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3)-3 薄荷色の子守歌 後編)

 

 それから暫く、ドーリンには『他に好きな女が出来たのでは』という疑惑にすっかり取り憑かれてしまったマルガリータは、一層塞ぎ込むようになった。ドーリンの方もあれ以来、仕事が忙しいようでショーロホフ家を訪ねることはなかった。その空白の時間も否定的な想像に拍車を掛けることに寄与した。


 年が明けたら直ぐにナユーグ家との婚儀をしよう。日取りは、大体見繕ってある中から最もいい日を選ぼう。

 マルガリータの耳に両親の浮足立つような会話が聞こえて来たのは、そんな時だった。

「ねぇ、リータチカ。今度の春こそ、いよいよお嫁入りよ」

 喜びに跳ねるような母親の声に、マルガリータは息を止めた。

「あちらからも正式な通達があったわ。よかったわねぇ」

 それは夕食の時間のことだった。食堂のテーブルを共に囲んだ両親は、とても人好きのする柔らかな顔をして娘を見ていた。一方のマルガリータは途端に表情を失くし、母親を見、それから確かめるように父親を見た。母親だけでなく、父親も笑みを深くして己が娘の遅すぎた春の訪れを祝福していた。両者の顔色は実に対照的だった。

「ああ。なんと言っても大分待たされたからな。よかったな。リータチカ」

 マルガリータの胃の腑にずっしりとした石のような重みが乗った。ここ【パルトラー・デェシャータク(約15日)】余り、ずっと同じ疑念に囚われて気分を鬱々とさせていたので、咄嗟に動揺を隠すことが出来なかった。

 【ノーシュカ(ナイフ)】と【ビールカ(フォーク)】を手にしたまま押し黙ったマルガリータに、父親のメルクーリィが訝しげな顔をした。

「リータチカ? どうかしたのか?」

 マルガリータは、父を一瞥した後、目を伏せておずおずと口を開いた。

「あの……それは、あちらが承知しているということなのですよね?」

「ええ。もちろんよ」

 今更何を聞くのだと言う風に母親のマリーヤが微笑んだ。

「ドーリャは……その……なんと?」

 婚儀を進めることに同意しているのだろうか。

「ん? どういうことだ、リータチカ?」

 急に落ち着きを失くした娘の様子に父親が少しだけ身を乗り出すようにして尋ねた。

「そのままの意味ですわ、お父さま。ドーリャは、承知なさっているのですか?」

 その問いは両親にとっては思ってもみないことだったのか、一瞬、虚を突かれたような顔をしたのだが、それから母親は口元に手を当てて上品に含むようにして笑い、父親は喉の奥を鳴らすようにして笑った。

「一体、どうしたんだ。リータチカ。今更何を聞くのかと思ったら。ドーリンだって勿論承知のことだろうに。そうでなくともこれだけ長いこと待ったし、待たされたんだ。向こうも『やっと』と思っているんじゃないのか?」

「でも、もし、万が一………ということもあるでしょう? ドーリャに直接確認した訳ではないのではありませんか?」

 父親の向かいで母親も怪訝そうな顔をした。

「まぁ、リータチカ、おかしな子ねぇ。急に何を言っているの」

「ですが、お母さま、もし……もし……仮に…万が一……」

 マルガリータはそれ以上、続けることができなかった。自分の口からは具体的なことを言いたくはなかった。口にしたら最後、その不安が漠然としたものから確固とした形を取ってしまいそうで。ドーリンの心は別の(ひと)へと向かっているのに、それでも両親たちとの約束の手前マルガリータを妻にするとしたら。それは、余りにも(むご)い仕打ちではないか。

 それならば全く知らない相手の元に嫁いだ方がまだましだ。夫婦になった時から少しずつ互いを知り合って認識の溝を埋め合う。そうして互いを愛する気持ちを零から育めるであろうから。一方通行の想いは、悲し過ぎる。それに不毛だ。幾ら想いを寄せたとしても応えてもらえないというのは、耐えられそうになかった。見返りを求めない無償の愛というのは、マルガリータとしても理解できなくはなかったが、まだ若い娘はそれを自分にあてはめることは出来なかった。きっと二人の生活は、仮面的で他人行儀なものになり、すぐに行き詰ることだろう。大きな屋敷で一人静かに座し、いつ帰るとも分からぬ夫を待つなんて、マルガリータには想像したくもなかった。そこまで自己犠牲に溢れた人間ではない。心の無い形だけの夫婦関係は要らない。


 マルガリータは途中になっていた食事の手を止めると、ギュッと握り締めていた【サルフェートカ(ナプキン)】を放して立ち上がった。

「お父さま、お母さま、不調法をお許しください。でも、気分がすぐれませんの。ここで先に失礼させてくださいませ」

 マルガリータは口早に言い募ると席を立ち、食堂を後にした。

「リータチカ!?」

「リータ!?」

 父親と母親は突然の淑女らしからぬ娘の振る舞いに吃驚した声を上げたのだが、母親は傍に控えていた侍女に目配せをして娘の後を追わせた。因みにここで夕食を中断してまで娘の後を追うという考えは、両親にはなかった。そこまで深刻に捉えていなかったのだろう。


 娘の乳白色の室内着の裾に使用人の黒い【ユープカ(スカート)】と白い前掛け(エプロン)の紐が揺れる。それらを残像のように網膜にちらつかせながら、母親のマリーヤは、ここ数日余りの娘の様子を思い返していた。

「ねぇ、あなた、この間からずっと変なのよ。何だか思い詰めた感じで溜息ばかり吐いているようなの。どうしたのかしら?」

 案じるように眉を顰めた母親に対して、父親は然程深刻視していなかった。

「正式に日程が決まったんで驚いているんじゃないか? ほら、あれだ、あれ。婚礼を控えた娘が陥るという一過性の気鬱の病というのがあったじゃないか。それかもしれないぞ。これまで延び延びになっていたものが急に現実的になったから、気持ちが追いついて行かないかもしれない。少し経てば、またけろりとすると思うがな」

「いいえ。あなた。そんな呑気なことではありませんわ。きっと違います」

 【ザーヤツ(野兎)】の煮込みに【ノーシュカ(ナイフ)】を入れながら、妻がきっぱりとした口調で言った。

「この間も、お友達と演奏会に出掛けたのにドーリンに抱えられて帰ってきたじゃありませんか! あの時は本当に胆が冷えたのですから。ゾイナ(ショーロホフ家のお抱え術師)の話では軽い貧血だと言っていましたけれど、ここ最近よく眠れていないそうですよ。その前からも色々と様子がおかしい感じでしたもの。本当に……」

 これはきっと何かあるに違いない。とても大きな心配事が。愛しい娘が何を思い悩んでいるのか。何が娘を苦しめているのか。母親はそれを知りたいと思った。いや、知らなくてはならないと思った。

 しかしながら、娘があのように動揺し、塞ぎこんだ原因については、良くも悪くも貴族的気質で呑気なところのある両親には、気が付くことが出来なかった。善良で素朴な所のある父親は、まさか娘が夫となる男の女性関係に悩んでいるとは思いも寄らないに違いない。母親は【女の勘】とも言うべきもので何かよろしくないことが娘の身に起きているとは思ったが、それを自ら解明しようとは思わずに、マルガリータの乳母で古くからショーロホフ家に仕えているばあやのカテリーナに頼んで、その辺りの事情を聞いてもらうことにした。代々ショーロホフ家に仕えてきたカテリーナは、慣れた様子で奥さまと旦那さまの意図を理解すると訳知り顔で鷹揚に頷いた。

「ようございます。それでは、軽くつまめるものをご用意してお持ちいたしましょう」

 マルガリータの食事が途中であったことを考慮して、温かいスープなどの喉通りの良いものを用意させることにした。




 その日の夜、ばあやであるカテリーナの驚くべき手腕により、両親はやっとこの所マルガリータを悩ませていた原因を知ることが出来たのだが、本人より直接話を聞いた訳ではなかったことが災いしてか、話がとても大げさに伝わってしまったようだった。得てして途中に人を介在させた場合、その状況が話し手の意図を離れて聞き手の中で膨らんで、まるで別物のように作り変えられてしまうのはままあることだ。そして、このばあやは、マルガリータの打ち明け話に大いに心を痛めて、己が気持ちを話の中に無意識に織り交ぜて、それを涙ながらに旦那さまと奥さまに話して聞かせたのだ。男の移り気と純粋な乙女の信頼が裏切られたことの切なさを訥々と語ったのだ。

 ばあやによって脚色がされたあらましを聞いたショーロホフ夫妻は、『とんでもない!?』と俄かに信じられない顔をした。ちょうど夕食後にお茶を喫している時で、父親のメルクーリィは、驚きの余り、手にしていたお茶を零してしまった。『あらあら』と妻が慌てて布巾を宛がったが、それには構っていられずに、絶望したように顔色を青くしたかと思いきや、それから直ぐに怒りの為にか顔を真っ赤にした。と言っても、同じ男であるので、決まった相手以外の綺麗な女人を前にすれば、ついそちらに視線が行ってしまうというのは気持ち的には分からないでもなかったので、気を落ちつけるように一つ深呼吸をすると平生の顔付きを取り戻した。それでも娘に対する裏切りとも思えるような行為に父親の心は落ち着かなかった。気持ちの移り代わりは人であるからして仕方がないことだとしても、父親のメルクーリィは、それが娘の許嫁であるドーリンに当てはまるとは想像だにしなかったのだ。

 そんなまさか。あのドーリンに限って。つまり、そのような幻想があった。


 ナユーグ家の嫡男であるドーリンは、何かと風変わりで個性的な男たちが多いナユーグ家の中では、かなり良識的で絵に描いたような真面目な男だった。きっとあくの強い父親や叔父たちを反面教師にしてきたのだろう。そして、彼らの中で揉まれることで逞しく、かつ雄々しく育っていった。それは、まさに良くも悪くもナユーグ的気質を引き継いでいることの表れでもあったのだが、幸か不幸か付き合いの長いメルクーリィはその辺りのことを理解してはいなかった。まぁ、要するに、父親の目から見ても申し分のない婿殿であるということだ。

 そんなドーリンの心変わり。果たしてそんなことがあるだろうか。これまで社交界でも浮いた噂の一つも流れなかったというのに。女性関係では全くと言っていいほど、そういう色の付いた話はなかったのだ。その理由をメルクーリィは、自分の娘が許嫁であるからだろうとも思っていたのだが。

 父親は信じられない思いに口を開きかけては、だが、発する言葉を探しあぐねて押し黙った。それを何度か繰り返して。額際を手で覆って長い溜息を吐いた。

カチューシャ(カテリーナの愛称)、それは………その……本当なのかね? マルガリータの思い違いではないのかい?」

 所在なく片手を振ったメルクーリィに、

「まぁ、だんなさま、お嬢さまのお苦しみをお戯れだと仰いますんですか?」

 ばあやのカテリーナは細い目をこれでもかというくらいに見開いた。

「俄かには信じられないということだよ。………あのドーリンがねぇ」

 深く沈みこむようにしてソファに体を凭せ掛けた夫の隣で妻のマリーヤが乳母に訊いた。

「ドーリャと仲違いをした……というわけではないのね?」

「はい。そのようなことは一言も」

 カテリーナは静かに首を横に振ると、マルガリータは、ただドーリンには他に想う(ひと)がいるのだと繰り返したと言った。だから、このままでは婚儀など挙げられる訳がない。お互いの為にも許嫁を解消した方がいいのだと。そう涙ながらに繰り返したのだと言う。

「あなた」

「ああ。分かっている」

 そっと腕に手を置いた妻にメルクーリィはショーロホフ家の主らしく心配はいらないと微笑んで見せた。こうなれば、メルクーリィが取るべき行動は決まったも同然だった。




 そして翌日。

「ドーリン、一体どういう了見だ!」

 【ドゥエーリィ(決闘)】も辞さないというように滅多に佩かない長剣を左の腰にぶら下げて、正装したショーロホフ家の主がナユーグ家本家に乗り込んできたのは、ちょうど午前のお茶の時間だった。

 出迎えに出た老執事ゲルツェンの先導を待たずに突然、本家の居間に長靴の足音高く乱入してきた旧知の友の剣幕に、ゆったりとお茶を楽しんでいた主のヴィクトルは、澄んだ灰色の瞳をパチパチと瞬かせた。

「おや、メルクーリィ、どうしたんだ、一体?」

 挨拶も無しに発せられた雄鶏のような友人の第一声に、ヴィクトルは目を丸くした。

 だが、メルクーリィは主の問いには答えずに無言のまま室内を照射するように見渡した。そして、居間の一人掛けの椅子に腰掛けて、優雅な手付きで茶器を片手に本の頁を繰っていたドーリンを見つけた。メルクーリィは、表面上、無表情を取り繕いながら、そちらへと歩み寄った。だが、隠しきれない苛立ちがその足音には表れていた。

 ドーリンは、ショーロホフ家の主に気が付くと、カップを傍の小さなサイドテーブルに置いて顔を上げた。

「御機嫌よう、メルクーリィ殿。どうかしましたか?」

 不躾に駆けんばかりの勢いで乱入してきたメルクーリィを軽く一瞥しただけで、いつもと変わりなく鷹揚に口を開いたドーリンの態度に、メルクーリィはいかなる時でも動じないというナユーグ家的気質を見た気がした。

 そこで不意に我に返った。心地よい午前の静寂に満ちた空気に一人で腹を立てているのが妙に馬鹿らしくなって、ここに来るまで一人馬上で滾らせていた憤りが急速に萎んでゆくのを感じだ。

「どうぞ。お座りになったらいかがですか」

 ―――――お話しがあるのならば、お聞きしますから。

 突然の狼藉にも関わらず、さも相手を労わるようにして長い手がつと客人用のソファを指し示す。元々善良で怒りという感情とは余り縁の無かったメルクーリィは、一旦、剣呑な表情を引っ込めるとその場に腰を掛けた。

 そこにすかさず室内の隅に控えていた使用人が、客人の為のお茶を淹れた。温かいお茶を一口飲んでほっとしたのは確かだったが、それでもこうして乗り込んできた手前、和みそうになる気持ちを奮い立たせて、じっと斜交いに座るドーリンを見た。

 メルクーリィが血相を変えて飛び込んできたというのにドーリンは少しも狼狽(うろた)えた様子を見せなかった。マルガリータのことで後ろめたいことがあるのならば、視線を逸らすか、眉間に深い皺を刻んで動揺を押し殺そうとする素振りを見せるかと思っていたのだが、どうも当てが外れたようだ。

「メルクーリィ殿、どうされましたか?」

 いつもと変わらない淡々とした声がした。

 そこで、もし、こちらを見たドーリンの顔に珍しく微笑の類でも浮かんでいれば、これは怪しいと思うきっかけになったのであろうが、その相手は相変わらず澄ました表情のまま、実に堂々としていた。

 ―――――ウォ…ホン。

 メルクーリィは、取って付けたように大きな咳払いを一つした。そして、まるで悲劇に登場する舞台俳優のように慇懃な所作でドーリンに向かい合った。

「ドーリン、実はきみにどうしても確かめたいことがあってね」

 そこで少し間を置いた。

 急に切り出した客人に部屋の反対側の長椅子でレース編みをしていたナユーグ家夫人のヴァルワーラが手を止め、主のヴィクトルは客人とゲーム盤の【シャーフマティ(チェス)】で一戦を交えようと駒の手入れをしていた手を動かしながら、そちらへと視線を流した。メルクーリィも二人の友人たちの視線を受けるように軽く頷いて見せた。

「こんなことを聞くのは、実に……なんというか、不躾でおかしなことだとは思うんだが、愛娘のマルガリータのことを考えるとどうしても切り出さずにはいられないんだよ。あれの父親としての責務だと思って欲しい」

 そこでメルクーリィは押し黙った。

 不意に落ちた沈黙にドーリンは続きを促すように客人を見た。

「気を悪くしないでもらいたいんだが」

「ええ」

 そこで話の腰を折るように奥方のヴァルワーラが唐突に高い声を上げた。良くも悪くも貴族の女というのは、こう無意識に自己中心的な所がある。

「そう言えば、マーラチカはお変わりなくって? 婚儀の日取りがいよいよ決まって、今は忙しくしているのでしょう? きっと嬉しくて仕方がないのでしょうねぇ」

 ふふふと上品に微笑んだ妻に夫のヴィクトルが合槌を打った。

「そうだろう。そうだろう。きっとそうして準備をするのも楽しいことに違いないからな。昔を思い出すな、ヴァーラ?」

「ええ。わたくしもそうでしたもの」

 過ぎし日を懐かしむかのようにどこか遠い目をした友人夫婦に構わず、メルクーリィは、言葉を続けた。

「私が訊きたいのは、娘のマルガリータのことなんだよ、ドーリン。きみは、まさか今になって、この婚儀に反対だとは言わないだろうね? マルガリータは、ずっとこの日が訪れるのをそれは楽しみにして待っていたんだから。仲のいい友人たちが次々に輿入れするのを傍目に祝福しながら、長いこと大人しく待っていたんだ。我が娘ながらこの忍耐力は称賛に値すると思わないかい? え? そうやって長い間、きみを信じて待ち続けていた娘に対して、今更、無理だとは言わないでくれるだろう?」

 そんなことになったら子を持つ親として娘が不憫で仕方がない。最近、娘は酷く思い詰めてしまっているんだ。

 脱線したナユーグ家夫妻の呑気なおしゃべりを背後に聞きながら、ドーリンはメルクーリィの言わんとしていることを確かめるように相手を見た。

「メルクーリィ殿、要するに、私がマルガリータとの婚儀に反対であると言いたいのですか?」

 不服そうな感じに片方の眉を上げたドーリンに、

「そうなのか!?」

 メルクーリィは体を前のめりにした。

 それを軽く手で制して。

「違います。全くの思い違いです」

 ドーリンは深い溜息を一つ吐き出すと、こめかみから眉間を揉むように己が額に手を宛がった。

「どうしてそのようなことをお疑いになったんですか」

 心外だとばかりに声に不満が滲む。

 その時、ドーリンの脳裏には、ここ【デシャータク(10日)】余りのマルガリータの不可思議な振る舞いの数々が浮かんだ。まさか、これまで妙な態度を取っていた原因はそこにあったのだろうか。

「私はこれまで、一度たりとも、マルガリータとの婚儀に反対したことはありませんが?」

 明確に言葉を区切って、ドーリンは自分に掛かった疑惑を晴らそうとした。

「ああ。それは知っている。だが、今はどうだ? 今、きみの気持ちと考えはどこにある? 昔と変わらずにマルガリータを大切にしてくれると約束してくれるのか? 心から今もそう思ってくれているのか?」

「何の話ですか」

「ドーリン、きみの心はどこにあるのかと聞いているんだよ」

 興奮の為にか徐々に高くなるメルクーリィの声に、夫とおしゃべりとしていたはずのヴァルワーラ夫人が驚いて唐突に割り込んできた。

「まぁ、ドーリャ! どういうことなの、一体? あなた、マーラチカを妻にする積りじゃなかったの! なんてことかしら、あんなにいい()なのに。そんなことあるわけないわよね」

 ドーリンは、一人掛けの椅子に腰を掛けたまま体を反転させて、無言で掌を前に出し、それ以上のおしゃべりをやめてくれるよう母親に合図した。少し黙っていて貰いたかった。感情のままに紡がれる母親の意見は、見当違いなものが多く、余計に話をややこしくする恐れがあったからだ。

「ドーリン?」

 同じように口を挟もうとした父親にも視線で立ち入らぬように制した。

 そして、咳払いを一つすると真っ直ぐにメルクーリィに向き合った。

「最初にお聞きしますが、何故、いまさらそのようなことをお聞きになるのですか? 私のマルガリータへの気持ちをお疑いなのですか?」

「マルガリータへの気持ち!」

 その部分(フレーズ)をメルクーリィは高らかに繰り返した。まるで相手の不実を糾弾するかのように。

「では改めて聞くが、それはどういうものなんだ? 生涯を誓い合う仲を望むということかね? それとも、それともだよ、ただ単に昔からの幼馴染ということで当たり障りのない……もう少し言ってしまえば、面倒のない相手を選んだということなのか? そして、別の所に本当に愛する女がいるというのか!」

 メルクーリィは、再び、非常に興奮していた。高ぶりそうになる気持ちを落ちつけるべくお茶を飲もうとして伸ばした手は、茶器に当たり、カチャリと鳴る。指を微かに震えさせて、カップの取手を掴むと、すっかり冷めていたお茶を一息に流し込んだ。


 何とも形容し難い悲痛さえある沈黙が、ナユーグ家の居間に落ちていた。ヴィクトルとヴァルワーラ夫婦は、余りの出来事に口が半開きになっていた。その時のドーリンの表情と言ったら。信じられないとばかりに灰色に琥珀色が混じる目を見開いて、呆れて物が言えないという感じだった。眉間にこれまでにない程深く皺が寄る。

 互いに顔を見交わせたナユーグ夫妻の前方で、ドーリンがあからさまに大きな溜息を吐いたのが分かった。

 突然の言い掛かりを内心腹立たしく思いながらも、ドーリンは努めて冷静を装った。こういう時は、自制心が肝要だ。いっそのこと『何を馬鹿なことを!』と声を大にして張り上げたいのだが、感情的に話をしたら碌なことにならないことをよく知っていた。近い将来義父になると思っていたメルクーリィが、何がしかの疑いを持っているならば、その原因を突き止め、己が身の潔白を証明しなければならない。

「少し状況を整理しましょう」

 ドーリンは一人掛けの椅子に座った脚を組み替えると、ひじ掛けに置いた手の人差し指をピンと立てた。

「俄かには信じがたいことですが、メルクーリィ殿は、私が、よもやマルガリータ以外の女性に心奪われていると仰りたいのですか? 不貞を働いていると?」

 この世の全てを敵に回しても構わない。孤高の戦士の如く毅然とした態度で静かに対峙したドーリンにメルクーリィはたじろいだ。その迫力が並々ならぬものであったからだ。

「あ、ああ。そのように聞いた」

「どなたからです? もし差し支えなければそのような莫迦げたことを吹き込んだ輩の名を教えては頂けませんか?」

 そこで、何故かドーリンは目を細めて笑ったのだ。メルクーリィは思わず息を飲んだ。それはそれは、まるで悪魔のような恐ろしい笑みだったからだ。

「マルガリータがそう言っていた」

 本当はばあやであるカテリーナからのまた聞きであったのだが、それを省略した。

「マルガリータが?」

 急に真顔になったドーリンにメルクーリィが畳みかけるように言い募った。

「そうなんだよ。ここ【デェシャータク(10日)】余り、塞ぎこんでばかりで明らかに様子がおかしかったんだが、その理由を尋ねたら、そう答えたんだ」

 ドーリンには他に心を寄せる女がいると。

「では聞きますが、マルガリータはどうしてそのようなことを思ったんですか? 誰かに言われたんですか?」

 その問い掛けにメルクーリィは押し黙ってしまった。メルクーリィ自身、そこまで分からなかったからだ。

「メルクーリィ殿?」

「いや、詳しいことは分からないが、マルガリータがあんなにも思い詰めているくらいだ。それ相応のことが当然あったと思うがね。ドーリン、きみの方には何か心当たりがないのか?」

「いいえ。全く」

「本当か?」

「本当です」

「【リュークス】に誓って?」

「ええ。【リュークス】に誓って」

 この国の民が篤く信仰している運命と豊穣を司る女神の名まで出して。二人の男たちは、真剣な表情で対峙した。刃を合わせるかのような緊張感が一瞬だけ過った。


 じっと互いの瞳を見て、引き攣るような緊張を先に解いたのは、ドーリンの方だった。

 神経質そうな細めの眉がひょいと上がり、ドーリンは小さく肩を竦めた。

「何が原因かは分かりませんが、マルガリータが途方もない思い違いをしているようですね」

「……そうか」

「ええ。ですから、この件は私にお預けくださいませんか。直接、私の方からマルガリータと話をします。それで誤解は解けると思います」

「そうか。そうだな。その方がいい。これはきみとマルガリータの二人の問題だからな」

「ええ」

「では、これまで通り婚礼の準備を進めて構わないんだね」

「ええ。もちろんですとも」

 二人の間のわだかまりに一応の決着がついたのか、それまで沈黙を守っていたヴィクトルが、友人に声を掛けた。

「メルクーリィ、どうだ、一局、やらないか?」

 ヴィクトルは、テーブルの上に置かれた遊戯(ゲーム)盤と駒を並べて、対戦をしようと友を誘った。

「よしきた」

 いそいそと父親が待つテーブルの方へ移動したメルクーリィの姿を目の端に認めてから、ドーリンはぐったりとして疲れたように椅子の背もたれに深く体を沈めた。

 その様子を遠目に見ていた母親は、息子によく似た細面の顔に『誤解が解けてよかったわね』と微笑みを浮かべて、目が合ったドーリンは、何とも言えない苦い顔をしたのだった。その眉間には、勿論、深い皺が一本刻まれていたことは、言うまでもないだろう。




 【鉄は熱いうちに打て】ということで。その日の午後、ドーリンは未だ父親と【シャーフマティ(チェス)】の遊戯(ゲーム)盤を真剣な顔をして囲むメルクーリィを残して、一人馬を走らせてショーロホフ家に向かった。初めはメルクーリィと共に行こうかと思ったのだが、ああして遊戯盤を囲んだら最後、石像のように動かなくなるので、早々に諦めたのだ。

 全く。何がどうしてこうなったんだか。ドーリンは内心、とっぷりと深い溜息を吐いた。不名誉な濡れ衣を着せられたことにドーリンは腹を立てるというよりも酷く困惑していた。マルガリータは、元々落ち着いた所のある聡明な女性だ。滅多な噂話や虚言には振り回されないと思っていたのだが。

 それにしても。自分が別の女に心を奪われているだと? 何がどうしてそんな根も葉もない話が出て来るんだ。そんな暇など一体どこにあったと言うのだ? こっちが訊きたいくらいだ。王都(スタリーツァ)滞在中、武芸大会から何やらとずっと忙しくしていたのだ。それこそ睡眠時間を削ってアルセナールに詰めてばかりいた。それもこれも仕事と友人の家での騒動があったからに他ならない。

 ―――――友人の家。

 そこでドーリンは、馬の手綱を操りながら、古くからの友人である銀色の髪をした男の顔を思い浮かべた。その隣には、呑気な顔をして笑う小柄な黒髪の女性が一人。そう言えば、あの二人も正式に婚姻が決まったということだった。正式に婚礼の披露目をするのは、時期的に自分たちよりもずっと後にはなるだろうが、身近で吉事が重なることを喜ばしく思ったことも記憶に新しかった。

 そんなことをつらつらと考えて。そこで何かが引っ掛かった。

 ―――――まさか。いや。まさか。

 ドーリンは馬上でこれまでのことを思い返してみた。勿論、マルガリータと話す機会を得たここ最近のことだ。

 ―――――ドーリン、きみには何か心当たりがあるのではないか。

 メルクーリィの詰問の声が耳奥になった。

 心当たり。そう、心当たりと言えば………いや、自分で認識するほどそれが原因だとは思わないのだが、気になることと言えば、その直近二回では、マルガリータの他にいた女性と言えば、シビリークスにいるリョウくらいなものだ。

 まさか。マルガリータに限って、そんなことがあるだろうか。冗談だろう。ドーリンは悪い考えを払拭するように(かぶり)を振った。

 そこで我に返ると慌てて愛馬の手綱を引いた。余りに深く考えに浸っていた所為か、危うくショーロホフ家の門へと続く道を通り過ぎてしまうところだった。

 急に手綱を強く引かれて愛馬が抗議の(いなな)きを上げた。

「すまん、イーリィー」

 ドーリンは愛馬の首筋を宥めるように叩くと馬首を目的地へと巡らせた。




 ナユーグ家のドーリンがやって来た。マルガリータの元にショーロホフ家の執事であるザシーキンからそのような報せが届いたのは、ちょうど広い庭が一望できる南側のテラスでゆったりと午後のお茶を楽しんでいた時だった。庭先には冬の終わりに最盛期を迎える【春待ち草】と呼ばれる小さな青い花が一斉に咲き誇り、見る者の目を楽しませていた。

 この花は、野に生える草花の一種を、その昔、術師を兼任していたとある庭師が交配して庭園用に開発したもので、王都在住の貴族の間で人気(ブーム)になったものだった。この国は一年を通じて比較的温暖な気候だが、冬はその他の季節に比べても街や各家庭の庭先、野を彩る花々の数はめっきり少なくなる。そんな中でも冬の寒さが厳しい時に小さな青い花を咲かせるこの花は、春の先触れとして好まれていた。この可憐な花が咲くと人々は春の訪れが近いことを意識するのだ。そして、心を浮き立たせる。

 マルガリータも昼下がりの一時をテラスで過ごしながらこの花を眺めていたのだが、その心は浮かないものだった。春には婚礼が控えている。本来ならば嬉しいはずのことなのにマルガリータは素直に喜べなかった。いよいよ嫁入りが確定したということでショーロホフ家の侍女たちは、その準備に大忙しだった。日に日に出来上がってゆく花嫁衣装の話―――刺繍の華やかさや生地の素晴らしさ、レースの重ね具合など―――を耳にする度に、マルガリータは鉛を飲み込んだように胃がずっしりと重くなった。


 お茶を一口飲んだ所で、手遊びに持ってきた刺繍を始めた。母親たちの間では、今、レース編みが流行っているようだったが、マルガリータは刺繍の方を好んだ。手先は器用な方だと思う。その手はふくよかな女特有の厚みがあるものだったが、指先は驚くほど俊敏に動いた。意匠の凝った細かい模様が、生地の上に浮かび上がっている。こうして色合いを考えながら次の一針を動かしていると余計なことを考えずに済んだ。

 執事のザシーキンが、来客があると報せて来たのは、そんな時だった。二年前に父親の跡を継いで執事頭となった壮年の男は、父親によく似た柔和な顔立ちで、マルガリータが物心付いた頃にはもう馬たちの世話をする厩舎番をしていた。ザシーキンには、左のこめかみの眉に近い所に小さな傷がある。それを隠すように綺麗に撫で付けた髪の端を左側に垂らしていた。

 その小さな傷は、幼い頃、マルガリータが誤って付けてしまったものだった。もうその時のことはよく覚えていないのだが、父親の小さな短剣(ぺティナイフ)を玩具のように振り回して、それを止めようとしたザシーキンに怪我を負わせてしまったのだ。咄嗟に顔を庇い、珍しく顔を歪めたザシーキンとそのこめかみから頬に伝った赤い鮮血に吃驚して、幼いマルガリータはわんわんと泣いた。その時の前後の事情は全く覚えていなくとも、初めて見た血の色だけは、今でも鮮明に思い返すことが出来た。ザシーキンのこめかみには、その小さな刃傷痕が薄らと残っていたのだ。優しいザシーキンは、マルガリータがその時のことを思い出して気分を悪くしないように、今でもこうして左側の髪を少し長めに垂らしていた。

「ナユーグ家の御嫡男がいらっしゃいまして、お嬢さまに御目通りをとのことですが、こちらにお招きしてもよろしいでしょうか」

 許嫁であるドーリンとは、ショーロホフ家内では家族同然の付き合いをしていたので、ザシーキンの言葉は、どこか形式的なものだった。いつもならばこのまま執事の後から知った顔が現れてもおかしくないのだが、この所、マルガリータの様子が平生とは違うことを案じていたので、先に形式的ではあってもお伺いを掛けたという訳だ。

 だが、マルガリータの心臓は妙な具合に大きく跳ね上がって、手にしていた刺繍針をうっかり指に刺してしまった。

「……っつ」

 小さく漏れた声にザシーキンがさっと顔付きを変えた。

「お嬢さま?」

「ああ、大丈夫よ。ザシーキン。ちょっとかすっただけだから」

 傍に駆け寄ろうとした執事をマルガリータは笑って制した。何事もなかったかのように刺繍針をピンクッションに差して、誤って刺してしまった指を抑える。

「お怪我をされたのではありませんか?」

 怪我の内にも入らない、たかが刺繍針による刺し傷といえども、真面目で御家大事、いや、もっと言ってしまえばお嬢さま大事の執事にとっては見逃せない事態で、傷を改めようとマルガリータの傍らに(ひざまず)いたザシーキンに、マルガリータは苦笑を漏らしながらも大人しく手を差し出した。過保護にも程があるとは思うが、その額の左側に垂れ下がる淡い茶色の髪の下にある小さな傷を思うと相手に強く出ることが出来ないのだ。無意識の内に根を張った小さな罪の意識、いやもっと微かな遠慮のようなものが、マルガリータの中にはあったのかもしれない。

「大丈夫よ、ザシーキン。大したことはないわ。ね?」

 執事が傷を良く見ようとその手を取って指先に顔を近づける。

「ええ。そのようですね。ですが油断はいけません。後で傷口を洗って消毒をしておきましょう」

 その手当を怠った為に針からの黴菌が傷口に入って、指を切断しなければならなくなったら大変ですから。

 真実には違いないのだが、若い娘が耳にするにはぞっとするような残酷なことを、顔色を変えずに淡々と口にする。この家のお抱え医師兼術師であるゾイナの下で怪我の応急処置や病気の対処法といった医学の心得を学んだ所為か、そういう時の口調や態度は、まさに堅苦しい医者のようでもあった。子供の頃は真剣な顔をしてそんなことを言われると胸が潰れそうになるくらいに恐ろしく思ったものだが、長じた今ではもう慣れてしまった。

「ええ。わかっているわ」

 マルガリータは、尤もらしく頷いて微笑んで見せた。




 ちょうどドーリンが庭に面したテラスに顔を出したのは、椅子に座ったマルガリータの前に執事が膝を折り、その手に顔を近づけていた時だった。マルガリータが差し出していたのは左手だったのだが、その仕草は傍目には心を寄せる相手の手に口づけを落とす男のそれに見えた。

 相手はドーリンもよく知るこの家の執事であるザシーキンだ。それでも無意識に眉間に深い皺が寄り、不快感がもたげてきた。

 ドーリンに気が付いたザシーキン、そつのない動きでさっとその場から立ち上がると、客人を迎えるべく歩み寄った。

 そこで静かに一礼をした。

「大変失礼いたしました。お待たせしてしまったようですね」

 常に慇懃であった先代の老執事とは違い、人好きのする雰囲気でにこやかに微笑まれたドーリンは、主であるマルガリータの返事を聞く前にこの場に顔を出したことへの不躾を暗に仄めかされたような気がして内心面白くなかった。だが、当然のことながらそのようなことは顔に出したりはしなかった。


「マルガリータ。話がある」

 そう切り出したドーリンにマルガリータは伏せていた目を上げると僅かに顔を強張らせた。明らかに動揺をしているようだった。ドーリンに他に思いを寄せる(ひと)が出来たと信じて疑わないマルガリータのことだ。婚約の破棄を言い渡されるかもしれないとでも思ったのかもしれない。今ならマルガリータの心の動きが手に取るように理解出来た。大きな溜息を吐きたいのを我慢して、ドーリンはマルガリータの傍にそっと歩み寄ると隣の椅子に腰を下ろした。

 テーブルの上にはやりかけの刺繍が置かれていた。緻密な幾何学紋様と草花の模様(モチーフ)がびっしりと縫い込まれている色鮮やかなものだった。マルガリータは昔から器用な性質で素人のドーリンの目から見てもその腕前と美的感覚(センス)は中々のものだと思っていた。そう言えば、その昔、マルガリータに小さな刺繍入りの【プラトーチク(ハンカチ)】を貰ったことがあった。『なかなかに良くできたでしょう?』と少し自慢げに、それでもどこか気恥かしそうに差し出された小さな手。その上に乗った【プラトーチク(ハンカチ)】には、ドーリンの名前の頭文字(イニシャル)が特徴的な装飾文字―――術師たちが印封に使う古代エルドシア語とはまた違うものだ―――で縫い付けられていた。あの時の【プラトーチク(ハンカチ)】は、正直に話せば、その後一度も使わずにとってある。物に執着をする性質ではなかったが、それは何故か気軽に使えなかったのだ。術師である友人のリョウならば、そこには作り手の【想い】が沁み渡るようにして付いていると言うのだろうが、素養のないドーリンにはそれを術師のように感じることは出来なかったが、それでも特別なものだと思っていた。


「いつ見ても見事なものだな」

 初めは落ち着かないように目を伏せていたマルガリータも、唯一の趣味の話題を振られて、解れた笑みを浮かべた。

ふくよかな白い手がそっと刺繍に伸びた所で、ドーリンは、その柔らかそうな指にごく小さな赤い点が付着していることに気が付いた。

「リータ、指を刺したのか?」

 ドーリンは手を伸ばすとそっとマルガリータの手を掴み、傷を改めた。マルガリータが体を震わせたのが指先に伝わった。そこで不意に、先程、執事のザミャーチンが(ひざまず)いていた原因に合点が行った。現金なもので、それまでざわざわと耳裏を騒がせていた嫌なものが、すうっと消えていた。

「ええ。ちょっとうっかりしてしまって」

 マルガリータは小さく笑った。

「ザシーキンたら、大げさなのよ。ちゃんと洗って消毒をしておかないと黴菌が入って指を切らなきゃならなくなるなんて、怖い顔をして脅すんですもの」

 マルガリータは冗談めかして口にした積りだったのだが、ドーリンは大真面目な顔をして同じようなことを言った。

「リータ。掠り傷を甘く見るな。ザシーキンの言うことは正しい」

「もう、ドーリャまでそんなこと」

「いや、これは本当だ」

 真面目な顔をしていたかと思いきや、その口元が微かにつり上がる。そこに浮かんだのは、良いことを思い付いた時の顔だった。

 マルガリータは、瞬時に身構えた。昔からドーリンにとっての良いことは、必ずしもマルガリータにとっても同じであるとは言えないからだ。

「ああ、こうすればいいか」

 ドーリンは何食わぬ顔をして、血が小さく染みのように固まったマルガリータの指を、なんとぺろりと舐めたではないか。これにはさしものマルガリータも驚いた。

「ドーリャ?」

 声が裏返りそうになる。

「な……に?」

「消毒だ」

 そんな訳があろうはずはない。

「そんな……こと、聞いたことありませんよ?」

 お抱え医師のゾイナもその弟子であるザシーキンも人間の口の中は雑多な空間であるから、必ずしも衛生的ではないと言っていたのだ。舐めておけば治る。巷のきかん坊みたいな習慣はここでは通用しなかった。

「まぁ、後でしっかり洗っておけば問題ないだろう。なんだ、そんなに嫌な顔をしなくても良いだろう?」

 掠り傷を甘く見るなと言った口がそんなことを(うそぶ)いた。

「そういうわけでは……」

 マルガリータの手はいまだ大きな武人の手の中にあった。騎士団の詰め所である【アルセナール】に通う時に身に付けているような軍服ではなく、一般的な貴族の男が着るような普段着―――膝上くらいの丈の長い上着にシャツ、そしてズボンに長靴(ブーツ)だ―――を着ているドーリンは、一見、宮殿に勤める上級官吏のように見える。細かいことに煩い神経質な官吏だ。だが、その見た目とは違い、武人である男の手は、ごつごつとして剣だこがあった。片手はしっかりと握られていた。自分とは違う他人の体温は、何だかとてもむず痒くて仕方になかった。

「ねぇ、ドーリャ。放してくださいな」

「ん?」

 ドーリンは態とらしく分かっていない風を装ってマルガリータをちらりと上目遣いに見た。

「それよりも、リータ。いや、マルガリータ」

 ドーリンは不意に真面目くさった顔をしたかと思うと、そのふっくらとして手を押し頂くようにして顔を寄せ、その甲にそっと触れるだけの口づけを落とした。

「ドーリャ? 一体、なん…の…真似?」

 上体を窮屈そうに屈めた所から、じっとドーリンの瞳がマルガリータを見つめていた。ドーリンは口を聞かなかったが、マルガリータはそれ以上、声を出すことが出来なかった。

 いつもと同じように、いや、まるで昔に戻ったかのように気の抜けた空気ですらあったのに。ドーリンの瞳はとても凪いでいた。灰色に茶色が混じった不可思議な、それでも見慣れたはずの瞳の色合いが、これまでとは違って見えた。とても強い視線だった。決意を秘めたような。

 ―――――決意!

 不意に浮かんだその言葉にマルガリータの背筋に冷たいものが走った。ドーリンは、今、ここで、自分に許しを乞おうとでもいうのだろうか。そして、他に好きな相手が出来たと告白をするのだろうか。自分との許嫁の関係を解消する為に。その想像はマルガリータを凍りつかせた。ここ【デェシャータク(10日)】余り、マルガリータが改めて強く意識したのは、ドーリンへの想いだった。執着だった。ドーリンを失いたくない。自分の隣にいて欲しい。それは初めて気が付いた激しい感情だった。

 突如として溢れそうになった不安にマルガリータの心はうち震えた。


「リータ。聞いてもらいたいことがある」

「ドーリャ、お願い。どうかお願いだから、それ以上は仰らないで。本当に、後生だから」

 マルガリータの顔からは血の気が引いていた。

「いや、マルガリータ。これだけは聞いてもらわなければならない」

「そ…んな。無理です。ドーリャ、わたくしは…………どうかお願いですから、それ以上は何も仰らないで。あなたとは幼い頃からの長い付き合いで、本当に実の兄妹のように育ってきたんですもの。わたくしは、ドーリャ、あなたを家族のように大事に思っています。いいえ本当はそれ以上だわ。ですから、もし、わたくしに何らかの……わたくしと同じとは言いませんが……愛情を持ってくださるのなら、どうか、お願いですから、おやめになってください。だって、わたくしはずっと信じていたんですもの。ずっと。幼い頃と同じように。それが子供染みた幻想だったということに本当にたった今、気が付いたんです。ですから、ですから。どうかこれ以上、わたくしを苦しめないでください。本当に……お願いですから」

 マルガリータの声は興奮に上ずり、その頬には涙が伝い始めていた。

 それまで黙ってマルガリータの言い分を聞いていたドーリンであったが、ここで大げさな感じで溜息を吐くと額に手を宛がって、きっちりと撫で付けているはずの濃い茶色の髪をかき乱した。

「エィ! リータチカ。ドゥーラチカ・カカーヤ!(こんのお馬鹿)」

 不意に上がった大声にマルガリータは吃驚した。

「なんだってそうやって勝手に話を作り上げるんだ。あ? いいか、リータ。どこのどいつに何を吹き込まれたんだか知らないが、俺は、昔っから、そして、今も、自分の妻となる生涯の伴侶はお前だと決めている。他の誰でもない。リータ、お前だけだ」

 苦々しい顔をしたかと思いきや、真剣そのもののその剣幕にマルガリータは息を飲んだ。

「でも……それは、単にわたくしが幼馴染だからではありませんか? 親が決めた許嫁だから………」

「それはそうだが、それだけではない」

「でも…他にわたくしよりもずっと素敵な(ひと)が現れて……その方を好きになったのではないのですか!」

「だから、なんでそうなるんだ」

 ドーリンの眉間の皺が一気に深さを増した。

「……だって………」

「俺にはお前の他に好きな女などいない」

「…う…そ」

「嘘なものか」

 マルガリータは、ハッとして咄嗟にドーリンの腕を掴んだ。

「あの(ひと)はどうなるんですか? あんなに親しげにしていらっしゃったではありませんか!」

「は……?」

 ドーリンの目が点になった。

「何の話だ?」

「まぁ、お惚けになって、そんな風に仰ってもわたくしはみんな知っているんですから。あのシビリークス家に滞在しているという術師の方ですよ。随分と仲睦まじげでしたじゃありませんか」

 心変わりをした不実な男を責めるような言葉にドーリンは、ここではっきりとマルガリータの勘違いの原因を悟った。

「…………リョウのことか」

 ドーリンは急に気の抜けた声を出していた。余りにも馬鹿らし過ぎて、それ以上は言葉にならなかった。

 ドーリンはテーブルの上に肘を突くと、片手で頭を抱えたまま低く唸った。

「そうです。リョウさん。とても可愛らしい方でしたもの。朗らかで愛くるしい方。オリベルトのおじさまの新しい【ムーザ(芸術の女神)】なのでしょう? ドーリャだって気に入ったんではありませんの?」

「………リータ。それ以上言ったら、幾ら温厚な俺でも怒るぞ?」

 ドーリンは、ちらりとマルガリータを横目に見て、恨めし気な顔をした。

「もう怒ってらっしゃるじゃありませんか」

「リョウは友人だ。もっと言ってしまえば、俺の友人……お前もそれなりに知っているぞ? そいつの婚約者だ。リョウにはれっきとした婚約者がいるんだ。俺とどうこうなんてあるわけがない。冗談でもそんなこと言ってくれるな。あの男に半殺しにされかねない」

「……………え?」

「知らなかったのか? 俺はてっきり聞いているとばかり思っていたんだが」

 そう言って、リョウの婚約者はシビリークス家の三男であるユルスナールだと明かした。

 マルガリータは涙の跡が滲む薄荷(はっか)色の目を大きく見開いて、心底驚いたような顔をしてドーリンを見た。そして、そこで漸く自分の激しい勘違いに気が付いて、白い頬に赤みがパッと差した。

「まぁ………どうしましょう………」

 余りのことにマルガリータの声は掠れていた。

「どうもこうもあるか」

 ドーリンは小さく笑った。くっきりと刻まれていたはずの眉間の皺は、いつの間にか消えていた。

「―――で、誤解は、解けたか?」

「では、本当に? 本当に、わたくしでよろしいんですの?」

「ああ、お前でなくてはだめなんだ。そういうお前のほうこそ、俺でいいのか」

「ええ。ええ。勿論ですとも!」

 ここに来て初めて、マルガリータは明るい微笑を浮かべた。目の縁に残る涙を男の長い指がそっと拭った。

「では、改めて聞くが」

 ドーリンは姿勢を正すと、そう前置きをしてからマルガリータの右手を取って、真剣な顔をした。

「マルガリータ、私の妻になってくれるだろう?」

 この国に古くから伝わる求愛の慣わしに則って、婚姻後は指輪がはめられることになる右手の薬指に口づけを落とした。

「はい。わたくしのほうこそ、よろしくお願い致します」

 男に右手を預けたまま、何度も何度も小さく首を縦に振って、マルガリータは柔らかい笑みを浮かべた。ふにゃりとしたその愛嬌のある笑みは、昔から変わらないドーリンが愛して止まない笑顔だった。



 ******



 それからのことは敢えて明らかにしなくとも良いだろう。年が明けて二人は正式にナユーグ家で婚儀を挙げた。沢山の招待客が二人の門出を祝福しにやってきたが、その中には今回の騒動の発端となった―――と言ったら、確実に度肝を抜いて顔を青くしそうだが―――小柄な黒髪の術師とその婚約者であるシビリークス家三男の姿もあった。




「ねぇ、あなた」

 うら若き新妻マルガリータは、己が胸元に顔を埋めるようにして目を閉じた夫に小さな声で囁いた。

「シビリークスの方々も近々こちらに戻っていらっしゃるのでしょう? リョウも一緒かしら?」

「ああ。来週あたりには王都入りすると聞いている」

「ふふふ。是非お会いしたいわね」

「ああ。こっちに着いたら連絡をもらうようにしてある」

「まぁ。楽しみだわ」

 この所、夫のドーリンが寝る間も惜しむように忙しくしているのには、訳があった。この冬に軍部の【アルセナール】で持たれたスタルゴラド騎士団の編成会議で、各師団の大々的な移動が正式に発表されたからだ。第五師団長を務めるドーリンは、その勤務地が工業都市【プラミィーシュレ】からこの王都である【スタリーツァ】に変わり、その引き継ぎをしていたのだ。

「あちらは、今度は【ホールムスク】でしたわよね」

「そうだな」

 長いことこの国の北方を守る軍事拠点である【北の砦】で任務に就いていた第七師団は、王都から見て南東の方角にある貿易港【ホールムスク】へと配置換えになることがこの度、正式に決定していた。その場所は、現時点では第六師団が駐屯している場所である。表と裏の近衛である第一師団と第二師団、そして術師が多く集まる第三師団は、その勤務地は王都(スタリーツァ)のみと限定されていたが、その他の第四師団から第十師団までは、地元有力者との癒着や腐敗、そして長年の勤務による()れ合いを避ける為に4年から5年に一度の割合でその勤務地が移動となるのだ。

 同じ年の春、二人の後に結婚をしたシビリークスのユルスナールとリョウの夫婦は、その後、遥か僻地の北の砦へと戻っていたのだが、今度はその駐屯先が海に面した港町に変わり、その準備の為に暫く王都の本家の方へ滞在するという報せが、ドーリンたちの元にも届いていた。

「海がある綺麗な港町だそうですね」

「ああ」

「あちらは吹き寄せる風に潮の香りが混じっているのですって?」

 王都から殆ど離れたことのないマルガリータにとって、海は未知の世界だった。本の中の描写やその挿絵から想像をしたことはあるが、それは現実味のない夢の世界の延長だった。

「海の水はとても塩辛いのですってね」

「ああ」

「とても美しい所なのでしょう?」

「そうだな」

 【チャイカ(かもめ)】と呼ばれる白い海鳥が蒼い空と碧い海の上を羽ばたいて行く。この国スタルゴラドでも唯一の貿易港である【ホールムスク】には、遠く離れた異国から海路を使って様々な珍しいものが届くのだとか。

 そこでドーリンは妻の胸元からゆっくりと顔を上げると小さく微笑んだ。

「見てみたいか? 海を」

「そうですねぇ。一生に一度くらいは」

 ―――――もし、幸運にもそのような機会があったら……ですけれど。

「じゃぁ、今度、ルスランのヤツがいる間に行ってみるか」

「まぁ」

「勿論、その前に大仕事が一つ残っているがな。身二つになって、子供がもう少し大きくなってからになるが……」

 だから。

 ―――――無事に産まれておいで。

 そこでドーリンは、大きくせり出した妻の腹部にそっと手を当てた。いとおしむようにそこに息づく新しい命に囁いた。

「ふふふ。もう今からそんなに先のことを?」

 気の早い夫の話に微笑みながら、妻は腹の上に乗った夫の手の上に自分の手を乗せた。

「時間なんてあっという間に過ぎる。今から心の準備をしておかなくては。楽しみにしていればいい」

「ふふふ。そうですね」

 マルガリータは、甲高い声を上げて鳴くと言う海鳥が飛ぶ港町の高台から遥か遠く碧い海を眺める姿を想像してみた。その腕に小さな幼子を抱いて。そして、隣には寄り添うように夫が立っている。

 やがて生まれて来る新しい命。そして家族が増えるのだ。

「あ、動いた」

「まぁ、では、今の返事をしたんじゃありませんか」

 二人はそう言って顔を見交わせると穏やかに微笑んだ。二人を待つ未来は輝かしく、こうして穏やかで温かな日常の空気の中にひっそりと息づいている。

 こうして王都にあるナユーグ家本家の一室では、ささやかな幸福の揺りかごに揺られるように、静かに夜が更けて行った。



 終わり

ドーリンファンの皆様、長らくお待たせいたしました。いかがでしたでしょうか。ブログの方で頂いたリクエストなども地味に絡めています。懐かしい面々も出てきましたね。やっぱりドーリンって苦労人……そんなことを思ってしまいました。恋愛が絡む物語って難しい………。無い知恵を捻りながら、唸ること2週間弱。取り敢えず形になって良かったです。ありがとうございました。


*ナユーグ家の執事の名前をザミャーチンからザシーキンに変更しました。色々と不具合が出てしまったので。2012/10/1

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