4.天津甕星
「雫ーっ!」
叫ぶ真二郎。何が起こったのかはわからないが、もんどり打って転げている愛娘に、生死の危機が訪れたのは間違いのだ。
なんだかボロをまとった……いや、ずたボロの巫女装束をまとった、黒髪も長い女が、糸の切れたマリオネット状になってグンニャリしていた。雫の上で。
「い、痛、いたたたた……」
下敷きになった雫が、這い出してくる。
宙に舞っていた剣が右斜め前の地に突き刺さった。
髪をザンバラに散らした女……ぽいのがピクリともせずノびている。
「何? 建葉槌?」
雫の言葉に反応したのだろうか、そのザンバラ髪の女がピクリと体を震わせた。
「建葉槌様?」
「うがーっ!」
女は一気に飛び起き、そして叫んだ。
口を獣のように開き、頭を鷲掴みにして悶える。とても苦しそうだ。
「ぁがーっ! がぁーっ!」
裂けるのではないか、と雫が思うほど口を開け叫んでいる。とても背の高い女だ。
「ちょっと、あなた……光が?」
雫は不思議な光景を見ていた。獣のように叫び声を上げ続ける口に光の粒が、尾を引いて集まっていた。
「スバラしイィ!」
フードの男が感動していた。
「これはすばらしい! 血湧き肉躍る経験だ! ……だが、殺れ!」
指で大ムカデに合図を送るフードの男。
「シャーッ!」
何かを擦り合わすような嫌な声を上げ、大ムカデが宙に踊る。
牙の到達予想点で、長い髪の女が立ち上がっていた。
「ガハァー!」
女の口から光の柱が飛び出した。
光のスピードだ。口とムカデが光の柱でつながった、かのように見えた。光が消えた後で。
大ムカデが空中で四散していた。
爆音は、その後からきた。
「何? 建葉槌って荒御魂だった?」
荒御魂とは、神が持つ多くの顔の一つ、荒ぶる神の姿である。
バラバラと人間タイプの足が降ってくるシュールな絵の中、雫はいち早く混乱から立ち直っていた。
「うおーっ! うぉーっ! うぉ、うお」
肩で息をする女。背の高い女は、徐々に息を整えてきている。
「はー、はー、はぁ、はぁ、ふう」
手の甲で額の汗と涎をぬぐう女。どうやら落ち着いてきたようだ。
「あー、ちきしょう。何年飛んだんだ? 頭に入ってきたのハンパねぇ量だったぞ。まだ胸がムカムカしてる」
涙目ながら、危ない目付きの女。ハスキーな声の持ち主。
かたわらで身構えている雫に気づいたようだ。
「シズカ……じゃねえな? 似てるけど、お前、だれだ? 子孫?」
横に立たれるとこの女、やたら背が高い。目から放たれる威圧感がすごい。
このやさぐれた女は、きっと建葉槌だ。偶然だろうが、肉体を持って現れたという事は、相当な高位での降臨に違いない。
ここで手綱を締めねば、襲われるのは雫の方である。雫は背筋を伸ばして精一杯の威厳を持たせた。
「わたしの名は雫。あなたを召還した、あなたの主よ。我が命に従いなさい!」
「は?……はぁ?」
素っ頓狂な声と、すっとこどっこいな表情を浮かべている背の高い女。
「おまえなぁ、誰様に向かって――」
女が雫を正面から見据え、なにか言い出したのだが……。
雫が女の背後の光景に息を呑んだのと、何者かが張った障壁がスパークした騒音で中断されてしまった。
「ちょっと静かにしてねぇか!」
下品な女がたしなめた。二首の大蛇が炎を吐き出していたのだが、誰かが張った結界に阻まれ、女と雫に届かない。
雫は父を見た。真二郎の結界は壊れたまま。では、この結界を張ったのは?
「私の大百足を一撃で滅ぼすとは……。高位のままで建葉槌の召還に成功したようだな」
ジャリジャリと足音を立て、大股に近づいてくるフードの男。モコ助を従えて。
「タケハヅチ?」
危険な目の色をした女が聞き返していた。
背の高い女。健康的な小麦色の肌はきめが細かい。細面で大変な美人であるが、野趣にあふれた美女ともいえる。
漆黒の髪は、腰を通り越して太ももまで伸びている。瞳の色は赤っぽい黒。左耳に……銀の棒ピアスが一本揺れているが、その巫女装束には似合わない。
「今おまえ今、オレのことをタケハヅチとか言ったな?」
女の瞳に、金色の光が斜に走った。
「なにか気に障ったかな?」
フードの男は、おどけて両手をひょいと上げる。傍らで二首大蛇が二股の長い舌を二本出し入れしている。
「気に障っただぁ?」
フードの男の目が猛禽類の目なら、女の目は、怒り狂った虎のそれだった。
女は足を蹴り上げた。先の欠けた十柄劔が中へ舞う。剣を蹴り上げたのだ。
その女は、必要以上に大きなアクションで腕を振り、落ちてくる剣を手に取った。
「てめぇ、オレを誰だと思ってやがる! あんなおりこうぶった生意気女と一緒にしてんじゃねぇっ!」
爆発音を伴って、十柄劔が青白く発光した。
「祝詞や呪を唱えなかった……」
雫は驚いていた。媒体も贄も言霊もなく剣にチカラを付与する方法は理屈上無い。それをこの女は、なんの前触れも気の移動もなく、息をするかのように自然にやってのけた。
「青い炎か!? スバラしイィ! あの時よりこちら、初めての感動だぞ!」
フードの男が二首大蛇の後ろで感動していた。
雫は、黄色の光までなら刀身に纏わせることができる。付与するチカラの強弱は色に出るのだ。
炎や恒星と同じく、赤い光が一番弱い。続いて黄色の光。一番強い力を持つのは青白い光だ。人が出す馬力ではない。
この不思議な女は、一切の準備をすることなく最強のチカラを剣に宿させたのだ。
「おまえは誰だ? いや、言わなくていい。危なさそうだ。オロチ、ゆけ! 噛み砕け!」
フードの男が腕を振る。二首の大蛇をけしかけたのだ。
一つめ口から炎を迸らせ、二つめの口から毒を煙らせ、二首二尾の大蛇が女を襲う。
「知らねぇなら言って聞かせてやる!」
発光する十柄劔を上段に構える女。欠けたはずの切っ先が再生していた。
固体化した大気の砕ける音がする。
女は、瞬き一つする間に二首大蛇の下に立っていた。剣が下段の構えに変わっている。今の音は音速の障壁を砕いた音か!
「地が呼んだか人が叫んだか! 我は天の悪星! その名もアマツミカボシ!」
三人の視線が女に、より集中した。
「先に言っておいてやる。オレは命乞いを聞く耳は、持たねぇ主義だっ!」
天津甕星とは、日本書紀に言う天孫降臨の際に登場する悪神である。
別名、天香香背男とも呼ばれているマイナーな神。ただし、征服者である天津神が、被征服者側である国津神を次々と従わせていく中、唯一、力で服従させられなかった神である。
この従わぬ神、織物の神である倭文神の建葉槌命に、織物に織り込まれて天へ上ったとされるが、果たして……。