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「じゃあまた明日なー!」
またな、と軽く手を振って別れるのもいつもどおり。家がとなり同士というのを噛みしめながら、こうしてドアを開く瞬間はお気に入り。
別れるときに、宇宙のところのおばちゃんが「せらちゃん待ってー!」と言って時々ごはんに誘ってくれる。そういうときは遠慮なくいっしょにご飯を食べさせてもらって、テレビ見たり遊んだりとわいわいしているのだ。
おっちゃんもすっげーやさしくて、遅くまでお邪魔してんのに咎めることもなく、「そのまま泊まっていけばいいのに」と言って笑ってくれる。
ついでにいっしょに遊ぶか、と言ってゲームまでしてくれるのだから、ほんとうに頭があがらないというか。わたしにとって東雲家は第二の家族だし、わたしの弟にとってもそうだろう。
あ、わたしには弟がいるんだよ。
ちょっと厄介なんだけど。
「たっだいまー」
棒読みながら愉快な調子でそう声を出せば、2階からズダダダダダダという激しい足音が近づいてきた。
げ、とおもうが逃げ出せそうにはない。
あきらめたようにため息をひとつ吐き出せば、「ねーちゃんっ」という声とともにお腹への衝撃を感じた。
「ぐふっ」
勢い良く飛びつかれたら、普段から運動をしていないわたしにはかなりの衝撃になる。
なにぶん、飛びついてきた相手はわたしよりずいぶんと背が高く、もう幼稚園児や小学生などという可愛いものではない。
立派な中学3年生男子である。
中二病にかかることもなくまっすぐ育った……あー、まっすぐはちょっとあれかもしれないけれど、まぁイイコに大きくなったとおもう。
「うっぷ……」
衝撃が思ったより強い。胃から何かが這い上がってきそうになった。
ふらついてドアに背をぶつければ、また「ぐぇっ」という声が出る。カエルが潰れたような声とはこういったものだなとおもいつつ、背中の痛みに顔をゆがめた。
ふらついたわたしなどお構いなしに、また飛びついてくるあたり、容赦がない。
「ねーちゃん、ねーちゃん! おかえり、だいすき、結婚しよう!」
そう、飛びついて来た犯人はわたしを「ねーちゃん」と呼ぶ実の弟だ。わたしの両親の血がたしかにつながっている、正真正銘の弟。
けれどこの弟、極度のシスコンをこじらせていて、常にわたしにつきまとってくるこまったチャンである。ねーちゃんとお前は結婚できないんだよ――何回言ったっけな。
だれの遺伝子をもらったのか、親やわたしの平々凡々な顔とはかけ離れて、ずいぶん美形に育ってしまったこの弟は、このシスコンさえなければ完璧なのになぁといつもおもう。
残念なイケメンってたぶんこういうやつのことを言うんだろう。
ぶっちゃけ、できのいい弟とできのわるい姉、といった状態なのに、このシスコンで台無しである。
勉強をさせても上位に入り、運動神経は抜群。宇宙とちがってサッカーでは1年の頃からレギュラー入りを果たしているし、高校もスポーツ推薦で入れるだろう。
注目のイケメン1年レギュラーとして、中学時代は有名だった。我が弟ながら誇らしかったけれど、「これなのに姉は……」と言われる残念なわたしが健在だったことをお伝えしておきたい。
容姿だって、某アイドル事務所の連中よりカッコいいのではないかというほど整っている。別に身内ひいきではなく、バレンタインでは彼のもらったチョコレートを分けてもらうのが習慣である。
宇宙もそれはそれは人気だったけれど、あのイタズラな性格が災いしてか、わたしといつもいっしょにいるせいか分からないけれど、この子ほどではなかった。
なんかごめんね、宇宙。
対してわたしは、勉強させると赤点ばんざーい、運動神経も5メートル走れば息切れするほど残念なもの。
容姿も平々凡々、可もなく不可もなくといった感じで、「黙っていればそこそこ見られる」が周囲の見解だ。
注目の欠点王としては校内でも1、2位を争う有名人だが、不名誉極まりないものである。
おまけに胸、胸もない。
……いや、おっぱいのことは言うな。
そんな弟・昴とわたし・せら。不釣合いな姉弟ではあるけれど、仲良しこよしというのはうそじゃない。
このシスコンの態度が、ちょっと度が過ぎていることだけが問題だけど、仲は良いのだ。
過多の愛情をいただいていることには、ちょいとばかし注意をすべきかと思っているけれど。
「アホか、弟よ。お前にねーちゃんはもったいないわ」
「そんなことないよ。おれがねーちゃんもらわなきゃ、誰もねーちゃんのこと、もらってくんないよ!」
「なぁ、おまえが本当にわたしを好きなのかすっげー疑問だよ」
「だいすきだよ! なんなら今から証明――」
「顔近付けんでいいわぁぁぁああああっ」
顔面に平手をかまし、弟からのキッスを回避する。すると平手を受けた当人は、とたんに泣きそうな顔を作り出した。
「う、昴……」
わたしが言葉に詰まれば、彼はうるうるした瞳でわたしを見つめる。
そうして、「わかったから」と頭を撫でようとした瞬間、弟はハッとしたように目を見開いた。
突然の表情の移り変わりにびっくりして、「うおっ、なんだよ」とこぼす。ちょっと声がふるえたけれど、こわいもんは仕方ない。
いきなりどうした、何か乗り移りでもしたか。
こちらに近づいてくる昴におもわず後ずさる――けれど、さっき遠ざけたはずの距離はすっかり元通りになってしまった。
とたんに厳しい顔をした弟に、どうしたら良いか戸惑いを隠せない。そうして、なんだこいつというような視線で昴を見ていれば、奴はダンっと音を響かせて、わたしの顔のとなりに腕を置いた。
び、びびったぁぁあああ!
耳元でダイレクトに聞こえたその音は、わたしの聴覚を異常に刺激する。驚いて揺れた肩が、その衝撃のおおきさを率直に物語っているだろう。
ちょ、まじなにこいつ、ふざけてんの!
驚いたことがいら立ちになって、犯人をにらむことで発散する。だけど、同じくわたしをのぞきこむようにして見てきた昴も、こちらをにらんでいるようだった。
あれ、なんだこの少女漫画的シチュエーション。
「うるせぇぞ!」と隣人に指摘する勢いの壁ドンって、少女漫画的にはごほうびなんだけど(殴る勢いがつよければつよいほど、ドキドキしちゃうよね)、その相手が弟ってだけで全然ときめかないよね。
「ねーちゃん」
すっかり低くなってしまった声をさらに低くして、コイツはわたしのことを呼んだ。「どうした」引きつった笑顔を貼りつけて応えれば、ずいぶんとするどい視線と重なり合う。
……弟よ。わたしはね、おまえのねーちゃんとして言うけれど、若いうちから眉間のシワを常備して、ペン挟みができちゃうようなかわいそうな男になることをおまえに望んじゃいないんだよ。
「うるさい」ああやめて、反抗期がきたの!?
「そのマフラー、だれの」
「ん?」
「ねーちゃん、そんなのもってないよね」
マフラー? 思わずキョトンすれば、昴は不機嫌そうな顔でわたしの首元を指さした。なにか特別なことがマフラーに起こっただろうかと、「なんかあったっけ」と記憶を巡らせ――思い出した。
そういえば、宇宙に借りたマフラー付けてんだった。
納得していれば、さらにするどくなった昴の視線が、わたしを射抜くように突き刺す。「なに怒ってんの、宇宙のぶんだよ」
宇宙兄と言って、幼いころから慕っている兄的存在の宇宙に対してなら、そこまで怒る必要もないだろ。
ため息を吐きながらあきれた表情でそう告げれば、「よけいにやだ」と言われてしまう。
「なんでだよ、宇宙だぞ」
「宇宙兄はすきだけど、それでもやだ」
「わがままだな、おまえは」
嫉妬されてるよ、宇宙。巻きこんでごめんよ、と心のなかで謝りながら、ほんとなんで弟と少女漫画的シチュエーションなんだろう、ともういちど深いため息を吐きだしておいた――脳内をめぐる疑問に答えてくれるひとはいない。
ほんと、手のかかる弟。
うつむき加減に、ちいさく笑う。
不安でしかたがないんだろうことはわかる。あのときのコイツはまだまだちいさかったし、わたしと2年しか離れていないとはいえ、小学生には重たいことだったとおもう。まぁ、わたしも小学生だったけどさ。
「ねーちゃん、おれ本当にねーちゃんが好きだよ」
「ありがとう、弟よ。わたしもお前が好きだよ」
適当にあしらって、「あとでな」と自分の部屋に駆け上がる。「ねーちゃん!」悲痛な叫びを聞いたがとりあえずスルー。かわいい弟だが、度が過ぎているアイツには、すこし冷たくあしらうくらいがちょうど良い。
がちゃり、と部屋のドアを閉める。すると、部屋の前まで追いかけてきたらしい昴が、壁1枚の距離でわたしを呼んでいるのが聞こえた。
いつものことだから、ここもスルー。
しばらく無視して着替えていると、ふと、部屋の前がおとなしくなった。ついでに、そろそろ夕飯の準備をしに1階に降りなきゃいけない。
あいつも落ちついたかな、とおもい、階段を下りるためドアを開ければ――ずいぶんとまぁ、悲しそうな顔をした昴が立っていた。置いていかれた迷子のような、まるで一人ぼっちになっちゃったような、そんな顔。
はぁ、ったく、こいつは。
「、あ、ねーちゃん……」
「アホ、泣き虫。なーに、泣きそうな顔してんだ」
わたしの身長なんて10cm以上超えたのに、わんこみたいにぶんぶん尻尾ゆらしてついてくるんだから、かわいくないはずがない。
しょぼん、とした顔はいまにも泣きそうで、どうにも放ってはおけなかった。
こいつにとってわたしは“だいすきなねーちゃん”かもしれないけれど、わたしにとってもこいつは、“だいすきな弟”なんだよ。わかってんのかなぁ。
「ねーちゃん、おいてかないで」
泣きそうにふるえた声で、泣きそうにゆがんだ顔で、ぎゅ、とわたしの服の裾をつかむ昴に、心臓がつかまれたような錯覚をおぼえる。
とたんに泣きたくなったけれど、ここでコイツの前で泣き顔を見せるわけにはいかない、と目の奥に力をこめた。
だいじょうぶだ、おちつけ。
「わたしがどこにお前を置いていくっていうのよ」
「でも、父さんは――」
「昴」
昴の言いたいことは分かってる。だけど、わたしがどうしてお前を置いてどこかに行くとおもうの。
「母さんだって、わたしだって、昴のことが好きだよ。わかるでしょ?」
「……うん」
「お前を置いて離れたりしないよ」
でも――と言った昴の言葉に、いなくなった父さんのことを思った。
明日はちょうど、父さんがいなくなって5年目。いつもこの時期になると、コイツのシスコンっぷりが悪化する。
あれだけやさしかった父さんが、人が変わったように母さんに暴力を振るうようになってしまったあの日から、昴は“だいすきな人が離れていくかもしれない可能性”におびえ続けている。
両親が離婚して、わたしたちは母さんに引き取られることになったけれど、かつてのやさしい日々が記憶から消え去ってくれるはずもない。
なにより、あのときから何も変わっていないはずのこの一軒家が、たった一人いなくなっただけなのに、ずいぶんと冷たく無機質に映るようになってしまった。
それからだ。グレることなく進んでいるコイツだけれど、その代わり、わたしから離れられなくなってしまった。
まるで、もうたいせつな人を手離したくないとでもいうように、いつも後ろをついてまわるようになった。
まだ中学3年生で、将来のことも社会のこともわからなくて不安な昴が、ずっと働きに出ている母さんよりわたしに依存するのは時間の問題だった。
「おまえはわたしが守ってやるって、いつも言ってるだろ」
なにがあっても、離れたりしないよ。だから、安心してわたしから“離れてほしい”。
それを伝えるのは、コイツが高校生になってからだろうなぁとおもう。
「ねーちゃんはおれが守るからね、宇宙兄には渡さないよ」
「はいはい、ありがとね。けど、そんな泣きそうな顔してるヤツはお断りだぞ〜」
意地悪く笑ってみせれば、「うん」と素直にうなずく。
かっわいいなぁ。そうおもうわたしも、重度のブラコンなのかもしれない。
「ねーちゃん、いなくなっちゃやだよ」
聞こえたそれにちいさく笑って、「いなくなるわけないでしょ、ばか」と返した。
ついでに、すっかりわたしより高くなってしまった彼の頭を、背伸びしてポンポンと撫でてやる。足つりそう。そうはおもったが、姉としてなぐさめてやるくらいしてやりたい。
わたしのその態度に安心したように目を閉じた昴を見上げながら、このあたたかさに目を細めた。
そうだ、わたしがこいつを守ってやらないと――そう心に強く誓いながら。