1.治療
「術式終了。これでどう?」
戦いがあった次の日。お昼はとっくに過ぎていた。
ここは黒岩神社本殿。板引きの床に、いろんな道具が散らばっている。
結界であろうか、四方に立てた蝋燭立ての灯火が弱々しい。カセットコンロの上で薬缶の湯が沸いていた。カップラーメンも転がっている。
あれからずっと、そう、夜も眠らず、食べたものはカップ麺一個だけ。雫は父、真二郎の毒に犯された右手の解毒にかかりきりだった。
「だめなようだ」
真二郎はゆっくりと頭を振った。
「あたしは諦めない!」
今のが最後の術式だった。その事は、二人とも知っているはず。
科学の外域で生きるのが妖。妖の毒は、医学で直せない。
「もういい。毒に犯されてまもなく一日がたつ。考えられるすべての手は打った。もういいんだ、雫、ご苦労だった。もうお休み。ご飯も食べなきゃ」
呪をかけられて一日以内に払えなければ、それは定着してしまう。
二人の記憶にあるすべての解毒作業は試し終わった。古い書物も紐解いた。ダメ元で血抜きなど外科的なこともすべてやった。だが、右腕の毒は抜けない。
毒の浸食を食い止めるのがやっと。
今朝方、真二郎の腕は完全に動かなくなってしまった。
「あたしは諦めないって言ったでしょう!」
座り直した雫は、周りを見渡した。本殿の中で、新たに解毒の参考になるものないかと。
「雫、ありがとう。娘に心配されて、お父さんは幸せ者だ」
「ち、違うわ! わたしは戦力が落ちるのを心配しているだけよ! お父さんのスタイルだと片手だけじゃ結界、張れないでしょ! 半分の戦力で勝てるわけないじゃない! ……何見てんのよモコ助!」
これは雫の理論武装。ついこんな言い方をしてしまう。それを知っているのは真二郎と包帯でぐるぐる巻きにされたまま座布団で寝かされているモコ助だけ。
そのモコ助を雫は冷たい目で睨みつける。
「あんたがあの時――」
音がした。
身構える雫。散らかった薬物を隅へ押しやる真二郎。
本殿の引き戸が軋みながら開いていく。前の金曜日に蝋を引いたばかりだというのに。この陰気でやけにわざとらしい軋み音はなんだろう。
「なんか食わせてくれー」
変な柄のTシャツに、綿の七分パンツ。茶色がかった短い黒髪。
どこかで聞いた声の、やたら背の高い女が、上がり口で伸びていた。
見覚えがある。左耳だけに銀の棒ピアス。前はもっと長い髪の毛だった。黒かったし。
「あなた……アマツ……ミカボシ!」
「そうだ、オレだ。腹減った。粥でいい、食わせろ。それがオレを召還した者の責任だ」
今にも消え入りそうな声で、それでいて自己主張だけはきっちりする。天の悪星に間違いない。
いろんな意味で、みんなの動きが止まった。
ミカボシの変わり果てた風体に、どこから突っ込んでいいのか判断しきれなかったからかもしれない。
「なんで神様がお腹を空かすの? 髪、短くなってるけど、どうしたの?」
最初に最大の疑問を口にしたのは、やはり雫だった。
「髪の長さは自在だ。そもそも神なんてもんはな、目を持たないし、口も鼻も手足も持たん。言葉すら持たない高次元の存在なんだよ。だから低次元の、てめえら自称高等生物とコミュニケーションとろうとしたら、五感を備えた肉体を用意しなきゃなんねーんだよ」
俯せで、ぐったりと手足を投げ出したままのミカボシ。口調だけ元気なのが解せない。
「手っ取り早くすますんなら、適当な人間の星界に降りりゃいい。適当なのが許せないオレのように砂糖菓子でできたデリケートな精神をもつ賢い神様は、自分でチューンした特別な体を作る。通常、人間の痛点は一センチ四方あたり十の二乗から十四の二乗ほど。ところがオレ様の体には十七の二乗もある!」
それはさぞ、……くすぐったいであろうと雫は同情を禁じ得なかった。が、これでは説明になっていない。
「だから、なぜお腹がすく?」
「それだけ精巧な造りをしてんだからよぉ、腹だってすくだろうが! 喉も渇くし。アルコールだって飲みたい」
「神様でも餓死するんだ」
「しない。オレ達に栄養を摂取する必要はない。単純に腹が減ったという現象だ。あと、酒は趣味な!」
どうすれば殺せるのかな、と本気で考え出す雫ではあったが……、ミカボシが弱気になっている間に、聞き出すことは全て聞き出したかった。
「男のイメージが強いのだけど、女だったの? 天香香背男って二つ名でしょ?」
これに対しミカボシは、チャラチャラと左耳の棒ピアスを弄り、謎の間を開けてから答えた。
「なんでかオレも知りたい。最初は男でも女でもなかったんだ。……まあ、男でも女でもあったけどな。葦原の中國でブイブイ言わせていた頃は男だった。タケミカヅチとやり合った頃も、……たしか男だった」
「たいしたチューンね。その身体。で?」
「続きを知りたければ一億円よこせ!」
雫は、十柄劔を取ってこようかと思ったが、もっと効果的な方法があることを思い出した。
「簡単で良かったらご飯作ってあげるから。教えて」
「こましゃっくれたタケハヅチに、ややこしい空間へ飛ばされてからおかしくなったようだ」
天の悪神、アマツミカボシは饒舌な神のようだ。
「シズカに呼ばれた頃には女になってた。オレ様ほどの大神ともなれば男に戻れん事もないが、神であっても非常にめんどくさい手続きをしなきゃならんのだ。天香香背男は……疲れたからパス」
肺腑の奥から絞り出すかのような大きな溜息をついて、ミカボシがだらんと長くなった。
「シズカってだれよ?」
「も、もう動けねぇ。動け……うご……」
本当に動かなくなった。
「……食べさせてあげるから、こっちいらっしゃい」
ミカボシは、板張りの床をシャカシャカと元気よく這って、雫の膝元までやってきた。
「三分だけ待ちなさい」
神は、ご飯を食べなくても生きていける存在であったはず……。
「三分って? 何時だい?」
「ゆっくり百八十まで数えなさい。それが三分よ」
恐ろしく冷たい口調の雫が、縦長容器のカップ麺の蓋を剥がし、薬缶の湯を注ぐ。
「まだか?」
「まだよ」
ミカボシはごろりと寝返りを打った。薄い生地を通してそれなりな胸が、ここぞとばかりに主張している。
ふと、ミカボシの目が、真二郎の右腕に向けられた。
「なんだ? まだ毒を抜いてないのか? ものすげー痛いだろうに、よく平気な顔をしてられるなー」
ノロノロとした口調のミカボシ。彼女の言葉にビクリと肩を振るわす雫。
「お父さん、痛いの?」
「あっはっはっ! いやぁ、面目ない」
照れながら、真二郎は残された左手で後頭部を掻く。その様はまるで痛くなさそう。だがその実、転げ回りたいほどの激痛が走っているのだ。
「おとうさん」
雫が目を見張る。
「鈍い女だな。気づいてなかったのか? 骨まで逝ってるぞ、こりゃ」
ミカボシは、長い腕をひょいと伸ばし、真二郎の腕をつかんだ。
そして、つかんだ腕を乱暴に放す。
「なにするの! 腐れ外道!」
いきり立つ雫。
「待て雫! 腕が!」
動かなかった右腕を差し出し、ニギニギする真二郎。雫の目には何の変哲も無い、肌色の右腕が写っていた。
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