8)恋する乙女は緑の化身
大変ご無沙汰いたしております。
今回は頂きましたリクエストから。お題は、リョウと息子のリューシャにアリアルダが絡んだお話。
時間的にはセレブロの「しろかね日記~旅情編~」の1~2年前辺り。既に第二部を始めているのですが、それよりも2~3年先に進んだとある未来の情景です。
リョウに子供が生まれている設定ですので、未来のお話はまだ後にとっておきたいと思われる方はご注意を。
それでは分量もいつもの倍でかなり長くなりますが、どうぞ。
恋する乙女というものは、たとえるならば台風の目のようなものである。古今東西、恋という名の病にとり憑かれたものたちによって繰り広げられてきた数多もの喜劇、悲劇、騒動、事件の数々は、それこそ挙げれば枚挙に暇がない。恋は人の血潮を熱く滾らせ、時に勇敢に、そして時に愚かしく人を駆り立て、目の前に立ちはだかる困難に対し潜在能力以上のものを引き出す驚くべき力にも成り得るし、逆に身を滅ぼす禍の元にも成り得る。この動力を何か有意義なものに活用できないかと思えども、これは人の【心】にのみ効力を発揮するものである。
だが、侮るなかれ。それは時に一人の人間の、いや、そこに関わり合いになった人々の生死をも左右しかねない重大なきっかけにも成り得るのだ。恋というものは御し難い感情でもある。
人は一生の内に何度恋に落ちるのだろうか。恋に身悶え気持ちの高ぶりに眠れぬ夜を過ごしたり、荒れ狂う嵐の如き嫉妬に身を焦がしたり、また、天にも昇らんばかりの軽やかな心地に小踊りしたり鼻歌を歌ったり。恋の美酒はその配合の類稀なる甘露で人生を豊かにするが、そこに生じる苦みも、苦しみもまた刺激となる。そして恋というものは、中世ヨーロッパで未亡人や既婚者の女性と独身の若い騎士たちの恋が大いに持て囃されたのを見るように、青い春を謳歌する若者だけの特権でもない。
それはともかく。形は異なれども人を愛する時に付随する慈しみの初期段階の一形態である。
そして、ここにも恋する乙女が一人。
夢見る少女から抜け出し、十代の溌剌とした天真爛漫さは少し影を潜め、思慮深く淑やかに成熟した女性へと変貌しようと努力している段階の若い娘。だが、人の性質というものは、核の部分は早々変わるものではないのもまた真実。奔放な心を良識の柔らかな型で包もうとするのだが、その膜は所によってはまだ破れそうな程に薄かった。
そして、周囲の者たちにとって、この恋する乙女というものは、世界は全てその者を中心に回っていると錯覚しがちで極端に視野狭窄になる為に他人を顧みないという点で、時に厄介な存在にも成り得た。競走馬がブリンカーを付けて走るようなものだ。
*****
「まぁ! なんて愛らしいの!?」
その日、鈴が鳴るような【銀色の声 】がシビリークス本家の玄関に高らかに響き渡った。
ホールムスクで無事男の子を出産したリョウが、夫のユルスナールと共に王都のシビリークス本家へ里帰りを果たしたのは、子供が生まれてから一年と少し過ぎた辺りの頃だった。
リョウが懐妊した時も方々からホールムスクに祝いの言葉や品々が届けられたものだが、晴れて男の子が生まれた時は、それはもう大変な騒ぎになった。リョウは夫の赴任先であるホールムスクで男児を出産したのだが、これまで数多もの赤子を取り上げてきたという熟練の産婆のお世話になった。父親になるという初めての経験に妙に浮ついて落ち着きがなかった師団長を筆頭に騎士団内には妙にこそばゆいおめでたい空気が支配し、術師組合を始めとするミール関連の人々からも様々な人々が騎士団の官舎に祝いに訪れた。そのような訪問客の中でも関係者を驚かせたのは、王都から遥々やって来た義父のファーガスとなぜかそこにくっ付いてきた現南の将軍であるオリベルトという組み合わせであったろう。
ファーガスには、ロシニョール、ケリーガルという長男次男の元に既にスタース、ユーリャ、オーシャと三人の孫がいるのだが、四人目になる孫の誕生を実に楽しみにしていたらしい。第一線を退いた隠居の身という気楽さもあったのだろう、王都からシビリークス家の領地を回ったついでに―というのはかなり苦しい方便ではあったのだが―少ない供回りでホールムスクに乗り込んだのだが、何故かそこにナユーグ家のオリベルトも一緒で、話を聞くと自らお供を申し出たらしかった。
リョウの妊娠が分かった時から、オリベルトは服飾関連の趣味心を大いに刺激されたようで赤子用にと細々としたものを贈って寄越していたのだが、無事生まれたのが男の子という報せに居ても立ってもいられなかったらしい。オリベルトの甥っ子に当たるナユーグ家のドーリンとマルガリータ夫婦の所には既に女の子が生まれていて、ちょうど二つになるかならないかという頃合いで、漸く言葉を発するようになったという話を聞いていた辺りだった。こちらも可愛らしいものに目がないオリベルトの創作意欲に火を付けた契機になったようなのだが、やはり隙間芸術愛好会の象徴的ムーザでもあったリョウの子供ということでそこにはまた格別な思いがあったようだ。
ドーリンとマルガリータの所の女の子とお揃いのものを作ろうではないか!―という思い付きもオリベルトの心を躍らせたに違いない。
さて。騎士団の中で寝起きをするリョウの周りは基本男だらけであったのだが、今回赴任先がホールムスクになったことで地元のフリスターリから呼び寄せたという料理長ヒルデの奥さん―二人の息子を育て上げたおおらかな女性だ―と港のトレヴァルの診療所を通じて知り合いになった街のおかみさん連中が、初めての妊娠と出産に直面したリョウの力強い味方になってくれた。そうして沢山の先達に囲まれ、相談に乗ってもらったり励ましてもらったりしながら、初めての母親業が始まった。
東の端、山を一つ越えた先にあるホールムスクは王都からはかなりの距離がある。軍馬でパルトラー・デシャータク(15日)、馬車を使えば2デェシャータク(20日)はかかるだろう。幼い乳飲み子を抱えてそのような長旅は無謀かとも思われたのだが、是非、孫の顔を見せて欲しいという後押しを受け、最悪の場合はセレブロが使うヴォルグの抜け道を使えばいいかということで―この場合、一緒にいるユルスナールとは別行動にならざるを得ないのだが、そこは目をつぶらざるを得ない―往々にして楽観的な性格である母親の承諾で、王都への里帰りが決まった。ホールムスクから王都までは国内の主要な貿易網でもあるので街道はきちんと整備されており道々に宿場町もある。リョウは幼子と一緒に馬車に乗り、御者代わりの兵士が二人とユルスナールとブコバルが単騎で傍につくという仰々しい感じになったが、道中が長いのでこのくらいは仕方がなかった。
予想通り、シビリークス家に到着したリョウは集まった家族や駆け付けた知り合いたちから様々な祝いの言葉をもらい温かく迎えられた。三男坊が妻子を連れて帰って来たという報せにシビリークス本家は喜びに沸き立ち、客人がひっきりなしに訪れては、社交界でもなにかと噂となっている男の血を分けた子供を見ようと集まった。
そのような客人たちの中にズィンメル家のお嬢さまであるアリアルダの姿もあった。シビリークス家の長男ロシニョールに嫁いだ姉のジィナイーダから事前に色々と話を聞いていたのだろう。リョウが到着したその日に本家の玄関で待ち構えていたのだから。驚きつつもアリアルダらしいと思ったものだ。
アリアルダからは、ホールムスクへも街の伝令屋を使って度々手紙が届いていた。長距離用の少し大きめなゴールビがよくリョウの元にやって来るので、すっかり顔馴染みになったほどだ。
手紙には、王都での他愛ない日常が綴られていた。流行の服やお菓子の話、どんな音楽を聞いたとか、どんなお芝居を観に行ったとか。どこの誰が結婚したとか、子供を産んだとか。そのような社交界の話は、リョウの暮らしには直接関係がないのだが、王都での武芸大会の折には、どうしてもそれなりに上つ方の集まりに顔出しをしなければならないので、リョウにとってもアリアルダの手紙は生の情報を与えてくれる唯一の情報源でもあった。
こうしてリョウは、度々、アリアルダと手紙の遣り取りをしていたのだが、最初の頃に比べて、懐妊の報せを送った辺りになると、文中にしたためられるアリアルダの関心は専ら自分の恋の相談というか、愚痴めいたものが多く含まれるようになった。
数年前、第四師団所属の実直で朴訥とした好青年であるセイラム・マトヴィェンコに恋をしたアリアルダは、その後もその恋心を失わずに大事に温め続けていた。そして、男からの行動を待つばかりではない積極的な恋するお嬢さまは、どうも色恋沙汰には鈍い所のある庶民派の青年をなんとかして自分に振り向かせようと心を砕いていた。ユルスナールへの初恋が破れて以来、末娘に甘い所のあるアリアルダの両親は、今度こそ娘の幸せを祈りながらその願いを叶えてやろうと奔走した。父親のラマンは、最初、セイラムが貴族でないことに難色を示したのだが、ズィンメル家に婿として迎えるのならば収まりがつくかと、やはり最後は己が娘が可愛いのか折れたようだった―と言っても、これはアリアルダと父親の間、ズィンメル家内での合意事項で当のセイラムは預かり知らぬことでもあった。
リョウとユルスナールの婚礼の少し前、ナユーグ家で開かれたドーリンとマルガリータとの婚礼の儀の折に一緒に踊りを楽しんでからは、件の二人は少しずつ時間をかけて打ち解けて行ったようだった。その後も涙ぐましいアリアルダの努力は続き、知り合いの伝手を通じてセイラムをお茶会に招待したり、詩の朗読会や音楽会、時にはお芝居にも誘ったりもした。セイラムは、音楽の方面はからっきしであったが、詩は好きであったらしい。
こうしてリョウが幼いリュスファハーン―通称リューシャ、もしくはリューシェンカ―を胸に抱いて、シビリークス家の玄関先に到着した時、久方ぶりに歌うような抑揚のついたアリアルダの声を耳にしたのだ。
「まぁ、かっわいいわぁ。小さい手。髪が本当にサラサラでリョウと同じ色なのね。瞳はルスランと一緒ね。青いキコウ石みたいな色だわ。やっぱりリョウに似ているかしら。ほっぺもふくふく、柔らかい」
両頬に軽く挨拶の口づけを落としてから、アリアルダは興奮気味に捲し立てた。突然現れた、見慣れぬ若い女の登場に幼いリューシャは吃驚してむずがるように顔を顰めたのだが、泣きだす前にリョウが「しっ」と口の前に指を立てて、アリアルダに声量を抑えてくれるようにと頼んだ。
「あら、ごめんなさい。わたしったらつい。嬉しくって」
アリアルダは口に手を当てた後、すぐに囁くようにして微笑んだ。その琥珀色の瞳は爛々と輝いて喜びに満ちていた。
「ねぇ、リョウ、ホールムスクはどんな所? 住みやすい? 潮の香りは独特なんですってねぇ。それに面白い鳴き声の海鳥がいると聞いたわ。ほら、なんて言ったかしらЧから始まる音の。あ、そうそうチャーイカね。ねぇ、街の様子はどう? ここよりもずっと賑やかなのかしら。ああ、それから子供が生まれてから何か変わった? 仕事もしていたのでしょう? 楽しい?」
赤子を抱いた腕に手を添えるようにしてアリアルダはリョウを先に奥へと引っ込んだ家族たちが待つ居間へと促したのだが、その間もリョウを質問攻めにした。
その少し前には出迎えに出てくれたファーガス、アレクサーンドラ夫妻に長男夫婦、そして次男夫婦、執事のフリッツ・リピンスキーを始めとする使用人たちとも簡単に挨拶を交わしている。
甥っ子のスタース、ユーリャ、オーシャはリョウが初めて会った時よりも随分と大きくなった。それもそうだ。あの時からは5年余りも時が流れているのだから。妊娠・出産があったのでリョウも実際に会うのは二年振りくらいだったが、皆顔付きが変わっていた。スタースはすっかり男らしくなり、ユーリャは背がぐんと伸びて声変わりをした。オーシャはまだまだやんちゃの盛りだが、父親のケリーガルに良く似た利発さを覗かせるようになった。甥っ子三人衆もリョウとリューシャの傍に寄りたそうな顔をしていたのだが、アリアルダの勢いに押されて遠慮してしまったようだ。
「毎日、忙しくしているわ。とても楽しいわよ?」
「アーダ」
ぴったりと傍に張り付いた妹を見てジィナイーダは呆れた顔をしたのだが、リョウは大丈夫だと目配せしておいた。
居間に着くとリューシャは早速義母のアレクサーンドラの手に渡った。アレクサーンドラは相好を崩して、優しくあやしながらリューシャに話しかけていた。それから集まった家族の男たち、女たちの手に渡る。日頃は強面と目されているファーガスもロシニョールも、焼きたてのブリヌィに添えられたマースラのように甘ったるく溶けそうなくらいの笑みを浮かべて赤子を抱いた。その手付きはさすが堂に入っている。勿論、赤子用の幼児言葉を口にしながらだ。
リューシャは初めて目にする沢山の大人たちの顔と大きな屋敷の雰囲気にどこかおっかなびっくりの様子で、瑠璃色の円らな瞳をきょろきょろとさせていたのだが、ケリーガルの手からロシニョールの腕に渡った所で、「もう限界」とでも言わんばかりに泣き出した。慌てて父親のユルスナールがリューシャを受け取ってあやし始めたのだが、更に大きな声を上げて泣き出す始末。
リョウは苦笑しながらも心得た様子でリューシャを受け取った。おしめが濡れていないことを確認すると、すっかり母親の顔をして我が子に囁いた。
「リューシェンカ、どうしたの? びっくりしちゃったのかな? それともお腹が空いたの? おっぱいの時間かな?」
リョウは慣れた様子で我が子をあやしながら、どうやらお腹が空いて泣き出したと思い家族に目配せをして次の間に移動した。そこで躊躇することなく胸元を肌蹴ると母乳を与え始めた。リョウが身に着けていた服は脱ぎ着がしやすいように身ごろを緩く前で合わせたもので、ホールムスクの仕立屋に色々と我儘を言って誂えてもらったものだった。
アリアルダは隣へ引っ込んだリョウの傍に着いて来て、その様子を思いの外、熱い眼差しで見ていた。
漸く落ち着いて、お腹がくちくなったのか今度はすやすやと夢の世界に誘われた所で術師兼乳母のポリーナが、気を利かせてオーシャの時に使っていたという揺りかごを運んで来てくれたので、その中にそっとリューシャを預けた。ゆうらゆうらと船に揺られるようにリョウは揺りかごの縁に手をかけて中で眠る我が子を穏やかな眼差しで見ていた。
ずっと沈黙を守っていたアリアルダが、ここで囁くように口を開いた。
「リョウ、ひょっとして、かなり疲れているのではなくって? 余り眠れていないの?」
リョウの目の下にあるくまに気が付いたアリアルダが心配そうに尋ねた。
「大丈夫。睡眠は取れる時に取っているから」
夜中に泣いてはあやし、おっぱいをあげたりと何かと気を張っていないといけないので大変であるには違いないが、全て自分が腹を痛めた我が子の為である。子供が生まれてからは生活の全てがリューシャ中心になったので、夫のユルスナールをほったらかしにしていることを申し訳ないと思っているが、それも暫くの辛抱だと我慢してもらっている。人の身体とはよくしたもので、今では短時間に深く眠ることができるようになっている。まるで草食動物のようだ。
ゆりかごの揺れは母親のお腹の中を思い出すのか、満足そうな顔をして眠る幼子を優しく見つめながら、アリアルダはうっとりとして、どこか感嘆に似た溜息を吐いていた。
「リョウ、すっかりお母さんの顔になっているわ」
「そう?」
「ええ、とても綺麗になったわ」
リョウは少し驚くような顔をした後、すぐに擽ったそうに微笑んだ。
「ふふ。ありがとう」
あからさまではないけれど内側から滲み出る神々しく思えるようなほんのりとした温かな輝き。穏やかな春の日差しのように幼子に降りかかり、その小さな体を包み込む。慈愛を司る女神リュークスのようだとアリアルダは思った。淑やかというよりも行動的で溌剌としていたリョウが、母になったことでかくも様変わりすることに驚いていた。
「ねぇ、リョウ、子供を持つってどんな感じ? 気持ちが変わるものなのかしら? リューシャが生まれた時、どんなことを思ったの?」
アリアルダは躊躇いをみせつつも、二人きりということもあり思い切って訊いていた。
リョウは妙に熱を帯びたアリアルダの眼差しに、内心苦笑しながらもこれまでのことを反芻するように口を開いた。
「そうねぇ。身ごもったことに気が付いた時は、神さまからとても大切な授かりものを頂いたって思ったわ。ワタシ自身、ルスランと結婚はしたけれど、こんなに早く人の子の親になるとは思っていなかったから。それから長い間ワタシのお腹の中にいたでしょう? 小さな命の欠片が日を追うごとに大きくなっていって、ああ、ワタシの体はもうワタシだけのものではないんだって、ワタシの中に息づいたもう一つの命の為のものなんだって。そう実感した時は、訳もなく体が震えたわ。今後は、この子の人生を一生背負って行くことになるのだという途方もない責任感にどうしようってうろたえそうになったこともあるけれど、最初は、やっぱり無事生まれてきてくれてありがとうって思ったの。すごい大変な思いをしたけれどね。でもその苦しみを乗り越えた先は、生命の不思議さに満ちていて神の領域と接するような神秘的なことだと思ったかな。こうやって人は母になって子供を産んで、命を繋げてきたんだと思ったら、なんだか感動してしまって」
「まぁ、素晴らしいわ。ええ、本当に」
そのまま当時のことを思い出した為か言葉に詰まったリョウの手をアリアルダはそっと握り締めた。その琥珀色の瞳は記憶の中にある色よりも濃く、熱を帯びているような気がした。
「ああ、でもそれからはもう毎日が試練みたい。分からないことだらけ。でも幸い周りには子育てをしたお母さんたちがいるから。色々とお話しを聞いて相談に乗ってもらっているの」
そう言って小さく微笑んだ新米マーマにアリアルダは再び視線を揺りかごの中に戻した。
*****
「主人に火急の用事ができましたの」
リョウは穏やかに微笑みながらも、なんでこのようなことになってしまったのだろうと内心思っていた。リョウの腕の中にはすやすやと眠るのリューシャの姿があった。赤子を包んでいるのは、オリベルト将軍が特別に誂えてくれた【おくるみ】で、白を基調とした生地の縁に赤子が健やかに育つことを願う魔除けの為の赤い刺繍がびっしりと施されているものだった。要するに外出仕様になっている。リョウのすぐ脇には、まるでお付きの侍女であるかのような顔をして―と言っても確実にリョウよりも向こうの方がお洒落に着飾っているので誰が見てもリョウの方が乳母か使用人のように見える―アリアルダが、澄ました顔をしていた。艶やかな明るい髪には緑色 の髪飾りが若々しさの象徴のように添えられていた。ほっそりとした骨格を手袋で包んだ手にはズィンメル家の封緘があしらわれた封書が一通、しっかりと握られていた。
「それはまた大変でございましたね」
ここは王都の宮殿の区画内にある騎士団の本部【アルセナール】の入り口である。門に立つ衛兵の兵士は、リョウの事情を察するように小さく頷くとさっと身を脇に避けた。
これまで王都を訪れる度にアルセナールに頻繁に顔を出しては第七師団内で雑用を手伝ったり、第三のゲオルグの所で術師としての仕事に関する話をしていたので、リョウの存在はアルセナールに詰めている兵士たちによく知られていた。夫のユルスナール自身、その相棒のブコバルと合わせて騎士団の中では名の知れた名物男でもあったが、その奥方も度々兵士たちの噂に上っていたのだ。婚礼当時は、三男坊といえども正統派名門貴族の男が同じ社会に属さない女性を妻にしたと驚きと共に人々の口の端に上ったものだが、その相手が明らかに異国の風貌をした女性で、しかも術師であることも余計に関心を引いたようだった。また、騎士団内では馴れ合いを嫌い、敵に回したら大変なことになると目されている第三師団長と非常に仲睦まじそうな様子が目撃されており、そのことを含め、いい意味でも悪い意味でも目立つ存在でもあったからだ。
そのようなことから普通の兵士たちにとっては一線を引いた向こう側にいる近寄りがたい存在のように思われていたのかもしれないが、実際にリョウと言葉を交わし、関わり合いになった兵士たちは、すぐに独り歩きをしていた噂の認識を改めることになるだろう。実際のリョウは、誰にでも気がるに声をかける気さくな女性であったから。
そして、この日、ユルスナールの奥方が幼子を連れて王都に里帰りをしたという噂はアルセナール内にも既に行き渡っていたようだった。
「このような形で申し訳ないのですけれど。よろしいでしょうか?」
夫の仕事場に幼子を連れるなど礼儀に反することであろうからと大変恐縮そうに告げたリョウにこれまでに何度か顔を合わせたことのある若い兵士は心配いらないと人好きのする笑みを浮かべて目を細めた。
「そちらが噂のお子さまでございますね?」
すやすやと眠る赤子のふっくらとした頬を見て兵士が言った。そして、片手を奥へと促すように入口へ差し出す。
「はい。どうもありがとうございます」
リョウは兵士の心遣いに内心、「ごめんなさい」と叫びそうになりながら、この事の発端となったお嬢さまを伴い中に入った。
リョウがこの日、アルセナールの敷居を跨ぐことになった理由は、別に火急の用事などではなかった。仮に緊急の場合は、伝令を使うであろうし、ごく内密にということであればリョウは単身でアルセナールを訪れるであろう。間違っても赤子を連れてくるという真似はしない。
では、どうしたというのか。それは、全て隣に何食わぬ顔をして立つアリアルダの恋の成就の為である。
アリアルダが想いを寄せている第四師団所属の兵士、セイラム・マトヴィェンコはアルセナール内勤だった。先の配置換えで第七師団が北の砦からホールムスクに移ったのと同じく、第四師団はそれまでの王都詰めから第十師団が受け持っていた国内の地方諸都市にばらけて人員を配置されることになった。因みに今、王都の街中に駐在しているのは、ドーリンの所の第五師団である。
本来セイラムも他の都市、王都から離れた地方へと派遣される予定だったそうなのだが、それをズィンメル家が秘密裏に手を回して王都に留まるように仕向けたとかいないとか。本当の所は良く分からないのだが、過日、オリベルトがそのようなことを言ってアリアルダをからかっていたのだ。
今回、子連れで戻って来たリョウの母親となった姿にアリアルダは随分と刺激を受けたようだった。もしかしたらアリアルダの中にある母性が一気に目覚めたのかも知れない。そして無性に子供が欲しくなったとか。また、今すぐにでも結婚をしたくなったのか。
アリアルダの話によると、セイラムとは一応、両親が認める恋仲で、近々婚約を予定しているらしいのだが、この所御用繁多で忙しく、元々、実直で仕事熱心であるセイラムの性格とも相まって中々顔を合わせる機会がないらしいのだ。
そこでアリアルダの作戦が発令された。またの名を突発的な思い付きともいう。
子供を持つ若き母親の姿を見たら、きっとセイラムも自分と同じように子供や家族が欲しくなるのではないか―と。その余りにも短絡的で子供染みた思考回路を微笑ましく思いながらも、リョウはそこまでしてアリアルダに熱を上げられるセイラムを、ほんのちょっぴり気の毒に思わないでもなかった。もし、セイラムの気持ちが異なる種類のものであったら、それは両者共に悲劇でもあろうなどとつい縁起でもないことが心配になる。セイラムは好青年だ。アリアルダは由緒正しい名家の娘で、美人であるし、負けん気の強い所があるが、基本的に優しい子だ。猪突猛進のきらいがあるが、男としても真っ直ぐに純粋な想いをぶつけられて悪い気はしないに違いないだろうと思ってみても、実際セイラムの気持ちを知らないリョウには何とも言えなかった。恋する乙女の正義が、朴訥とした青年の純粋な気持ちを踏みにじらないものであって欲しいとつい願わずにはいられない。
さて、良い計画を思い付いたアリアルダは早速行動に移った。リョウに頼み込んで、アルセナール勤務の恋人の元に事前予告なしの突撃訪問を敢行したのだ。何も職場に押しかけなくてもいいだろうにと思うのだが、アリアルダとしてはそれが一番手っ取り早くセイラムを捕まえる有効な手立てということらしかった。そして、アルセナールに顔が利き、内部を良く知るリョウは、アリアルダにとって心強い味方に思えた。
ユルスナールには昨晩の内にこの恋するお嬢さまの計画をそれとなく仄めかしておいた。リョウとしては秘密にできない。夫は案の定、渋い顔をしたのだが、表だって反対はしなかった。アリアルダに関しては、ユルスナール自身、前の騒動の一件がある所為か、余り強く出ることができないのかもしれない。ただ、無茶なことはするな。アリアルダを余り甘やかすなと釘を刺された。
リョウはまず第七師団の執務室に顔を出そうと思った。アルセナール内ではこれまで一部の兵士たちを除き―ザイークあたりだ―第四とは接点がなかったので、執務室の区画が分かっても、実際に内部に足を踏み入れたことはなかったからだ。それにやはり、ここに来て夫を素通りすることは出来ない。基本的に軍部関係者以外立ち入り禁止の区域である。貴族の未婚の娘がふらふら出来る場所ではない。万が一内部で問題が起きた時には、その責任を問われるのはユルスナールになるであろうから、迂闊なことはできなかった。
リョウは事前にアリアルダにその辺りのことを注意していたのだが、恋人に会えるという期待に胸を膨らませた若い娘にその忠告が耳に届いていたかは分からない。こうなるとアリアルダの手綱はリョウが責任を持って引き締めておかなければならないのだが、リョウ自身、それが上手く行くかは甚だ自信がなかった。
そうやって腕にリューシャを抱えながら―これが最近はとても重いのだ―アリアルダと共に廊下を歩いていると、少し先の通路で声高に議論する―もしくは、聞きようによっては諍うような声が聞こえた。きつく唸るような少し低い女性の声と落ち着いて淡々とした男性の声だ。リョウは面倒なことに関わり合いになるのは御免であるので、そのまま知らぬ顔をして通り過ぎようとしたのだが、廊下の中央で事を構えている二人の顔を見て、思わず声を上げてしまった。
「ゲーラさん、スヴェトラーナさん」
どうやら宮殿の区域では最早名物になっている第二師団長と第三師団長の鍔迫り合いが、珍しくアルセナール内でも勃発していたようだった。本当に嫌いならば相手を無視すればいいのにそこを態々突っかかるのだから、喧嘩するほど仲が良いということなのだろう。
だが、二人の、恐らく気心が知れている故の議論―という名の辛辣な会話の応酬―は、端で普通の兵士が耳にするには心臓に悪いことに違いない。その証拠に少し向こうの角の所で恐々と首を覗かせ、こちらの様子を窺う詰襟姿の影が見え隠れしていた。不憫なことに間が悪かったようだ。
「おや、リョウじゃないですか!」
相変わらず、後光が差しそうな程の目映い笑みを向けられて、リョウもとんだところに出くわしたと内心思いながらも微笑んだ。斜向かいに立ち迫力ある顔付きで腕を組んでいたスヴェトラーナも振り返り、こちらに気が付くとその口元を緩めた。
「リョウ、戻っていたのだな」
いつ聞いてもスヴェトラーナの口調は堂々としていて雄々しい。
「はい。三日前から」
リョウが腕に抱える幼子を見て二人は興味津々に歩み寄って来た。
「ほほう、それが噂の御子息か」
リョウの胸に頬を寄せて目を閉じるリューシャを見て、スヴェトラーナが目を細めた。
「はい。あの、そんなに話題になっているんですか?」
門番の所でも似たようなことを言われたのだ。つい気になって恐る恐る尋ねてみれば、スヴェトラーナはからりと笑った。
「ああ、この界隈ではもちきりだぞ」
そこにゲオルグも合槌を打つ。
「ええ。勿論、父親になったルスランが、あの顔で、幼児言葉を使って赤子をあやすのかと思うとぞっとしますからね。皆、気になって仕方がないのですよ」
いい笑顔で告げられた相変わらずのゲオルグ節にリョウは思わず吹き出しそうになった。
だが、それは他の兵士たちが思う所でもあったのだろう。その辺りはどうなのだという具合にスヴェトラーナからも視線を向けられて、リョウはおかしさを堪えつつも満面の笑みで答えておいた。
「ルスランはとても協力的なお父さまですよ」
最初は戸惑うことしきりでおっかなびっくりでもあったが、今では率先してリューシャをその腕に抱き、リョウの手が離せない時は面倒を見てくれる。貴族の家庭では大抵、このような場合は侍女や乳母になるような側仕えの者がいるのが常であるのだが、リョウは敢えてそのような者たちを雇わなかった。この間は初めておしめを替えようと奮闘してくれた程だ。普通であれば父親がそのようなことをする習慣はないので、元々独立心の強い性質ではあったが、良くも悪くもユルスナール自身、リョウに感化されているのかもしれない。そのようなユルスナールの父親ぶりを告げれば、きっとこの二人は目を丸くして驚くに違いない。
「ルスランに用事ですか?」
ゲオルグがリョウの傍にいたアリアルダにちらりと視線を向け、そちらに軽く会釈をしてからリョウを窺い見た。
「ええ、それもありますが、第四の方にちょっと」
最後に小さく付け足された言葉に貴族達の裏事情に通じているゲオルグは何がしかを察したようだった。そこでスヴェトラーナに目配せをする。スヴェトラーナも直接アリアルダとは面識がないようで儀礼的会釈にとどめたので、アリアルダは控えていることにしたようだ。
「お手紙で頂いていた依頼の件は、後日改めてということでいいですよね?」
ついでとばかりにリョウがゲオルグに仕事の話を持ち出せば、
「ええ、勿論ですとも。私の方からもあとでそちらに伺おうと思っていたのですよ。その方が良いでしょう? なにかと大変でしょうから」
鷹揚に答えたゲオルグにリョウも微笑んだ。
「ありがとうございます。そうして頂けると助かります」
「では私も後でそちらにお邪魔するとしよう。祝いの品がまだだったからな」
「まぁ、スヴェトラーナさんもありがとうございます。ルスランに伝えておきますね」
「ああ。その時にでもゆっくりとご子息のお顔を拝見するとしよう」
「はい。お待ちしております」
その時、腕の中のリューシャが不意に目を覚ました。小さなあくびを一つして、リョウの胸元の服を握り込んだまま、ここはどこだろうとでも言うように円らな瞳をきょろきょろさせる。
「あら、リューシャ、おっきしたの?」
「マー、アー」
「ん?」
リューシャは、リョウの目の前にいた見知らぬ人物―ゲオルグとスヴェトラーナ―の方を見ていた。
「アー、アー、ウー」
不思議そうな顔をして小さな手を伸ばしてみようとする。
「リューシェンカ、ほら、こちらはゲーラお兄さんとスヴェータお姉さん、パーパとマーマのお友達よ。こんにちはぁって、ごあいさつしましょうね」
抱き上げる腕にもう少し力を入れて、リョウがリューシャを持ち上げるようにして体勢を整えれば、ゲオルグ辺りはてっきり子供が苦手でないかと思っていたのだが、人好きのする笑みを浮かべて伸ばされた小さな手に自分の指を握らせていた。
「こんにちは、リューシャ」
そう言って腰を屈めながら柔らかく微笑む。ゲオルグの艶やかな笑みは赤子をも魅了するのだろうか。そこに邪気がなかったからかもしれないが、リューシャは挨拶に嬉しそうに体を小さく揺すって、ゲオルグの指を握ったまま母親の顔を見た。その隣のスヴェトラーナもぎこちないながらもやはりここは女性らしい笑みを浮かべている。
つい先程まで二人の間に淀んでいた冷え冷えとした空気は、ここに来て解れたようだった。
「あらよかったわねぇ、リューシャ。綺麗なお兄さんとおねえさんにご挨拶ができて」
ここでリョウは話の流れを帰るように幼子に目を向けた。アリアルダが廊下の先、第四師団の区画がある方へ視線を向けて、痺れを切らしているように見えたからだ。
「じゃぁ、バイバイして、パーパシャの所に行こうか」
「パー?」
「そうよ、パーパよ」
「マー」
「そう。じゃぁもう一度、さようならの御挨拶をしましょうね」
そして、リョウはゲオルグとスヴェトラーナに別れを告げた。
*****
「ごめんなさいね、アーダ」
目が覚めて知らない場所にいる所為か、少し興奮気味に辺りをきょろきょろするリューシャを落ち着かせるように抱きながら、リョウは早く恋人に会いたくて仕方がないアリアルダを窺い見た。
「いいのよ。無理を言ったのは私の方ですもの。ここにはリョウの知り合いも多いのでしょう? 先程の二人も軍関係の人たちなのよね?」
「そう。第二師団と第三師団の団長さんたち。アーダは面識がない?」
「社交界で噂に聞いたことがある程度かしら」
「そう。二人とも、最初はとっつきにくいかもしれないけれどいい人たちよ」
「ふーん」とどこか気のない返事を返したアリアルダにリョウは苦笑した。
「ねぇ、リョウ。このまま第四師団の方に行くのよね?」
セイラムに渡す招待状の手紙が入った封書をしっかりと手にしたアリアルダの声は心なしか緊張しているようにも思えた。
「いいえ、その前に少しルスランの方に顔を出さなくては」
案の定、恋する乙女はがっかりした顔をした。今、アリアルダの頭を占めるのは恋人との久し振りの逢瀬だ。表だって顔には出さないが、気が急いて、いや、高ぶって仕方がないのだろう。
「大丈夫、すぐに済ませるから。顔を見せるだけ。ここで何かあったらルスランの責任が問われることになるから、素通りすることは出来ないの。いい?」
「ルスランは真面目ですもの。きっと渋い顔をするのではなくって?」
「ふふふ。大丈夫、少し根回しはしてあるから」
それからすっかり目が覚めてしまったリューシャを抱えて、アリアルダを促しながらリョウはアルセナールの廊下を歩き、突き当たりで左に曲がった。このまま右の方へ行けば第四の区画になるのだが、アルセナールの内情を知らないアリアルダには分からない。
第七の執務室では、事前に話を聞いていたグリゴーリィが訳知り顔で迎えてくれた。
「こんにちは、グリーシャさん。ご無沙汰しています」
「ああ、リョウ、久しいな。変わりはないか?」
「ええ、お陰さまで」
「噂のリューシャのお出ましだな」
グリゴーリィはそう言って高い所から母子を見下ろすように立ち、澄ました無表情から口の端を少しだけ吊り上げ、苦み走った笑みを浮かべた。その微笑は、幼子にとっては威圧感のある冷たい感じがしないでもないのだが、父親のユルスナールと顔の系統が似ているので怖くはないらしい。父親譲りの円らな瑠璃色の瞳で見上げている。
「リューシャ、グリーシャおじちゃんですよ。ごあいさつしましょうね」
そこで室内から吹き出す音が聞こえた。
「ウー、アー」
この時、リューシャは漸く言葉を発するようになったばかり。意味のある言葉を一語、言えるか言えないかだ。
第七の執務室を実質上取り仕切るグリゴーリィは、小さく咳払いをして笑った部下をじろりと睨んでから、すぐに他所行きの表情に改めるとリョウの後ろに佇む若い娘に目を留めた。グリゴーリィは儀礼的な会釈をした後、事情を聞き及んでいたのか確認するようにリョウを見た。リョウはほんの少し困ったように眉を下げながらも頷いた。
その間も室内に詰めている兵士たちが、仕事の手を留めてリョウたちの方を興味津々に眺めていた。
「こんにちは。少しお邪魔しますね」
振り返ったリョウによく見知った顔がひらひらと手を振った。好奇の光りを湛え、爛々と輝いている瞳に、穏やかな色を浮かべた優しい瞳。人懐こそうな満面の笑みに控え目な微笑み。また、不機嫌そうに見える顔も、その内側は違うことをちゃんと知っている。老いも若きも、リョウにとっては普段から生活を共にしている第七の兵士たちと同じ家族のような仲間だ。
「リョウ。そうしてるとすっかり母親だな」
一人が口を開けば次々と声が上がる。
「あっちからこっちは遠いから大変だっただろう」
「うっわ、やっぱこの子もしっかり隊長と同じ血を引いてるんだな。瞳の色はおんなじだ。北の色だよ」
「あ? でも顔立ちはリョウに似てるんじゃないか? 目元なんか特に」
「どれどれ。ああ、隊長よか柔らかい感じだな」
「おお、髪は黒いんだな」
「こいつぁ、将来女泣かせになるんじゃないか?」
「もう今からそんな話か?」
わらわらと集まって来た大柄の兵士たちに囲まれてリューシャは少し驚いたようで、リョウの胸に顔を押しつけると顔を歪めて泣き出しそうになった。
「リューシェンカ? リューシャ? 大丈夫よ。みーんなパーパと一緒にお仕事をしているおにいさんたちなんだから。パーパとおんなじよ?」
リョウが宥めるように背中をポンポンと軽く叩いたのだが、リューシャはとうとう泣き出してしまった。それも大きな声を上げて。
「リューシャ、大丈夫よ。ほーらよしよし」
このまま泣きやまないようであれば外に出るしかないだろうかと思った所で、
「おやおや、そんなむさ苦しい顔が寄ってたかって集まったらびっくりしてしまいますよ。ねぇ?」
団長室の扉が音もなく開いて、そこからリョウにとってはお馴染みの面々―シーリス、ブコバル、そして夫のユルスナール―が現れた。今回、王都への里帰りに付き添って来たのはユルスナールとブコバルであったが、シーリスは武芸大会からずっとホールムスクには戻らずに王都で必要な仕事の調整などを行っていたのだ。シーリスに会うのは随分と久し振りだ。
「おーおー、ビィービィー泣いてんな。今日も元気じゃねぇか。うちの大将は」
のんびりとした二人とは対照的に、ユルスナールは大股でリョウの傍にやって来るとその腕から泣いているリューシャを引き受けた。そのまま腕に抱いて拍子をとるように体を上下に揺すった後、高い高いをするように息子を上に持ち上げた。
「ほーら、リューシャ、どうした? びっくりしたのか? パーパの所に来たならもう大丈夫だからな。いい子にしていたか?」
「パー?」
「そうだぞ。リューシャのパーペェンカだぞ」
実に手慣れた様子で赤子を宥め始めたユルスナールにリューシャは父親の顔を認めると泣きやんで、涙の痕が残る顔のままにキャッキャと笑った。リューシャは父親から高い高いをしてもらうのと、お腹に唇を付けてぶるぶると息を吹きかけられるのが最近のお気に入りなのだ。因みにブコバルのお髭じょりじょり攻撃は嫌いなようで髪を引っ張って反撃する―というのは蛇足だが。
「ああ、いい子だ。リューシェンカ、かわいい子バトちゃん。パーパにチュウは? ん?」
生粋の軍人であり、仕事熱心な騎士団仕様の自他共に厳しい強面隊長の顔はどこへやら。ここで働く誰もが聞いたことのないような甘ったるい声を出して息子の頬に軽く口付けた師団長殿に周りの兵士たちが凍りついた。ユルスナールの変貌―親馬鹿ぶりとも言う―をよく知っているシーリスとブコバルは、「ああ、また始まった」と思うくらいでたいして気にしていないが、アルセナールの執務室内に詰める兵士たちにとっては天変地異の前触れではないかと思うくらいの衝撃であっただろう。その証拠に若い兵士の一人は口をあんぐり開けて呆けた顔をしている。その周りにいる兵士たちも呆気にとられた顔を晒していた。
室内に漂う微妙な空気にリョウは苦笑したものの、それを愉しんでいる風であった。
「パー」
嬉しそうに笑うリューシャにその機嫌が直ったことを知ってリョウはほっとした。
さて、問題はこれからなのだ。室内に入ってからもリョウの後ろに隠れるように控えていたアリアルダが、リョウが肩から羽織る上着の裾を引いた。
「リョウ」
小さな囁き声に、リョウは分かっていると頷いてユルスナールの手からリューシャをもらいその腕に抱きとめた。
「では、少し用事を果たしてきますね」
「ああ。くれぐれも失礼のないようにな」
「ええ。分かっています」
「アリアルダもいいな?」
最後に釘を刺すようにユルスナールが事の発端となった珍客を見やれば、
「もちろん、心得ておりますわよ」
アリアルダは勝気がちに澄ました顔をして背中を逸らした。リョウはその意気込みを見て「どうかその通りでありますように」と心の中で祈った。
「リューシャ、じゃぁまた後でだ。マーマとお散歩しておいで」
「パー? ウー、アー」
「ああ、お散歩だ」
「じゃぁ、行ってきますね」
小さな手を指で擽るように弄んで、屈んだユルスナールの頬に軽く口づけを落としてから、リョウは息子を抱いた腕に力を込めるとアリアルダを伴い第七の執務室を後にした。
その後、第四師団の執務室でセイラムを呼び出してもらった。応対に出た兵士は、第七師団長の奥方であり、かつ術師として第三師団に出入りするリョウのことを知っていたので、訝しげな顔はされたが、然程問題なく第一関門を通り抜けることが出来た。
戸口に現れたセイラムは、案の定、幼子を抱くリョウの顔を見て目を白黒させたのだが、その隣に立つアリアルダを認めると呆けたような声を出した。
「アリアルダ・ラマーノヴナ!?」
セイラムはアリアルダを父称付きの非常に丁寧な呼び方で声をかけた。因みに父称とは父親の名前を変化させたもので「~の娘」的な意味合いを持つ。
「どうなさったんですか、一体!」
貴族のお嬢さまであるアリアルダがこのような所にやって来るのは予想外のことであったのか、声には驚きの色がありありと表れていた。セイラムは心底意外な風にアリアルダを見た後、隣に付き添うリョウに目を留めると表情を改めた。
「これはシビリークス夫人、御無沙汰いたしております。お変わりありませんか」
「はい。お陰さまで。セイラムさん、堅苦しいことは肌に合いませんので、どうぞ以前と同じようになさってくださいな」
昔から丁寧でそつのない物腰であったが、律義な所も相変わらずのようで、特にユルスナールの元に嫁いでからはリョウに対しても、その身分に合った応対をしようとするのだ。
「ではお言葉に甘えまして」
「ええ」
そこでセイラムはリョウの腕の中にいる幼子を見て目を細めた。
「そちらがご子息ですね。無事のご誕生、おめでとうございます。お噂はこちらにも届いておりますよ」
「まぁ。ありがとうございます」
リョウは腕に抱いたリューシャを軽く持ち上げるようにしてセイラムに紹介するように見せた。
「リューシャ、セイラムさんにごあいさつしましょうね」
「アー、ウー?」
幼子は連れ回される形になっていたが、今の所、気分を害してはいないようだ。
そのまま当たり障りのない世間話になりそうになったので、リョウは元よりこの企画の立案者であるお嬢さまの様子を窺ったのだが、アリアルダは表面上、淑女然りとした微笑みを浮かべながらも熱い眼差しで食い入るように恋人を見つめていた。
リョウは内心苦笑した。
「あの、突然お邪魔した上に、お仕事でお忙しいことは重々承知しておりますが、少しお時間を頂いてもよろしいでしょうか」
「私に……何か?」
「ええ」
そう言ってリョウは小首を傾げたセイラムの前でアリアルダに注意を促した。
「アーダ」
我に返ったアリアルダにリョウは目配せをした。
「あ、ええ。あのセイラム、少しお話しできないかしら。渡したいものがあって」
いつもの毅然とした態度からは一変、ややはにかむようにして目を伏せたアリアルダにセイラムは優しく微笑んだ。その眼差しはとても柔らかい。
「ええ。構いませんよ。では、ここではなんですから少し場所を移しましょうか。ああと…その前に、ちょっと事付けてきます」
「ええ」
リョウはセイラムの態度を見て、アリアルダの言葉は誇張ではなかったと思った。中々に良い雰囲気ではないか。端から見ても恋人のような空気が出ている。
「ねぇ、アーダ」
セイラムが同僚に一時的に席を外すことを告げる為に執務室の向こうへと消えた時、リョウは声を潜めてアリアルダに自分たちがいては邪魔になるだろうと申し出た。
「後は二人でゆっくり…ね? その方が良いでしょう?」
リューシャがいたらどうしても話の中心が幼子に移ってしまうし、機嫌を損ねて泣き出したりでもしたら折角の雰囲気に水を差してしまう。
「え、でも……折角なのに」
「だからよ」
不安そうな顔をしたアリアルダにリョウはその手を取ると微笑んだ。
「渡すものがあるでしょう?」
アリアルダが手にしているのは、近々ズィンメル家で催される私的な食事会への招待状だった。そこでズィンメル家・家長のラマンより直々に婚約への打診があるのだとかいないとか。知り合ってから随分と時間が経っているが、ここで一気に押しの体勢に入る模様だ。娘大事の父親の後押しもあり、本人が気付かぬうちに外堀を埋められている形になるのかもしれない。だが、時にはそれもありなのだろう。
この国では確立されている身分制度というものが時に人生の要所要所で顔を覗かせる。身分違いの恋というものは、男が平民の場合は、その成就が中々に難しいことであろうから、周囲からのお膳立てがあった方がまとまりやすいだろう。後はセイラムの気持ち次第だ。
「子供のこと云々は、話の接ぎ穂に使うくらいでいいんじゃないの? 顔を合わせるのも久し振りなのでしょう? なら、まずはお互いのことに集中した方がいいと思うわ」
限られた時間は有効に使うべし。
戻って来たセイラムにリョウはここで失礼すると先手を打った。
「おや、御一緒されるのではないのですか?」
「ええ。ワタクシは案内役のようなものでございますから」
「え、ちょっと…リョウ?」
狼狽の滲むアリアルダの声をリョウは敢えて流した。少し薄情かと思わないでもないが、こういうものはやはり本人同士の気持ちが肝心で、周囲の意見は雑音にしかならないであろうから、リョウはリューシャの小さな手を持ち上げて「バイバイ」と振らせるとそそくさと退散したのであった。
*****
さて、その後、奥手な堅物と評判な男と土壇場で恥じらいを見せた猪突猛進な性質のお嬢さまの組み合わせである若き恋人たちはどうなったかというと。
アルセナールの中庭の少し奥まった一角に小さなベンチが置かれており、そこに二人の姿があった。セイラムはベンチに座るようにアリアルダを促した後、自分も隣に腰を下ろした。
どこか緊張気味にそわそわとしているアリアルダを見て、セイラム は口に手を当てて控え目に喉の奥を鳴らした。
「一体、突然、どうなさったと言うんです。アーダ、いつものあなたらしくない」
尚もおかしそうに笑うセイラムをアリアルダは拗ねたように見返した。
「もう、酷いわ。そんなにおかしいかしら?」
暫く笑った後、
「いや、このくらいにしておきましょう。そうでないとあなたの機嫌を損ねてしまいますからね」
セイラムはそう言って顔付きを飄々としたものに変えた。
「もう」
セイラムはアリアルダの膝の上に置かれた手に握られている封書に目を留めた。額際に零れ落ちたおくれ毛が華やかな横顔を象っている。そのすぐ脇にある緑色の髪留は淡い髪色に良く似合っていた。
「私に…お話しがあるとか」
「ええ。これを」
アリアルダは小さく微笑んでから手にしていた封書を差し出した。男の手が宛名と裏書きを交互に確かめるのを横目に、
「明後日、うちで内輪の食事会をするのだけれど、そこにセイラムも来て欲しいのですって」
「招待状ですか? 御父上よりの?」
「ええ、そのようなものかしら。お父さまが是非にと仰っていて。この間シャーフマティで負けたのが悔しかったのよ」
「おやおや」
「それでね」
それからアリアルダはちらりと男の顔を盗み見てから前を向いた。
「多分………例の話になると思うの」
その声音には若干の気丈さと震えが微かに入り混じっていた。
「例の話?」
そこでセイラムは合点の行かぬ顔をした。
「ええ」
アリアルダはにっこりと微笑んだ。
「これまでにも話していたでしょう? さる貴族のお嬢さんがとある青年を見染めて、その家の婿に入らないかと誘う話」
「ああ、お知り合いのお話しということですね」
「ええ。そうよ」
これまでアリアルダは【知り合いの話】とかこつけて自分の思慕を織り交ぜながら相手の反応を見ていた。一方セイラムは、これまで表だって口にはしてこなかったが、アリアルダから寄せられる過分なまでの好意を分からない程朴念仁ということでもなかった。
だが、セイラムの中ではアリアルダが思っている以上に身分の違いというものが重く圧し掛かっており、アリアルダの感情を一時的なものだと思っている節があった。なので、たとえセイラムがアリアルダを好ましく思っていたとしても、自ら婚姻に向けて更に一歩踏み込んだ行動に出るとは考えにくかった。
そこでアリアルダは声の調子を変えた。
「ねぇ、セイラム。もし…ね、万が一…よ? あなたも似たような申し出を受けたとしたらどうする?」
「私が…ですか?」
セイラムはそこで少しだけ驚いたような顔をした。勿論フリのようなものである。
「そう」
セイラムは隣に座るアリアルダをちらりと横目に見下ろしながらのんびりと言った。
「私が婿入りをするんですか?」
「そう。貴族の家に入るの。勿論、形だけの話だけれど」
「私は貴族にはなれませんよ? 根っからの庶民で、その前に軍役に身を置く者ですから」
まるで他愛ない冗談を口にするように飄々と嘯いた男にアリアルダはむくれてみせた。
「たとえばの話よ。別に貴族になる必要はないわ。そんなこと求めてはいないもの。ねぇ茶化さないで真面目に答えて」
「おや、これでも私は真面目な積りですが」
「では真剣に答えてください」
「そうですか。いつにもまして手厳しいですねぇ。ならば仕方がありません」
セイラムは軽く笑うと天を仰ぎ、降り注ぐ柔らかな春の日差しに目を細めながら徐に口を開いた。
「そうですねぇ。お相手に寄るでしょうか」
これはきっと当たり障りのない言葉遊びのようなもの。これまでアリアルダの話は周辺をぐるぐると回って、決して核心には踏み込んでこなかった。まるで否定されたら最後、絶望が待っていることを恐れるかのように。セイラムもそれをいいことに、敢えて何かを明らかにしようとは思わなかった。いや、もしかしたら自分の中に潜む本当の気持ちを暴かれることを恐れていたのかも知れない。
「ふーん。では、もし、わたくしがうちのお婿さんにって望んだら、首を縦に振ってくださるかしら?」
「は…い?」
突如として変わった流れにセイラムは虚を突かれた顔をして、アリアルダの瞳を覗き込んだ。赤みを帯びた琥珀色の瞳は、思いの外、真剣だった。
少しの間の後、出されたセイラムの第一声は随分と間の抜けたものだった。
「そういうお話なんですか?」
「ええ、そういうお話のはずですよ」
―少なくともお父さまとわたくしは。
そう言ってアリアルダは想いを寄せる相手を見上げてにっこりと微笑んだ。その隣でセイラムは呆けたような顔をして頬をつるりと撫でている。
「今、わたくしの口から言えるのはそれだけです」
勢いを付けてアリアルダが立ち上がった。
「ですから、明後日は是非いらしてください。お待ちしておりますから」
―ではわたくしはこの辺で。ごきげんよう。
しなやかな雌鹿のように軽やかに足を踏み出すとセイラムの視界から瞬く間に淡い髪色の美しい女が消えた。そこに飾られた髪留の緑色が残像のように男の網膜にちらつく。
「………参ったな」
顔を片手で覆い、そのままずるずると口に当てる。困惑した様子を見せながらもセイラムはどこか嬉しそうで、何故か内から湧き上がるおかしみを堪えるように喉の奥を震わせた。
―シャーフ・マティ。
不意に脳内に響いた声は誰のものだったのか。
セイラムは、ゆっくりと立ち上がると招待状を上着の内側のポケットにしまった。そして、途中になった仕事を片付けるべく第四師団の執務室に戻ることにした。同僚たちから降り注ぐであろう好奇に満ちた視線と質問攻撃をどうやってかわそうかと考えながら。
その時に踏み出した第一歩が、跳ねるように軽やかだったことに当の本人は気が付いていない。
終わり
*****
おまけ
リューシャを腕に抱えたリョウは、そそくさのあの場を立ち去ったかに思えたのだが、実は少し離れた所から二人の様子を見守っていた。
どこか初々しくもあり、また、こなれた感のある不可思議な両人の空気を興味深く思いつつ、その遣り取りを最後まで見届けると安堵に似た溜息が漏れていた。
もしかしたら本当に嬉しい報せが近い将来シビリークスの家にも届くのかもしれない。目にも色鮮やかな新緑の緑が、まだ若い娘の生き生きとした笑みに重なる。
緑は恋の色。厳しい冬を乗り越えた先にある生命の喜びに満ちた春の色。そんなことをふと思った。
アリアルダには幸せになってもらいたい。リョウは心の中でそう願わずにはいられなかった。
でもこの分ならば上手く行くのかも知れない。
「リューシャ、きっともうすぐ嬉しいお知らせが届くかも知れないわ」
「マーマ?」
心からの笑みを浮かべた母親に幼子も何故か嬉しくなって笑う。その視線が母親の肩越しに向けられると一層輝きを増した。
「パー!」
やって来る人影に先に気が付いたのは幼子の方だった。
「ルスラン」
「まだこんな所にいたのか。暖かくなってきたとはいえまだ冷える」
「はい」
母親の腕から息子を片手に引き受けると、夫はもう片方の手で妻の肩を抱いた。その冷えた肩先を道々温めるように摩る。そうして仲睦まじい様子を覗かせながら、もう一組の家族がアルセナールの扉の中へと消えた。
長々とお付き合いいただきましてありがとうございました。
本編では当分息子の登場はなさそうだということで、「リョウと幼子リューシャとそこにアリアルダが絡んだお話、特にアリアルダがリューシャを見て刺激を受け、セイラムとの恋のお話を進展させる」というお題でした(もし理解不足でしたらスミマセン)10月にお話を頂いてから遅くなりましたが、リクエストを頂きましたsezou さまに捧げます。ありがとうございました。
次回からはまた暫く第二部の方に専念したいと思います。