6)しろかね日記・旅情編~子守りはつらいよの巻~
大変ご無沙汰いたしております。糸遊つなぎ第6話目のエピソードは、「Messenger」からのリクエストです。3万字近くとかなり長くなりますが、このまま1話の中に収めてしまいました。タイトルからもご想像できるやもしれませんが、懐かしい顔ぶれといざご対面~♪
我が名は【セレブロ】、ヴォルグの長にて候。
皆のもの、ようよう息災であったかの。ほうほう。それは重畳。こたび、またもやそれがしの知己【K】よりせっつかれ、話を聞かせよと依頼を受けてのう。それがしの他愛なき日々を伝えむことに相成り候。また聞きなればその真偽のほどは分からぬが、前の我が徒然がやたらと評判であったとのこと。なにやら踊らされているようにも思えるがの。
ふむ。まぁ、よかろう。それでは慰みに、この間起こりし、ほんの些細な珍事を語りつかわさむ。げに、かの時はほとほと困り果てたのでな。それがしの苦労と心中を察してもらいたいものだ。
*****
「ああ、セレブロ! ちょうどよかった!」
白状しよう。この時ほど、それがしは己が間の悪さというものを痛感したことはない。
それがしの輩である【人】の言う所の【久し振り】に王都【スタリーツァ】より遥か東南、このスタルゴラド国内で唯一海に面した大きな港町である【ホールムスク】におる我が朋輩の元を訪れたのだが、我が同胞はそれがしの顔を見るなり、開口一番、喜色を浮かべてこう言い放った。
それがいかがしたかとな? うむ。言葉尻だけをとれば、別段、さして問題ないやもしれぬがの。
だが、それがしは非常に嫌な予感がした。これはもう途轍もなく。これぞ獣の本能と呼ぶべきもので。白状すれば尾の付け根が妙な具合に震えた程だ。
ああ、先に断っておくが、それがしの朋輩は実に良き輩なり。愛くるしい顔立ちによく気の付く優しい娘だ。なぬ? それは皆まで言わぬとも周知のこととな? ほほう? そなたらは、我が朋輩を知りしか。随分とその名が轟いたものよ。これも皆あの小倅の所為に違いない。
まぁ、よい。
それがしが暮らす遥か北方、深き森に近き軍事拠点である北の砦より、この姦しき白き海鳥【チャイカ】どもが飛びかう潮の匂い満ちた港町にやって来て早4年、とある軍人の家系の鼻もちならぬ――おっと、つい本心が。それがしは嘘の吐けぬ正直者ゆえ、諸兄らには心苦しき言葉が出るかとは思うが、お許し願いたい。ウッホン(咳払い)――小倅の元に嫁ぎ、ここであっぱれ懐妊いたし、無事男の子を儲けた。母になりて三年余り。いまだ奔放な娘気質の抜けぬ我が朋輩に最初の頃はどうなるかと気を揉んだことも多々ありしが、最近は実に母親らしき顔を見せるようになったとそれがしは思う。とは言え、まだ見目若く、相も変わらず行動力があるといえば聞こえがいいが、要するに無鉄砲な所は変わらぬもので。出自からして並みの貴族の奥方とはまるで違うのだから致し方あるまいか。あのじゃじゃ馬も少しは大人しゅうなりしかと思いしが、そのような【フリ】をするのは実に上手くなったものだが、その本質は変わらぬものだ。今も昔も、魔法のかかった弓矢のようにびゅーんと飛び出しては周囲のものどもをやきもきさせることがあるようだ。のんびりとした気ままな所も変わらない。まぁ、それは我が朋輩の短所とも長所ともいえる。一長一短。良きことも悪しきことも縄のように縒り合うものだ。
さて、かようなる朋輩は、それがしが口を開こうとした矢先。
「港で荷降ろしの作業中に怪我人が出たらしくって、呼ばれたの。ちょっとでいいの。リューシェンカの相手をしてもらってもいいかしら? ちょうどお手伝いのフョークラも出てしまっていて誰もいなくって。でもリューシャを騒がしい現場には連れていけないし、どうしようかと思っていたの。よかったぁ。セレブロがいたら安心だわ! ね?」
いつになく早口でまくしたてると長く垂らしていた黒髪を無造作に後ろで束ねつつ、奥の部屋からいつも目にする使い古した商売道具の入っている鞄を引っ掴んだ。それと共にタンタンタンと軽やかに床を踏み鳴らす靴の音が響いた。
跳ねっ返りな所は変わらぬようで、姿形こそ、娘らしくはしているが、この国の女仕様のように長いスカートやワンピースを着るというよりも西国のキルメクとその向こうの国々でよく目にする膝丈程の長い上着の下にズボンを重ね、腰を柔らかな帯で締めるという実に動きやすさを重視した服を好んで身に着けていた。この日も白いシャツと薄茶色のズボンの上に袖の無い膝丈の上着を頭から被り、濃紺色の帯を締めていた。この上着には隠し袋を沢山付けたので重宝するのだと以前、自慢げに話していたのも記憶に新しい。
同胞は慌ただしく鞄の中身を整理し、周囲に並ぶ棚からなにがしかの薬の瓶を手にするとそれを鞄の中に入れた。包帯や油紙などの様々な医療用の品を足してゆく。それから、くすんだ生成り色の裾に小さな花柄の刺繍が施された上着を軽やかに翻すと、戸口の向こうに向かって――それがしに背を向ける形だ――腹の底から出るような大きな声で、己が息子の名前を呼んだ。
「リューシャ! リューシェンカ! 【イディーシュダー】! 【プリィショール、トゥヴォーイ セェレェブロォー】(リューシャのセレブロが遊びに来たわよ!)」
流れるような抑揚で若い女の声が響いたかと思うと、少し遅れてこだまが返ってきた。
「セェ~レェブゥロォ~?」
甲高いというよりも悲鳴に似た幼子特有の声が外で上がったかと思うと暫くしてタタタタタと軽快に床を踏み鳴らす音がして、小さな【シャーリク】の如き塊が室内に飛び込んできた。そして、それがしを前にぴょんと一つ大きく上に跳ね上がると――この幼子はいつもこのような仕草を儀式の如く行うのだ――こちらに向かって突進してきたではないか。
バフンと馴染みある衝撃音がして、その小さな体一杯にぎゅうとしがみつく。無論、それがしは難なくその小さき【シャーリチク】を受け止めたのだが、ちょうどそれがしの喉元の長き毛を力任せに引っ張りおって、むず痒うて仕方なかったわ。
「セェレェブゥロォー!!」
小さき男の子は、感極まったように雄叫びを上げた。いやはやなんとも熱烈な歓迎ではないか。
『リュスファハンよ。久しいな。変わりはないか?』
「あい!!」
首に齧りついたまま、それがしの問い掛けに舌足らずだが、元気のよい返事が返って来る。今日も威勢がいいの。
『うむ。それは重畳』
「ちょーじょー?」
『左様。良きことということだ』
「あい。ちょーじょーで、ごじゃ……んと…ごじゃりまする」
男子故、女子と比べ、口が遅いとは言うが、このリューシャは中々に話が達者になってきたと思う。難しき言葉も理解し、真似をするように使おうとする。何よりもそれがしの言葉を聴き、理解しているようなのだ。この幼子は、母の血を濃く引き継ぎ、高い素養を持っているのだろう。その発育は目覚ましいものがあった。それに聡明さの片鱗も覗く。
そこでてきぱきと仕度をしていた母親が鞄に蓋をして、腰に短剣の付いたベルトを回しながら微笑んだ。
「リューシャ、マァーマはお仕事で港の方に出掛けるから、その間、このセレブロおじいちゃんと一緒にお留守番してもらってもいい? おりこうさんに出来るかな?」
デェードゥシュカとな? 年寄り扱いする気か! それがしは【時】からは超越した存在。悠久を生きるものぞ。
我が朋輩の口から漏れた軽口にそれがしが心の波風を立たせておると、
「あい!」
まるで敬礼するような仕草で小さな手を胸に当てて――もう片方の手は相変わらずそれがしの毛を掴んでいる――リューシャは高らかに声を張り上げた。良き返事じゃな。
「【マラデェーツ】!」
母親は満足そうに頷くとそれがしを見た。
「そういうことだから。お願いね、セレブロ。なるべく早く戻って来るようにはするけれど、どうなるかはちょっと分からないから。もしリューシャがぐずったら、港の方に来てもいいし。ああ、そうだ。ルスランがいる第七の詰め所でもいいわ。あっちでも面倒を見てもらえると思うから」
『リョウ、まだそれがしは是とは言っておらぬぞ。いかにそなたの子とはいえ、子守りなどしたことがない』
それがしの心配をよそにリョウは呑気に微笑んだ。
「大丈夫よ。いつもリューシャの相手をしてくれてるじゃない」
『なれど……それとこれとは…………』
その時、戸口に慌ただしく【マイカ】一枚、作業着姿の日に焼けた体格のよい男が駆けこんできた。
「先生! こちとらぁ指示通りやっときましたぜぇ」
「分かりました」
その瞬間、我が朋輩の顔は、【母親】から一介の【術師】のそれに変わった。見上げるほどに上背のある赤ら顔の大男に引き締まった顔で頷き返すと、最後に我が方を見て微笑んだ。
―――――じゃぁ、お願いね。
小さく口元が動く。そして大きな鞄を手に風のように飛び出して行った。
『あ、おい! リョウ! 待て!』
それがしのいつになく動揺した声が静かになった小さな室内に妙に虚しくこだましたのは言うまでもない。
やれやれ。火急の用事では致し方あるまいか。なれど幼き息子を放るかのう。共に連れて行けばよかろうに。抱えるのが無理ならば、あの大男の肩にでも座らせればよいのだ。それがしが来なんだ時は、いかようにする積りであったのか。それがしは首にこの幼子をぶら下げたまま、つい愚痴めいた溜息を吐いてしまった。
ぶらんぶらんとそれがしの首に齧りついてキャッキャと笑う幼子。リューシャ、本名リュスファハンは、今年で三つになったばかりだ。皆の想像通り、リョウとあのいけ好かぬ小倅の間の子じゃ。母親の血を引き継いだ癖の無い黒髪をおかっぱ頭にして、瞳の色は父親の形質を引き継いだのか鮮やかな瑠璃色。その顔立ちは、幸いにして鋭角な線を持つシビリークスの方には似なかったようで――【マラデェッツ】!――全体的に柔らかい感じの愛くるしい面をしておる。
あの小倅め、子が出来たこと、しかも生まれたのが男子であったことが余程嬉しかったようで、乳飲み子の頃から赤子用の揺りかごを覗いては、気味が悪いほどにやに下がった顔で【バァーユゥー、バァーユゥゥー(子守歌のフレーズだ)】とあやしていたとか。思い出しただけでも全身の毛が逆立ちそうだわい。
それがしは首を先程より勢いを付けて横に振った。勿論加減はしてあるぞ。ぶーんと体が浮いて、放されまいとリューシャは齧りつき喜びの雄叫びを上げた。幼き割に腕の力はそこそこある。好奇心旺盛で外遊びが大好きなやんちゃな子だ。いつ来ても最近は、泥だらけなのだ。微笑ましきことだが、妙な遊びもどこぞで覚えたらしく、大人たちに悪戯をしかけては目を輝かせているのだとかでリョウは困ったと苦笑いをしておった。本当にどちらに似たのやら。いけ好かない澄ましたユルスナールの子供時代というよりもどうやら母親であるリョウの形質を強く引いているようにも思う。天真爛漫な無邪気さに父親のふてぶてしいまでに胆の据わった所が加わるかと思うと将来が楽しみでもあり、恐ろしくもあるというものだ。
このリューシャはそれがしにもよく懐いていた。ここだけの話であるが、父親のユルスナールとそれがしが共に並んで立ったとしよう。そして同時にこのリューシャを呼んだ場合、どちらの方にやってくると諸君らは想像するかの? リューシャが這い這いから歩くようになったと聞いた時に試してみたのだが、聞いて驚くなかれ、なんと!父親よりもそれがしの方に先にやってきたのだ。これまで幾度か試してみたのだが、全てそれがしの勝ち。ふふん。一見、何事もないような涼しい顔立ちをしたその下で、あの小倅がいかに悔しがり、歯噛みしているかと思うと実に愉快痛快なり。リョウは呑気に『リューシャはセレブロが大好きなのねぇ』と笑う。そこで父親は悔し紛れにリューシャを腕に抱き上げて、己が面目を保とうと『高い、高い』をして幼子を笑わせた。そこで息子に自分とそれがし、どちらがより好きかという意地の悪い質問をする。リューシャは、それがしと父親、そして母親を順繰りに身比べてから、無邪気に笑った。『マーマシャー!』と。うむ。中々に賢き答えじゃな。
リューシャは幼き頃よりその聡明さの片鱗を瞳の中に覗かせていた。それがしとてこの子は愛しい。母親であるリョウを介してそれがしとも繋がっているのだ。可愛くないわけがなかろうて。
かつて我が加護を与えたリョウには、その左胸、心臓の上にそれがしの名がその証として刻まれておるのだが、それはそれがし【ヴォルグ】と【人】であるリョウの間の契約であり、リョウがその命尽きるまで有効だ。これによりそれがしとリョウは魂が繋がることになったのだが、この後に起きたことまではそれがしも予想だにしなかった。
この度、リョウが産んだ息子にも生まれながらに我が印が付いていた。ちょうど左肩の上部、腕が始まる骨の辺りに小さくて変則的ながらもそれがしの紋様が判を押したように付いていたのだ。これにはさすがのそれがしも驚いたのだが、つらつらと思い返せば、思い当たる節もあった。
あれは確か。リョウがまだ身重の時に体調を崩したことがあってな。我が魂とリョウの魂はそれがしの加護を通じて繋がっておるので、その変調にいち早く気が付いたそれがしは、リョウの身を案じ、見舞ったのだが、その時に楽になるようにと我が気を分け与えたのだ。それがしの鼻面を大きな腹に押し当てて。腹の中の赤子の様子を探りながら、母親と子の間の歪んだ気の流れを元に戻すようにしたのだが、その時に母体からへその緒を通じて赤子の方にそれがしの気が流れ込んだのやも知れぬ。となるとそれがしとてもこの幼子に浅からぬ縁を感じずにはいられぬということなのだ。リョウは我が娘のようなもの。その息子となればそれがしにとっては孫のようなもの。これを愛しいと言わずしてなんとしようか!!
おっと、思わず気が高ぶってしまった。許されよ。
リョウは、ユルスナールとの婚姻の後、暫くは第七師団の駐屯する北の砦で暮らしておったのだが、シビリークスの小倅が中央より正式に配置転換の命を受けたのに伴い、王都から見て真逆の、遥か南東に位置するこの港町【ホールムスク】へとやって来た。これがおおよそ四年前のことだ。
それでは諸君の為にこの【ホールムスク】について簡単に説明するとしようかの。この街は【スタルゴラド】の中でもやや特殊な場所である。唯一、海に開けた貿易港であることは無論、その成り立ちが特殊であった。というのも、元々は商人たちが港を独自に築き、そうして維持管理をすることで発展してきた場所であった。周囲には近隣の都市以上に堅牢な外壁が緩くこの地を囲う。海から陸へは緩やかな洲から直ぐに急峻な斜面に変わる。街の中心を低い丘のような山から流れた川が蛇行しながら海に注いでいた。背後に山、そして前方には海。両脇を固めるように立つのは高き壁の名残とも男たちの誉、熱い戦いの址とも呼べるべきもの。かつては強固な石造りの要塞しかりとした物々しい壁であったものは、長い年月を経て朽ち、孤高と独立への憧憬と追憶を辛うじて呼び覚ます揮発剤のようなものになっていた。
古くよりこの地には、住民たちの自治が行き届いていた。独立心が高く中央からの介入をよしとしない気質が今でも脈々と受け継がれている。元々は商人たちが異国との交易の為に築き上げた小さな港と交易所が発展したもので、そうして裕福な商人たちが築いた富みを巡って、当時、大国として安定した地位を得ていた【スタルゴラド】の更なる勢力拡大を図った現国王の祖先が、この地を商人たちもろとも取り込み、支配下に置こうと企てたのだ。独立心の高い商人たちは、他勢力からの介入を嫌った。この国にある他の都市と比べても地理的規模としては小さなものだが、【街】というよりも【小さな独立国】と言った方が、理解が早いかもしれない。
この地では商人たちが築いた組合である【ギルド】、別名【ミール】が発達し、その【ミール】が中心となってこの街を治めていた。因みにこの【ミール】とは【世界】、【平和】、【宇宙】などの意味合いを持つ言葉である。
スタルゴラド国内では唯一の大きな港であり、交易の盛んな中心地、中継地である。その重要性から宮廷は、この【ホールムスク】を特別区と位置付け、この地で交わされる取引の規模に合わせて租税義務を課し、その見返りに街の治安維持を担おうと狙った。初めは両者の利害関係の一致と良好な関係を築くことを目指した話し合いの交渉、もしくは提案という形で王都【スタリーツァ】から【ツァーリ】の意向を受けた特使がやって来たのだが、その頃にはもう【スタルゴラド】は、深き森の辺境を治めていた地方の一部族から勃興した一豪族ではなく、広い国土と圧倒的な軍事力を保持する大国としてこのエルドシアの大地に君臨し、確固たる地位を築いていた。そのような強国が、大陸にある付き出た瘤のような土地に山と海という地理的立地条件に恵まれ、これまで周辺諸国との大きな戦に巻き込まれることなく、その外交と才覚で細々と自治を貫いていたこの【ホールムスク】に目を付けたのだ。平和的交渉などというのは、無論方便で、要求が飲まれなければ力づくでもその支配権を手に入れるという武力をちらつかせながらの脅しに近いやり方だった。これが、大体、今から三〇〇年余り前のことである。
その後、当時多発していた盗賊団の殲滅、行路の安全性の確保という名目から【スタルゴラド】は、騎士団の一部をこの港町とその街道沿いに派遣してきたのだが、これが、当初から大いに地元住民の反発を呼んだのだ。というのも【ホールムスク】には、既に自警団が機能し、文字通り、塀の内部と彼らの影響力が届く範囲内で、彼ら独自の【法と掟】に基づき、統治がされていたからだ。
日常的な小競り合いや睨みあいの他に、最終的な覇権を巡って流血沙汰も起きた。そして当時既に強国であったスタルゴラドに対し、小さな港町である【ホールムスク】は、その政治的、軍事的介入に真っ向から反対し、激しい抵抗戦を続けたのだ。
『自由は永劫に我らの手に』―――この旗印の下に、【ホールムスク】では多くの若者たちが義勇軍に志願し、徹底抗戦をしたものの、最終的には圧倒的な力の差で反乱分子という名の下に鎮圧されたのだ。折しも、この時期、【スタルゴラド】国内は政情が不安定で、政権抗争の末、王族の一派が袂を分かち、新天地を求めて飛び出したということもあり、国内では一層の締め付けが行われていた。
多くの血が流れた。そして終戦調停が【ホールムスク】との間に結ばれ、本格的にスタルゴラドの影響下に入り、この地に騎士団を受け入れ、然るべき税を上納することが決定された。
この中で、住民が最後まで固執していたのが、自治に関する条項だった。中央から派遣された役人に統治されるよりは、この地で築き上げて来た長い伝統に基づき、住民たちの中から長を選び、頭に据える方がいい。この方式での自治が認められなければ、中央の提示する租税条件は飲む事が出来ないと主張して憚らなかった。
根気強く度重なる粘り強い交渉が持たれた結果、宮廷側が最終的には大国としての寛容さを見せることで、【ホールムスク】の自治を認めることとなったのだ。だが、その条件として、【ホールムスク】内で神殿の活動を認めること、そして中央との連絡の為に派遣する役人を常駐させることなどが決められた。
このような動乱期から時を経て今に至る。現在においてもその時のわだかまりは、この地に暮らす住人たちの意識の奥底に代々【忘れまじき記憶】として受け継がれ、ひっそりと眠っている。治外法権的自治権の強さも、時の国王ツァーリとこの街の長の力関係、友好関係の度合いによって天秤のように揺れ動くのだ。ここ20年余りは、先のノヴグラードとの戦争からの復興に国の意識が集約されていた為、中央と【ホールムスク】間には、比較的良好な関係が維持されていたのではないか――とそれがしは見ている。
以上のことをつらつら鑑みるに、長きに渡りこのように政治的に微妙な力学の上にある【ホールムスク】に赴任することになったということは、それだけ、裏を返せば、あの小倅、ユルスナールへの期待が大きかったといえるだろう。
中央と【ミール】との仲介者。宮殿としては、勿論、【ミール】への監視も兼ねている。
今回、あの小倅の責任はかなり重きものなのだ。その前の北の砦の時とは比べようがないほどに。あの北の辺境は、いつ現れるとも分からぬノヴグラードの息の掛かった斥候や国内の造反者、そして峻厳な山並みを挟んで向こう側の動向を探るのが、主な任務であったが、ここ【ホールムスク】では、常に見える形で相手がいる。それがこの港町の民。誇り高き海の民だ。
ここに暮らす民は、元々、遠い異国から船に乗って流れて来た海の男たちであったという。大きな船を作り、自由自在に舵を使い未知の土地を求めて冒険に出たとある部族の一派が、神々の祝福を受けし――要するに幸豊な――この地を発見し、定住した。そして巧みな航行技術とこれまで築き上げて来た様々な繋ぎを使い、この地で交易を始めたのだという。
遥か大海原の向こうから船を使って運ばれてくる遠き異国の珍しきものの数々。これらは陸路を通して、若しくは再び別便の海路を通じて、エルドシアの隅々にまで行き渡った。そしてその商隊や商人たちの移動と共に、この【ホールムスク】に暮らす民の名が広まって行った。彼らは自らを【海の男たち】、【マリャーク】と呼ぶ。魚を捕ることを得意とする漁師の男たちは【リィバーク】と呼んだりもする。
このような土地に新しく赴任する騎士団の連中、とくにその師団長である者は、独特の【洗礼】を受けると言われている。この地を治めるギルドの共同体である【ミール】の長に認められて初めて、この街に暮らし、軍事面での共同統治者として受け入れてもらえることになるからだ。彼らは、彼らなりのやり方で中央から派遣される男たちを見定めていた。
こうして派遣される騎士団は、宮殿の意向を受けつつも、商人たち、地元住民たちとの関係を円滑にしながら、この街の治安維持に努めなければならない。密航船の入港阻止や密輸品、禁制品の取り締まり、海賊や盗賊の取り締まりなどなど、その仕事は多岐に渡る。何よりも肝要なのは、住民の信頼を得られるかどうかだ。往々にして王都経由でやって来る兵士たちは海を見るのが初めてだ。船を使うのは、小舟といえどももってほか。そういう面は、街の男たちに頼ることになるのだ。自前の自警団、街の男たちを統べるのは、この共同体の長である。この頭に認められなければ、軍事・刑事的管理は非常に困難になる。
通常五年そこそこの任期で交代する騎士団の配置移動とは異なり、この港町だけは、その赴任の長さは臨機応変に変動した。この前に詰めていた第六師団は、10年近く、その前の第五師団は13年。其々の任期期間も師団長に限っては、2―3―5年、7―6年で交代している。これは明らかにギルドからの要請に基づいたものか、若しくは両者の関係悪化の為に軍部が譲歩をしなければならなかったことの表れであるのだが、中央はその事実を表だって認めはしないだろう。
さて。大体これで、この街の輪郭はおぼろげながらも捉えることができたであろうか。ふむ。諸君らは、それがしがやけに人の事情に通じていると思うておるな。この大地はなにも人だけのものではない。この地には、四足の獣も大空を羽ばたくものも、地を這う鼠も犬も猫も。そして少し森の中へと入れば、鹿や熊、狐、栗鼠、針鼠などなどの数多もの獣たちが暮らしている。それがしは自らが見た事柄や獣たちより聞いた事どもを常に頭の隅に留めておるということだ。我々獣たちは【人なるもの】と生き方の道を別ちてより久しいが、互いが同じ大地に暮らすもの同士、無関係、無関心ではいられないのだ。人の動向を絶えず心に留めて置くことは、我々の種の存続、生の存続にも繋がる。
我々ヴォルグは遥か昔、神々よりこの地に遣わされ、この世界の理を説き、人を含む数多もの生きとし生けるものの天秤たる役目を仰せつかった。それがしは、この世界の観察者であり、監察者でもあるのだ。
ふむ。大分話が逸れたのう。さて、どこまで話したか。おうおうそうであった。この港町【ホールムスク】に暮らす民の気質とその成り立ち、歴史的背景を語り終えた所であったな。要するにあの小倅を始めとする男たちは、目に見えぬ緊張感と猜疑心の糸が罠を掛けるように張り巡らされたこの地に入って来たという訳だ。前任者の第六師団の連中の後釜としてな。
明らかに新参者。特にあの小倅は、この国の貴族の中でもかなりの家柄の出であるから、ここの住人たちの態度は冷ややかだったと聞く。ユルスナールは軍部よりそのあたりのことをよくよく言い含められていたのだろうが、妻となった我が朋輩、リョウには戸惑うことも多かったのではなかろうか。当初は反発やら不信感やらから派生したいざこざが発生した。早い話が、先発した兵士たちと自警団の連中の鞘当てとか小競り合いと言う名の喧嘩だ。だが、その後起きたとある事件を境に両者の間のわだかまりは、それがしの目から見ても消えたように思う。なによりもこの街中に淀んでいたギスギスとした空気と独特の緊張感が薄まり、柔らかく温かなものが流れるようになったのだ。そして、この両者の間の緊迫した空気を解かすのにリョウという存在が大きく、まるで潤滑剤のように寄与したとそれがしは思わずにはいられない。
元々、この国の民ではないリョウの存在は、その者を妻とした師団長への評価へと繋がった。そして何よりもリョウ自身が、この街に術師としての生活を打ちたて、住人からの信頼を得たからだろう。術師として、この街のギルドである【ミール】に登録し、リョウは夫であるユルスナールとは異なる道を選び、自ら王都からやって来た人間には厳しい場所に飛び込んで行った。
それがしが思うにリョウの異国風の顔立ちは、ここでの暮らしに幸いしたのではなかろうか。この港には、遥か遠方より様々な物と人の交流があり、異国の商人たちも数多く流入するからだ。リョウの瞳と髪の色は、西国のキルメク風であると思われやすいが、エルドシアより海路で半年近くかけた遥か北方にあると聞く小国の民に顔の造作が似ていると自ら船であちこちを回って買い付けを行いながら旅をしている商人の男が、リョウにギルドで出会った時に口にしていたそうだ。
様々な民が入り混じるこの街は、通りを歩けば実に様々な言語が飛び交うことに気が付くだろう。肌の色も髪の色も目の色も、そして顔立ちも実に様々だ。間に入った通訳が大きく身ぶり手ぶりを交えながら交渉をしているのも見られる。この街は異国の民には寛容であった。商売をする人々は大抵得意先と近隣諸国の言葉に通じていた。宿屋も食堂も石屋も武器屋も雑貨屋も薬屋も。そして商人たちを取りまとめる各ギルド【ミール】も例外ではない。
【ホールムスク】に暮らす海の男たちは、その二の腕の上腕部分に彫物をしているのですぐに見分けがつく。その彫物は代々男たちの祖先から受け継がれている武勇の誉れであり、一族の紋様が彼らの祖先の古い言葉で刻まれているという。【マリャーク】や【リバーク】が使う言葉は、スタルゴラドの古語、古代エルドシア語を基礎に彼らが持ち込んだ母語が入り混じった独特の訛りに似たような強い癖があった。互いに理解はできるが、音や抑揚が大分異なるので、耳が慣れるまでに時間がかかるとか。それがしの場合は、言葉を【音】ではなく【念】で解するゆえ、その辺りの事情はしかとは分かりかねるが、そのようには聞いておる。
さてもさても。かようなる地にそれがしは、この幼きリューシェンカと残されたというわけだ。通いで家の手伝いをしてくれているフョークラ――恰幅の良い朗らかで豪胆な女だ――が戻って来る前に万事体勢を整えておかなければなるまい。それがしはリョウが子を成してよりこの家に度々顔を出してはおるが、それがしの存在は、それを知らぬ者どもには秘匿されておる。徒に人心を騒がせては具合が悪いという配慮の為である。これでも考えておるのだ。
ここは海からも程近く、港から続く緩やかな坂を上った一角にある。眺望は抜群ぞ。騎士団専用の宿舎が立ち並ぶ一角で、ここは師団長専用の屋敷……というには明らかに手狭な住居だが、簡素な石造りながらも丈夫さだけは折り紙つきの場所である。まぁ、北の砦と似たようなものと思えば理解が早かろう。
『ほれ、リューシャ、あれはなんぞ?』
「ん~?」
それがしが指示した方向に幼子の視線が向いた瞬間を逃さずに【人型】に変化した。変化する所だけは、幼子といえども見せてはならぬというのがそれがしの嗜みゆえ。
再び、顔を戻したリューシャは、人の形をとったそれがしを見て、瑠璃色の円らな瞳を目一杯に開き、
「あー!!」
となにやら不服そうな声を上げた。これまで度々、人から獣、獣から人に変わる所を見たいという幼子の希望をなんやかんやとかわしていたからだ。
「ずるい~!」
『はてな』
苦情を漏らす尖った口にそれがしは素知らぬふりをした。それから塩梅を確かめる為に首と肩を簡単に動かした。
準備運動終了。そして、幼子を人の腕に抱え上げた。
『で、リューシャよ。いかがいたすのだ?』
「うん?」
視界が高くなったことで気分が高揚したリューシャは、それがしの髪をむんずと掴み力任せに引っ張った。
『これ、痛いぞな。やめよ』
小さき若葉の如き手を外そうとすれば、なにやら興奮気味に体を左右に揺らした。仕方がないので、そのまま屋外に出ることにした。
部屋から一歩外に出れば、そこはちょうど裏庭になっており、水場と物干場があって、白いシーツやら子供の衣服やらが風を孕んでなびいていた。それがしが住まう森とくらぶればひ弱な部類ながらも木々が梢を伸ばし、少し先には小さな掘立小屋が設えられ、リョウが使う薬草の保管庫兼作業場のようになっている。そこで近隣の森や林より採取した薬草を選り分け、薬の精製作業を行うのだ。その隣には小さいながらも薬草園が作られていて――この半年余りでそこそこ見られるようにはなったかの――それがしも森から採取してきた草木を根付かせ成長を助長させるのに力を貸したものだ。
外に出ると眩しい程の光が目を射した。夏も終わりに近づいているが、スタルゴラド国内でもここは一年を通じて気温の高い場所である。吹く風には海から潮の匂いが混じる。そう言えばリョウは、『これだけ日差しが強いとすぐにしみだらけになっちゃうわね』と笑っていたか。
遠く眼下に望む海は青々と波立ち、星のような細やかな煌めきを眩いほどに反射させ、まるでその下で大きな虹色の鱗をもつ魚が群れをなして泳いでいるようであった。
「セェレェブロォ! 海! 【チャァイカ】!」
それがしの腕の中にいるリューシャは遥か向こうに見える海を指していた。
『ん? 海鳥か? あの姦しき』
「か…し…まし?」
『ああ。あの甲高き声でピーキーと鳴くからの』
「うりゅさい?」
『げに。騒がしい輩じゃな』
「ブコバルみたい?」
この子の父、あの小倅の相棒で同じ師団に所属する兵士である男の名が挙がり、それがしは眉を寄せて渋面を作った。
『あの男は良く来るのか?』
「あの……おとょこ?」
『ブコバルだ』
「うん! 【おにごっこ】するの。【とうぞくごっこ】も」
『盗賊ごっこ?』
なんだそれは。
「あのね、ぼくがね、とうさまみたいにわるい人をつかまえるの。でね、ブコバルはとうぞくなんだよ!」
ほほう、それは中々に面白きことを考えるではないか。あの大柄で下卑た男は、盗賊役にはぴったりだ。子ながらにその辺りのことは感付いておるのだな。
「セェレェブロォ、海!」
リューシャが急かすように体を揺すった。最近は、こうしてやたらと己のやりたきことを主張することが増えたように思う。
『分かった。分かったゆえ、ほれ、そう髪を掴むでない』
よく見ると先程まで土遊びをしていたのか、その両手は乾いた泥で真っ黒になっていた。むむむ。このままでもそれがしは構わぬのだが、リョウのやつは手を洗えと煩いからのう。不測の事態があっては敵わぬ。出掛ける前に水場で洗わせるか。そう結論付けたそれがしは目に入った水場へと向かった。
『ほれ、リューシャ、海へ行くのは分かったゆえ、その前にその泥を落とせ。いつもマーマから言われておろう?』
「あい!」
返事だけは頗る良い。それがしは抱いていたリューシャを地面に下ろした。すると小さな【シャーリク】は、水場へと一目散に駆けて行く。その途中で勢い余ってかべちゃりと転んだのだが、直ぐに起き上った。後から付いてくるそれがしのほうを振り返って見上げる故、もしや痛いと涙を流すのかと案じたのだが、
「だいじょうぶ、いたくないもん。へっちゃらだもん。ぼくは男の子だもん!」
声は半ば湿り気を帯びてはいたが、自らを鼓舞するように言葉を紡ぎ、自己暗示が掛かったのか、また水場へと走り出した。
水が出て来る樋の下に立ち、泥まみれになった小さな手を差し出すとそれがしを見上げた。
「セェレェブロォ!」
『ん?』
「お水、ちょーうだい!」
やれやれ。それがしに水を出せと言いやるか。人使いが荒いのう。それがしは、ものの数歩で傍まで辿りつくと背を屈み、水を出す青い注水石に【軽く】触れた――積りだった。
「うわぁああ!?」
その瞬間、何故か水が勢いよく吹き出して、幼子の全身を濡らすように掛かったではないか。
ああ。しまった。どうやら力の加減を違えたようだ。ついうっかり放出し過ぎてしまった。人型になると体内の力を獣の時よりも統制するのが常なのだが、その度合いを間違えてしまったようだ。人型になるのはほんに久し振りのことであったからのう。さしもの陽気に頭がぼけたようだ。
リューシャは驚きの声を上げたが、噴き出した水にキャッキャッと声を立てて笑った。子供というものは水遊びを好むものだ。手は綺麗になったが、顔から首から上半身に着たシャツは言うまでもなく、その下のズボンもぐっしょりと水が滴る程に濡れそぼっておる。
そのままそれがしの方に両手を広げて寄ろうとしたので、
『リューシャ、そこになおれ』
と止まるように言ったのだが、リューシャは制止を聞かずにそれがしの膝に抱きつき、衣の裾でがしがしと濡れた髪と顔を拭うように押しつけた。これではそれがしも濡れ鼠になるわいと危惧した故、内心、溜息を吐きたいのを堪えつつ片手を翳して風の精を勧請した。そして、このぐっしょりと濡れそぼった水分を飛ばしてもらった。
一陣の風が吹き、先程まで水を滴らせていた衣が瞬時に乾いた。ここに現れる風の精は、海からの潮がふんだんに含まれるので青に黄色が強く斑のように入り混じる。透かしのかかった羽を広げて舞う姿をリューシャはうっとりとして目で追っていた。
「わぁ、きれいな羽だねぇ」
『はは。そなたには視えるのか?』
円らな濃紺の瞳を零れんばかりに輝かせた。対する風の精もリューシャが気に入ったのか、戯れるように幼子の回りを一周すると恭しくお辞儀をしてから消えた。母親のリョウですら精霊たちの姿は淡い小さな光の玉のようなものでしか見えないと言っていた。この子は、もしかしなくとももっと多くの素養を持って生まれて来たのかもしれない。それがしとしては、理解者が増えることは好ましき限りだ。
『【ヌゥ】、【パシュリー】?』
「あい。【パシュリィイ~)】!」
仕切り直しをしてから、それがしはリューシャを腕に抱えて、のんびりと港を目指して歩くことになった。
この界隈は騎士団の連中や王都から派遣されている役人たちの居住区画なので、通りは広く常に閑散としており静かだ。この時間帯は、食糧などを積んだ荷車や軍関係の早馬が通る位だ。
少し坂を下れば、地元民の住まいが広がり、そのまた下には、店や露店などが立ち並ぶ賑やかな商業区画に出る。地元住民の住まう界隈は、天を見上げれば空を小さく切り取る石造りの建物の間、細い石畳の小路の隙間に荒縄が伝い、色とりどりの洗濯ものがぶら下がっていたり、小さなバルコニーには様々な種類の目にも鮮やかな花が植えられていたりする。
ここの住人たちは強い日差しの影響か、皆、日に焼けた飴色の艶やかな肌をしていた。中にはしみだらけの背中や肩を誇らしげに見せて歩く男たちや女たちの姿もある。王都から小さい山を一つ隔てただけで、この場所に暮らす民の様相は随分と異なるものなのだ。
「おーや、リュー坊、お出かけかい?」
「あい!」
「そうかいそうかい。いいねぇ。んまぁ、こりゃぁまたえらい男前を従えてるじゃぁないかい」
道々リューシャに前掛けを付けた立派な体格の女たちが、次々と声を掛けた。リューシャは一々、律義なまでに答えを返し、手を振って嬉しそうに笑みを振りまいていた。毎日のように港の端に設けられたギルド【ミール】が管轄する診療所に顔を出すリョウと共に息子のリューシャもすっかりこの地域の中に溶け込んでいるようだった。
街の女たちはリョウにとって初めてで不慣れな子育てについて色々と教えてもらえる有り難い先達たちで、リューシャはその髪と瞳の色の組み合わせの珍しさも相まってか、よく声を掛けられ可愛がってもらえるのだという。この地に赴任してきたばかりの時はどうなる事かと案じたものだが、一度、女たちに受け入れてもらい彼女たちを味方に付けてしまえば、心強いことこの上ない。この街を統べるのは男どもだが、その裏で侮れない影響力を持つ女たちの存在を忘れてはならないだろう。男は腹の探り合いを薄笑いの下で行うが、ここの女たちは、もっとあっけらかんと正直に感情を表に出す。裏表のない気質は晴れ渡った空のように心地が良い。
「あらぁ、リュー坊。こんにちは。リョウは一緒じゃないの?」
「マーマは、おしごとでしゅっ」
「あらそう。そう言えば、さっきセヴァートがものすっごい形相して駆けて行ったっけ?」
石畳の窄まった小路を歩いていた時、角の所でふいに窓が開いたかと思うと中から俗に言う【妖艶な美女】と思しき若い女が顔を覗かせた。
「で、その代わりに素敵なおにいさんと一緒なのね?」
―――――【プリヴェット】!
しなを作って甘ったるい匂いを振りまきながら立派な眉毛を真一文字に生やした女が、片目を瞑った。豊満な肉体を惜しげもなく晒し、女自身その効用をよく分かっている風だ。
それがしはその女子を一瞥してから視線を逸らした。かようなる女に関わっては碌なことにならぬとそれがしの本能が告げておる。
素知らぬ顔をしたそれがしを余所にリューシャと顔見知りと思しき女は会話を続けていた。
「港に行くの?」
「あい!」
「そう。そのおにいさんと一緒にね。いいわねぇ」
リューシャはなにやらニコニコと上機嫌で笑顔を振りまいている。先程からやたらと大安売りだ。愛想が良すぎるのではないか。しかも女ばかりを相手にして。幾ら幼子とは言え、かようにも女誑しでは先が思いやられるわ。
「リューシェンカ、お口、あーん」
「あ~ん」
一旦部屋の中に戻ったかに思われた女が、何やら小さな木で作った小物入れのようなものを手にやって来た。蓋を開けて、ほっそりとした指でなにやら丸みを帯びたものを摘むと、言われるままに大きく開けたリューシャの口に放ろうとする。
それがしは咄嗟に女の手首を反対側の手で掴んでいた。むやみやたらに訳の分らぬものを食し、腹を壊したとあっては一大事ゆえ。女は一瞬、ぎょっとした顔をしたのだが、ねっとりとした熟れた果物のような笑みをその瞳に覗かせてふっくらとした唇を窄めた。
「大丈夫よう、ただの【カンフェーティ】だから。ね? そんなに怖い顔をしなくてもいいじゃない」
『まことだな?』
「ええ、勿論。よかったらおにいさんにもあげるわよ? 甘くて美味しいのを」
『いらぬ』
その隙にリューシャは顔を自ら近づけて、その菓子をぱくんと口に入れてしまったではないか。
『これ! リュー!!』
「らいじょうぶらよ? おいひいよ?」
それがしが目を離した隙にもぐもぐと小さな口を動かしたとあっては仕方あるまい。それがしは、その【カンフェーティ】が普通の菓子と変わらぬことを祈るばかりだった。
『ほれ、リューシャ、何か忘れてはおらぬか?』
「ん~?」
それがしはすっかりこの幼子の守り役(教育係)になった気分だった。
『甘味をもらったのであろう?』
たとえそれが自ら欲したものでなくとも、ここで相手に口にすべき言葉があろうて。それがしを見たリューシャは、ふと神妙な顔をしてから一つ重々しく頷くと、その若き女を骨抜きにするような絶妙な笑みを見せた。
「リャーリャおねえちゃん、ありあとーございましゅ」
「いいえ、どういたしまして」
女の手が窓越しにつとしなやかに伸び、リューシャの黒髪を一撫でした後、福々しき頬を指先で突いた。そこで女が身悶えするように奇声を発した。
「あぁぁ、かっわいいわぁ、本当に食べちゃいたいくらい。リューシェンカは、大きくなったら絶対イイオトコになるわね。おねえさんが太鼓判押しちゃうんだから!」
なにやら身の危険を感じたそれがしは、そのままリューシャの頭を抱き締めようとする女から素早く身を引いた。そして、リューシャが女の毒に当てられる前に港へと向かうべく元の道へと急ごうとした。女は一瞬だけ白けた顔をしたものの直ぐに見かけ上、若き男であるそれがしにも色目を使った。
「ふふふ、おにいさんも、今度遊びに来てねぇ? 大歓迎するから」
その手には乗らんぞ。
去り際、伸びて来た腕に名残惜しそうに服の端を撫でられて、ぞわぞわと妙な感じに背筋を尻尾まで悪寒が駆け抜けたので、それがしは思いがけず脚を速めていた。リューシャはそれがしの首にかじりつくようにして後方に身を乗り出し、やたらと気前よく先程の女に向かって手を振っていた。
『リューシャ、ほれ、行くぞ。【チャーイキ】を見るのであろう?』
「【チャイカ】!」
もしかしなくともあそこは娼館かなにかか。それがしは幼子を抱えたまま道々考えた。見聞を広めることは大事だが、かようにも幼きうちからあのような香の匂いを嗅いでは、行く末が気がかりなことこの上ない。後でリョウに言って聞かせるか―――などとつらつら考えながら、元の道に戻ったのだが、元々当てのないそぞろ歩きのようなもの。港までは直線距離で350【サージェン】もあるかなきかの短き道程であったが、これが中々に進まぬものだった。
物売りの露店がひしめく小路はそれがしにとって最悪だった。香辛料、肉、魚、果物、野菜などなど、様々な匂いが入り混じり、嗅覚の発達したそれがしにはなんの地獄かと思ったものだ。ほんに鼻が曲がるかと思ったわ。あまりの刺激に目はしばしばと潤み始めておった。そして、この界隈でもこの幼子は顔が知られておって中々の人気者のようで、店番をする女たちや物売りの男たちに声を掛けられるのだ。それがしが渋面を作っていようがお構いなし。いや、寧ろそれがしの存在は目に入っておらぬのかも知れぬな。若き従者のような具合で。そして道々、『ほれ、この味見をしていけ』だの『食べてみろ』だの『これはいつも世話になっているからおまけだ』とか言って、果物から何やら何に使うか分からぬものどもをそれがしに『持て』と寄越すのだ。リューシャは嬉しそうにニコニコと、やたら『あい!』と気前のよい返事をぬかすものだから、気が付けば、それがしの右腕は――左にはリューシャを抱えておる――いつのまにやら風呂敷包みがぶら下がり、【ヤーブラキ】だの【グルーシ】だので一杯になっていた。
『道中急ぐ故、気持ちだけ有り難く頂戴致す』と辞退しようにも皆なんやかんやとかなり強引に子供向けの菓子やらを押しつけようとするのには、それがしはほとほと困り果てた。そして使用意図のてんでつかめぬガラクタのようなものまで押しつけられる始末。悪気がないというのがまた困ったことで。それだけ母親であるリョウが信頼され、この幼子が大事にされていることの裏返しなのだろうが、ものには限度がある。げに人間とは訳が分からぬと思うのはかような時じゃ。
ほうほうの体で尻の大きな女たちの間を抜けた先には、誘惑が狙い定めたように待ち構えていた。肉の串焼きを売る露店だった。少し臭みの強い【バラーニ】の肉を【マラコー】の発酵品である【ケフィール】に付け込んでから、【ソーリィ】と【ペーリェッツ】で味を付けてから串に刺してじっくりと火で焼いたものだ。げに旨きものだ。それがしも思わず唾を飲み込んだ。リューシャも漂う匂いに気になるのか、旨そうな肉汁を滴らせる串を物欲しげに見ていた。試みに一つこうてやりたいのは山々だが、それがしには生憎、通貨を持っておらぬ。後でリョウに頼めばよかろうと思うことにして、ここは堪えて通り過ぎようとしたのだが、もう何度目になるか分からぬ似たような台詞に呼び止められた。
「おう! こいつぁルー坊じゃねぇか。どうした、え? 散歩か?」
上半身は【マイカ】一枚。浅黒い肌を気前よく晒し、二の腕には魚と波を意匠にした細かい彫物のある屈強な男が声を掛けてきた。
「こんにちは!」
リューシャは元気よく挨拶を返した後、
「うんとねぇ、【チャイカ】!」
と白い海鳥を見に港へと向かう途中であることを誇らしげに語った。
「へぇ、そいつは良かったな」
男はそう言って白い歯を見せて笑った後、ふいにそれがしを横目に見て、ひゅうと口笛を吹いた。
「わぁお! ぶったまげたぜ。坊、今日はすっげぇのを従えてんじゃねぇか。こちとらぁ目が潰れるかと思ったぜぇ?」
なにやら眩しきものを見るように片手を上げて――その仕草はもしかしなくてもおちょくるようなものであった――こちらを透かし見た若造に、それがしは冷ややかな視線で応対した。
それがしが余りに美男子すぎるとな。ふん、それがしの見てくれに囚われるようでは大した男ではないの。
「んだよ、冗談だよ。冗談に決まってんじゃねぇか。んなおっかねぇ顔すんなって」
それがしの機嫌を感じ取ったのか、男はへらりと軟弱な笑みを刷いた。その間、リューシャはそれがしの腕の中から身を乗り出すようにして肉汁の滴る串を見ていた。涎が垂れそうな顔――いや、良く見ればその口元には唾液が垂れて線を作っていた。
それに若い男が気付いた。
「お? なんでぇ坊、食いてぇのか?」
それがしは、慌てて一歩男の屋台から距離を取った。繰り返すがそれがしは貨幣を持っておらぬゆえ。
『ほれ、行くぞ』
「うううぅ」
「ほら、どうだ?」
差し出された一串をそれがしは丁重に辞退した。
『構わぬ。生憎持ち合せがないのでな』
すると男はからりとした笑みを浮かべて豪快に笑った。
「んぁ? いいってこんくれぇはよぉ、坊んとこにゃぁうちの親爺がいっつも世話になってっからよ」
ここでも幾度となく繰り返されて来た台詞を耳にした。
「ほら、坊、うんめぇぞ?」
鼻先に肉を寄せられて、リューシャはゴクリと唾を飲み込んだ。
はて、リューシャのような幼子はかような肉を食べ付けているものだろうかという疑問が掠めたのだが、そんなことに気を取られている内にまたもやリューシャは口を開けてぱくりと食い付いてしまった。
「おう、いい食いっぷりだ」
暫し懸命に小さき口を動かしていたかと思うと急に深き海のような瞳を輝かせて、体を上下左右にめちゃくちゃに動かし始めた。
なんだなんだ、一体何がどうしたというのだ。落とさぬように慌てて腕に力を入れると、男が笑ってその一連の動作の解説を打った。
「そうかいそうかい。そんなにうんめぇか。気に入ってくれて俺も嬉しいぜ。リョウによろしく言ってくれよ」
「あい! ありあとーございまちゅ!」
ごくんと飲み下した後、リューシャも上機嫌に笑った。
それがしは、これまでの行動から、ふと幼子を見下ろした。
『リューシャ、そなた、腹が減っておるのか?』
「ん~? わかんない」
リューシャは己が腹に小さな手を当てて、考えるように小首を傾げた。ということは空腹を覚えている訳ではないのだろう。かといって、差し出されたものはつい食べてしまうということか。なにやら食い意地が張っているようだ。
結局は、その男から肉を一串もらってしまった。肉片は五つ付いていた。リューシャはもう一つ食べた後は、もう要らぬと首を振る。やれやれ。それがしは左の腕にリューシャを抱え、右の腕に何やら訳の分らぬ貢物の入った風呂敷包みを引っ掛け、そして手には肉が三切れついた串を持っていた。なんとも珍妙な塩梅だ。
それがしは肉の付いた塊三つを一息に口の中に放った。雄々しくな。うむ。中々に美味じゃのう。塩味がよく効いておる。臭みもない。丁寧に処理をしておるようだ。そして残った串の残骸をどうしようかと逡巡した後、風呂敷の中に押し込んだ。
それからまた、方々から掛かる声に応対しながら、やっとの思いで港に到着した。げにここまで来るのは長かったぞ。前は青い海原、広場のように視界が開けた場所には、大小様々な形の船が停泊し、荷降ろしをしたり、荷を積み込んだりしている【マイカ】一枚、もしくは上半身裸の男たちが忙しそうに立ち働いていた。帳面を片手に積み荷の確認や、作業をしている男たちに向かって指示を出している親方の姿もあった。そして身なりの良い、いかにも羽振りのよさそうな商人たちの姿も散見された。その姿形も異国風だったりと様々だ。
大きな木組の船が白い帆を畳んでずらりと並ぶのとは反対側には、小振りの桟橋が設けられている場所があって、そこには小さな船がもやって、漁から帰って来た海の男【リバーク】たちが網の手入れや漁具の手入れなどを行っていた。その向こう側では、女たちが魚の選別をしている。直ぐそばには魚を買い付ける商人が立ち、帳面片手に交渉をしていた。そして売れ残った魚や売り物にならない小魚などを女たちが集め、分けあい、その小さな魚を狙って白い海鳥どもが甲高い声を上げ、飛び交っていた。
それがしはリューシャを地面に下ろした。もううずうずとしていたのだ。すると【チャイカ】どもに向かって突進して行った。先程からちらほらとこちらを窺っている海鳥ども。あやつらは、中々に気性荒きことで有名でやたらと好戦的な種族だ。そして何よりも賢しい。口が悪いことでも知られている。海の【盗賊】とも言われておる。それがしはリューシャに妙なちょっかいを出さないようにと牽制をした。あの鋭き嘴で気に食わぬとかで突かれては敵わぬからな。
一目散に走って行ったリューシャに端で小魚を突いていた【チャイカ】どもは悠々と己が食事を堪能していた。ちらりと横目に幼き闖入者を見やる。そしてツンと澄ましたように気取った足取りで脇にちょいと避けた。
次のような会話が聞こえてきた。先に断っておくが、やくざな口を聞くのが海鳥どもだ。まぁ、これは違えようがない。
『なんでぇ、まぁたおめぇかよ。チョロチョロしやがって』
『何しに来やがった? あ?』
こういった塩梅で剣呑な口を聞く【チャイカ】にリューシャは臆した様子を見せなかった。
「見に来たの! なに食べてるの? おいちいの?」
『ふん、おめぇにゃやんねぇよ』
『ああ、とっととあっちへ行きな』
「うん? いらないよ? だってぼくさっきおいしいの食べたもん。おにく」
『ああ? 肉だとぉ?』
「うん」
『ふん、おめぇ、だからか、獣くせぇのは』
『さっきからなにやらくっせぇ匂いがするって思ってたぜ』
『こいつ獣くせぇぞ』
『ああ、こいつはぁ本当だ』
からかうように他の海鳥どもも寄って来て騒ぎ立て、リューシャは、不思議そうな顔をして、自分の体に鼻先を寄せてクンクンと匂いを嗅いだ。
「ぼく…くさいの? おにくのにおい? ぷんぷん?」
『ああ、獣の匂いがぷんぷんするぜぇ?』
「ふーん?」
リューシャは海鳥どもの言葉――かなり訛りが強く荒々しいものだ――を正確に理解しておるようだ。だが、あやつらの言葉を真似られては敵わんな。まるで人で言う所の盗賊や山賊みたいだからの。下品極まりない。
そこで、不意にリューシャが真っ青な空を見上げた。
「ねぇ、お空を飛ぶって、どんな感じ?」
『ああ? なんでぇ藪から棒によ』
『口にはできねぇな』
『気分爽快だぜ』
『風を捕まえるんだぜ』
『ああ、風に乗るんだ』
『高く上がりゃぁ、おめぇなんぞ砂粒みてぇになる』
『ちいせぇ鼻くそみてぇなもんだ』
「ふーん」
それから示し合せたように一斉に飛び立って、抜けるように青い空を旋回し始めた白き羽をリューシャは感嘆と憧憬の入り混じった瞳で見つめていた。
「ねぇ、セェレェブロォ」
傍によったそれがしの衣を小さな手が掴んだ。
「ぼくも大きくなったら飛べるかなぁ?」
―――――【チャイカ】みたいに。
それがしを見上げた瞳は真っ直ぐで、直視するには眩しき程に輝いていた。何故かは分からぬ。だが、それがしはそれを見ていられなくて、幼子の手を掴むと同じように空を透かし見た。穢れを知らぬ瞳は、それがしには強過ぎるのかもしれぬ。
それがしは、重々しく幼子には酷かもしれぬ、だが、変わることのなき理を説いた。
『リューシャ、そなたには翼がない』
「つばさがないと飛べないの?」
『そうさな』
「じゃぁ、どうしたらつばさが生えるの? ぼくのせなか?」
リューシャは首を回して自分の背中を見ようとした。
『うぬが背に翼は生えぬ』
「じゃぁ、だめなんだ」
しょんぼりとした声をそれがしは宥めるように言葉を継いだ。
『ああ。だが、それがしも飛べぬ』
「セェレェブロォも?」
『ああ。風のように早く駆けることはできるがな。空は飛べぬのだ』
「うん」
『だが、そなたを我が背に乗せて風と戯れることは出来るぞ』
「うん」
ふわりふわりと船の帆が風に煽られて張るように撓んだ海鳥たちの翼が弧を描いた。風は遥か南方より遠い異国の匂いを運んできた。
それから、また女たちが桟橋で編んだ籠を洗っている所に【チャイカ】どもが降り立ったので、リューシャの足も自然、そちらに向かった。小魚のおこぼれをもらおうとする魂胆なのだろう。【チャイカ】たちは女どもの大きな尻の回りをウロウロとしていた。そのまま下手をしたら踏まれてしまいそうな気がするが――それはそれで爽快だ――海鳥どもは器用に針金のような足で移動していた。そこにタタタタとリューシャが走り寄った。
「こんにちはぁ!」
大きな声で挨拶をしたリューシャに作業をしていた女たちは手を止めて、頭に被った【プラトーク】越しに振り返った。
小さな黒髪を持つ幼子を見た途端、女たちは相好を崩した。
「おや、リュー坊じゃないかい。マーマのお迎えかい?」
「ん~? 【チャイカ】!」
「おやおや、このちんまい小うるさいのを見に来たってのかい?」
「うん」
「一人でかい?」
「ううん。セェレェブロォと一緒!」
そう満面の笑みで言い放つとそれがしの方を振り返り、小さな拳を突き上げた。それがしは『分かっておる』と小さく頷いてみせる。そして、女たちの視線もそれがしの方を向いたと思ったら、急になにやら姦しくなった。
「あらぁ、見ない顔だねぇ。新入りかい?」
「なんだいなんだいえらい男前が来たじゃないかい」
「兵士かい? いや兵士ってぇいうよりも学者みたような感じだねぇ」
子を三人は産んで、その内の一人は確実に成人しているような威勢のよい女たちばかり。日に焼けた肌に丸みを帯びた頬。そのなんとも言えないぎらついた瞳に、それがしは妙な塩梅に肌が総毛だった気がした。右の手に抱えていた風呂敷包みが、やたらと重みを増したのは気の所為ではないのだろう。
次に起きたことは本当に予期せぬことであった。そして、この時ほど胆の冷えたこともない。
リューシャは再び【チャイカ】どもの間に入り混じり、なにやら話をしていたかと思うと一羽を皮切りに勢いよく飛び立った海鳥どもの後を追いかけるように桟橋の上を走りだし、そのまま両手を広げたかと思うと空に向かって飛び立った。
バシャーンと叩きつけるような水音がして、偶々向こう岸にいた男が大きな声を上げた。
「おーい! ガキが落っこちたぞ!」
『リューシャ!!』
ぎょっとしたそれがしは桟橋へと走った。【チャイカ】どもが『俺のせぇじゃねぇ!』とか、『あんの馬鹿』などと騒ぎ立てる中、手にしていた包みを頬り投げると、そのまま海の中に飛び込んだ。
それがしは元の姿に一瞬で変化し、水中でばたばたと手足を動かしていたリューシャを見つけると口に銜えた。幸い深みにはまってはいなかった。そして桟橋へと上がる直前に水しぶきに紛れて人の姿に戻った。
桟橋に這い上がったそれがしに周りにいた女たちが目を丸くしていた。
「大丈夫かい?」
「おやまぁ、あたしゃ心臓が止まるかと思ったよ」
「一体、どうしたってんだい?」
「リュー坊?」
リューシャはびっくりしたような顔をして、けほけほと飲み込んだ水を吐き出した。そして暫く咳き込んだ後、わんわわんわと泣き出した。
一体、何がどうしてこうなったのやら。それがしは訳が分からずに途方に暮れた気分になったが、大方【チャイカ】どもがなにやら良からぬことを吹き込んだのではなかろうかと当たりを付けた。
「うぇーん、しょっぱいぃぃ。目がチクチクするぅ」
それは同感じゃな。海がかようにも塩辛きものであることは余りにも久し振り過ぎてうっかり失念しておったわ。
『リューシャ、大事ないか?』
べったりと顔にはりついた髪を後ろに撫で付けて幼子の状態をざっと改める。
「セェレェブロォ~」
情けない声を出したかと思うとびしょぬれのまま同じく濡れそぼったそれがしに抱きついてきた。うむ。このくらいの元気が残っておるならば大事ないか。それにしても潮で体中がべとべとする。これには閉口する。
「ああ。たまげたよ。大丈夫かい。兄さんも?」
別の女たちが寄って来た。
『うむ』
「おやまぁ、すっかりずぶぬれじゃないかい」
「今、診療所へ使いをやったよ」
その言葉通り、間もなく、港の区画内、街との境界付近にあるギルド【ミール】の診療所からリョウが血相変えて飛んで来た。
「リューシャ! 大丈夫? セレブロ?」
母親の顔を見た途端、幼子は安堵したのか、余計にわんわんと泣きだした。リョウは目を白黒させながらも己が息子を濡れるのも構わずにその胸に抱きかかえた。
『リョウ、相済まぬ』
リョウは、桟橋での惨状を見て、何が起きたのか事情を察したようだ。それがしのうらぶれた姿を見て、珍しいものを見るように笑った。
「あらあら、セレブロもびっしょり。リューシャ、海水を飲んだのね? 泳ぎたかったの? お魚さんみたいに?」
「【チャイカ】どもと何やら話をしていたのまでは把握しておったが」
そう言ったそれがしになにやら思い当たる節があるのかリョウは苦笑を漏らした。
「もう仕方がないなぁ。リューシャはきっと【チャイカ】の真似をして自分から飛び込んだのね。翼がないから飛べないのよって言ってもいつか生えて来るって思っているみたいなんだもの」
それからそれがしの傍ににじり寄って膝を着くと水でぐっしょりになったそれがしの髪を後ろに撫で付けるようにした。
「もうセレブロまでびっしょり。でもリューシャを助けてくれてありがとう。本当にこの子ったら怖いもの知らずなんだから」
―――――でもこれで少しは懲りたかしらね。
そう言って立ち上がると『今度はちゃんと泳げるように訓練させておかないと駄目ね』などと動揺の欠片も見せずにからりと笑った。げに母親は強しか。リョウも胆が据わったものよ。
それから。
「塩水がべとべとするから気持ち悪いでしょう?」
リョウの勧めでそれがしとリューシャはリョウが常駐する診療所の水場を借りることになった。大きな盥と桶で、塩分を落とす為に水を被った。リューシャの方は、盥に酌んだ水をリョウが発熱石を使って温めて、湯にしてから息子の服を脱がせて体と服を洗った。それがしは面倒だったので服の上から水をしこたま被り、風の精霊に頼んで瞬時に水分を飛ばしてもらった。
その一連の様子を見て、
「本当にいつ見ても不思議だわ」
リョウは感心したように笑った。疲れたのか、ほっと安心したのか、リューシャは母親の腕の中でぐったりと既に夢の住人になっていた。
「おーい、リョウ」
診療所の入り口に若い男が立っていた。
「なんか忘れもん……ってか? ちっせぇ風呂敷包みがあってよ。あっちの女たちに聞いたら、そのにいさんが持ってたって言いやがってよ」
見れば、そこに立っていたのは丘の上の屋敷へリョウを呼びに来た男だった。同じように二の腕にびっしりと船と波と守り神【アソーリ】を模した紋様が彫り込まれていた。その腕に小さなひしゃげた風呂敷包みがぶら下がっていた。
もしかしなくとも、それがしには見覚えがあった。港までの道々、方々から渡された【貢物】が詰まった袋だ。男がひょいと包みを上げた拍子に包んでいた風呂敷の形が大きく歪んで、ごろりと橙色の【アペリシーン】が転がった。
『ああ』
それがしは気の抜けた声を出していたと思う。
「セレブロ、心当たりがあるの?」
問い掛けるような眼差しでこちらをみたリョウにそれがしは肩を竦めた。
『リューシャへの付け届けだ』
【貢物】という言葉が喉元まで出かかったが、口にするのは止めた。
『あの通りを歩くのは中々に難儀であったぞ。一歩進めば、こなたで止められ、また一歩歩けば、あなたで足止めくう』
事の次第を明かせば、リョウは少し困惑気味に眉を下げたあと、
「仕方がないなぁ」
と軽やかに、どこか嬉しそうに笑った。
「セヴァート、ありがとう。どうもリューシャのものみたい」
リョウが声を掛ければ男が中に入って来た。
「あ? そうか、ならこっちへ置いとくぜ?」
それがしは立ち上がると男よりひしゃげた風呂敷包みを受け取った。
「ええ。ありがとう」
「いいってことよ。じゃな」
そう言って厳つい見かけの割に気のいい男が去って行った。
それがしは簡素な木のテーブルの上に風呂敷鼓を置いた。その間、リョウはリューシャに新しい服――間に合わせの寝間着のようなものだ――を着せ、患者を診る為に置かれた寝台の上に寝かせた。
「で、何をもらってきたの?」
包みを解き始めたそれがしの手元を興味津々でリョウが覗きこんだ。顔が今にも笑いそうになっている。
荒く編んだずた袋のような生地――市場で商人どもがつかっているやつだ――の中から出てきたものは、瑞々しい果物が幾つかと藁で作った人形【サロミンカ】の玩具。幼子向けの菓子。小さな木彫りの器と匙。そして、それがしとリューシャが食した串焼きの串だった。
小さな木彫りの器を手に取った所で、それがしの袂からなにやらピチピチと音がして、長い袖を放って見たら、そこから勢いよく小魚が数匹飛び出した。
『!?』
「え?」
突然のことで目を丸くしたそれがしとリョウの前で、その小さな魚は、リョウが手にしていた木彫りの器の中に飛び込むと、ぴちゃんという跳ねる音と共に弾けるように消えた。
リョウが手にした木彫りの器が小さく発光した。そして何もないはずの表面に小魚が青い海を背に悠々と泳ぐ映像が映し出されたかと思うと、そこに魚の絵が描かれていた。
単なる木彫りの器と匙に青い海原を泳ぐ魚の絵柄が彩色されていた。
リョウは突然のことに吃驚したのか、目を瞬かせてから呆けたように口にした。
「今の……セレブロが?」
『いや。それがしではない』
なんだ? 水の精の悪戯か? それにしては手が込んでいる。
「へ?」
そうして束の間、二人して不可解な顔をしたまま見つめ合い、手の内にある綺麗な色が付いた器と匙をまじまじと見た。
器の中に描かれた小さな魚と目が合った。するとその小魚は尾びれを揺らしてすいすいと小さな海原を泳いだかと思うと再び、単なる絵つけされた魚の絵に戻った。
『まぁ、よい。これも何かの縁だろうて』
「ふふふ。そうかもね」
そう結論付けたそれがしに、リョウも小さく頷いた。この世界にはまだまだ不可思議なことがある。リョウもそれがしもその事を重々承知していた。
「リューシャが起きたら、話してあげようかしら。きっと吃驚するかもしれないわね」
幼子が眠る小さな寝台を見て、リョウは悪戯っぽく笑った。
『ああ。それもよかろう』
きっとその器と匙を握り締めて、飽くことなく眺めるのだろう。
それがしも存外穏やかな気分で頷き返したのだった。
それから宿舎に戻ると言ったリョウと連れだって、それがしは眠りに就いたままのリューシャを腕に抱え、来た道を引き返した。リョウは出会った住人達にリューシャが世話になったと声を掛けて回った。行きとは違い、こちらは順当だった。それを心地よく思う半面、どこか物足りなく思う気持ちもあり、それがしは心のどこかで、未知を孕んだ幼子との道行きを愉しんでいたらしいことを知った。
だが、この気持ちは、一人、それがしの内に秘めることにした。でなくては、リョウのやつに今後もお守を頼まれることになりかねないからな。うむ。
それがしは己が腕の中で安堵したように眠る福々しい頬を突いた。
―――――この子に神の祝福を。
「セレブロ?」
不意に振り返ったリョウになんでもないと頷き返す。そして、それがしは、緩やかに上る坂の上にある騎士団の宿舎を仰ぎ見た。この時、それがしは口元に薄らと笑みを刷いていたと、後日リョウが話していた。
さてさて。最初はどうなることかと思われたそれがしのお守りは、こうして予想外の珍事と共に幕を閉じたのであった。
いかがであったかな、諸君。まぁ、諸君らの期待に添えたかは分からぬが、かようにもそれがしの日常は、彩り豊かに、小さな発見や驚きが詰まっている。かようなる人生も悪くはなかろうて。そう思える程にはそれがしはリョウたちの生活に毒されておるのかもしれぬな。
では、また、機会があらば、あいまみえようぞ!
―完―
お付き合いいただきありがとうございました。「セレブロ視点で、リョウの子供と戯れて振り回される(?)長様の話」というリクエストを頂きました。大変遅くなりましたが、リクエストを下さいましたsezou さまに捧げます。
いや、本当に。このまま第二部と称して「Messenger」の続編を書きたくなってしまいました。本編終了時点で、この港町ホールムスクでの話を書きたいなぁとずっと思っていたのですが、ここで少し小出しに出来た形になりました。
でも、このまま始めるとまた行き当たりばったりで大変なことになるかと思うので、もう少し温めてある程度形に出来たら掲載するという形にしたいと思います。まだまだブコバルの話も書いてないですしね。色々と書きたいエピソードはあれど、中々筆が進まず、己が集中力の無さが恨めしい限り。
未消化リクエストもまだ残っておりますので、先にそちらに専念したいと思います。
ではまた。次回にお会いいたしましょう! ありがとうございました。