた。肘からちぎられたような痩せた左腕。薬指に指輪をはめていて、どこにでもありそうな安っぽい銀の指輪だが、くすみ加減やキズに見覚えがあった。親指の付け根にあるやけどの痕、どの指よりも長い薬指、記憶の中にある母の左腕と一致した。マユラは腰をかがめて左腕を拾い上げた。胸の奥から酸っぱいもののこみあげてくるのをこらえ、指輪を抜き取った。内側に刻まれた文字を読む。ケインからリタへ、とあった。両親の名だ。
「母さん」
マユラはすでにウジのわいている左腕、母の遺骸を胸に抱いて泣き崩れた。
「母さん、どんなにか痛かったろう、怖かったろう、かわいそうな母さん。助けられなくてごめんなさい」
腐臭ぷんぷんでウジも這う左腕に、マユラはかまわず頬ずりした。こんなありさまになって、母がどんな気持ちで死んでいったかと思うと、泣きじゃくることしかできなかった。
「おい、悲しいのはわかるけど、気をしっかりもてよ」
ファズがみかねて声をかけた。
「で、ソレ戻しとけよ」
「ソレとはなんだ、母さんだぞ」
マユラはくってかかった。
「お母さんを、心静かに旅立たせてあげるのだ。おぬしがそんなふうにメソメソしていては、お母さんも安心して天国にゆけぬだろう」
志摩ハワードは、巌のごとき表情にも一抹の憐みを刷いていった。
マユラは志摩にもなにか言い返そうとしたが、言葉が出なかった。その鷹のようなまなざしがグズグズした感情を貫いて、涙に溺れようとする心をひきしめた。マユラは母の左腕をもう一度抱きしめると、万感の思いをこめて、同様の遺体の中の元の場所に戻して、優しく毛布をかけた。
「ひどいざまだぜ」
ファズは顔をしかめ、マユラの頬やら首やらを這うウジをはたき落してやった。
「お母さんは、気の毒であったのう」
魔道師カムランは、痛ましそうな表情で言葉をかけた。
「どう、慰めの言葉をかけてよいかわからぬし、まあ、わしらのような見ず知らずの他人がなにを言おうと慰めにならぬだろうがな。とにかく、風呂にはいりなさい。服も替えるといい。風呂は沸かしてあげよう」「風呂ぐらい、自分で沸かせます」
「こういうときは、人の好意に甘えても恥ではないよ。なんといっても、お母さんを亡くしたのだからね」「父もです。父さんはボクの目の前で殺されました。好意っていうのなら、もっと早く来てみんなを助けてくださいよ。なにもかも終わってから来て好意とかいわれても、どうありがたがればいいんです」
母親の腕の腐臭がしみつき、どこかにウジの這っていそうなシャレにもならんありさまで、マユラは息巻いた。
「バカバカしい、なんであたしたちが助けなきゃならないのよ」
鼻で笑うような声は若い女のものだった。見るとコーヒー色の肌の女が一人、ツンと澄ましていた。年は二十歳かそこら、体は細いが背丈は男並みあって、黒いシャツに革のベストを重ね、ジーンズの腰には剣帯を巻いて、腰の左右にあるソードホルダーにショートソードを差していた。
「アタシたちは民間の傭兵。戦うことは商売なの。仕事でもないのに駆けつけて助ける義理はないし、仕事の上での関わりがなければ、どこで何人死のうとしったことじゃないわよ」
その言葉はマユラの怒りに火をつけた。
「だったら来るなよ」
「来たくて来たんじゃないわ、リーダーの命令で仕方なくよ。死体を埋葬するのだって大した手間だったのよ、礼の一つもいいなさいな」
「アンタたちにはなんの義理もない町でも、たくさんの人が死んでいるんだぜ。そんな言い方ないだろう」「生き死に争う傭兵稼業、いちいち他人の死に同情なんてしてられないわよ」
「それはちがうぞ」
志摩だった。
「場慣れすることと、命を軽んじることはちがう。我ら武人は敵を恐れず窮地にうろたえぬ心を練らねばならぬが、それは命を軽んずることでなく、非情の世渡りでも、無情に徹して良いというものではない」
「リーダーの好きな武士道ってやつ。あいにくだけど、そんなお題目かかげて頑張るつもりはさらさらないわよ。非情の世界なら、無情に徹してはじめて渡りきれるってもんでしょうが」
「だがそれでは、ヴァルカンどもといっしょになってしまう」
「同じでしょう。向うはこちらを殺し、こちらはあちらを殺す。あなただっていままでに多くのヴァルカンを手にかけて来たんじゃないの。強かったから生き延び、弱かったら死んでいた。弱いやつが殺されるのは仕方のないことよ」
「違う、我らは人を喰らわぬ。ヴァルムヘルの下劣な論理には断じて与しない。おぬしも、その意地と誇りだけは持っていてくれよ」
「言うまでもないことよ」
黒人の女は褐色の顔にクロガネの気を刷いて答えた。
そんな二人の会話もマユラの耳には入らず、母の死の悲しみにうち沈んでいた心には、いつしか怒りの火のともり、それがめらめら燃えあがる業火となり、狂おしい気持ちのままに落ちていた棒きれを拾い、突如、なにかが心の堰を破り、全身火を噴くもののごとく、ごうっと揺らめく波動に包まれた。
「ブレイヴ体になりやがった。しかもなんてブレイヴだ」
ファズが驚きの声をあげた。
「とても少年のものと思えぬ、激しいブレイヴだ」
魔道師のカムランも唸るようにいった。
「ヴァルカンどもはどこだ。ヴァルムどもはどこに失せやがった」
熱をもたぬ業火に包まれたかのように、激しい波動を噴き上げるマユラは、カっと見開いた目はつり上がり、髪は逆立つ怒髪天、正気を失った様相で猛り叫ぶ。
「薄汚いヴァルカンはどこに逃げやがった、汚らわしいヴァルムはどこに消えた」
マユラはあたりかまわず棒を振り回す。
「落ち着け、連中はもういない」
ファズはマユラの振り回す棒を避けて声をかけた。
「ヴァルカンはヴァルムは」
怒り狂ったマユラには、どんな声も聞こえない。
「ウスギタナイヴァルカンヲヤッツケルンダ、ケガラワシイヴァルムハヤルシカナイ」
マユラは棒を振り回し、それが近くに立っていた杉の若木を一撃して幹を砕いた。
「こいつはすごい」
ファズが目をまるくした。
「ドコニイルヴァルカンドモ、ドコヘニゲタ」
狂ったように棒を振り回すマユラに、風を巻いた巨躯の大鷲のごとくとびかかった。
イテテっ、マユラははじきとばされて尻もちをついた。業火のようなブレイヴは、大風に一吹きされたみたいに消えうせていて、見上げると志摩ハワードの顔があった。
「風呂に入ってさっぱりしろ」
志摩はそれだけいうと大きな背中をみせて歩いていった。
マユラは、燃え盛っていたたき火がいきなり水をかけられたような、くすぶぶった気分で立ちあがった。「疑ってわるかったな、おまえはヴァルカンじゃない。ヴァルカンどもはブレイヴ体になると顔に邪紋が表れるが、おまえの顔にそれはなかった。そして、奴らに魂を売ってもいない」
ファズはすまなそうな顔で詫びた。
風呂の水汲みをインディオの傭兵が手伝ってくれた。
「ありがとう」
「俺はダオだ。こんなのどおってことないさ」
マユラが水を満たしたバケツを、両手で重そうに運んでいるのに対し、ダオは同じく水でいっぱいのバケツを左右の手に一つづつ持ち、しかも軽々と運んでいる。
「それに、あとで俺も入るし、みんなも入る。食える時に食い、風呂も入れる時に入っておく。そうしないといつ次があるかわからないからな。傭兵の暮しってそんなもんだぜ」
気さくなダオに、マユラも親しげな表情で応え、
「傭兵の暮しか」
重いバケツを運びながら、意識するでもなくつぶやいた。