世界の謎
それからの三日間は、ルカにとっては無限に感じるほど長いものだった。
彼女は薬剤師。家の近くの薬局に勤めていた。仕事は、医師の処方箋を元に薬を選んで患者に渡す。それだけの仕事だった。少なくとも彼女は、村田と同じく、同じことを繰り返すだけの日常にひどく退屈していた。
ただ、今日と明日はドクターの往診日なので忙しい。ホームの老人たちにはおおよそ二週間に一回くらいのペースで往診日が設定されており、近隣の市立病院から医師がやってくる。動けない老人が多いので、来るのは医者の方だ。
往診日には、ドクターの往診で二週間分の薬が決まる。それを患者に説明するのが薬剤師の仕事だった。ただ、頻度が少ないのでこれはバイト扱い。ルカの本業はどちらかと言うと近所の薬局の方だった。
コンコン。
「園田さん。おくすりの時間です」
ホームの廊下に彼女の声が響き渡る。もともとよく通る声質なお陰で、やる気のない声だと気づかれることがなかったのが彼女の救いだった。
「どうぞ」
部屋の中からか細い声で応答があった。
「園田明宏さんですね」
「ええ」
園田と呼ばれたその老人は、布団から顔を上げると軽く会釈をした。年齢は九十歳近いだろう。もはや歩くこともできないのだろう。それに、あまりにも痩せすぎている。
園田氏に出ている薬は高血圧や認知症予防の薬だけだったが、ルカは薬の説明をする前に別の事を考えていた。「この人はもう長くないな」、と。
「園田さん、今回の薬は前回と同じのが二つ。これは高血圧と認知症予防のもの。認知症のお薬は前回から少し量が増えています」
「はい、はい」
と、か弱い声で老人は言う。
もはやこんな老人に説明しても意味が無いのだが、氏に出ている薬はドネペジル塩酸塩・10mg。認知症を予防する薬だが、これはこの薬の上限量である。ここまでの量を出すと普通は賦活作用というものが出て、暴力的になったり治療に反抗的になったりするものだが、園田氏の様子を見るに、そこまでの元気は残っていないのだろう。
「それから、追加で炎症を抑えるおくすりと、咳を抑えるおくすりも出ています。肺炎になると危ないですからね」
「はい、はい」
「以上です。おくすりは、看護師が時間通りに持ってくるので、きちんと飲むようにしてくださいね」
「はい、はい」
老人は、こちらの言うことを理解しているのかどうかも分からない、微妙なニュアンスで相槌を打つ。
「では、お体にお気をつけて」
ガラッ。
普通は、部屋を退出する前に、体の調子を尋ねたり気分がどうか聞くものだが、今日のルカにはそんな余裕などなかった。
はぁ~っ。溜息をついた。ルカは、園田氏のように、もはや生きているのか死んでいるのかも分からないような老人と会話するのが、ひどく苦手だった。自分まで、混濁した意識の海に飲み込まれるような感じがするのだ。
しかし、そんな事を言っていてはこのバイトは出来ない。ルカは、残りの二日間・十八人分、この作業を続けなければいけないことを思い出し、大量の薬が積まれた処方薬のカゴを見ながら何度も溜息をついていた。
* * *
次の日。老人ホームでの疲れが抜け切れぬまま、ルカは本来の職場である〈せせらぎ薬局〉へと向かった。〈レルムズ〉のイベントは土日開催なので、今日が終わればイベントだ。
「いらっしゃいませー。処方箋を拝見します」
いらっしゃいませ。処方箋を拝見します。お席で少々お待ちください。○○様、お薬の準備ができました。薬の説明。お大事に。
それを繰り返すだけの一日だ。本当に。頭がどうにかなりそうだった。ルカは、自分がルーチンワークに向いていないのか、他の人間が異常なのか、それを考えることにずうっと囚われていた。
自分がおかしいのか。周りがおかしいのか。自分がおかしいのか。自分がおかしいのか。自分がおかしいのか。
気づくと、次の患者が自動ドアをくぐってオロオロとしている。ルカは作り笑いを浮かべて、定型文を口にした。
「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ、処方箋を拝見します」
もういやだ。ルカは明日の〈レルムズ〉のイベントだけが生きがいだった。
* * *
そして来た土曜日の朝十一時前――村田のギルドのメンバーは、示し合わせたわけでもないのに、揃って朝からログインしていた。
それぞれ、思い思いの理由で現実に絶望している。そういう人間こそがMMORPGに熱中するのだった。
「今日はみんな早いな」
「イベントですからねえ」
ルカは当然のようにそう返した。本当は現実に絶望しているからなどとは到底言えない。
「イベント発表まであと三分だぞ!」
レイジさんはイベントの前はいつも楽しそうだ。
そういえば、スレイア氏は今日は夜からの参加らしいと村田はメンバーに伝えた。別にログイン時間は強制ではないからそれでいいし、比較的このゲームの上級者であるスレイア氏が来るまでに戦略を練れるから一石二鳥でもある。
そして、二〇七二年八月二十八日、午前十一時へのカウントダウンが始まった。
十、九、八、七、六、五、四、三、二、一、ゼロ。
《イベント:この世界の謎を解け》
「はああああああああ???」
「な、なんでしょう、これは」
レイジさんとルカさんは揃って驚きの声を上げている。正直、プレイ歴の最も長い村田ですら、ここまで抽象的なイベント内容は目にしたことがなかった。
「こ、これは……ちょっと俺でも意味が分からないな」
村田は正直にそう答えた。
「みんなで考えられる限りのことをやってみよう。酒場を回って変更点がないか調べて、主要NPCにも一通り話しかけてみるんだ」
そう言うと村田は、足早にロビーを出た。これは一体何だ。分からない。この世界の謎? 未解決クエストのことか? いや、そんなはずはない。トップランカーのギルドは既に全てのクエストを完了させているはずだ。未解決クエストが《謎》なら、そのギルドにとってこのイベントはゴミになってしまう。
村田はワールドマップを開いた。ルカさんとレイジさんはマップの左半分の酒場を捜索しているようだから、自分は右半分に行こう。そう思って村田は適当な開拓済みエリアをクリックした。
ヒュン。
すぐに街へ飛ぶ。村田は酒場に入り、店主のNPCに話しかけた。
『謎はここにはない。』
それを見た村田は、すぐさまギルドチャットに切り替えると、
「おいレイジさんとルカさん、酒場の店主が何か言ってる」
「こっちでもそうだ。『謎はここにはない。』だと」
「わたしのいる街でも同じです」
その反応を聞いた村田は、
「じゃあ、とりあえずしばらくの間は酒場の店主を攻めよう。何か進捗があったら教えてくれ」
そう言うと、再度ワールドマップを開いて、隣の街をクリックした。
『謎はここにはない。』
『謎はここにはない。』
『謎はここにはない。』
どの街の酒場でもそうだ。マップを移動する単純作業を強いられて流石にうんざりしてきた村田は、再びギルドチャットで確認したが、どうやらレイジとルカも同じ状況のようだった。
その時。
ピコン。と音がして、スレイヤ氏がログインしてきた。村田はすぐさま現在の状況を彼に伝えた。
すると、スレイヤ氏は以外にも冷静にこう言った。
「『謎はここにはない』ですね。知っています。自分でも驚きました。掲示板があまりにも荒れていたものですから」
タイミング的にどうやらスレイヤ氏は、インターネットにある非公式掲示板の書き込みを見て慌ててログインしてきたようだ。ただ、本人の語り口を見ると、そこまで慌てているようには見えない。いつも冷静なのがスレイヤ氏だ。
「とりあえず、全ての酒場を回って、違うメッセージが出ないか確認しましょう。酒場はせいぜい二百個くらいですから、エリアを分けて分担すれば四人で一時間もあれば終わるでしょう」
こういう混乱した時でも的確な分析をしてくれるのが彼のいい所だ。
「わかりました、わたしは引き続き北西の方角をやります」
「俺は南西だな」
半ばうんざりしていた村田は、二人の力強い言葉に、やる気が沸き上がってくるのを感じた。
「よし、四人で全エリア、頑張ってみよう」
村田は紙を取り出すと、訪問した街をメモし始めた。行き忘れを防止するためだ。
そして――約一時間半が経過した。どうやら、全部の街を回り終えたようだ。メンバーは全員疲労困憊の様子だ。
「別のメッセージは見つかりませんねえ」
「クソッ、ゴミイベントかよ」
レイジさんが悪態をつく。
「まっ、まぁ……そう言わずに」
すかさずルカさんがフォローに回る。
村田は、無駄足になったことにうんざりしつつも、イベントの内容をもう一度見返していた。
《イベント:この世界の謎を解け》
「もしかして、この『謎』って」
村田は言った。
「この前のイベントの『支配の勾玉』みたいに、アイテムを指してるんじゃないか。つまり、このイベント文は、『謎の勾玉』のようなものを入手する過程そのものを解け、と言っているわけだ」
すると、一呼吸置いてスレイア氏がこう返してきた。
「村田さんは流石に鋭いですね。掲示板の方でも、そうなんじゃないかという憶測が飛び始めている所です」
「わたしも村田さんの案が有力だと思います」
「じゃあ、各自で『謎』に関係したアイテムを探しましょう。とりあえず個別行動でよさそうですね」
村田は、全ての街を回った疲れのおかげで少々休憩がしたかったので、単独行動になるのは大歓迎だった。
「そうしようか」
「俺は疲れたから休憩~!w」
レイジさんはバカ正直なので、みんなが思っていても言わないことを平気で言ってしまう。憎めない人である。
「了解、じゃあまたあとでw」
村田はそう返すと、イベントを攻略するフリをして離席して、コーヒーを入れはじめた。
しばらく画面を眺めていたが、ルカさんも少しして離席。スレイアさんは相変わらずWikiと掲示板で情報収集をしているようだった。
村田は一言挨拶をすると、ゲームからログアウトした。また夜になったらログインしよう。そう思って村田はモニタの電源を切った。