3)-2 薄荷色の子守歌 中編)
あれは、友人たちに誘われて久し振りに演奏会に出掛けた帰り道のことだった。日頃から親しくしている音楽好きの友人たち―――マルガリータと同じような貴族の令嬢と思えばいいだろう―――の誘いで、現在王都で人気だという楽師の演奏会に出掛けたのだ。この頃、鬱々と何かに思い悩んでいる風の娘を心配して、母親も気分転換をしてきた方がいいと外出を強く勧めたので、マルガリータも偶には外の空気でも吸おうかと迎えに寄越された馬車に揺られて王都の中心街まで出て来た。
演奏会の会場は、宮殿から真っ直ぐに伸びた大通り沿いの賑やかな区画にあった。この王都でも由緒正しき歴史ある劇場で、収容人数の限られた小さい作りながらも、流行の最先端を行くような時に前衛的で趣向を凝らした演奏会が開かれることで有名で、興行主の趣味の良さは折り紙つきだった。マルガリータは、この劇場と同じ系列のもう少しこじんまりとした場所で開かれる詩の朗読会に何度か参加したことがあった。ここに集まる観客たちは貴賎を問わず様々であったが、マルガリータがこれまでに出掛けた演奏会は、小さな社交界を雑多な空間に移したような上品な紳士・淑女たちの集まりであった。
久し振りの演奏会は、とても素晴らしいものだった。【ヴィオロン】と呼ばれる小振りの四弦の弦楽器とそれよりもずっと大きな【ヴィオロンチェーリィ】という名の弦楽器、それに横笛を組み合わせた三重奏だった。演奏をしたのは隣国【セェルツェーリ】の演奏家たちで、曲目は、この大陸に古くから伝わる【スカモーロフ】の民謡をベースにしたものが数曲と同じく隣国で人気だという作曲家が書き上げた小品集からの数曲だった。この国の王都から見て北東方向、大きな川を隔てた所にある隣国【セルツェーリ】は、昔から音楽の分野では先進国で、そちらで流行している曲は、然程時差なく、同じように【スタルゴラド】でも持て囃されるきらいがあった。
どこか懐かしくも異国風の旋律は、マルガリータの心を大いに慰めた。演奏の合間に余興的に挿入された女性声楽家によるアリアは、緩やかで綺麗な旋律なのに、その歌詞は失恋の苦しみや報われない恋心を歌ったもので、マルガリータはそこで描かれた繊細で青臭い青年の心に自分の気持ちを添わせるように重ねていた。
演奏会が終わったのは、日が中天より少し傾いたくらいだった。まだ外は明るく、通りは大勢の人々で賑わっている。通りを行く馬車の車輪の音や御者の掛け声、石畳の上を闊歩する男たちや女たちの話声。少し脇道に逸れれば、籠を手にした物売りの声や露店や路面店の売り子たちの威勢のいい掛け声などが漏れ聞こえて来るだろう。
演奏会という空間の日常とはかけ離れた独特な高揚感を余韻として引き摺りながら、マルガリータは晴れやかな気分で会場の外に出た。その後、行きつけのカフェに行って、お茶と美味しい焼き菓子を囲みながら、先程の演奏会での感想や取りとめのない話題でおしゃべりをするのが、こういう時の常だった。
贔屓にしているカフェ【ザラトーイェ・カリィツォー】は、劇場から歩いてすぐの所にあった。同じ大通りに面している一等地にある路面店で、ここで出される焼き菓子は王都に暮らす多くの若い女たちを虜にしていることで有名だった。
店内に入ると大きな日除け布が張り出した下に並べられたテーブル席に案内された。解放感に溢れた店内。大きく枝葉を伸ばした街路樹の緑の濃淡から差し込む木漏れ日が、少し先の通りに点々と眩しい小さな陽炎を揺らしていた。白い糊の効いたシャツにお揃いの黒い【ジレェット】とズボン。執事よろしく背筋をぴんと伸ばした慇懃な態度の給士たちは、皆、すらりとした見目のよい男ばかりで、彼らを観察するのもまたここに集まる若い女たち(必ずしも【若い】とは限らないのだが)の密かな楽しみでもあった。それは、マルガリータたちのような貴族の令嬢たちも変わらなかった。まぁ、マルガリータ自身はそのようなことに余り関心がなかったので、いつも興奮気味に目を輝かせる友人たちの話に耳を傾けるだけであったが。
注文したお茶と焼き菓子が運ばれて、それらを囲みながらゆっくりと昼下がりの一時を気の置けない友人たちとおしゃべりをしながら楽しんでいる時だった。
「あら。ねぇ、マーラ。あそこにいるのって、ナユーグ家の人じゃなくって?」
友人たちの中でも一番目端の効く赤毛のファーヴラが、ツンと尖った高い鼻を通りの反対側へと向けていた。
「ほら、許嫁の」
「え、どこ?」
「ほら、あの【ファンタンカ】がある方のずうっと先」
「え?」
マルガリータと同じく、どこかのんびりとした友人のセレナも首を巡らせる。
「ほら、あの装飾品を売っている【パードレ】の前あたり」
「ああ、本当。そうよ。間違いないわ」
隣に座ったもう一人の友人、ステファナが自慢の明るい巻き毛を揺らしながら心得た風に頷いた。
日除けの影がチラチラと揺れる中、マルガリータも目を凝らした。そうして認識したその光景に凍りついた。
そこに見えたのは、略式の軍服に身を包んだドーリンと同僚と思しき同じような隊服を着た兵士たちの集団だった。見慣れた顔のドーリンの傍には柔和な面立ちをした兵士、それから髪の短い精悍な顔立ちの兵士がいる。こちらはその腕に第五師団の部隊章である緑の腕章を付けているのが遠目にも垣間見えたので、ドーリンの部下だろうと思われた。その後ろには、似たような形の兵服を着た大柄な兵士がいて、腕には王都の街中を警護する第四師団所属を意味する黄色い腕章が見えた。その男は右の頬桁の上辺りに刺青のような紋様があり、一見、無頼漢のような人相の悪い男だった。マルガリータたちのような貴族の御令嬢には全く縁のない空気を持つ男だ。そして、四人の男たちに埋もれるようにしてもう一人、黒髪の男がいた。その者は、隊服ではなくごく普通の簡素な上下に深緑色の外套を着ていた。傍に立つ四人の男たちと比べても一目瞭然の細い体つきの割に大きな鞄を背負い、腕にはこれまた大きな荷物を抱えていた。
なんてことはない。兵士である男たちの通常業務として、普通なら注視することに値しない光景だった。だが、マルガリータは、胸内にむかむかとした嫌なものが沸き上がってくる気がした。それを確かめるのは、とても怖かったのだが、でも確かめずにはいられなかった。と言うよりも目が離せなかった。
鼓動が妙な具合に跳ね上がった。ひりついた喉を潤そうと咄嗟にカップを手に取った。口に運ぼうとしたその手は、少し震えていた。そうして一口、味の分からないお茶を飲んで、再びゆっくりと視線を戻す。
五人の男たちは、向こう側からこちら側に歩いてくる途中、不意に立ち止まって大通りの端に寄った。立ち止まった集団の横を通行人たちが何食わぬ顔で通り過ぎてゆく。黒髪の男の周りに隊服を着た男たちが立つ。ドーリンの隣にいた優男風の男がこのカフェがある方角を手で示しながら、何やら話し込んでいるようだ。そこで横を向いていた小柄な黒髪の男の横顔が露わになった。その顔が、程なくして今度はマルガリータたちがいる方角へ向けられた。
「…………あ」
その顔立ちにマルガリータは息を飲んだ。後ろで一つに結えられた黒い癖の無い髪。いや、顔立ちがそもそもかなり特徴的だ。この大通りを闊歩する人々とは明らかに系統の違うその顔は、マルガリータにとって一度見たら決して忘れられない類のものだった。
―――――まさか。
最初は他人のそら似、もしくは見間違いかと思った。もしくは、そうであることを祈ったのだが、澄ました凹凸の少ない顔が男たちの会話に合わせるように笑みに象られた。柔らかく笑うその表情。間違いない。その時、マルガリータの予想は、確信に変わった。
あれは、この間ナユーグ家に客人として来ていたリョウだ。男装をしている……のだろうか。なんの為に?
余りにもじっとその横顔を見つめてしまっていたからだろうか。何かを探すように振り返った細い首が、マルガリータたちが集うカフェの方へと向けられた。黒い瞳がゆっくりと眇められる。隣に立った優男風の兵士がこちらを見ながらリョウの耳に何事かを囁き、同じようにして傍にいた男たちもカフェのテラス席で寛ぐ四人組の若い娘たちのテーブルに注目した。
その時、一瞬、マルガリータは、ドーリンと目があった。
広い通りを挟んで、マルガリータの薄荷色の瞳が、黒い瞳と交差した。テーブル席の華やかな淑女たちの顔触れに目を瞬かせたその女の瞳が、マルガリータを認識して柔らかく微笑に細められた。
マルガリータは声を失った。耳の奥にドクドクと血液が流れて行く音がした。
「まぁ、マーラ。お知り合い?」
「騎士団の方たちね」
「第五と第四だわ」
「こちらに来るのかしら?」
「まぁ、どうしましょう?」
「あら、あの子、変わった顔立ちをしているのね」
「でもなんだか可愛らしいわ」
俄かに色めき立った黄色い悲鳴に似た友人たちの興奮を映したおしゃべりをマルガリータは、どこか遠くで聞いていた。
―――――どうしてドーリンと一緒にいるの? しかも男と同じような格好をして。
この間の邂逅からそう時間は経っていない。もしかしてこんな風に頻繁に外で会っていたのだろうか。私が知らない間に。そんな取りとめのない想像が現実味を帯びて具体的な形を帯び始める。
単なる偶然と笑うには、随分と間が悪い気がした。
通りの向こう、リョウが近くにいたドーリンに話しかけた。こちらを指している。その背後に見るからに柄の悪い第四の男が立って、黒髪の頭の上に顎を乗せて圧し掛かるように体重を掛けた。リョウは顔を顰めて、片手で荷物を抱えながらそのほっそりとした腕を伸ばし、男の四角い顔を押しのけようとした。ぐいと大柄な男を押しやろうとするが、当然のことながらの体格差にびくともしない。第四の男はからかうような笑みを浮かべている。突如として始まった二人の子供染みた攻防に第五の腕章を巻いた二人の兵士が取り成すかと思いきや、笑いながら楽しそうに茶々を入れていた。それを見かねたドーリンが最後に何事かを言って第四の大柄な男を退かせたではないか。
「まぁ、何をやっているのかしら?」
「ふふふ、じゃれ合ってるのね。可笑しいわ」
「あの子、体のいい玩具みたいじゃない」
ひそひそと話す友人たちの笑いを堪える声。
和気あいあいとした、まるで男同士のような遣り取りを目の当たりにして、マルガリータは目が回りそうな気分になった。あそこにいるリョウは、全く女性らしさを感じさせない。寧ろ少年と言われた方がぴったりな感じだ。それでもあの時のようなくるくると変化する多彩な表情は健在で。ナユーグ邸での一幕を知るマルガリータは、リョウが淑女然りとしたとても女性らしい一面を持っていることも知っていた。
何ということだろう。マルガリータは内心慄きつつ目を伏せた。唇をきつく噛み締める。自分は今、酷い顔をしているに違いない。嫉妬混じりの浅ましい女の顔を。
あのような女性をマルガリータは他に知らなかった。自分とは全く異なる世界にいる女。自由で伸び伸びと振る舞うことのできる社交的な女。そう言えば、あの女は術師だと言っていた。立派な職業を持つ自立した女なのだ。マルガリータの常識から見ても型破りなリョウは、だが、とても眩しく思えた。
いまだ太い腕を伸ばしてちょっかいを掛けようとする第四師団の兵士にリョウは何かを言い返すとすぐさまドーリンを盾にするようにその後ろに隠れた。ドーリンはいつものように渋い顔をしていたが、嫌がる様子は見せずに、小柄な体を庇うようにしてさり気ない気遣いを見せていた。
もう十分だ。もう沢山。それ以上、見ていられなかった。マルガリータは、目を伏せると突然、テーブル席から立ち上がった。サァーと頭の血液が脚へ落ちて行くのを感じて視界が闇に包まれそうになる。ふらついた体をテーブルに片手を着くことで支えた。指先に触れた茶器がカチャリと音を立て、まだカップに残っていたお茶が跳ねて飛んだ。
「マーラ?」
「どうしたの?」
「顔色が悪いわよ?」
突然のマルガリータの動作に三人の友人たちから口々に訝しげな声が掛かった。
「もう帰らなくっちゃ」
マルガリータは口早に言うとその場を立ち去ろうとした。
「マーラ、ちょっと待って。どうしたの?」
赤毛を高く結い上げたファーヴラは吃驚して立ち上がるとマルガリータの腕を反射的に掴んでいた。
「マーラ? 気分が悪いの?」
マルガリータの顔は、普段の血色の良さが嘘のように蒼白になっていた。
「大丈夫。ただ少し立ちくらみがしただけ」
「マーラ、それなら余計に座って休んだ方がいいわ」
辛うじて立っているようなマルガリータをファーヴラが背後から支えて椅子に座らせようとした。対面に座っていた二人の友人セレナとステファナも席を立ち、四人の中でも一番上背のあるセレナがマルガリータの反対側の腕を支えるようにして持った。
「大丈夫よ。もう行かなくっちゃ」
何かに取りつかれたかのようにその言葉を繰り返す。
「駄目よ。マーラ。そんな顔をして。いいからお座りなさい」
四人の中で一番年嵩のステファナが諭すように優しい声で言った。
大通りに面したテーブル席で起こった若い令嬢たちのちょっとした異変にカフェ内で寛いでいた他の客人たちからはざわめきが漏れ、制服を着た給士たちが心配そうな面持ちで四人の若い娘たちの方を見ていた。その内の年嵩の一人が、事情を聞く為に彼女たちの方へと向かおうとした時だった。
何がしかの異変を察知したのか。通りの向こうからドーリンたちが急ぎ足でやってきたのだ。三人の友人たちはナユーグ家嫡男の登場に安堵の色を見せた。
「どうした? マルガリータ?」
ファーヴラに支えられるようにして椅子に座った蒼白な顔をしたマルガリータの様子にドーリンは真っ先に傍に寄ると何故か再び立ち上がろうと体を浮かせたマルガリータに座るように促した。
「気分が悪いのか?」
「いえ。大丈夫ですから」
絞り出すようにして漏れた気丈とも取れる台詞に、
「そんな青い顔をして何を言っているんだ」
ドーリンは相手を案じるように真面目な顔をしてマルガリータの傍に膝を着き、顔を覗き込むように見上げたのだが、マルガリータはドーリンと目を合せたくなくて反射的に顔を反らせてしまった。
「マルガリータ? どうしたんだ、一体?」
低く優しい声を出したドーリンにマルガリータは唇を噛み締め無言を貫いた。きつく目を閉じて小さく頭を左右に振る。相手を拒絶するような頑なな空気がそこにはあった。
一緒にいた友人たち三人を流し見た後、同僚たちと目を見交わせて、何が何だか分からずにあからさまに溜息を吐いたドーリンを遮るようにリョウが前に出て来た。
「顔色が悪いですね」
すぐさま腕の中に抱えていた荷物を足元に置いて、背中に背負っていた大きな鞄を前に持ってくると同じように地面に置いてから中をごそごそと漁った。
そして、再び素早い動作で立ち上がる。
「失礼します」
小さく簡潔に言ってから、リョウは手を伸ばしてテーブルの上できつく結ばれていたマルガリータの手にそっと触れた。手首を辿り、脈を確かめながらそっと顔色を窺う。
触れた手はとても冷たくて微かに震えていた。リョウはその手を摩り始めた。そうしながら落ち着いた口調で問診を始めた。
「少し触診させてください。失礼します」
相手の返事を待たず、淡々とした声に続いてほっそりと骨張った白い手がマルガリータの頬、首筋、顎、耳の辺りを辿った。
「吐き気がしますか? それとも目眩がしますか? 気持ち悪かったりはしないですか?」
丁寧に一語一語明瞭な言葉で告げられた女にしては少し低めの声は、動揺していたマルガリータの耳に乾いた土に水が浸みこむかのようにすんなりと入ってきた。
「だ……だい…じょうぶ…です」
震える唇を開いたマルガリータの本心を確かめるように黒い瞳がじっとその様子を窺った。真剣な瞳だった。その黒は深く透明で凪いだもので、このままこの漆黒に吸い込まれてしまいそうだと思った。誤魔化すことは許されない。偽りを口にすることも許されない。マルガリータは、この時、何故だか言い知れぬ罪悪感に囚われた。
束の間の沈黙にリョウが静かに言った。
「ワタシは術師です。新米ではありますが、こうして具合の悪い方を診るのに【玄人】か【新人】かは、今、関係ありません。どんな相手であろうとも患者から見ればワタシは【術師】であることに違いはありませんから」
リョウの黒い瞳は、静かにマルガリータの薄荷色の瞳を見つめていた。骨張ったかさついた手が、そっとマルガリータのふくよかな白い手に触れる。合わさったそこから温かな【何か】が流れて来るような、上手く言えないのだが、そんな気がした。
「ゆっくり息を吸って。それから吐き出してください」
吸って。吐いて。単純な指示は呪文のようにマルガリータに作用した。煩かったはずの心臓は、少しずつ落ち着きを取り戻して行った。
「吸って、吐いて。そう。ゆっくりと」
黒髪の術師は鞄の中からくすんだ生成り色の小袋を取り出し、その中から小さな緑色の瓶を取り出した。片手はマルガリータに触れたまま。空いているもう片方の手でその瓶の蓋を取ろうとするが上手くいかない。
「リョウ、貸してごらん」
すぐ近くにいた緑色の腕章を付けた優男風の兵士がリョウの斜め後ろに立ち、助力を申し出て、慣れた手付きできつく密封された瓶の蓋を開けた。
「ありがとうございます。ウテナさん」
囁くようにして微笑んだリョウは、手渡された小瓶の蓋部分を自分の親指で抑えて、鼻先に持って行くと中身の匂いを確かめた。
そして殊更ゆっくりとマルガリータに向かって言った。
「今からこの瓶を鼻先に近づけますから、同じようにゆっくり吸いこんでください」
小さな緑色の小瓶が目の前に来て、マルガリータは言われるままに息を吸い込んだ。清涼感のある薄荷に似た香りが鼻孔一杯に広がり、マルガリータを包みこんだ。反射的に目を閉じる。高ぶった神経が急速に萎んで行くように思えた。
「………いい匂い」
意図せずして漏れたマルガリータの声に目の前の術師が微笑んだのが、震える呼気から伝わってきた。
「そのまま、もう少し。吸って。はい、吐いて」
段々と意識が遠くなってきた。ゆらゆらと白み始めた目の前にマルガリータの意識は、ゆっくりと目の前に佇む【漆黒】の中に沈んで行った。
―――――かくん。
支えていた体から力が完全に抜けて、ファーヴラに代わりマルガリータを背後から支えていたドーリンは、腕の中の相手が気を失ったことを知った。
くたりとして重みの増したふくよかな体をしっかりと抱え直すと探るような視線を術師に向けた。
額際に零れ落ちた柔らかで癖のある髪をそっと耳の後ろに撫で付けてやって。術師は、その女性特有のふくよかではりのある頬にそっと指先を滑らせると、漸く口元を少し緩めた。
「精神的疲労、もしくは寝不足からくる貧血だと思います。少し強めに精神安定を促す薬草を用いましたので、目覚めるのは日没間近になるかもしれません。それまでは安静に休息させてください」
目を閉じたマルガリータからは、小さな寝息が漏れ始めていた。どうやら落ちるように半ば強制的に眠りに入ったようだ。
「この所、あまりよく眠れていなかったのかもしれませんね」
ドーリンの腕の中に収まったマルガリータの目の下には薄らとくまのようなものが現れていた。それを見て術師が私見を述べた。
「そうか。済まないな、リョウ」
リョウは微笑み返すと膝を着いたまま鞄を元通りに直した。
「いえ。ではドーリンさんは、このままマルガリータさんをお屋敷へ」
両者が許嫁同士であるという関係性を事前に知っていたリョウに言われるまでもなく、ドーリンは静かに頷いた。
「馬車はどうしましょう?」
どこで手配をしようか。街中で営業をしている辻馬車―――御者付き(ない場合もあるが)で馬車を貸す商売を一般的にそう称する―――にするか、第四師団所有のものを借りるか、それともナユーグ家に使いを寄越すか。
その問い掛けに同じように傍にいた第五の兵士イリヤが次のような提案をした。
「ここからだと辻馬車の方が近いですが、どうしましょう。第四の方にしますか?」
そう言って、ちらりと黄色の腕章を身に着けた荒くれ者のような人相の兵士であるザイークを見る。
ドーリンは、即決した。
「そうだな。辻馬車の方を頼む。なるべく大きくて居心地のよさそうなものを」
「了解です」
上司の依頼にイリヤは小さく頷くとこの大通りの北側の端にある辻馬車屋へと走って行った。
その間、残った三人の御令嬢たちの相手をしていたウテナが、そつのない応対で友人たちに帰宅を促した。三人の中でも一番年長のステファナの家が所有し、皆で一緒に使ってきた馬車が御者と共に直ぐ近くの馬車屋で待機しているとのことで、カフェの下男に連絡をつけてくれるように頼み、そちらの方は問題なく済んだ。
ドーリンは慣れた様子でマルガリータの体を横抱きに抱え直すと、程なくしてイリヤが呼んだ御者付きの辻馬車に乗ってショーロホフ家へと向かった。
「お気をつけて。そちらのお屋敷にも専属の術師の方がいらっしゃるかもしれませんが、もし何かありましたらご連絡下さい。お宅の方へは一応伝令を飛ばしておきますね」
「ああ。ありがとう」
こうして御者の威勢のいい掛け声とともにガラガラと石畳を軽快な音を立てて、ドーリンたちを乗せた馬車が去って行った。黒髪の術師はそれを見送ると天を仰ぎ口笛を吹いた。呼び笛の音を聞きつけて、偶々通り掛かった猛禽類の隼にマルガリータの屋敷への伝令を頼むことができた。鞄の中の帳面を破り、お手製の鉛筆で簡潔に用件をしたためて隼の脚に括られた細い筒の中に入れる。
鋭い鉤爪が付いた反対側の脚には軍部の第四師団所属を意味する黄色い輪が付いていたのだが、リョウにとっては却って都合が良かったのかもしれない。いきなり見ず知らずの術師から連絡を寄越されるよりも騎士団からの使いの方が、信用があるからだ。
少し離れた位置で一部始終を見ていた第四のザイークは、黄色い輪を【見なかったこと】にした。本当は勝手に軍部の伝令に用事を頼むのは控えるべきなのだろうが、仕方がない。幸いザイークはその辺りのことに寛容で―――と言うよりも細かいことを単に気にしないだけなのだろうが―――黙殺してくれる風だった。まぁ、後でそれなりの口止め料、もしくは見逃し料を要求されるのかもしれないが。
辻馬車の少し硬い背凭れに揺られながら、ドーリンは腕の中で密かな寝息を立てているマルガリータの顔を覗き込むようにして見た。大きな骨張った男の手が、ふっくらとしたまだ年若い女の頬をそっと撫でる。その手つきはとても優しいものだった。
鉄面皮と揶揄される澄ました顔の眉間の間に刻まれる皺は、この時一層の深さを増していた。知人である術師が指摘した通り、マルガリータの閉じられた目の下には薄らと青く沈んだ皮膚があった。
―――――この所、良く眠れていないのではないですか?
何があったのだ。マルガリータの身の上に。
ドーリンの知っているマルガリータは、いつものんびりと朗らかな空気を身に纏っていて、その口元には柔らかな笑みを浮かべていた。物心がつくかつかないかくらいからの長い付き合いだ。相手の心の動きは手に取るように理解できると思っていた。
この瞬間までは。
マルガリータがあのように取り乱す様を見たのは初めてのことだった。いや、違う。約【デェシャータク】前、ドーリンの実家であるナユーグ家本家でも似たようなことがあったではないか。
ドーリンは、どこか苦々しい気分でそっと溜息を漏らした。まるで消化できない【なにか】を飲み込むかのように。
あの日は、古くからの友人の婚約者で、ドーリン自身もなにかと付き合いがあるリョウが、所用で本家を訪ねてきていて、偶然遊びに来ていたマルガリータと廊下で遭遇し、束の間の語らいをしていたのだ。その中にドーリンが、叔父であるオリベルトが帰宅した旨を伝えに行くと、それまで和やかな空気の中で談笑していたはずのマルガリータの態度が急変したのだ。あの時も急に顔色が悪くなった。そして、突然、まともな挨拶もせずに立ち去ったのだ。礼儀を重んじる貴族の婦女子の習いの中では、あるまじき不躾な態度で、共にいたリョウも困惑して、何か不味いことを初対面の相手にしてしまったのだろうかと青くなっていた。
あの時のマルガリータの豹変は、ドーリンを大いに困惑させた。一体、何が起きたのか理解が出来なかった。人間であるから感情的になることもままあることだが、まるで幼子の癇癪のようなむらっ気だ。らしくない態度にドーリンは引っ掛かりを覚えたのだが、その後、当人や家族にその辺りの事情をそれとなく探ることは出来なかった。
ドーリンにとってマルガリータは幼い頃からの知り合いで、親同士が決めた許嫁であった。ドーリンはその事実をなんの疑問も持たずに受け入れていた。そう。例えば息をするのと同じくらい必然的で、自然なことだった。マルガリータとは気心が知れていたし、何よりもドーリン自身、マルガリータがゆくゆくは己が妻になることを望んでいた。
恋だのなんだのという恋愛には元々余り興味はなかった。初恋というものがあったかすらも分からない。気が付いた時には幼いマルガリータがもうドーリンの人生の中に根を張るように入り込んでいて、それを一度も不思議に思ったことがなかったのだ。ナユーグ家とショーロホフ家は親同士仲が良かったので、元々交流は頻繁であったし、両親から許嫁だと聞かされた時も、別段、驚いたり反発を覚えることもなかった。幼いながらに頭のどこかでそうなるであろうことを予想していたのかもしれない。子供時代というものは、大人たちが思っている程、未熟なものでもなく、幼いながらにかなり冷静に自分のことを考えているものである。
思春期を迎えるかどうかという繊細な時期には、自立心の芽生えから親が決めた相手ではなくて自分が選んだ相手を妻に迎えてその後の人生を共にしたいというどこか熱っぽい、その年頃特有の夢想家たち(友人たちのことだ)に触発された気持ちに鼓舞されることがなかったと言えば嘘になる。だが、元来、現実主義を地で行く冷静な性質でもあったので、この分野では夢見がちな青少年たちとは早々に袂を分かち、そうして一時の熱が冷めてしまえば、ドーリンの胸に残ったのは、兄妹のように等しく年月を重ねた幼馴染の少女と共に歩む平穏で静かな家庭生活への希求だった。
ドーリンはマルガリータも同じような気持ちだと思って疑わなかった。成人し、正式に騎士団への入団が認められてからは、ドーリンの生活はそれまでとは一変し、軍務第一主義の下、かつてのように幼馴染と交流をする暇も精神的余裕もなかった。
だが、それは最初の数年で、その後は、また少しずつではあるがショーロホフ家の方にも顔を出すようになった。余り乗り気はしないながらも、ナユーグ家の嫡男という手前、社交界にも顔を出すようになった。
ちょうど同じ頃、マルガリータも貴族の淑女として社交界に入り、ドーリンはそこで煌びやかに着飾ったマルガリータに出会った。艶やかな丸顔の頬を上気させ、柔らかそうなふっくらとした白い手でドーリンを舞踏に誘う。本を読むことが大好きな引っ込み思案の【少女】から礼節と分別を持った淑やかな【女】に変貌したマルガリータを意識した途端、ドーリンの中で言い知れぬ甘やかな【感情】が生まれたのだ。昔ながらの心地よさの中に、どこかふわふわとした色の付いた何かが入り込み、若きドーリンの心を震わせた。当時は緊張の余りに促されるままに盃を重ねたことによる緩やかな酩酊感が、神経を無駄に高ぶらせているのかと思ったのだが、よくよく思い返してみれば、あれは幼馴染に恋情のようなものを抱いた初めて感覚であったのだろう。
その後、顔を合わせる度にドーリンはマルガリータに対する思いを具体的な形に変容させて行った。
好きだとか、惚れているとか、具体的な言葉は口にしたことがない。それでも両者の間にあるのは、そのような疑似家族愛から長い時間を掛けて育まれた恋情の上に作られた相手への思いやりだと思っていた。
何か悩みがあるのなら話して欲しい。これまでと同じように共有して分かち合いたい。
―――――リータ。リータチカ。
幼い頃からの愛称を心の内で囁きながらドーリンは腕の中にあるマルガリータの秀でた額にそっと触れるだけの口づけを落とした。
ショーロホフ家に戻ったマルガリータが目を覚ましたのは、新米術師の予想通り、【ソンツェ】が西の空に沈もうとした頃合いだった。空が暖かな夕焼け色に染まる頃、室内の明かりが落とされたマルガリータの私室にも日没前の茜色が伸びるようにして入り込み、全ての空間を滲むような橙色に染め上げていた。
室内の大きな寝台の中には寝間着に着替えたマルガリータが静かに横たわっていた。そして、その枕辺には、入り口に背を向ける形で、背凭れのある腰掛けにドーリンが腰を下ろしていた。
額際に掛かるさわさわとした少しくすぐったい感触にマルガリータの意識が浮上した。目を開けた時、一番に飛び込んできたのは、見慣れた自室の天井だった。マルガリータは目を瞬かせた。体内に残る記憶の断片を繋ぎ合せるように顔を顰めると、
「リータ? 目が覚めたのか? 気分はどうだ?」
馴染み深い声が聞こえて来た。ゆっくりと首を巡らせると顔面を眉間からぎゅっと手前に引き絞ったような顔をしたドーリンがいた。端から見れば不機嫌そうに顰められていると思われてしまう表情もマルガリータには男がとても心配していることが伝わっていた。
「ドーリャ?」
曖昧な記憶の中で、幼い頃の愛称が口を突いて出て来た。だが、すぐ傍にある男の眉間に今までに見たことがないくらいの深い皺が刻まれていて、マルガリータは不意に可笑しくなった。
気が付けば男の顔へ手を伸ばして、縦に入った一本の深い線を突いていた。
「どうしたの? こんなに深い皺を作って」
呑気なマルガリータの声にドーリンは、気が抜けたように大きく息を吐き出した。椅子に座った状態から前に屈んで、マルガリータの枕辺に片肘を突き、長い指の大きな手で己が額を覆った。参ったというような塩梅である。
「それはこっちの台詞だ」
ドーリンは閉じた目を開いてマルガリータの方を上目遣いに見ると恨めし気に絞り出すような声を出した。
だが、気を取り直したのか、上体を起こして椅子に座り直した。
「気分はどうだ?」
再び問い掛けられた。マルガリータは、寝室が西日に侵食されるように白い壁が橙色に染まっているのに気が付いた。
「………もう日没なのね」
記憶の中にある時間を引き出しの中から引っ張り出そうとした。
「ああ。よく寝ていた」
「寝ていた?」
マルガリータは耳に入った一文を繰り返した。そう言えば、どうして部屋に戻っているのだろう。今日は確か演奏会に出掛けたのではなかったか。いや、それは昨日のことだったのだろうか。混乱しそうになる記憶を時系列的に元の配置に戻そうとマルガリータは寝台の上に体を起こした。
「喉は乾いていないか? 水を飲むか?」
起き上ったマルガリータの背を支えるようにドーリンの大きな手が背中に宛がわれ、すぐ傍に置かれていた肩掛けをそっと寝間着姿の肩に掛けた。
問い掛けには答えることなく、ゆっくりと目を瞬かせて。そこでマルガリータは直前の記憶を思い出した。
「……あ………」
口元に手を宛がって、恐る恐るといった風に隣に座る男を見た。
「………わたくし…………」
そう言ったきり、言葉が続かない。
「………演奏会に行って……………カフェで……………」
切れ切れの掠れた断片をドーリンが簡潔に言い直した。
「ああ。気分が悪くなって気を失った。思い出したか?」
円らな薄荷色の瞳が見開かれた。
「では、ドーリャが……わたくしを……家まで?」
「そうだ」
それからドーリンは、その後の状況―――共にいた友人たちは自分たちが乗ってきた馬車で帰宅したこと―――を淡々と告げた。
「…………そう」
長い息を吐き出した後、マルガリータは少し困ったような情けない顔をした。
「ごめんなさい、ドーリャ。お仕事の途中だったのでしょう? ご迷惑をお掛けしたわね」
ドーリンは同じく略式ながらも隊服に身を包んだ部下を連れていた。男の方にも予定があったに違いない。普段、ドーリンは王都から離れた大きな工業都市【プラミィーシュレ】に赴任していて、この武芸大会が開かれる一時期に大会へ参加する為にスタリーツァに戻って来ているのだ。その間は、軍部の詰め所である【アルセナール】に通って、忙しくしていると聞いていた。
申し訳なさそうな顔をして男を一瞥したマルガリータにドーリンは微かに微笑んだ。
「なに。俺のことは気にするな。今日の用事は別にたいしたことはなかった。それよりも、聞きたいのは、そんな謝罪の言葉ではないぞ、リータ、ん?」
迷惑を掛けたと思い謝ってしまったが、ドーリンが求めているのは自分を卑下した言葉ではない。よくこうやって、何でもすぐに『ごめんなさい』と口にしてしまう幼い自分に向かって、『それは悪い癖だと』一見、怖そうな顔を作って諭したものだった。
そう。こういう時は。
「ありがとう、ドーリャ」
正しい回答にかつての【教師】は、よくできたとばかりに小さく笑った。
「何か…悩みでもあるのか?」
唐突に切り出された話題にマルガリータは小さく息を飲んだ。
「この所、よく眠れていないようだと聞いた」
ドーリンの手が前に伸び、マルガリータの頬にそっと触れた。親指が優しく辿るように目の下の青く沈んだ皮膚をなぞった。
マルガリータは咄嗟に目を伏せた。嘘は吐きたくないけれども、本当のことも言いたくはない。いや、言える訳がない。当の本人を目の前にして『他に心奪われる女性が出来たのではないか』なんて。自分は【許嫁】と呼ばれる立場にあるが、その地位は長い年月の間にすっかり擦り切れてしまったぼろ布のようなもので、【婚約者】という響きほど輝かしい強固な繋がりのようには見えなかった。それは端から見れば、些細な違いなのかもしれない。それでもマルガリータにとっては、非常に大きな違いのように思えたのだ。【許嫁】という状態にあってから、ずっと成人して長じた今でも婚儀が執り行われず延期を繰り返してきたことも、マルガリータの心に小さな染みのような影を落としていた。婚儀が延び延びになってきたのは、仕事の所為ではなくて、本当は自分と結婚したくないからではないか。一度悪い方向に考え出すと止めどない。
残念ながら、マルガリータの不安や心配は、男の方に全くと言っていいほど伝わってはいなかった。
マルガリータは咄嗟に当たり障りのない笑みを浮かべていた。
「大丈夫ですよ。ただちょっと、ここ数日ばかり眠りが浅かった所為です」
やんわりとだが、相手を拒絶するような態度にドーリンの顔が気色ばんだ。
「ほう? ただ数日、ほんの少し眠りが浅かったと言うだけで、こんな所にこんな濃いクマを作るのか? 挙げ句に外出先で貧血になって倒れるというのか?」
淡々と静かに男の口が正論を吐く。
「きっと……悪い条件が…重なってしまったのだと思います」
「悪い条件とは?」
「外出するのは久し振りのことで、すこしはしゃぎ過ぎましたし、演奏会も素晴らしくて興奮しっぱなしでした。それに今日は日差しも強い方でしたから」
淀みなく紡がれる説明の言葉は、その早口とかつ舌の良さ故にドーリンには胡散臭く聞こえた。
頬に宛がわれていたドーリンの手が下に滑り、顎の辺りの柔らかな皮膚を擽るようにしてから離れて行った。
それから少し声音を変えて、ドーリンは真っ直ぐにマルガリータの瞳を見た。
「リータ、心配したんだぞ?」
―――――倒れるなんて余程のことだ。
「胆が冷えた」
マルガリータは、微笑もうとして失敗してしまった。口の端が何かを堪えるかのように歪み、目を伏せた。
そんな気休めの言葉を吐かないで欲しい。そのように優しい所を見せられたら、まだ自分に心があると勘違いしてしまうではないか。自分よりもずっと今のドーリンの心を捕らえている相手がいるのではないか。
例えば、あの黒髪の術師のように。
―――――ねぇ、ドーリャ?
臆病風に吹かれながらもそれを叱咤して開こうとした口は、
「後で、リョウに礼を言っておかないといけないな」
何気ない男の呟きに固まってしまった。
リョウ。不可思議な響き。自分とは全く違う魅力に溢れた異国の女。体格も顔立ちも表情も。何もかもが異なる。可憐で華奢な女。
唐突にマルガリータの中にぶす黒い嫌な感情が芽生えてしまった。そして、瞬く間に膨らんでマルガリータを飲み込もうとしていった。柔らかく微笑んだあの穏やかな気性の女をどうしてこれほどまでに憎く思えてしまうのだろう。突如として沸き出した自分でも制御のつかないもやもやとした嫉妬の感情にマルガリータ自身が困惑し、そして、傷ついていた。
マルガリータは体ごとドーリンに背を向けた。
「そう言えば、リョウさん……と仰いましたかしら? あの方にも大変ご心配をお掛けしてしまったのですよね。どうか、【よろしく】お伝えください。後でわたくしの方からも謝辞のお手紙を届けましますから」
すらすらと口を突いて出て来た台詞は、自分でも刺々しく、かつ冷え冷えとして聞こえて、そんな風に相手に当たってしまう態度にマルガリータは自分自身で嫌になった。でも、そうすることを止められないのだ。初めて認識した【恋心】というものは、日頃から落ち着きと見識の高さを窺わせる大人の女性であっても、かくも狭量にさせる。罹ったら最後、ほとぼりが冷めるまでは厄介な病である。
「あの方はシビリークス家に滞在していらっしゃるのでしょう?」
「ああ」
マルガリータの口から出た【シビリークス】という友人の家名に、ドーリンは相手がリョウの正確な立場―――シビリークス家三男坊の婚約者である―――を聞き及んでいると誤解してしまった。これも些細だが、後々、実に大きな行き違いを生むきっかけになった。ここで欠けた小さな歯車は、それが余りにも小さな欠片であったが故に、ひっそりと水面下で破壊が進行し、そして気が付いた時には、取り返しがつかない不具合を生み出すことになったのだ。
「最初はわたくしも見間違いかと思いましたの。だって、この間、初めてお会いしたときとは随分と感じが変わっていらしたから」
まさか淑女然りと女物のワンピースを着て淑やかに微笑んでいた女が、街中で男と同じ格好をして、軍人相手に少年の如きじゃれ合いをしているとは思わないだろう。
敢えて口にはしないながらも暗に示されたことが理解できて、
「…まぁ……そうだな」
珍しくドーリンは微妙な顔をして言い淀んだ。ドーリン自身、リョウの性別については一本取られた口であった。あの時の衝撃は今でもよく覚えている。初めて出会った時から暫く、ずっと少年だと思って疑わなかったのに、ある日突然、貴族の令嬢も吃驚な程の艶やかな女の姿をして目の前に現れたのだから。
だが、その時の事情を知らないマルガリータには、この時のドーリンの態度が、好意を寄せる相手を控え目ながらも貶されて困惑している……ように思えてしまったのだ。
一度、噛み合わなくなった歯車は、こうして加速度的に離れて行く。
「あの方は、術師なのですよね?」
「ああ。そうだ。新米だが、とても優秀だと聞いている」
ドーリンは、マルガリータを診察した術師の腕に太鼓判を押した積りだったのだが、マルガリータには、相手を擁護するような意味合いとして聞こえた。
「まぁ、それは素晴らしいですわね」
マルガリータの声はどこか素っ気ないものだった。
マルガリータの不安を取り除こうとして告げられる男の言葉が、全て真逆の方向に作用した。なんとも皮肉なことではないか。
「いつも、あのような格好をしていらっしゃいますの?」
―――――そうやって街中を自由に歩き回り、そして、ドーリンとも頻繁に会っているのだろうか。
「まぁ、そうらしいがな」
ドーリンはここでも微妙な顔をした。
「本人的には、男装をしている積りはないようなんだが、不思議とあれだと男に見える。リョウ自身もその辺りは慣れたものなのか、全く気にした風はないから、余計にそう見えるんだろうな。だが、最近は女物の服を着ていることも多いと聞く。まぁ、元々服装に拘りはないんだろうがな」
リョウは普通の女性とは違い少し変わった所があるがいい奴だ。そう言って微かに笑う。
ドーリンの口から漏れた相手の称賛は、マルガリータの心を棘のように突き刺した。そしてつい、憎まれ口のようなものを叩いてしまった。
「まぁ、では。女性としても、とても素敵な方なのですね。ドーリャにとっても特別なのではありませんか?」
平生とはまるで違った棘のある口振りにドーリンは眉を顰めた。
「マルガリータ、どうしたんだ? やけに突っかかるな」
「突っかかる……ですって?」
その言い方は、いつになくマルガリータの神経を逆撫でた。
「突っかかる……だなんて」
自分でも大人げない態度を取っていることは分かっているからこそ、それを相手から指摘されると面白くない。マルガリータは膝の上に置いていた手をぎゅっと握り締め、体の中で暴れ回る嫌な感情を抑えようとした。
「マルガリータ」
ドーリンが名前を呼んだ。愛称ではない正式な名称で。それは、どこか窘めるような声音で、マルガリータは突き放された気がした。
「何をそんなに腹を立てているんだ?」
ドーリンは訳が分からないという顔をして訊いた。
「腹を立てている……だなんて。そんなこと……ありません」
ちらりとドーリンを一瞥した後、ふいと横を向く。
「では、言葉を変えよう。どうして、そんなにピリピリしているんだ? まるで毛を逆立てて威嚇する【コーシュカ】のようだ。何が気に喰わないんだ? らしくないぞ?」
―――――らしくない。その言葉にマルガリータは絶望的な気持ちを味わった。
「【らしくない】とは、どういうことですか?」
分かった風に言わないで欲しい。まともに目を合わすことが出来なくて、マルガリータは顔を背けたままだった。
すると、ドーリンが深い溜息を吐いたのが感じ取れた。そのことにマルガリータは余計に体を硬くした。きっと呆れていることだろう。癇癪持ちの子供のようにみっともない真似をしている。それでもマルガリータには態度を改めることが出来なかった。こうしてみると悪循環だ。
「リータ。一体、どうしたんだ? 何があった? この間から変だぞ」
ドーリンの静かな声が、暮れかかった橙色の室内にこだました。こういう時、ドーリンは決して感情的になったりはしないのだ。昔からそうだ。小さい頃から、ドーリンはマルガリータに対して声を荒げたりすることはなかった。幼子らしい理不尽なことを口にしたとしても、ほんの少し眉間に皺を寄せるだけで、穏やかな声で諭し、窘めるのだ。
そう、今も同じ。
「悩みでもあるのか? 俺には話せないことなのか?」
こうやって手を差し伸べてくれる。
でも今回ばかりは、相手を頼るわけにはいかなかった。
マルガリータは顔を背けたまま、小さく頭を振った。
「いいえ、何でもありません。どうぞわたくしのことはお気になさらずに。大丈夫ですから」
気丈に振る舞っている積りでも、頑なな態度ばかりを取ってしまう己の情けなさに語尾が微かに震えた。
膝の上できつく握り締められていた白い手が、大きな温もりに包まれた。その瞬間、マルガリータの肩が微かに震えた。
「リータ。俺はそんなに頼りにならないか?」
懇願するような響きがそこにはあった。
だが、その問いに答えることなく、マルガリータは目を閉じて小さく首を振った。その完全なる拒絶の態度にこれ以上、話をすることは無理だと早々に悟ったドーリンは、『何かあれば呼んで欲しい。まだ客間の方にいるから』と告げて、マルガリータの部屋を辞した。
マルガリータは、静かに扉が閉じる音がすると枕辺に突っ伏した。やがて静まり返った部屋からはすすり泣きが聞こえ始めた。思いがけない感情の振り幅を自分でどうすることも出来なかった。どうしたいのか。どうすればいいのか。それすらも分からなくなって。ただただ心の中を埋め尽くすのは、悲しさとやるせなさ、そして、中途半端に悶々とする自分の不甲斐なさ。そうやって一頻り落ち着くまで枕を涙で濡らしたのだった。