表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/11

5)黒を贖う為の純真 白を裏切る為の陰影

大変ご無沙汰いたしております。今回は「Messenger」でやり残していた個人的な宿題を一つ。完全に作者であるkagonosuke の為の小品(残している二つのけじめの一つ)です。これまでのような面白みはないかとは思いますが、よろしければお付き合いください。


 天井の高い青白んだ石造りの廊下を静々と歩く男が一人。この場所に暮らす神官たちと同様、丈の長い真っ白な上着に白いズボンを合わせている。足元はサンダルのように平たい布張りの靴。腰を分断するように一重半してから垂れ下がるたっぷりとした紫紺の帯が、男の緩慢でやや不規則に上下する歩みに合わせて呑気に揺れていた。

 男は黙々と廊下を歩いていた。静かだった。冷たい静寂に飲み込まれてしまったような沈黙。擦り足気味の男の靴底がそこを歩くことで磨き上げられた硬い石に当たる音が、拍子を取るように微かに響く。

 その時、一陣の強い風が白い回廊を吹き抜けた。歩く男の背に真正面からぶつかり、その瞬間二手に分かれ、そしてまた一つの流れに戻る。真っ白な長い袖が片方だけ、煽られるように上空へと舞い上がり、ぱたりと元の位置に収まった。空高く飛び立とうと羽を大きくはばたたかせた鳥が、不意に己が足に繋がれた枷に気が付いて、その自由を封じられたかのように……。

 男が歩く度に萎んだままの左側の袖が、ふらりふわりと揺らいだ。その反対側、男の右側には、細い枯れ枝のような腕があった。神官たちの身に着ける装束は、往々にして袖が長く作られている。平素は手を表に出さないようにする為であった。同じように男の右の手もその爪先まで白い柔らかな生地で覆われているが、時折、吹き寄せる風が悪戯を仕掛けることで、まるでそこにある重大な秘密を人知れず知ら示すかのように、干からびた梢の切れ端と見紛う男の指先を覗かせた。


 男は静かに伏し目がちに廊下を歩いていたのだが、ふと風に靡く己が左袖の軌道を目の端で追っていた。男の左腕は、肩の付け根から下が失われていた。

 男は、顔を伏せたまま微かに眉を寄せた。落ち窪んだ瞳を囲む眦には幾重にも細かい皺が刻まれている。男には腕のちょうど肘の部分が酷く疼くような気がして仕方がなかった。だが、実際に痛みを訴えているはずの腕は既にそこにはない。そこにあるのは、何もない、すかすかの空間だけ。かつてそこに骨を包んだ肌色が生きていたことを忘れさせないようにするためにか、失われたはずの腕が記憶の中で男に呼び掛ける―――覚えていてくれ。かつて私がその一部であったことを。男には、そう繰り返されているような気がした。

 ぶす黒い紫色の斑と共に壊死が進み、まるで悪しき呪いがその場にまとわりついて離れないかのように、男の腕は、ある日突然、ぼとりと落ちたのだ。それは譬えるならば、子供の乳歯が抜けるような感覚に似ていた。呆気なく男の一部であることを放棄したかのような落下。だが、その次の瞬間、強烈な痛みが襲い、男はその場に崩れ落ちた。

 それは、朝の祈祷の最中だった。朝靄が薄らと立ち込める広々とした祈りの間に行儀よく並んだ神官たちの白い衣の間。祈りの文言を紡ぐ無数の低い唱和の最中に沈黙を打ち破る大きな音が響いたのだ。額に脂汗を滲ませて昏倒した男に気が付いた仲間の神官たちは、男を救護所に運び込み、状況を確認すると手当を施した。仲間の神官たちに担がれて男が去った跡には、赤黒く染まった骨ばかりのかつて腕として機能していたはずの肉の塊が忘れ去られた残骸のように落ちていた。それをまた別の神官が白い布で包み、何事もなかったかのように持ち出した。

 男は幸い一命を取り留めたが、失くした左腕は勿論のこと、左側半身には麻痺が残った。




 時はちょうど宮殿から神殿に対する処罰が正式に決定され、全ての事態が収束したかに思えた矢先のことだった。この国の王・ツァーリがその位を引き継ぐ際、悠久の時を生きるとされている庶民にとっては神聖で伝説の獣である気高き【ヴォルグ】の長と誓詞を交わすのだが、それは人がこの世に人としてある為に続く古くからの約定であるとされていた。

 その約定の文言に抵触する事態が宮殿内で起きたのだ。陰謀渦巻く政治の場、即ち宮殿内できな臭い騒動が起きるのは今に始まったことではないが、今回はそこに巻き添えを食ってしまった相手が頗る悪かった。戴冠式から17年振りに、そして恐らく一般の人々にとっては数百年振りにヴォルグの長が目に見える形で着飾った貴族たちが大勢集まる広間内に降り立ち、その激しい怒りで人々を震撼させたのだ。というのも標的にされた人物が長の情けを受けた同胞(はらから)であったから。ヴォルグは仲間意識が強いとされている。約定の中にも【徒に同胞(はらから)を傷つけることなかれ】という文言があった。遥か神代よりこの世に生を受け、天の理を説く世界の天秤とされる森の長の怒りは、人にとって神罰に等しかった。

 宮殿の貴族たちと共謀し、禁忌に手を染めた神官たちには、その場で神より鉄槌が下された。神官たちが信仰する豊穣と命運を司る女神リュークスは単に慈悲深いだけでなく、時に苛烈で人間にとっては残酷なまでに容赦がない一面を持っていた。人を依り代に神を降臨させようという試みは、神を冒涜する余りにも僭越な行いだった。禁忌を犯した神官たちの中でもその勧請の儀式に直接手を貸し、関わった高位の者たちは、事件発覚後速やかに拘束され、留め置かれた牢屋内で二日も経たないうちに死亡した。その形相は目を背けたくなる程の酷い有り様で、人としてはとてもじゃないがまともな死に方とは言えなかったというのが、後日牢屋番の兵士が密かに同僚に漏らした言葉の中に残っている。独断で儀式を敢行したという首謀者とされた神官は、捕縛後、牢へ移送される前に死亡した。雷を司る神【ペールン】の(いかずち)の矢が、その体を貫き、瞬時に灰にしたのだという。

 祝賀会開催中に起きたこの騒動については、直ぐに宮殿内に厳しい緘口令が敷かれた。この件に関わった一握りの者たち以外、その真実を知る者はいない。事はこの国を統治する(ツァーリ)と彼ら一族の存続に関わる重大な事態であるが故に、きつく秘められたのだ。そして、宮殿内ではこれらの一件はまるでなかったかのように―――忘れ去られた。賢しい貴族連中は、皆、口を噤んだ。要らぬ火の粉を被らぬようにと。誰もが我が身が可愛いという訳だ。


 この件に関して、左腕を失くした男は、白でもなく黒でもなく、限りない黒に近い灰色―――言うなれば疑惑の場所―――に立っていたというのが周囲の人々の認識だった。本人は当然のことながら、関わりを完全否定している。儀式へは直接関わりを持たなかったが、太い繋がりを持つ宮殿の貴族たちの間を闇に紛れて飛び回り、毒の付いた鱗粉を散らして行った。宮殿側から派遣された事態解明の為の監察官の目を持ち前の用心深さと抜け目の無さを発揮して男は容易く掻い潜った。神殿の神官たちを統べる神官長は、捕らえられた神官たち(ようするに身内)の処遇を宮殿側に委ねることで、表だって厳しい追及をしようとはしなかった。宗教者たちを貫く独特な論理感が、そこには蔓延っていたからだ。【全てはリュークスの御心のままに】―――それは単なる祈りの文言ではなく、神殿内の一種独特な戒律であった。

 こうして宮殿と神殿に巣食う深い闇の間をまるで発光石に群がる蛾のように静かに飛び回っていた男は、これまで宮殿からの処罰を免れていたのだが、慈悲深く苛烈な運命の女神は、そこに例外を認めなかった。

 因果関係はしかとは分からなかったが、そのことによってこの男が黒であることが判明したと周りにいた同僚たちは噂した。だが、それを表だって声に出すものはいなかった。この件に関する公の処罰は済んでいたからだ。だが、これは天罰に違いない。天上の神はちゃんと我々の行いを見ているのだ。片腕を失った仲間が誰であるか判明した時、残された神官たちは皆、顔色を赤くしたり青くしながら、そのようなことを密かに囁き合った。

 その反面、当の男自身は、周囲の噂や視線を全く気にかけていないようだった。失くしたはずの左腕が思い出したように疼く。左半身の感覚は鈍くなったが、男はこの白亜の城砦に暮らす誰よりも確実にこの世界を【生きて】いた。それは干からびた小枝のような外見をしていようとも、ギラギラと光る瞳と艶を刷いた下唇に表れていた。

 その証拠に男の足は、ゆっくりと神殿の回廊を抜けた後、宮殿の区画に入った。そして、とある重苦しい扉の中にその身を音もなく滑り込ませた。

「ごきげんよう、アファナーシエフ殿」

 かさついた喉の奥から漏れ聞こえるのは上機嫌な男の声。そこには諦めも哀しみもない。

 この男の日常は、今も昔も大して変わっていはいない。



 * * * * *



 あの忌まわしき事件から数カ月の時が流れていた。頬に薄らとそばかすの残る青年は、他の神官たちと同じように祈りの間に静かに(ひざまず)き、信仰する女神リュークスと向き合っていた。

 神殿の朝は早い。日の出と共にこの白亜の城塞での一日は動き出す。神官たちが俗世にまどろむ居住区画では、東の空がようやく白み始めた頃合いには、もう虫の羽音のような低いざわめきが漏れ出し、朝の清冽な空気を震わせていた。


 第一の祈りの刻限を知らせる鐘の音は、少し前に鳴り響いたばかりであった。王都スタリーツァの中でも宮殿の東側、この街を一望できる高台に築かれたこの白亜の建造物は、その大きさもさることながら、堅牢かつ優美な曲線を持つ建物群の集合体であった。まるで丘の上に立つ小さな城塞のようだ。大きな鐘が尖塔に付けられていて、長く伸びた縄を引くことで鐘を鳴らす。これは専ら神殿内で祈りの時を知らせる為の仕組みだったが、風に乗って遥か下方の街中にまで届き、人々の生活にメリハリを与える基準になっていた。


 年が変わり、この春、一つ階級が上がった青年の腰に締める帯の色は、最下位の赤から次の位の橙色になった。だからと言って、末席に連なる若き神官の日常がそう変わるものではなかった。これまでと同じようにその週の大半は、街中にある神殿管轄の治療院に詰め、本来の神殿の精神である慈善事業の一環として貧しい人々や訳ありの人々に治療を施していた。

 市中における青年の術師としての顔とその仕事ぶりは変わってはいない。だが、青年が日々寝起きし、神官としての勤めを果たす神殿での空気が、以前とはどこか異なることに気が付いていた。神殿に仕える全ての神官たち、見習いも高位のものも含め、文字通り上から下を震撼させたあの事件が、その原因であろうことは想像に難くなかった。この国スタルゴラド建国よりも遥か昔からこの地に息づく神殿のその途方もない長い歴史の中でも、先の冬に起きた一件は、おぞましき重大事件として残された者たちの心に影を落としていた。


 橙色の帯を締めた若き神官スタースにとって、この神殿は唯一の居場所だった。二親の顔はもう覚えていない。どこの誰であったかすらも。スタースは、二十年前の隣国【ノヴグラード】との戦で、両親を失った戦争孤児であった。当時はまだ小さかったので戦争の記憶は殆ど残っておらず、長じてから大きな戦があったということを人伝手に身聞きするだけで実体験はなかった。ただ、先の戦では大勢の死者が出たという。長引く戦闘に畑が焼かれ、食糧難による餓死者や、熾烈を極める戦いにおいて【名誉ある死】を賜った兵士も沢山いた。そして、それらに巻き込まれてしまった庶民たちも。戦況によって刻々と変化する国境地帯。当時、守りの要であった最前線の西の砦では、多くの未来ある若者たちが命を落としたという。

 スタースの記憶は、神殿の敷地内の片隅にある孤児院から始まっていた。神殿は、昔から、政治的介入の及ばない【アジール】であり、今も昔も変わらず、この地に暮らす人々の知の導き手であり、彼らの庇護者であった。

 スタースは、白くて長い衣の袖の中に隠れた己が手首に触れた。そこには拳大程の大きなやけどの痕があり、皮膚がひきつれたようになっている。その傷は、まだ幼かったスタースが先の戦争を生き抜いたという証だった。

 スタースは他の数多くの戦争孤児たちと共に兄弟のように育った。運よく、素養持ちで、その能力を開花させることが出来たので、他の兄弟たちのようにある一定の年齢に到達したら、働き口を探してこの場所から出ることをしなくて済んだ。本格的に神官見習いとして神官たちの末席に加わることを許されてからは、孤児院を出て、神殿内の居住区画に慎ましやかな一室を与えられることとなった。スタースは、今の自分がこうして生きていられるのはひとえに神殿の庇護のお陰だと思っていた。神殿の先輩神官たちは師であり、その教えは精神的な支えであり、そこでの暮らしはスタースという青年の全てだった。

 そのような全幅の信頼を寄せる場所が揺らぎ始めている。スタースが感じ取ったのは、そんな漠然とした不安だった。




 スタースがその事件について耳にしたのは、宮殿で武芸大会の祝賀会が開かれた夜より、二日ばかり経過した日のことだった。朝の祈りの間は、いつもならばひんやりとした静寂に満ちているはずであるのに、その日はなぜかざわざわと落ち着きがなかった。足元から冷たい水が這い上がって来るような感覚に尾てい骨の先が震えた。

 運命、もっと言ってしまえば、先読み(未来予知)を得意とする女神へ己が忠誠を誓う神官たちは、基本的に感情を顕わにすることをよしとしなかった。常に心を平衡に保ち、何事にも左右されず、ただ静かに心を込めて女神の内なる【声】を聞くように努める。私利私欲を廃し、奉仕の心を持ち、弱者の痛みを知り、それを助けるようにすること。それが代々、神殿という存在がこの地に受け入れられ、諸国家及び軍事勢力からの政治的介入を拒んできた理由でもあった。

 この国、スタルゴラドがある大地は、その昔【エルドシア】と呼ばれていた。エルドシアの地には、古くから土着の様々な神がいた。木々に森に風に水に火、そして太陽(ソンツェ)。生きとし生けるものに神は宿り、其々の力を融和させ、時には反発させながら然るべき均衡(バランス)を保つことでこの世界の秩序を守っていた。

 この神殿が奉るのは、その数多いる神々の中の一柱―――女神リュークスである。女神は、男神に比べて感情、即ち力の振り幅が大きい。要するにとても繊細(デリケート)で細やかな心使いが要求されるのだ。僕となる神官たちが全て男であるのは、そのような理由の中の一つである。


 神官の使命は神の声を聞くことだった。この大地は遥か昔、神々の手によって創造された世界だった。時代が下り、人はその能力を失っても尚、起源(オリジン)である神域への憧憬と懐古、恋慕にさえ近い気持ちを持っていた。この世は人知の及ばない様々な不思議で満ちている。そして今、人が人としてこの地にあるのは、この神に祝福された大地からの恵みがあるからに他ならない。

 神官は【繋ぎ手(Messenger)】であった。神と呼ばれ敬われる天上の存在と地上の民を繋ぐ。そして【宣託】とは、神からもたらされるこの世界への啓示であった。そこに人にとっての意味を見出し、様々な解釈を与えようとするのは、人の勝手である。誰もその本心は分からないが、神官たちはそれらを理解することに人生を捧げていた。神官が聞く神からの言伝は、様々な形や音、暗示によってもたらされた。例えば、夜空をかける流れ星や、遠く鳴り響く雷鳴の音、あるいは川の水面の囁きなどのように自然現象と連動する場合もあれば、閉じられた祈りの間で神官たちに直接、語りかけたりするというように。



 その日、朝の食堂では皆、酷く青ざめた顔をして黙々と【カーシャ(かゆ)】を啜っていた。まるで悪魔に出くわして魂を売る契約を結ぶよう強要されたようだとスタースは感じた。

 言葉にはしないけれどもそこに漂っているのは、おぼろげな【不安】だった。漠然とした慄き。恐れ。困惑。神官である者は同じ術師の中でも高位に属する高い素養を持った者ばかりだ。術師には目には見えない人々の感情・想いの核となるものを非常に敏感に感じ取る能力がある。新米からようやく一つ位が上がったばかり(当時はまだ赤い帯を締めていた)のスタースにもその違和感はひしひしと伝わっていた。

 スタースはぐるりと広い食堂内を見渡した。前方に陣取っているはずの高位神官たちが利用する席が、ぽっかりと空いていたのを不気味に思った。

 耳を澄ませば、粥を啜る音の合間に【儀式】【鉄槌】【裁き】というような不穏な囁きが漏れ聞こえてきた。

 スタースは内心首を傾げながらも手早く食事を済ませると同じ孤児院出身でスタースにとっては兄貴分に当たるタッカーの姿を見つけた。タッカーは、スタースよりも位が二つ上で、茶色の帯を締めていた。同じ孤児院出身のよしみで、よく相談を持ちかけたりした。

「タッカー」

 さり気なく先輩にあたる白い長衣の隣に並んだスタースに、緩やかにうねった茶色の長髪を後ろで一つに束ねていたタッカーは、細長い顔の輪郭を象るように脇に零れた髪の合間から感情の乗らない神官の鏡のような表情で後輩を一瞥した。口を開こうとしたスタースに指を一本上げて制す。そして、目でこちらに付いてくるようにと合図を贈った。

 朝の勤めを終え、慎ましやかな朝食を済ませた後、この日もスタースはいつものように街外れにある神殿管轄の治療院に出掛ける予定だった。他の神官たちにも其々の決められた役割と仕事がある。タッカーは確かこの国の各地に点在する神殿の支部間の調整や連絡係を担っていたはずだった。


 タッカーはスタースを連れだって神殿の裏手へと回り、高台がある方へと赴いた。そこにはなだらかに傾斜する丘があり、点々と白い平たい円盤の並ぶ墓所が見渡せた。二人は黙したまま歩いた。墓地の区画が始まる手前の大きな木立の中に隠れるように身を寄せた。ここまで来れば神殿へは声が届かない。それでも先輩神官は注意深く辺りを見渡し、人影や物音がないことを確かめた。

 それが済むとようやく重そうに口を開いた。

「一昨日の夜、儀式が行われた。奥の院だ」

 その言葉にスタースは、目を見開いて息を飲んだ。己がうちに走った衝撃と驚愕を外に流すようにぎゅっと拳を握り締め、暫くしてから開く。

「まさか!」

 スタースの第一声は懐疑的な言葉だった。先程の食堂での異様な空気を思えば、それは信憑性があり、なによりもタッカー自身が、嘘や偽りとは遠い所にいる男であったから、それは真実なのかもしれないが、スタース自身がそれでもその事実を受け入れたくなかったのかもしれない。

 だらしなく口を中途半端に開けたままのスタースにタッカーは浅く頷き返した。その濃紺に近い青い瞳を見れば嘘偽りでないことは分かる。

「まさか………」

 スタースは大きく息を吐き出すと、その手で口元を覆い、そしてつるりと頬を撫でた。

「勧請は………上手くいったのですか?」

 再び問いを発したスタースは、なにがしかの事情を知っているような口振りだった。まぁ、この所、対宮殿への圧力と精神的優位性を高める為に宣託の儀式を行い、影響力を増大させようと企む儀式推進派の活動が高まっていたのは神官なら誰しもが知る周知の事実だった。だが、下っ端の神官たちは、よもやそれが本気で行われようとは思っていない節があった。およそ二年前の儀式の失敗は、未だに昨日のことのように鮮烈さを持って語り継がれていた。勿論、表だってではなく裏でひっそりと。然るべき正当性と理由の無い力の行使は、均衡を歪める。神官たちの頂点にいる神殿の長は、決してそのような無謀な試みに許可を与えないだろうと彼らは考えた。神殿は様々な階層の人間が集まる雑多な空間ではあるが、現在の神官長は数多もの部下たちを、実に神官らしいやり方で、上手くまとめ上げていると内外共に思われていたからだ。

 スタースの問い掛けにタッカーは、眼下に並ぶ白い墓石の群れを眺めた。まだ上り始めてから間もない太陽の日差しは、露に濡れた黄緑色の絨毯をしっとりと目映いものに染め上げている。タッカーの視線はそのまま東側へと逸れて、少し落ち窪んだ木々の合間に埋もれた箇所に向かった。そこには、約二年前の儀式で犠牲となったとある姉弟(きょうだい)が眠っていた。それよりもう少し高い所には、神官たち専用の墓所があった。その日の夕方か、遅くとも次の日の昼ごろまでには、あの場所に真新しい白い円盤が幾つも置かれることになるのだろう。タッカーは、そのようなことを漫然と考えていた。


(いら)えは得られなかったのですね」

 タッカーの長い沈黙にスタースは先の儀式が失敗に終わったことを知った。そして、それは恐らく最悪の形で。

「それだけではない」

 ゆっくりと首だけ振り返った先輩神官の瞳には、深い哀しみと諦観が滲むようにして表れていた。

「関わった者、全てが然るべき対価を払った」

「…………対価……を払う……?」

 それはどんな―――と口を開いて尋ねようとした矢先、体ごと気だるげに振り返ったタッカーは、黙ったまま右腕を上げると突き出した人差し指で己が喉元を真一文字に切る仕草を見せた。

「贖いは………代価は……命?」

 スタースが掠れた声を出した。

「ああ」

 タッカーは静かに頷いた。

「まさか、全員が?」

 勧請の儀式には、少なくとも10人は、高位神官が集まらなければならない、人が神の領域に働きかける為には、膨大な精神力(エネルギー)労力(パワー)が必要だ。神との神域での交感は、高位神官といえども精神的にかなりきつく、文字通り生命力を絞り取られることになる。

 だが、スタースはこれまでに身聞きしてきた宣託の儀式の過程で、呼び掛ける側の神官が死亡した(ためし)をしらなかった。

 スタースは発すべき言葉を持たなかった。今回の事件の重大性を今更ながらに思い知り、顔が青くなった。

「この件には宮殿から緘口令が敷かれている。イシュタール殿(神官長)は沈黙を守ったままだが、それは即ち裁きを向こう(宮殿)に委ねたということだ」

 そこでタッカーは静かに後輩に歩み寄った。

「スタース。余計なことに首は突っ込むな。徒な好奇心は身を滅ぼす」

 タッカーの言葉はスタースの耳に届いていたかは分からない。だが、歩き出したタッカーにスタースは反射的に頷いていた。タッカーは去り際、スタースに向かってその肩を軽く叩いた。そして無言のまま、己が持ち場に戻るべく白亜の城塞―――様々な想いが蠢く場所―――へと向かった。


 おぼろげに浮かび上がる事件の真相が、スタースを取り巻くように頭の中でぐるぐると回っていた。【儀式】が行われた。それを耳にしてまずスタースが思ったことは、そこで使われた【贄】―――神官たちはそれを【対価】と呼ぶ―――のことだった。通常の宣託の儀式ではなく、これまで水面下で画策されていたような(と言ってもスタースは噂しか知らなかったが)失われて久しい男神を復活・勧請して女神リュークスからの言祝ぎを得ようという途方もない計画のことがまことしやかに囁かれていた。それには、高位神官たちの研ぎ澄まされた力と集中力のみならず、神の意識を受け入れる為の【器】が必要だった。しかも、器は黒を体現するものでなくてはならない。黒は失われた男神エルドーシスの象徴であり、女神リュークスが最も執着する色だったからだ。

 では、贄、対価となった人物は誰であったのか。そこからスタースが弾き出したのは、最悪の筋書き(シナリオ)だった。

 ―――――ボージェ・モーイ(ああ、神さま)!

 若き神官は呻き声を上げると驚くべき早さ(スピード)で元来た道を引き返した。スタースはなりふり構わず駆け出していた。焦燥のままに。白い裾がからげ、長い袖が旗のように翻る。どうしてそんなに慌てているのか、スタース自身も良く分かっていなかった。ただ酷く悪い思い付きに胃の腑が冷たく沈み、そうしたら、いても立ってもいられなくなってしまったのだ。神殿内を走るなどとは神官としてあるまじき振る舞いであったが、その時のスタースはそれを気にしている余裕がなかった。それだけこの青年がまだ若く、この【白亜の城塞】に蔓延る澱や淀みに惑わされていなかったからだともいえるだろう。


 理想を持つ若き神官の白い衣とそれを留める赤い帯は、神殿の居住区画、高位神官たちが住まう一角に翻っていた。布製の靴底を軽く弾ませながら、まだ頬にそばかすの残る青年は、とある一室の前で立ち止まった。

 神官が暮らす部屋には木製の重厚な扉はない。代わりにあるのは、入り口に垂れ下がる白く長い布の暖簾だ。この布の下の方にその場所に住まう神官の位を紋様にした柄が染め付けられていた。スタースの眼前にあるその紋様は紫色で象られていた。

 スタースは静かに垂れ下がるその白い布の前に己が手を平行に当てると意識を軽く集中させ、訪いを入れる為の文言を口にした。神殿内には居住区画を含め、ありとあらゆる場所に程度の異なる【結界】が張られていた。それは個人の生活音を周囲に響かせないためであるだけでなく、神官同士の密談や機密の保持の為に利用され、其々神官が個別に施しているものである。元々は神殿の祈りの間で行われる秘儀が外に漏れ出さないようにと開発された呪いであったが、時代が下り、それは秘密保持のために広く利用されていた。術師の中でも神官になるだけの高い素養を持つものであれば、この空間の遮断、音の一時的な遮断といった結界は、難なく習得できる技であり、今では神官たちの誰もがこの技に精通している。勿論、この結界を一時的に解く方法も然り。掛けられた術式の強さと解こうとする者の能力の差の相関性があるが、基本的に表の神殿よりも機密性の低い居住区画に掛けられた結界は、容易に解くことが出来た。

 ―――――ラズレェシーチェ(解除)

 呪いの言葉と共に掌に触る結界が緩んだのが分かった。スタースは「失礼します」と小さく断りを入れてから、中に入った。



 がらんとした白い剥き出しの石が四方を囲む簡素な室内。調度類は、端に小振りの寝台と机、椅子があるだけの慎ましいものだ。作りは、その位に関わらず全ての神官が同じものを利用していた。ここには清貧をよしとする姿勢が体現されている。明かり取りの為に小さく切りとられた窓の下に設えられた粗末な祭壇に向かい、同じく白い装束に紫色の帯を締めた男が祈りを捧げていた。

「レヌート先生」

 にじり寄った足音にレヌート・ザガーシュビリは振り返った。スタースにとっては兄代わり・父親代わりの師の柔和な顔は、差し込む光とは対照的に濃い影の中に溶け込むように見えた。レヌートの顔色は酷く悪かった。

 (ひざまず)いた姿勢から緩慢な動作で立ち上がったレヌートは、無言のままスタースに空いている椅子を勧めた。

 スタースは大人しくその場に座り、レヌートも壁際に置かれていた木の椅子を手に、その斜め前に座った。

 張りつめた沈黙が落ちていた。どれくらい時が流れただろうか。それは一瞬のようにも果てしなく長い間のようにも思えた。レヌートの深い緑色の瞳は憂いに沈んでいるように思えた。目尻に走る皺にも疲労の色が見える。

 スタースは口を開こうとして、また閉じた。レヌートはきっとスタースが訪ねて来た理由には見当がついているであろうが、なんと切り出したものか、逡巡してしまったのだ。それは音として口にするにはおぞましい出来事に違いなかったから。

 だが、先に口火を切ったのはスタースの方だった。

「リョウは……………?」

 絞り出すようにして出された声は掠れていた。カラカラになった喉を誤魔化すようにスタースは唾を飲み込んだ。

 真っ直ぐスタースを見つめていたレヌートは、目を伏せてから力なく首を横に振った。そっと苦渋に満ちた表情で。

「最悪の事態が起きたということなのですか?」

「それは………分からない」

 全てが未だ大いなる揺らぎの中にある。レヌートは神官らしい遠回しな表現を使った。

 スタースは口を噤んだ。一体何から尋ねていいのか分からなかったからだ。徒に騒ぎ立てても意味がないのは分かりきっている。それは事情を知りたいという個人的な欲求とこの不安を取り除きたいという利己的な己が心の平安の為であるから。

「全てはリュークスの御心のままに」

 レヌートは神官たちの信条である文言を繰り返した。スタースも頷いて同じようにその言葉を繰り返す他なかった。



 それから数日は、不安で仕方がなかったのをよく覚えている。胸の奥からせり上がってくる吐き気をなんとかして堪える日々が続いた。

 同じ神殿に仕える神官として、スタースはこれからどのような道を取ったらいいのだろうかと考えた。自分には何が出来るのか。何が残されているのだろうか。リュークスへの信仰心は変わらなかった。何よりも孤児院時代に世話になった恩を返したいという一心で神官の道を目指したスタースにそれ以外の道は選択肢としてなかった。

 焦燥と漠然とした不安に駆られながらもスタースは自分の成すべきこと、日々の仕事に集中しようと努めた。治療院では日々様々な症状を抱えた患者がやって来るし、何よりも神殿の敷地から離れていることが、スタースに事件のことを意識の外へ追いやることを促した。

 儀式推進派の神官たちが、宣託の対価として選んだのは、スタースもそれなりに知る人物だった。見事な程に鮮やかな(と言うのは少々語弊があるが)黒を持つ少年。自分と同じくらいの年(いや、もしかしたら年下かもしれない)のはずなのにどこか老成しているように見えた物静かな友人。神殿との関わりは元々なかったはずだった。術師を目指して王都の養成所に通っていた少年で、スタースの大先輩でもあるレヌートを師として仰ぎ、祈祷治癒の講義を受けていたと聞いている。

 彼のことについては、以前、師であるレヌートとその存在の危険性を話し合ったことがあった。この国では珍しい黒い髪に黒い瞳、そして術師になるだけの素養の高さは、儀式推進派の神官たちが喉から手が出るほどに欲しい存在であったから。神殿の中にその者を利用したいと働きかける連中が出てくるかもしれないと危惧していたのだ。

 そして、その危惧は現実になってしまった。

 儀式の対価となるべきものが神官の中から選ばれるのならばまだしも、どうやって言いくるめたのかは知らないが、全く関係のない人物を巻き込んだことにスタースは激しい憤りを覚えた。しかも、それは自分が暮らす共同体が行った仕業だった。許し難いことだった。何よりも軽率で浅はかで、リュークスの教えに背く行いだった。たとえ自分が関知していなくとも、身内からそのような非道に手を染める者が現れたことに深い哀しみとやるせなさ、そして口惜しさを感じていた。

 その後、レヌートの話によれば、儀式は間一髪中断され、助け出された少年は今、深い眠りに就いているという。神殿の中でも代々【智】を引き継ぐ特別な存在である【東の翁】の結界の中で同胞であるヴォルグの長と友人たちに身守られながら。




 治療院の一室で、薬の調合の為にごりごりと薬草をすり鉢ですり潰しながら、スタースは一人、もの思いに沈んでいた。思いを馳せるのは、神殿の存在意義、神官の役割についてだ。神官は、神に仕えながらもまた、同じように人々の間に立ち、智の集積と保存を担い、困っている人々に手を差し伸べる慈悲、慈愛を体現する存在であったはずだ。どの国にも縛られず、政治的中立を守る。この地に住まう人々と神との仲立ちになるべき存在であったはずだ。それがどうだ。今では、目的の為に人の命を利用することさえ躊躇しない輩が出るまでになった。

 スタースは神殿の歴史に思いを寄せた。遥か昔、生業の一つとしていた先読み(未来予知)が、上手く行ったが故にこの国スタルゴラドに飲み込まれる形となってから、神殿が誇っていた中立性と独立性は揺らいでしまった。それは強大な軍事力、圧倒的な力を持ってこの地を治めようとする新興勢力に対する譲歩であり、この地でこれ以上無用な争いを引き起こさない為の安寧を求める苦肉の策であったのかもしれない。だが、始まりは良くとも対等であった力関係が揺らぎ、宮殿の方に勢力が傾いた。そもそも神殿の在り方と宮殿の政治とは異なる次元にあるものだが、宮殿はこのスタルゴラドよりも広いエルドシア全域に及ぶ宮殿の影響力を無視できなかったどころか、その力を取り込みたいと欲してしまった。

 これは、このスタルゴラド創世記に当たるとても古い時代の話だが、そもそも、神殿にとってはこれが悲劇の始まりであったのかもしれない。その後、微妙な力関係の中で独立性を守りながら、スタルゴラドの中にある神殿は、宮殿への優位性と影響力を持続する為の切り札として【儀式】を利用した。純粋に神の声を聴くのではなく、この国の行く末を占う為に儀式を行った。

 そして神官たちの中にも政治的事柄に関心を持つ者が出て来たとしてもそれは当然のことだった。初めは神殿を守るためであったかもしれない。だが、本来の神官があるべき姿からは遠ざかって行った。いつしか神殿の内部にも、そこにはあってはならないはずの権勢欲や狡猾さ、憎しみや貪欲さが生まれ、静かに溜まって行ったのだ。


 今回の一件は、もしかしたら起こるべくして起きた事件ではないのか。神官としての教えが心身ともに染み付いていたスタースは、そう考えた。人の行いは必ず神が見ているのだという。過ちを犯せば、それに対する贖いはやって来る。神は人の世に徒に干渉はしないが、必ずその一部始終を見ているのだ。だから神官たちはこう口にする―――【全てはリュークスの御心のままに】と。過ちには必ず報いがある。良い部分も悪い部分も含めて【人】という存在を肯定し受け入れる。その思想は、スタースの心の中にもしっかりと根付いていた。

「これが正しい道なんだ」

 スタースはぽつりと独りごちた。自らの驕りや傲慢さからその身を滅ぼした神官は、ある意味自業自得なのだ。個人では特に問題がなくともそれが集団という形になり、組織の一員として歯車の中に組み込まれた時、個人の力は集団に屈する。本来ならばそれを未然に防ごうとするのが人としての知恵なのだろうが、人は必ずしもその能力を自らに対し、最大限に発揮できるとは限らない。

 自分はその道を見誤ってはいけない。スタースは一人、そう決意した。



 その後、暫くして、レヌートからリョウが目覚めたと耳にした時、スタースは心の底で良かったと安堵の溜息を吐きながら、真摯な態度で自分よりも遥かにこの白亜の城砦に巣食う闇を熟知しているであろう師を見つめ返した。

「レヌート先生、我々はまだやり直せるのでしょうか?」

 一度起きたことをなかったことにはできない。残された者一人一人が、何をなすべきか、もがき苦しみながらも、自分なりの答えを見つけてゆくしかないのだ。

 柔和な面立ちをした師は、その細面の顔に苦渋と疲労の痕を色濃く滲ませながらも静かにスタースに頷き返した。その優しい緑色の瞳には力強さが戻って来ていた。

「ああ。なにもかも、遅かったということはない。全てはこれからだ。神は我々の行いをちゃんと見守っているのだから」

 ―――――全てはリュークスの御心のままに。

 最後にそう締めくくって、二人は別れた。


 こうしてスタースの日常は再び新しく始まった。生まれ変わったというような劇的な変化ではないが、心の中に一陣の清涼な風が吹き抜けた気がした。この【青い風】――目には見えないけれどスタースは心の中でそう呼んだ――を忘れないように。淀みに足を取られそうになった時に思い返すべき戒めとして。



 * * * * *



 いつも通り街中の治療院での奉仕活動を終え、新しく注文をかける薬草の種類や代替できるものについて考えを巡らせながら神殿への帰路を辿っていると、スタースの視界に、白い衣を身にまとったひょろりとした神官の後ろ姿が入った。少し先には、宮殿の区画から神殿がある区画に入る辺りの長い回廊が見えた。棒きれのような細長い体が歩みに合わせて上下する。そして腰を一重半してからぶら下がる紫紺の帯と風に靡く白い長い袖にスタースは緩んでいた顔付きを引き締めた。

 確証は得られなかったが、今回の事件の裏で野心持つ貴族と神官たちの間を繋いだ男があの高位神官であるクルパーチンであるというのが専らの噂だった。クルパーチンは、神官の中でも昔から黒い噂の絶えない男だった。処世術に長けていて、宮殿内に独自の繋がり(コネ)を持つ。神殿内でも顔の利く男だった。スタースは直接関わりを持ったことはない。きっと向こうもスタースのような下層の地位にいる者など見向きもしないだろう。


 スタースはだらりと下ろしていた手の拳を硬く握り締めた。同じ白であるはずの衣が酷くくすんで見えたのは気の所為なのか。それとも見えないものを【視る】術師の能力が働いているのか。風に揺れる左の袖は旗のように翻っている。びっこを引いた歩調。限りなく黒に近い灰色に立つ男。

 そして、この男も己が行いの代価を払った。男の対価は片腕だった。それが軽かったのか、重かったのか。スタースは逆に左の腕だけで済んだことの意味を考えようとしたが、息を吐き出してその思考を追いやるように頭を振った。

 スタースとてこの一件について全ての事情を把握している訳ではない。真実については依然として闇に包まれたまま。そしてこれからもそうなのだろう。

 それでも。

 今回の件に関しては、これで均衡が保たれたということなのだろう。全ての所業と対価を天秤にかけて、命を落とした多くの高位神官たちの他に、あの片腕は忘れた頃にやって来た最後の揺り戻しであった。


 スタースは回廊の手前で、びっこをひいたクルパーチンが通り過ぎるのを待った。贄となったリョウは完全に回復していると聞く。それが答えだ。これ以上、私情を挟むことは許されない。常に神官として心の平衡を保つように。そう決めたのだ。これ以上、この件を追及しようとするのは馬鹿げていた。


 スタースは歩調を緩め、時間をかけて回廊の傍まで来た。だが、目測よりもクルパーチンの歩みは遅かった。そこで上位者に対する敬意を払う為に立ったまま僅かに膝を折り、腰を屈めて顔を伏せた。

 白い神官の長衣にまだ真新しい橙色の帯を締めた若者の横を紫紺の帯を揺らしながらクルパーチンがゆっくりと通り過ぎた。拍子を取るように上下するほっそりとした体が横切った時、スタースはなんとも形容し難い苦しさを感じた。息がぐっと詰まるように胸が塞いだ。それをなんとかやり過ごしたと思ったら、クルパーチンの腕の無い袖が、たなびく煙のように目の端に映った。それにつられるように顔を上げた。

 不自由になった体をものともせずに堂々と歩いてゆく。いい意味でも悪い意味でも胆の据わった神官。そこにある世俗への執着とは、一体何を意味するのだろうと小さな波のように上下する背中を見ながらスタースは考えた。

 その視線を感じたのだろうか。不意にクルパーチンが立ち止まり、緩慢な動作で振り返った。ぎょろりとした魚のような目は、そこに全ての精を込めたように脂ぎっていた。薄い干からびた唇がそっとつり上がる。その時になって、スタースは、その疑惑の中にいた高位神官を睨みつけていたことに気が付いた。

 スタースは咄嗟に視線を逸らした。そして、ばつの悪さを誤魔化すように長くなった髪をがしがしと掻きむしった。同じ右手で頬を強く叩く。そうして再び顔付きを神官らしく仮面のように作ると今日の仕事の報告をするべく、神殿を目指したのだった。



儀式が行われた後の神殿の様子を描いてみました。あの生臭神官であったクルパーチンが、その後どうなったのか。頂いた感想の中で気になる方もいらっしゃったかと思いまして、個人的にもその辺りを軽く流してしまったことが気になっていたので今回チャレンジしてみました。そこにリョウと関わりを持った新米神官のスタースを絡めています。スタースはリョウの事を少年と思ったままでしょうから、本文の中でもそのような表現を使いました。


クルパーチンは、片腕を失ってもなお、きっと懲りていないだろうと思います。あの強烈な生臭さは相変わらず。そしてこれからも神殿と宮殿の間に暗躍することでしょう。これが私の出した一つの答えです。


さて、似たような宿題をもう一つ残していますが、連続だと胸やけすると思いますので、次回はもっと軽くて明るいものを未消化のリクエストから選ぼうと思います。

それではまた次回にお会いいたしましょう。

ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ