バグ
頭が痛い。レイジは枕元に置いてある眼鏡を取ると、壁掛け時計で時刻を確認した。十六時半。イベントで遊んでから大体四時間は昼寝していた計算になる。
ムクッ、と身体を起こすと、頭の右側に鈍い痛みが走った。頭が痛い……というよりは眼が痛い気がする。レイジは洗面所へ向かった。
……眼が充血している。普通に充血しているのではない。青く充血しているのだ。何だこれは。レイジの頭に、数日前のコンビニでの出来事が浮かんだ。蒼い刺青……《殺害》のマーカー……っ! レイジは勢い良く頭を振った。そんなはずはない。単なるコンビニバイト・フリーターの俺が、遺言の対象になるはずがない。単純に、静脈が浮き出ているだけだ。
レイジはそれ以上考えるのを強制的にやめて、布団に戻った。
頭が痛い。今日は深夜まで寝てしまおう。深夜ならみんな〈レルムズ〉にいるだろうし。
* * *
それから数日が経った。〈レルムズ〉のイベント、《この世界の謎を解け》は未だに解法が見つからないまま、時間だけが経過していた。スレイア氏によると、掲示板でもまだ未解決らしい。今までのイベントなら二~三日もすれば解法が見つかり、Wikiの「ネタバレ」エリアにそれが記載されていたものだが、どうやら今回のイベントは一味違うようだ。
村田は、大学での授業が終わり帰路を急いでいた。早く〈レルムズ〉がやりたい。まだ行っていない街が幾つもあるのだ。何しろ、〈レルムズ〉の街は合計で二百程度もあるのだ。酒場を回るだけならともかくとして。
村田は、軽快な足取りで大学の門をくぐった。と、村田の目の前に、突如として大量の人間の集団が出現する。人を押し分けて歩道の向こう側まで出ると、道路の対岸に大きな横断幕と、大量のプラカードを持ったデモ隊がうごめいていた。
――特殊遺言条例反対。
――私刑制度を許すな。
――《金銭》条例は税金の無駄遣いだ!
――《殺害》は政府の陰謀だ!
「またデモか」
そんな問題、とっくの昔に議論しつくされているのに。村田は溜息をついた。今更どうこう言った所で変わるはずがない。それに、特殊遺言の条例はどれもそれぞれ何らかの形で社会の改善に役立っているのだ。
村田はデモ隊を一瞥すると、くるりと進行方向を変えて、横断歩道がある方角に向かった。信号待ちをする間、村田は〈レルムズ〉のイベントについて考えていた。
「これは一度オフ会を開いた方が良いかもしれないな」
前にも一度、難しいイベントがあった時に村田はオフ会を開催したのだ。秋葉原にあるネットカフェの四人席に、レイジさんとルカさんと村田の三人で集まって議論をしながらプレイする形だ。操作キャラクターは一体になるが、集まった方がアイデアは出やすいものだ。その結果、その時のイベントではWikiに情報が出る前に無事にイベントをクリアすることができた。
そんなことを考えていると、自動車用の信号が青から黄へと変わった。〈レルムズ〉のことが気になって仕方がない村田は早速歩道へ一歩踏み出すと――向かい側から白いイヤホンをしているOL風の女性が渡ってくるのが見えた。
と、同時に――左側から勢いよく2tトラックが突っ込んできた。
危ない!
咄嗟に飛び出した村田は、中央の黄線のあたりで勢いよくジャンプすると……女性を突き飛ばした。
キキキィーッッ!!
村田は、自分の身体が勢い良く吹き飛ばされるのを感じた。それが村田の感じた最後の感覚だった。
しかし、完全に意識が途絶える前――起き上がったOL風の女性が、こちらを見てニコリと微笑んだような気がした。
* * *
「にいちゃん、はようしてくれや」
「はっ、はい。すみません。只今」
レイジは急いでレジに商品を打ち込む。
「にいちゃん、はようしてくれや」
「はっ、はい。すみません。只今」
レイジは急いでレジに商品を打ち込む。
「にいちゃん、はようしてくれや…………」
「うわっ!!」
ガバリ、とレイジは起きた。
最近はあの時の夢ばかり見る。《殺害》の遺言状が出された大男が自分の働くコンビニに来た日の夢だ。
ズキッ。顔の右側がひどく痛む。痛みで起きる。起きたら洗面所で顔を確認する。レイジにとって、それがもはや日課となっていた。
一週間前より、格段に悪化している。レイジはそう思った。病院に行くか。
あまりにも蒼い部分が拡大しすぎているので、レイジは数日前に思い切って区役所に行った。これは《殺害》のマーカーなんですかと聞くために。
しかし、返ってきたのはこんな言葉だった。
「お名前をもとに戸籍を照合しましたが、現在貴方が対象になっている遺言状はございません。恐らく、何かの病気でしょう。皮膚科を受診することをおすすめします」
そう言われたレイジは、言われるがままに近所の皮膚科を受診した。ところが、そこで問題が発生した。あまりにも《殺害》のマーカーに似すぎているせいで、気味が悪いと受診を拒否されたのだ。
レイジは憤慨した。皮膚科の医者が皮膚を診なくて誰が診るんだよ!! そう言ったが、その医者は無理の一点張り。「もっと大きな病院を受診することをお勧めします」そう言われてレイジは待合室から追い出された。
そういうわけでレイジは今、市立病院へ向かうためバスに乗っていた。サングラスにマスク。不審者だと通報されてもおかしくないような風貌だった。
しばらくして、病院に着いたレイジは受付票を取り、呼ばれるのを待った。
「238番さん。診察室へどうぞ」
一通りレイジの診察をした医者は、PCでカタカタと書類を作りながらこう言った。
「感染症の疑いがあるので、十号室で採血をしてからもう一度受付票を取ってきてください」
「はあ。分かりました」
しかしながら、数十分後、採血の結果を見た医者は困った表情でこう言った。
「白血球値も正常ですし、感染症というわけではなさそうですなあ。となると何らかのアレルギーの恐れがあるので、抗アレルギー剤を出しておきましょうか」
レイジは、この意味不明な蒼い発疹が収まるのであれば何でもよかった。とにかく、《殺害》のマーカーに似ているのがよくない。バイト先ではマスクと前髪で隠しているのだが、首の方まで発疹が拡大したらアウトだ。
「分かりました。ありがとうございます」
レイジはそう言うと診察室を出て会計を済まし、薬局でアレルギーの薬を貰って帰路についた。
* * *
何をやってる、早く担架持ってこい!
動かすぞ、1・2・3!
2tトラックに撥ねられた村田雪輝は、今まさに生死を彷徨っていた。デモ隊の人混みの近くで起こった事故だったこともあり、救急車はすぐに到着した。
搬送され、混濁する意識の中。村田は夢を見ていた。
白い部屋。自分の身体の周りで、白衣を着た人間が何人か会話している。
「エリアB38。被験体48番、覚醒の恐れがあります」
「急げ、冬眠薬をもっと投与しろ。必要だったら麻酔薬も併用してもいい」
「ダメです。間に合いません! 48番覚醒します」
グワッ。意識が急激に戻ってくる。ガバッ、と、村田は身体を起こした。
瞬間、村田は急激に記憶が回復するのを感じた。自分がどこにいるのか。今まで何故寝ていたのか。全てを瞬時にして理解した。
ここは本当の〈現実世界〉。科学技術の目覚ましい進歩で、人々は何の苦労もない快適な生活を送っていた。
発達した気象予報システムは気象「予知」システムになり、宇宙に進出した人々のため太陽フレアや宇宙線の予知までもが行われていた。
しかしある日、その予知システムが重大な問題を報告する。太陽の休眠期間。それがやってくるというのだ。人々は焦った。いくら科学技術が進歩したといっても、太陽の休眠を防ぐことは不可能だ。
太陽が休眠するとどうなるか。今まで太陽によって暖められていた地表はどんどん冷えてゆき、最終的には地表の平均温度がマイナス百度以下になる。人々は、温室効果ガスを放出して大気を保護するなどの方策を講じたが、どのコンピューターも出したシミュレーション結果は同じ。人類の絶滅だった。
人々は焦った。何しろ太陽の休眠期間は七千年。大昔の氷河期の期間よりは遥かに短いとはいえ、人類にとっては長すぎる時間だった。そこで温室効果ガスのような維持療法が効かないとなると、取れる手段はもう一つしか残っていなかった。
人間の人工冬眠。昔のSFにはよく登場していたものだが、実際に使うことになるとは誰も想像をしていなかっただろう。人類は、200年もの歳月をかけてそれを開発した。
村田は身体を起こすと、人工冬眠で硬直した筋肉をほぐしながらこう呟いた。
「クソッ、俺が起きたということは……」
「大変申し訳ありません。仮想世界で死亡してしまったため、人工冬眠を維持することができませんでした」
取り返しの付かないことをしてしまったような表情で、白衣を着たスタッフが言う。
「もう一度送り直してくれ」
村田は迷わずに即答した。
「しかし、連続しての連続冬眠は危険です!」
「いや、今は村田に頼るしかない。他の先遣隊はまだフェーズ1で侵入している。村田はフェーズ3。第三先遣隊の中で、村田ほど仮想世界に馴染んだメンバーはいないんだ」
もう一人の白衣の男がそう言った。この男は〈現実世界〉での村田の上司。そして、人工冬眠先遣隊デバッグチームのチーフだった。
人類の技術の結晶である人工冬眠、その開発過程。作られた当初はサルなどの霊長類と哺乳類の動物で実験が行われていたため気付かれなかったのだが、人間が被験体になり始めてからその問題は露見することになった。冬眠に入って、そのまま目覚めることのない被験者が大量に発生したのだった。
科学者たちは原因究明に躍起になった。そしていくつもの実験が繰り返された上、彼らはひとつの結論に達した。
脳内を走る電気信号は氷点下でも発生している。つまり、冬眠の被験者は、身体が冬眠していても、脳は活動していることが判明したのだ。そして、その脳が「満足」するための精神活動――端的に言ってしまえば限りなく現実に近いシミュレーションが脳にとって必要とされていた。
そうして、人類が冬眠期間中に仮想現実で生活するためのソフトウェアが開発された。あまり文明が進みすぎていると中央コンピュータでの演算に負荷がかかりすぎるため、時代背景は今より数百年ほど昔に設定された。
異変が起こったのは、第二先遣隊が送られてから数週間後。中央コンピュータは、仮想現実で何らかのバグが発生していることを報告していた。原因は全くの不明。何が起こっているのかも不明。更に、そのバグ一つが占める余計な演算量がものすごく多い。
これでは、太陽が休眠状態に入った時の本番に使うシステムとしては到底使えなかった。
そこで計画されたのが第三先遣隊。中央コンピュータのバグを解明すべく組織された少数精鋭。村田はそれの一員だった。
「早く俺を冬眠させてください。ただし、〈現実世界〉での記憶をそのままに」
村田は早口でそうまくし立てた。
しかし、白衣を着た男は端末を操作しながらこう言った。
「今までは、なるべく仮想世界に馴染ませてバグの原因を特定するために、〈現実世界〉での記憶を消去してきた。その先遣隊に本来の任務を思い出させるためのメッセージが、『世界の謎を解け』です。しかし、記憶をそのままに〈仮想世界〉に送るのは重大なリスクがある」
「村田、俺はお前のことを信用しているが、本当にそれでいいのか。失敗したら廃人になるぞ」
「リスクについては分かっています。そんなことはどうでもいいんです。『トラックに撥ねられた事故』が収束してしまわないうちに、早く冬眠を!」
「では、記憶は『保持』にセット。村田さんが遭遇した『トラックの交通事故』については、『軽症』であるという風に書き換えをします。……しょうがありません。冬眠を開始します」
白衣の研究員が言った。すかさず、村田の上司も続く。
「バグを見つけろ。それを忘れるな」
それを聞いたのを最後に、村田の意識は途絶えた。