2)【ファナーリ】亭のエヴドーシィヤ
第一弾は、「Messenger」で頂いたリクエストからです。
小さな平たい瓶に入れられた軟膏をしなやかな白い指が掬い取った。それを掌で揉みこむように温めた後、両手に擦り込んでいった。【オレーヒ】の実から絞った油に【ミョード】と【ベリョーザ】の樹液を混ぜた特製のクリームだ。ほんのりと甘く、それでいて清々しい香りの付いた清涼感のある使い心地だ。
クリームを塗り込んでいる手は、女のものだった。厚みのある柔らかそうな手だ。肌理も細かい。女の年齢は、その手に如実に表れると言うが、軟膏を塗り込むその手は、水仕事や家事労働とは無縁の綺麗なものだった。シミも皺も一つもない。傷の類とも無縁だ。
だが、それは、恐らくその女の【自然で天然な状態】ではないのだろう。毎日手入れを怠らない為に生み出された【半人工的】な手。
実際の年は、幾つくらいだろうか。その手を見る限りは、まだまだ【花の盛り】という頃合いに思える。
その女の手が専ら触れるのは、酒瓶に琥珀色の液体がゆらゆらと揺れるグラス、そして上等な男物の衣類。逞しい筋肉質な男の太い腕。偶に脂肪がたっぷりと付いた毛むくじゃらの腕もあるだろう。それらの上を女の柔らかな指がそっと滑るのだ。
白くふくよかな女の手は、軽やかに動いた。まるで流れるような動作で無駄がない。そして、爪の先まで綺麗に磨き上げられていた。
小さな貝殻のような艶やかな薄紅色が散った手。可憐というほど小さくはないが、それでも可愛らしく思えるほどには小さい。
どうやらこれで仕度が整ったようだ。どこからか女を呼ぶ声がする。これから仕事なのだろう。鏡台の前から立ち上がった女は、鏡に向かって微笑んだ。
それでは、我々は、この女の後を付いて行くことにしよう。
* * * * *
あたしは、夜の蝶。この街【プラミィーシュレ】で夜毎、様々な男たちと束の間の夢を共にする。現に生きながら、現とは遠い所にある存在。
あたしの住む街は、一言で言えば【男くさい】所だ。それは、大通りを闊歩する連中の顔触れを見れば直ぐに分かるだろう。大剣を背に担いだ男。長剣を腰に佩いた男。槍を手に持つ男。その顔付きは、皆、勇ましく、一癖も二癖もある粗野さに溢れている。中には兇状持ちみたいに目付きの悪い連中や柄の悪い連中もいる。
大通りから少し道を逸れれば、今度はカンカンと金属を打つ音、石を穿つ音が聞こえてくるだろう。この街は、刀鍛冶が多く集まる街でもある。武具や武器を誂える職人たちも多い。
元々、この街は小さな採石場だった。そこで産出される鉱石が良質であった為、良い原石を求めてそれらを様々な用途に加工することを生業とする術師たちが移り住み、それから今度は加工された良い石を求めて鍛冶屋が集まった。そうして発展してきたのだ。今ではこの街で採掘される資源の量は少ないが、国内各地から様々な鉱石が集まり取引される一大拠点になっていた。
鍛冶屋や武器・武具を扱う店が多く軒を連ねるということで軍事色の強い街でもある。良い武器を求めて全国から、いや、国内外を問わず、各地から屈強で腕に覚えのある者たちが集まるのだ。
この国スタルゴラドを支える軍部である騎士団もこの街を贔屓にしていた。通りを歩けば、隊服に身を包み、腰に長剣を差した兵士たちの姿をよく見掛けるだろう。
そして、多くの男たちが集まる場所に自ずと生まれるのが、食堂や宿屋もそうだが、俗に盛り場と呼ばれる歓楽街だ。その中でも切っても切れない場所が、そう、あたしが働く場所。
あたしの仕事場は、【灯火】亭と呼ばれている娼館。この街じゃぁ、言わずと知れた有名店で、あたしも、うちがここいらでは一番だと思ってる。
【灯火】亭は、イリーナという元娼妓が女主をしている店だ。抱える女たちはざっと見積もって常時50人前後で、皆、其々に理由を持って娼妓になったという訳ありだ。まぁ、その殆どが借金のカタに売られたっていうのが、似たり寄ったりの所なんだろうけれど。
かく言うあたしの場合もそう。あたしの家は、ここから西へ少し行った所にある小さな町で商売を営んでいたんだけれど、父さんが止せばいいのに新しい事業に手を出して失敗、気が付いた時には多額の借金だけが残っちまったっていう訳。だから一人娘のあたしが働きに出るしかなかった。端から見ればあたしは【売られた】ってことになるんだろうけれど、あたし自身は、【出稼ぎに出た】って思ってる。法外な程のお給金を前借したという形で。それがあたしの矜持。
あたしを雇ってくれたイリーナにはすごく感謝をしているんだ。右も左も分からない16になるかならないかの小娘に気前よくあんな大金をはたいてくれたんだから。そのお陰であの町で両親は夜逃げすることもなく、借金苦に心中することもなく、なんとか慎ましくも食いつないでいけているんだから。
あたしは自分から望んで娼婦になった訳じゃぁない。まぁ、誰だって最初はそうだろう。でも、あの時の決断を後悔はしていない。人の一生には、こうして様々な選択を迫られる局面がやって来るもので。あたしの場合は、それが16の時だったっていうに過ぎない。まぁ、16の小娘が一人で立ち向かわなければならない現実にしては、厳しいものだったのかも知れないけれど。でも、これであたしの両親は死なずに済んでいるんだから。下を見たらキリがないし、上を見てもキリがない。それにあたしは、自分が置かれたこの【今】という一点を見つめることで精一杯だったから。そうやって我武者羅に働いてきた。
あたしの年季は10年。女の一生の一番輝かしくも華やかな時をこの館に捧げている。年季が明けるのは来年だ。ここじゃぁ、もう古株の部類で、それなりの立場にある。自分で言うのもなんだけど人気はあるんだ。馴染みの客もそこそこ付いているし。過去にはあたしを落籍したいっていう客もいたけれど、あたしはその誘いを丁重に断った。なんでだろうね。普通に考えれば、借金もチャラになるし、あたしもこの商売から足を洗うことが出来るんだけれど、あたしは……多分、もうその時にはその誘いに喜んで飛びつくほど初心ではなくて、ここでの仕事に身も心も沈めて、それなりの誇りを持っていたからだと思う。
抱え主のイリーナは、厳しく苛烈で強かな女だ。男たちにとっては、永遠のムーザ。妖艶な美女。それでも誰よりも娼妓たちの事を考えている。【優しい】とあたしは思う。そして懐も深い。イリーナ自身が、己が美貌を武器にこの街で無一文から這い上がった女だから。あたしは、そんな強さに惹かれている。ここでは強くなきゃ生き残れない。しぶとく【生】にしがみついていないと。諦めた者は、直ぐに切り捨てられるんだ。身を落としたことに絶望し、挫折から立ち直れずに死んでいった女たちの話はそこかしこで耳にするし、娼婦暮らしに馴染めなかった女たちの末期もそれなりに見てきた。
あたしは、この身体一つが商売道具だ。相手にする客は夜毎違う。ここにやって来る男たちは、その境遇も生い立ちも、身分も職業も様々だ。でも、そんなことは、ここでは関係ない。求めているものは、同じ束の間の【快楽】と言う名の【夢】で。ここでは貴賎も関係の無いただの【男と女】になる。そう、欲望と本能に忠実な男と女。
ここにやって来る客たちが、一夜を過ごす相手を決める方法は二つある。一階の受付で登録札をもらうとまず、客は酒とつまみが出される小さな【バール】のような所へ通される。そこで、グラス片手に男たちの話し相手をする女たちと会話を楽しみながら、好みの女を見繕うというやり方が一つ。客が手にしている札を女に差し出し、女がそれを受け取れば、交渉成立だ。その後、客は女の部屋に通されるのだ。
もう一つは、受付で主のイリーナに好みを告げて、相手を見繕ってもらうというやり方。これは大抵、初めてくる客か、馴染み客が特定の娼妓を指名する時に利用される。
初めてやって来る客でもイリーナがしっかりと男を見定め、その好みと嗜好に合いそうな娼妓を選ぶので、ふらりとやって来る一見客も、娼妓たちは然程警戒することなく応対することが出来るのだ。怪しい客―――要するに暴力沙汰になりそうな客や犯罪に手を染めていそうな客は、受付の時点で弾かれることになっている。時には、酒が入り喧嘩腰になることもあるようだが、イリーナは主として怯まずに男たちに対峙し、腕利きの用心棒に目配せして退出を促すのだ。その様子からここでは烈婦とも呼ばれている。
ここは、役所に正式登録されている由緒正しき娼館で、客の中には貴族などの上流階級の男たちも多い。その為、金さえあればどんな客でも受け入れるということはしないのだ。それが、ここの主イリーナのやり方で、ここまで店を大きくすることの出来た理由の一つだった。だから相手をする娼妓たちも一通りの礼儀作法には通じている。ここに入れられた幼いうちからみっちりと行儀作法や言葉使いを仕込まれるのだ。そういう身分ある男たちとちゃんとした話が出来るように。単に体を重ねるだけではなくって、そういう前の段階の言葉遊びやちょっとした駆け引きが楽しめるようにっていう訳。かく言うあたしだって、それなりの格好をして黙っていれば、どこぞの裕福なお嬢さまってやつに見えなくもない。いや、そういう【振り】ができる。勿論、普段のあたしはもっとざっくばらんで庶民派だけどね。
それはともかく。
その日、あたしはいつものように念入りに軟膏を手に擦り込んでいた。季節は冬の只中で、この国は大陸の中でも比較的温暖な地域だとは言われているけれど、ここで生まれ育ったあたしには、十分寒いと思える日もある。この街よりずっと北にある高い山から吹き下ろされる風が、絶えずこの国を駆け抜けているから、冬場は冷たい空気を運ぶだけでなく、とても乾燥するのだ。だから潤いを保つために特製の軟膏は欠かせない。これは、出入りの術師が作っているもので、あたしも長く愛用している。
いつものように仕度を終えて、階下の顔見せ場に行こうかと思った所、ここで働く小間使いから声が掛かった。因みに【小間使い】っていうのは、あたしたちの妹分で、まだ幼いので客は取らないけれど、その代わりあたしのような【姉さん】たちの身の回りの世話をしてくれる子たちのこと。
まだあどけなさの残る妹分ももうすぐ【水揚げ】の時期だって話してた。
どうやら指名が入ったらしかった。馴染み客の一人だろうか。あたしは、直ぐにこの街で手広く商売をしている立派な口髭を生やした壮年の男の顔を思い浮かべたのだけれど、呼びに来た妹分は、そうではないと言う。イリーナからの言伝で、このまま部屋で客が来るのを待っていてくれということだったので、あたしは起こしかけた腰を再び椅子に戻して、髪形や化粧の最終確認を行った。
程なくして、部屋の扉を軽く叩く音がして、あたしは立ち上がると今宵の客を出迎えた。
「いらっしゃい、旦那」
男はやたらと背の高い男だった。体格も良い。服装はそこら辺でよく見掛けるような地味な色合いの普通のもので、幾分くたびれているようにも見えた。商人とも違う。どちらかと言えば傭兵のような、そういう武張った世界に身を置いているような荒々しい匂いのする男だ。だが、その証とも言える腰にはある筈の長剣や短剣の類は見当たらなかった。
商売用の笑顔で迎えたあたしに男は小さく頷いてから中に入ってきた。そのまま、あたしはいつものように男に長椅子を勧めて酒の用意をした。
「何をお飲みになりますか? ズブロフカにズグリーシュカにカニャーク、ヴィノーもあるわ。それともピーバ?」
あたしぐらいの娼妓の部屋には、そこそこの種類で良い酒が備え付けられている。
初めての客には、大抵丁寧な言葉使いで話しかけることにしている。服装だけを見れば、男が上の方の人間かなんて分からなかったけれど、なんというか、男の空気がちょっと硬い感じだったから、あたしは無難な方を選んだってわけ。
「ズブロフカを」
男の第一声にあたしは微笑んだ。声は低く艶やか。俗に言う美声と言われる感じだろうか。これまで数多くの男たちを相手にしてきたけれど、その中でも10本、いや、5本の指には入るんじゃないだろうか。顔付きは、まだ若い部類に入るだろう。壮年という感じはしない。でも、男は寡黙な程に物静かでとても落ち着いていて、こういう場所も慣れているようだった。
あたしは指名通り、ズブロフカの揺れるグラスを手にすると男が座る長椅子の隣に腰を下ろした。膝を少し斜めにして、自分が一番効果的に見える角度でテーブルにグラスを滑らせる。
「あたしはエヴドーシィヤ。エイダでもドーシヤでも好きに呼んで。旦那は………」
と言い掛けて、少し探るように隣を見れば、男が微かに笑った。口の端を吊り上げるみたいに。
「じゃぁ、旦那は【旦那】ね」
名前は必要ない。あの微笑みの欠片のような表情はそういうことだ。そう思ったあたしの予想は当たっていたようだ。
「それでは新しき出会いに」
―――――乾杯。
あたしはもう何度も繰り返されたお馴染みの台詞を口にすると、男が手にしたグラスに小さく自分のグラスを寄せてから、一息に飲み干した。
男は、お面みたいな澄ました顔をしていた。目付きは鋭い方だ。すっきりとした鼻筋を挟む男らしい眉に薄い唇。硬質なひんやりとした空気が膜を張るように逞しい身体を覆う。おしゃべりな性質でもない。まぁ、あたしも愛想の悪い口下手な男はそれなりに見てきているけれど、男は沈黙を気にするでもなく、寧ろ堂々としていた。印象としては厳めしい部類に入るんだろうけれど荒くれ者みたいな野蛮さはなくて、なんていうか、よく出来た陶器の作り物や塑像に近い品の良さみたいなものがある。格好は普通だけれど、もしかしたらいい所の出なのかもしれない。態々イリーナがあたしを指名するくらいだし。
あたしは色々な客を相手にするけれど、ここ二年余りは割と身分ある男たちを多く持て成していた。それも大っぴらに遊びに来るっていう感じじゃなくて、お忍びで来る感じ。それも少し訳ありの。例えば、奥さんと上手く行っていない旦那とか奥さんとは出来ない色々なことを試してみたい欲求に駆られた男とか。外では【社会的地位】という仮面を着けて生活をしている男たちが、溜まった鬱憤のはけ口を求めて憂さ晴らしにやって来る。その中には世間一般の常識から見たらかなり奇異に映ることもあるもので。あたしはにっこりと笑顔で微力ながらその手伝いをしているってわけ。ここは、しがらみから外れた自由な世界だから。ほんの少しの勇気と小金さえあれば、好きなことを好きなようにできるのだ。
そして、これまでの感触から、今宵、あたしの部屋に来たこの男もそういう匂いがした。
「旦那は、うちは初めて?」
酒を酌み交わして、少し空気が解れて来た所で、あたしは言葉使いと態度をほんの少しだけ砕けたものにした。
「いや。何度か来たことがある」
その返答をあたしは意外に思った。イリーナの指名だから、あたしはてっきり初めての客だとばかり思っていた。
「旦那はあたしで良かったの? 他に馴染みの子がいたんじゃなくて?」
あたしは同僚の顔を思い出しながらこの男の相手をしたのはどの子だろうかと想像した。後で妙なやっかみをされたら困るから。
「いや。それはない。いつも主に任せている」
「あら、そうなの。下の【バール】を覗いたことは?」
一見客でもなく、指名ありの客でもない場合、男たちは大抵自分から好みの相手を選ぶものだ。好み…とはつまり外見的なものだ。
「ああ、大抵はそこで選ぶんだろう?」
「そう。少し話をして、気に入ったらね」
あたしは、少しからかうように隣の男を見上げた。
切れ長の瞳に鎮座するのは、濃い青だった。出入りの商人が持ってくるような異国のギヤマンのグラスみたいな深い青。
視線が合えば小さく瞬きする。あたしはそれをじっと見つめた。今夜の相手があたしで良かったのか、その瞳に映る色を探るように。それによってあたしはこの男との接し方を決める。あたしの頭の中にはこれまでの経験から培ってきた勘があって、それを最大限に活用しながら、この男がどういった過ごし方を好むかを甘ったるい微笑みの下で考えた。
ロマンチックな方が好きなのか。それとも少し情熱的な方を好むのか。それとも倒錯的な方向か。そして、単に快楽を求めに来たのか、それとも話をしたくて来たのか。男たちの中には、溜まった澱を吐き出すように話をしにやってくる者もいるのだ。愚痴が多かったりもするが、ちゃんと付き合って最後まで聞いてやれば、翌朝すっきりした顔で帰って行く。客の種類によってその応対も千差万別で。いつもぶっつけ本番の手探りだけれど、あたしはそのやり方が気に入っていた。初めて会う男の人となりを少しずつ暴こうとする所に快感みたいなものを感じているから。これはもう職業病みたいなものかもしれない。
「俺は御免だな」
「あら、そう」
あたしは小さく笑った。その口振りからこの男は後腐れのない一夜限りの関係を望んでいると分かったから。
「旦那だって好みはあるでしょう?」
「さぁな。余り気にしたことはない」
「そうなの? おかしな人ねぇ」
あたしはクスクスと喉の奥を鳴らした。
外見に拘りがないというのは本当だろうか。そんなことはあるまい。男は概して視覚の生き物だ。それは単なる見栄なのかもしれない。
男の薄い唇がグラスに揺れる琥珀色の液体を静かに啜った。男らしい太い首に収まる喉仏がゆっくりと上下する。
「じゃぁ、あたしは旦那のお眼鏡に適ったのね?」
あたしはそっと男の傍ににじり寄るとその膝に手を置いて、太ももをそっと撫で上げた。良く鍛えられている武人特有の硬い感触が掌に伝わる。
次に硬い男の腕にあたしは豊かな胸元を押しつけた。
男はちらりとあたしを一瞥した。関心があるようなないような感情の読めない表情だ。
でも、それが地なのだろう。相変わらず澄ました顔をしている。この表情が崩れることはあるのだろうか。いや、あたしはそれを崩すことが出来るだろうか。澄ました仮面が少しでも剥がれることを想像して、あたしは妙にうっとりとした気分になった。
「ねぇ、旦那、答えてくれないの?」
あたしは、男が手にしているグラスをそっと奪い取った。そして、お決まりの笑みを浮かべると男を直ぐそばの寝台へと誘った。
男はとても手慣れていて淡々としていた。年若い男にありがちな内に溜まった熱を一息に吐き出すような激しさはなかった。見かけ通りのどこか冷めた所のある抱き方だった。だが、決して不快ではない。一人で快感を貪るようなことはせず、その最中もあたしに細やかな気遣いをしてみせた。きっと心根が優しいのだろう。玄人のあたしとしては、とてもやりやすい相手だった。
大人二人が横になっても十分まだ余る大きな寝台に横たわったまま、あたしは気だるげな様子で隣に横たわる男をそっと見上げた。
剥き出しの良く鍛えられている胸筋が緩く上下する。
「ねぇ、旦那」
―――――【一目惚れ】って信じる?
気が付けば、あたしはそんなことを口にしていた。本当は【燃え上がるような激しい恋】をしたことがあるかって聞きたかったんだけど、それだと余りにもあからさまな気がして止めた。
目が合った男は、ひょいと片方の眉を跳ね上げた。余りにも唐突過ぎて、あたしが口にした言葉の意味合いを計りかねているっていう感じだ。
「別に深い意味はないわよ」
あたしは小さく笑った。あたしがこの男に一目惚れをしたっていう訳ではない。この男がそれなりに【良い男】だっていうのは認めるけれど、その前にこの男はあたしの客だ。客に対してあたしは、そういう恋愛感情を持つことはない。個人的な感情は、この部屋の中では生まれない。それがあたしの玄人としての意識だ。
「さぁな。外見で相手を判断するつもりはない」
それは実に思慮深く模範的な返答のように思えた。
「あらそう? でも人の外見ってその内面にかなり影響されるんじゃないかしら」
幾ら美人でもいらいらして眦を吊り上げていたらちっとも綺麗に見えないし、幾ら良い男だとしても根性が捻くれていたら、それはやっぱり如実に顔付きに表れて、男を嫌な奴に見せるだろう。内面が輝いている人は、どんな姿形をしていようが眩しく、そして綺麗に見える。人を惹きつける空気を持っていると思うのだ。その人の心の在り方は、その人の表情に表れる。まるで誤魔化しの効かない不可思議な鏡のように。そして、どんな人にも皆、はっとするほど綺麗に見える瞬間がある。それは、あたしがこれまで娼婦として生きてきた中で得た持論みたいなものだった。
訥々と語ったあたしに対し、男は少し考えてからゆっくりと口を開いた。
「まぁ。その考えには一理あるが、だが、それが直ぐに恋情に変わるかと言えば……俺は懐疑的だな」
「旦那は経験ない? こう、視線が吸い寄せられるようにその人を目で追ってしまう……みたいなこと」
そして、気が付いた時には恋に落ちているのだ。
「いや、俺にはないな」
少し間を置いてから男が言った。男はあたしのうねる髪を一房摘んでは放した。そして、どこか遠くを見るような眼差しをして言葉を継いだ。
「恋というものは、…こう……時間を掛けてじわじわと相手の人となりを知ってゆくことで育まれる感情だと俺は思うがな」
だから一目惚れのように瞬時に恋に落ちるなどとは、到底信じられない。言外の意味を理解してあたしは小さく喉の奥を震わせた。
「ふふふ。旦那は真面目なのねぇ」
一時的な激情には流されない冷静な男なのだろう。いや、そうありたいと己を律しているのかもしれない。
恋というものは、もっと肉欲と結びついたものだとあたしは思うのだ。異性を見て、まぁ、ここでは必ずしも異性でなくてもいい訳だけれど、その相手に惹かれる、相手を欲しいというのは、もっと原始的で根源的な欲求だ。通常、人はその周りを理性という名の鎧で覆っているが、その守りは必ずしも鉄壁ではない。ましてや男ならばそういう本能的な衝動と結びついているのではないかとあたしは思う。
でも、それと同時にあたしはこの商売を通して、情欲と恋情は全くの別物であることも知っている。あたしが立っているのは、まさにこの後者の世界だから。
あたしは、少し上にある珍しい色合いの深い青さを湛えた瞳を見上げた。無造作に撫で付けられていただけの銀色をした髪が、額際に零れ落ちていた。そう言えば、この髪色もここいらでは余り見掛けないような少し珍しい類のものだった。この客は一体どういう筋の者なのだろう。瑠璃色に銀色。冷たい寒色系の色合いだが、この男は凍てついた凍土のような過酷さではなくて、ひんやりとした適度な心地よさを保持している。
何よりも、あたしのこんな他愛ない話に嫌な顔をすることなく、付き合ってくれる。真面目で優しい男だ。こういう客は滅多にいない。あたしはまたとないこの機会を楽しもうともう少しこの話題を掘り下げてみた。
「でも、最初の切掛けとしては、そういう【勘】みたいなものが働くんじゃないかしらって……あたしは思うけど」
寝返りを打って振り返ったあたしに男は仰向けのまま視線だけをこちらに下げた。
「人が人に惹きつけられる切掛け………か?」
「そう」
無意識の状態、深層心理の時点で、そういう自分にとって好ましいか否かの違いみたいなものをもしかしたら嗅ぎ分けているのかもしれない。
「その言い方だと、もうその時点で恋に落ちていると言いたいのか? 自分でも気が付かない内に?」
「そう。あたし的にはね」
その返答に男は大きく息を吐き出した。
「俺には分からんな」
真面目な声でぽつりとそんな感想を漏らした男。あたしは何だか可笑しくなって肩を震わせてしまった。
「もう、旦那ったら、そんなに真剣な顔をして悩まなくってもいいのに」
あたしの軽い声に男はどこか不服そうにこちらを一瞥した。ならば最初からそのような話を振らなくても良いだろうに。訳が分からない。そんな台詞が男の顔に浮かんでは消えた。
「そういうお前はどうなんだ?」
―――――そういう経験があるのか?
不意に落ちてきた低い男の囁きにあたしは目を瞬かせた。まさか自分のことを訊かれるとは思わなかったから。
「そうねぇ。あたしにもないわ」
最後に恋をしたのなんて、もうとっくの昔のことで、あたしはもうその時のことを良く覚えていない。
ちらりと見上げた男がどこか拍子抜けした顔をしているのが分かった。それもそうだ。これまであたしは一目惚れを信じるっていう態度で話をしていたのだから。実体験に基づいていると思われたのだろう。
「でも………憧れるわね。そういうの」
そう。それはあたしの憧れ。
視線が合った瞬間、恋に落ちる。そんな刹那的で衝動的な恋をしてみたいというのは、多分、あたしの願望だ。女としての欲求。今のあたしには不要で許されない感情だから。だからこそ、こういう他愛ない想像で自分を慰めてみたくなるのだ。
でも、多分、この世界に身を置いたあたしには、そんな恋は土台無理な話だろう。だって、ここでの習慣はあたしが自分で意識している以上に夜の蝶としての【あたし】を形作っていて。相手を見た瞬間、きっと色々な計算が働いてしまうと思うから。この男はこういう男に違いないっていう勘のようなものが。分析を始めてしまったら恋になんて落ちる訳がない。
「ふふふふ」
そんなことを思い描いて、少し自嘲気味に笑ったあたし。
「ねぇ、旦那は……憧れたりしないの?」
誤魔化すように話を振れば、
「さぁな」
男は、そう言って軽く肩を竦めただけだった。
「そう」
それ以上、この話題を引っ張るのは無理だと悟ったあたしは、これ以上の詮索は止めることにした。
発光石の明かりをぎりぎりにまで落とした薄暗い室内。窓の外には、周囲の繁華街から漏れる明かりが点々と連なって見えた。まるで地上の星々のようだ。夜空の星よりももっと気だるげで退廃的な匂いのする世俗的な星々。そこに瞬く光には、数多もの人の欲望が生々しくも渦巻いて点滅を繰り返している。
そして、あたしが今、こうして過ごす部屋から漏れる小さな明かりも、同じ地上の星々の一つなのだ。夢と現の狭間に漂う束の間の瞬き。朝が来るまでの偽装した儚い光。
あたしはそっと男の硬い胸に手を這わせた。緩やかな心音を刻む左胸。その音にあたしは、同調し、沈み込むように目を閉じた。
「ねぇ旦那」
掠れた囁きが唇の間から漏れた。
「もう……寝るの?」
男がこの部屋で一夜を過ごすことの意味を問う。少しかさついた硬い指が、あたしの頬を擽るようにその表面をなぞって行った。男の鼓動は正確な時を刻んでいて、不思議とあたしの眠気を誘った。
「……そうだな」
返ってくる男の囁きもどこか気だるげなものに変わっていた。
あたしはどこか遠くを見ているような目をしている男を見上げた。
「ふふふふ。せっかくここに来たのに?」
―――――もう少し夢を見たくはないの? さっきとは違う少し特別な夢を。
先程の余韻でしっとりと汗ばんだ肌を彷徨うあたしの手を男がそっとその硬い手で押し止めた。あたしはじっと耳をそばたたせて男の返事を待った。
「いや、今夜はもういい」
―――――このまま休むとしよう。
その言葉にあたしは少しがっかりしたけれど、偶にはこんな静かな夜も良いかもしれないと思った。
「いい夢を」
「いい夜を。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
その日、あたしは珍しく深い眠りに就いた。
明け方、まだ空が白む前に男は帰って行った。あたしは薄い部屋着に長い上着を羽織って部屋から出ると廊下の先の階段の所まで男を見送った。その逞しい背中が視界から消えるまで。
まだ夢の中にまどろむこの世界は、ひっそりと静まり返り幽玄に揺れていた。白み始めた廊下に男の残像が滲むようにして消えて行った。まるで束の間の夢を見ていたのかのように。
不思議な男だった。ここで男を持て成していたのはあたしのはずなのに。気が付けば何だか逆の立場のような気分になっていたのだ。長いことここで働いてきたけれどそれは初めてのことだった。
また来るだろうか。次の冬に。毎年、冬になるとこの街を訪れると話していた。その間、気が向いた時にいつもふらりとここを訪れるのだと言って。
次は、もし、そんな機会があったとしたら、あの男の名前を聞いてみようか。夢から覚めて現へと戻り行く刻限の中で、あたしは何故か、そんなことを思った。
突然の選択で驚いた方もいらしたかもしれませんね(笑)
工業都市【プラミィーシュレ】の娼館【ファナーリ】亭での一夜をお届けしました。相手の男は、もしかしなくとも………若き日のユルスナールです。「Messenger」本編より数年前、剣の手入れの為に立ち寄った先で、イリーナの館で「世話になった」という辺りの小話。リクエストを下さいましたsezouさまへ捧げます。とても興味深い視点を下さいましてありがとうございました。
このような感じで頂いたリクエストを含め、少しずつまたこの世界をウロウロする予定です。もしよろしければ、お付き合いください。
2012/5/8 誤字修正