熱帯夜 - 前編
熱帯夜
一色靖
第一章 通称「観光ツアー」
楽しい会議というものは、そうそうあるものではない。あったとしても、まあ三十分もすれば興味は失せて、早く終わってくれ、という気分になる。広い会議室に散らばって陣取っている他の二十九名はどう思っているのだろうか。見たところ、みな自分のノートパソコンを見つめていて、会議に集中しているが、実際のところはどうだか知れやしない。
おれ――石崎健吾――もご多分に漏れず、退屈しのぎにボールペンのキャップをはめたり外したりして、遊んでいる。目だけは手前のノートパソコンに映し出される、文字や動画で表された議事進行の様子を、ほとんど外野の視線で追っていた。会議はオンライン会議システムに接続された各自のパソコンの上で進行していた。
おれは保険調査員だ。これは、おれの勤めるオールドストーン総合保険会社のリスクマネージメント部門南アジア地域セクションの定例会議で、毎月一度開かれる。きょうは八月の会議だった。
ここはロサンゼルスの本社ビル四十三階。窓を通して見えるビル群のガラスの壁には、それぞれ矩形に切り取られた空が映っている。鏡映しになった空は、実際より青く見える。その異形の空の向こう、すなわちビルのひとつひとつの中では、きっと働く事に情熱を燃やすビジネスマン、ビジネスウーマンたちが一分を惜しむように仕事に励んでいるのだろう。午前中までに終わらせたい仕事を山ほど抱えながら。とはいえ中には、おれのような、会議に倦んで一分でも早く過ぎて欲しいと願う不届きな輩もいないとも限らない。
シンガポールに新築された多目的高層ビルの耐震強度検査立ち会いに、アン・バクスターが向かうことが決まり、ようやく最後の議題に入った。おれは腕時計を見た。十一時四十八分。ランチタイムが間近だ。
進行役のジム・ワイバーン部長が言った。
「きょう最後の案件だ。シーバース社がマイネシアに持っている原油精製プラントの件だ」
各自のコンピュータに「議題十八 契約番号CZ3877A7 緊急度レベルD シーバース社案件」というウィンドウが開いた。
おれは「シーバース社」の文字をクリックしてみた。ポップアップウィンドウが開いて、会社の情報が表示される。なんだ、日本の企業じゃないか。東京に本社を持ち世界八カ国でガソリンや重油を生産している石油化学会社だ。その支社のひとつが南太平洋のマイネシア共和国にあり、十二年前から操業している。
ワイバーン部長はおれに視線を送ってよこした。そして言った。
「わたしは、この件は石崎君に任せたいと思っている」
突然、自分の名前が出て泡を食った。皆の視線も集まる。おれは自分がこの議題についてなんの予備知識も持っていないことに動揺した。やっぱり資料は前もって目を通しておかなくてはいけない。スマトラで大きな仕事を終えてきたばかりなので、今期はなにも割り振られないだろうとタカをくくっていたのだが、甘かった。最小コストで最大利益を――現場はそういう論理で動いているのだ。そこに、おれがスマトラ帰りでのんびりしたいなどという個人的希望が入る余地はない。それでもまあ、緊急度レベルは最低のDで、おれたちの間では「観光ツアー」とあだ名しているたぐいの仕事だ。多少の心配りはしてもらえているらしい。
それにしてもご指名の理由を知りたかった。
取りあえず手を挙げて、おれはたずねた。
「部長、単にわたしが日本人だから、という理由ですか?」
ワイバーン部長は、にやりと笑いながら答えた。
「単なる偶然だよ。とくに理由はない」
嘘つきは嘘をつくほど上達する。その点においてワイバーン部長は筋金入りだ。あの人当たりのよさに誰もがだまされるが、頭の中は常に無数の計略であふれている。ワイバーン部長は決して偶然でおれを指名したりしない。考えられる理由はいくつもあった。おれが日本人だということの他にも。
「シーバース社はこの工場に二千万ドルの損害保険をかけている。
それが、ここのところ立て続けにぼや騒ぎがあり、幸い操業停止にはならなかったものの、どうも現地にこのプラントを破壊しようと目論んでいる者たちがいるようだ。
そこで、現地に飛んで、もっと詳しい情報を集めて欲しい。資料を転送しておくから目を通してくれ」
おれは肩をすくめた。
「なるほど。仕方ありませんね」
おれは斜め向かいに座るハーシュ・バークレイに目を向けた。彼とは一度、正味二日で終わる簡単な仕事をしたことがある。おれはその時、彼は相棒として実に頼もしい有能な調査員だという印象を持った。
彼は、おれを睨みながら、わずかに首を横に振った。なにか言ったらただじゃおかない、そんな顔だ。
だがおれは手を挙げて言った。
「部長、ハーシュも担当にして下さい。わたし一人では心許ない」
「よかろう。ハーシュ、君も行ってくれ。南太平洋といえば、お土産は決まって木彫りの仮面だ。それだけは勘弁してくれよ。もう置くところがない」
他のものは笑い、ハーシュは天井を見上げて嘆息した。顔を戻すと、おれに突き刺すような視線を向け、持っていたペンでおれの方をそっと指した。頭の中はおれへの怨嗟の言葉でいっぱいだろう。それを見て、おれもさすがに多少の申し訳なさを感じていた。だがハーシュの本能的な情報収集能力はぜひともほしかったのだ。
「以上だ。なにか質問は?」
誰もなにも言わなかった。
「では、会議は終了だ。みんな、ご苦労」ワイバーン部長はそういうとノートパソコンをぱたりと閉じた。
みな、がやがやと、例えばランチをどこで取ろうかといったような事を話し合いながら、部屋から出て行った。
おれは出口の列に続こうとしているハーシュに人差し指をかざして呼び止めた。ハーシュは明らかにおれと目を合わせないようにしていた。
「ハーシュ、ちょっと残ってくれ」
ハーシュはうんざりした顔で寄ってきた。
「健吾、いまは口もききたくない気分なんだがね」皮肉と嫌味をまぶしたような口調だ。無理もない。他にも仕事をいくつも抱えているのに、おれのせいでそれがひとつ増えたのだ。
「まあ、そう言うなよ。シーバース社との契約について知りたくてね。君のことだから、色々調べてるんだろう?
約款を読むより、君から概要を聞いた方が早いんだよ」
「ぼくを巻き込んだ理由のひとつが、早くも分かったよ」
引きずり込んだ手前、棘のある言葉は甘んじて受けるしかないだろう。おれは黙って隣の椅子を引いた。
ハーシュはその椅子に座ると、自分のノートパソコンを開いて、色々なファイルを表示した。
オールドストーン総合保険会社は、桁違いに巨大だという点を除いては、他の損害保険会社と特に違いはない。やっていることはいわゆる保険商品の販売だ。顧客を加入させ、毎月保険料を支払ってもらい、その代わり契約の該当事項が発生したら保険金を支払う。なにも変わりはない。
ただ、うちが少しばかり違っているのは、扱う商品の多様さだ。
オールドストーンは、普通の消費者向けの損害保険なども扱っているが、企業や国家などを対象とする巨額の保険商品も扱っている。それは会社の規模を聞くと理解の助けになるかも知れない。オールドストーンの年間売上高は全世界で二百億ドルを超える。あのマイクロソフトにも屆こうかという規模である。
それは、たとえばタイの森林地帯の保全状態の補償とか水没の危機にあるツバル島の補償など、とんでもない規模の保険商品を数多く扱っているからだ。このため桁外れの保険料収入があり、会社は今でも毎年、少しずつ太り続けている。
もちろん、高額の保険料という事は、補償額も巨額である事を意味する。シーバース社は、件のプラントのために毎月五万ドルの保険料をオールドストーンに支払っている。その代わり、必要な事態が起こると、オールドストーンは二千万ドルの損害補償金をシーバース社に支払う。
ハーシュが言った。
「契約に特に変わった点はないよ。健吾。
自然災害あるいは非関係者による作為により、三十日間以上継続してプラント操業が不能に陥った場合、オールドストーンはシーバース社に損害補償金を支払う」
「免責事項は?」
「これもいつものやつだ。シーバース社が必要な警備を怠ったり、マイネシア政府の介入や戦争などが原因の場合、我が社に責任は発生しない」
「二千万ドルとは張り込んだものだな。どのくらいの規模の精油所なんだ?」
「昨年下半期の実績で、重油ベースで月産八百キロバレル。そう大きくもないな。マイネシアは治安が悪いから危険と見たんだろう」
今回のように支払額が一千万ドルを超えるとなると、会社としても無視できる額ではない。
損害が発生するのを黙って指を咥えて見ているわけにはいかない。そこでそれを未然に防ごうと、誰でも考えるはずだ。
日本で行われているラジオ体操をはじめとして、世界中に類似の健康体操が存在するが、その元祖は、一九二五年にアメリカのメトロポリタン生命保険会社が考案したものだ。保険加入者が健康でいてくれれば、それだけ支払額が少なくて済み、ロスレシオ(保険料収入に対する賠償額の割合)が抑えられて会社は安泰になるという論法だ。
果たしてオールドストーンも同じで、社のロスレシオの抑制・安定化を専門的に行う部署がある。それが、おれのいるリスクマネージメント部門だ。
要するに、大雨で橋が流されそうになっている時に、おれのような担当者を派遣して、川に入って橋を支えさせるのだ。
それで担当者が溺死してもあまり問題ではない。おれが死んでも会社が支払う保証金はせいぜい百万ドル。非情な計算だが一千万ドルの損害を防ぐために百万ドルを支払うなら、充分釣りが来る。
おれはハーシュにたずねた。
「ぼやか。何回だ?」
「四回」
「四回? ずいぶんとしつこいな。被害は?」
「まったくない。場所が良かった」
「犯人は?」
「警察が逮捕したそうだ。
健吾、たかがぼやの調査だぞ。一人で行ってきてもらいたいものだな」
「そう言うなよ。きみがいると助かるんだ」
おれは玩具をねだる子どものような口調でハーシュに言った。
ハーシュは青緑色の瞳でおれを睨みつけた。
おれは、早速ハーシュと二人でマイネシアに渡り、現地調査を始める事にした。
シーバース社に電話を入れたところ、担当の月形総務部長という男が応対したが、思いの外、愛想が良く、快く訪問を了承してくれた。
数日後、十八時間の飛行時間を辛抱した末に、ベルト着用・禁煙サインが点いて、飛行機は下降姿勢を取った。エンジン音が一段高くなった。気圧の変化で耳がわずかに痛んだ。
上空から見ると実に小さな島だった。紺碧の海に、波で白く縁取られた小さな島が浮かんでいる。それに連なって、さらに小さな島々が点々と続いていた。最も大きなマイネシア本島でさえ点のように小さい。腕の悪いパイロットなら狙い損ねて海に墜落してしまうのではないかと心配になるほどだ。幸い飛行機が下降するに連れて島はぐんぐんと大きくなり、南北に延びたサヤエンドウのような形が見て取れて、おれのパイロットの腕前への心配は杞憂に終わった。
赤道直下の南太平洋に位置する小さな群島国家、それがマイネシアだ。最も大きなマイネシア本島に首都リバラがあり、空港や行政機関などの首都機能としてのインフラが集中している。かつてマイネシアはオランダ領だった。太平洋戦争で一時日本に占領されたが、アメリカが戦略拠点として攻略、戦争終結とともに独立を果たした。近年は工業に力を入れ、輸出で外貨を獲得しつつある。開発途上国から一歩抜け出して、新興国の仲間入りをしようとしているのがいまのマイネシアの姿だった。
などと言っているが、実はこれはハーシュの受け売りである。機内で彼から、マイネシアについてみっちりと講義を受けた。随所に嫌々という雰囲気を漂わせていたが、説明そのものは微に入り細に入り、実に丁寧で、そこが生真面目なハーシュらしいところだった。
マイネシア国際空港は、マイネシア本島中央の首都リバラにあり、シーバース社の製油プラントはマイネシア本島北側のアケラという町にある。
空港に降り立つと、とたんに、肌にまとわりつくような赤道独特の暑さが襲ってきた。半袖のワイシャツを着てきたのは正解だったようだ。滑走路全体からゆらゆらと陽炎が立ち、ゆがむ景色と暑さに軽いめまいを覚えた。
事前のやり取りで、マイネシアにあまり良いホテルはないので、シーバース社のゲストハウスに泊まると良いとシーバース社のほうで言ってくれた。
空港内は閑散としていて、出迎えの人々も少なかった。マイネシアはこれといった観光スポットもなく、観光客はほとんど来ない。おれだって、仕事でなければこんな島に来たいとは思わない。だいたい、ローミング網の外で国際携帯電話が圏外なので、固定電話を使わないと会社と連絡もできない。幸い首都リバラではインターネットが使える。この他、シーバース社でもインターネットは使えるとのことだった。
人中に立つと、形容しがたい不安が襲った。手でベルトを撫でるがそこにはなにもない。一種の発作のようなものなのだが、こういうところにいると、まわりが全部敵のように思えるのだ。つまり敵に囲まれている、というわけだ。おれは自分の心をなだめ、落ち着かせた。
おれは気もそぞろでハーシュと手荷物受取所で、自分の荷物が来るのを待っていた。
「暑いな」おれが言うと、
「ああ、たまらないよ」と、ハーシュは答えた。おれよりずっと暑さに弱そうだった。しきりにハンカチで顔を拭いている。
やがて、おれたちの荷物がベルトコンベアに乗って運ばれてきた。それを引っ張り寄せると、おれたちは出口に向かって歩き出した。
シーバース社から誰か迎えに来ているはずだ。おれは、出口ゲートの周囲の人々に目を走らせた。「Oldstone Mr.Ishizaki and Mr. Berkrey」と書いた紙を持った若い日本人女性が立っていた。彼女がそうだろう。
会社の方針なのか知らないが、この暑いのに藍色のスーツを着ている。肌も生白く、全くこの場に似つかわしくない。
「石崎です」おれは日本語で彼女に話しかけた。
彼女は操り人形のようにぴんと背筋を伸ばし答えた。
「わたくしシーバース社マイネシア支社総務部庶務課の浅野真子と申します。遠いところをようこそお出で下さいました」そう言って両手で名刺を胸の前に差し出した。
おれは握手しようと右手を差し伸べていたのだが、ばつの悪い思いをしながら引っ込めた。まったく。
良くも悪しくも大抵の日本人は礼儀正しいが、ここまでしゃちほこばっているのも珍しい。シーバース社の社員教育がよほど徹底しているのだろうか。
おれとハーシュはかしこまって名刺を受け取り、それぞれ自己紹介をした。
「車を用意しています。こちらへどうぞ」浅野はそういうと歩き出した。おれたちはボストンバッグを引きずりながら後に付き従った。
空港ビルを出ると、強烈な太陽の洗礼を浴びた。蒼空にはちぎれ雲が二、三あるだけで、宙は完全に太陽が支配していた。
「空がきれいだ」おれは思わず口にした。
浅野が教えてくれた。
「地元ではマイネシア・ブルーと呼んでいるんです。独特の青さでしょう」
駐車禁止の看板が林立しているにも関わらず、空港前にはびっしりと車が停まっている。
浅野はおれたちを駐車場に案内した。国際空港という割には、五十台ほどの駐車スペースしかなく、違法駐車の多さも多少納得できた。そこには、運転手の乗った車が待っていた。浅野が助手席、おれたちは後部座席に乗り込んだ。荷物はトランクに入れた。
運転手は褐色に日焼けした現地人だった。褐色の肌に七三に分けた髪。やせて襟元から肩胛骨が浮き出ているのが見える。背は浅野と大して変わらない。くぼんだ眼窩に大きな目がおさまっていて、肌の黒さに、白目がやけに際だっている。比較的若そうだった。二十代後半といったところだろうか。
「初めまして、ミスター石崎、ミスター・バークレイ。お会いできて光栄です」
おれたちは驚いた。彼の話す英語があまりにも自然だったからだ。浅野が紹介した。
「こちらはソムニ・アリスタ。マイネシア人ですが、国籍はアメリカなんです。高校までこちらで過ごしたあと、アメリカの大学に留学し、その後もアメリカで働いて、米国永住権を取ったんです。わたしと同じ総務部で働いています。企画課です」
笑顔でおれたちに向かって軽く会釈した。浅野がマイネシア語で声をかけ、アリスタは車を走らせ始めた。
「シーバース社のあるアケラまでは遠いのですか?」おれは浅野にたずねた。
「さようですね、車で二時間ほどになります」
車は、どぎつい原色の幌を張った屋台が建ち並ぶ市場を抜けていく。市場は人で賑わっていた。首都リバラの一番の繁華街だ。この賑わいが、マイネシアがいま伸びている国だと言うことを端的に表している。
ハーシュが英語でたずねた。
「ミス浅野はまだマイネシア勤務がそう長くないようにお見受けしますが」
浅野はぎこちない英語で返事をした。
「実は新入社員です。マイネシアに来てまだ二月しか経ってございません。マイネシア語も、片手で数えられるくらいしか暗記してないんです」
おれはハーシュと顔を見合わせて苦笑した。まだ二ヶ月の新入社員を出迎えに寄越すとは、よほど人手が足りないのか。
それはともかく、彼女が日焼けもしていず、天候に似つかわしくないスーツ姿で、慇懃に名刺を差し出すのも、全部合点がいく。彼女は研修を終えてマイネシアに送り込まれたばかりの新入社員だったのだ。
新入社員をいきなり海外の工場に配属するとは、シーバース社も酷なことをするものだ。おれは若い浅野に同情した。
「あなたは就職の選択を間違えたのかも知れませんね。新人研修を終えて即座にマイネシア勤務とは。貧乏くじを引いたんじゃありませんか?」とおれはたずねた。
すると浅野は、
「いいえ。違います。わたしは配属希望をマイネシア支社にしたんです。定員一名でしたが、だれも他に希望者がいなかったのですんなり決まりました」
おれは驚いた。
「どうしてまた、こんなところを希望したんですか?」
浅野は少し間を置いた。長いまつげを二、三度またたいて、外の景色に目をやり、つぶやくように言った。
「どうしてでしょう。なんとなく来てみたかったんです」
そんなあいまいな理由で進路を決めてしまう浅野が、おれには少しうらやましかった。若いからこそできることだ。起業の夢を追い求めていた自分の二十代を思い出した。なにも怖いものはなかった。そしてあの頃の夢はどこへやら、いまおれは、よそ様の会社のあら探しを生業にしている。
浅野が言った。
「窮屈とは存じますが、いまひとときの辛抱ですから。申し訳ありません」
おれは言うべきかどうか少し迷ったが、言うことにした。
「浅野さん、礼儀正しいということは、相手がそれを望んでいるときは良いが、常に適切というわけではありませんよ。いまに関していえば、もう少し、打ち解けて結構です」
浅野は、さっと顔を赤らめた。そういうオンとオフの切り替えは、まだ彼女には難しいのだろう。
「すみません」
「あやまることじゃありませんよ。研修でそうするように躾けられてきたのだから当然です。でも、もうここは現場だ。気楽に行きましょうよ」
おれは笑って歯を見せた。浅野も少し照れくさそうににっこりと笑った。整った美人だ。おれの好きな少しとがったおとがいに、よく瞬く大きな目。何よりはにかむような笑みがおれにはちょっと新鮮だった。
もちろんアメリカにも日系人の女性はいるが、謝るのは負けだとでも考えていそうな女たちばかりだ。そういう、勝ち気な女も悪くないが、日本から来た日本女性というのはおれの興味を惹いた。とんとご無沙汰だった。
おれは、ハーシュをそっちのけで、二ヶ月前まで日本にいた浅野に、日本の最近の様子などを日本語であれこれたずねた。浅野は、なんでも気さくに答えておれの相手をしてくれたが、家族などプライベートなことについては聞いても答えようとはしなかった。おれはその様子にかたくななものを感じた。
やがて、道は舗装されていない凸凹道に変わった。これでも国道だという。なんでもマイネシアの国道の舗装率はまだ六十五パーセントだそうだ。車は激しく揺れ、会話は自然と大声になった。
かやの外に置かれたハーシュはすっかり退屈して外の景色を見ている。道の両脇はココヤシとナツメヤシの木がびっしりと生えた林になっている。
ハーシュはそれにも飽いたらしく、アリスタに声をかけた。そっちが日本語で話すなら、こっちは英語で話してやる、という横意地のようなものを多少感じた。
「アリスタ、大学ではなにを専攻したんです?」
「経営工学です」
「……あー」答えを選んでいるハーシュにアリスタがすかさず返した。
「そんなものなんの役にも立たない、でしょう? わたしもそう思います」
「いや、そんなことはない」
「いいんですよ。実際、なんの役にも立ってませんから」アリスタは笑った。
「むしろ会社に入ってから学んだことのほうが多いですね」
会社の現場の中に極力階級を持ち込まず、QC活動をはじめとするフラットな職場環境を構築する日本的な経営手法は世界で一定の評価を受けている。
「日本の会社は良い会社です」
おれはアリスタが、シーバース社は、と言わなかったことに少しばかり気持ちの引っかかりを感じた。だが、それに口をはさむのはやめておこうと思った。なんの不満もなく、満足して会社に通っている人間は少ない。どんな労働者も会社に不平のひとつくらい持っているのが普通だ。
窓の外のヤシ林は唐突に終わり、開墾された草地が現れた。シーバース社のある町アケラだ。
車は小さな町に入り、往来を気ままに行き交う人々のためにスピードを落とさなければならなかった。かれらは車などお構いなしに道路の真ん中を歩いている。ここでも、人々は原色の布地を身にまとい、浅黒い肌を見せながらたたずんでいる。
アリスタは何度もクラクションを鳴らし、人々をかき分けた。十分ほどかけて、ようやくその繁華街を抜けたと思ったら、遠くに大地にそびえる巨大な葉巻のような蒸留塔と三つの円筒形のタンクが見えてきた。そのどれもに、シーバース社の「S」をあしらった赤いロゴマークが描かれている。それらは複雑な骨格をもつ構造物で支持されていた。その周囲には、びっしりと混み入ったプラント群が並んでいる。
「あれですね」
おれの問いに、浅野は「ええ」と答えた。
やがて道は、おそらくシーバース社がおこなったのだと思うが、再び舗装された、草原の中の一本道になり、二度ほど曲がって敷地の入口に着いた。
入口はフェンスで閉ざされていた。ゲート警備員の詰め所だろう、入口横に小さな小屋があった。浅野が助手席の窓を開けて、社員証を小屋に向けてかざすと、派手な騒音を立てて、ゲートが左右に開いた。
車は敷地に入り、徐行で進んだ。巨大なプラント設備が天を突かんばかりにそびえ立っている。それに心を奪われていると、だしぬけに車は社屋に横付けした。
おれたちは車を降りて社屋を見上げた。五階建てのビルで、白い外装が施してある。その色は景観を損ねないようにという配慮の表れなのかも知れないが、残念ながら、あちこちにでかでかと掲げられたシーバースのロゴマークが、 弥が上にも目立って仕方がない。
玄関から、作業服姿の中年男が出てきた。胸にはこれまたシーバース社のロゴマークがついている。英語で言葉をかけてきた。
「いや、ようこそお出で下さいました。総務部長の月形です」
月形部長はそれなりに日焼けしていた。笑顔で出迎えてくれたが、本音はどうなんだろうと、おれは思った。
おれも笑顔を見せながら言った。
「先日のお電話ではありがとうございました。オールドストーンから来ました石崎です。こちらはハーシュ・バークレイ。同僚です」
「よろしくお願いします。暑いでしょう。中は冷房が効いていますから、涼んで下さい。さあどうぞ」
おれたちは月形部長に従い、その後に、浅野が続いた。
社屋の中はたしかに冷房で快適だった。磨き上げられたタイルの床の上を歩き、おれたちは応接室に通された。テーブルの上には花瓶が置かれ、現地の鮮やかな赤い花が挿してあった。ソファーはやけに柔らかく、体重を全て預けると、どこまでも沈んでいきそうだった。
月形部長が言った。
「いま支社長がご挨拶に参ります。ひとまず休んでいただくとして、その後、どういうご予定なのか教えていただけますか?」
「そうですね。なによりもまず、被害のあった現場を見せていただきたい」
「そうですか。それでは浅野に案内させます」月形部長は浅野に目をやりながら答えた。浅野もそれに呼応してうなずいた。
おれは月形部長の、必要以上のにこやかさに違和感を感じていた。おれが逆の立場なら、多少なりともぞんざいさをにじませるはずだ。なぜなら、シーバース社は毎月保険料を支払っているオールドストーン総合保険会社の顧客だからだ。お客は向こうなのである。
月形部長のように、過度に愛想良くする顧客がいないとは言わないが、たいていは、調査が済んで、保険金が下りることになった場合などである。
契約事項にあるような事故がおこり乗り込んできたのならまだしも、それとはまったく関係のない、単なるぼやの調査にやってきたのがおれたちなのだ。相手にしてみれば、そうとう鬱陶しい来客のはずだ。
そのおれたちに、にこやかに接する月形部長がどうも気になった。
ドアノブが軽い音を立てて回り、白髪の男性が入ってきた。軽く千ドルは超えるだろうと思われるスーツを着ている。そういう出で立ちをしているということは、冷房の効いた社屋から一切、外に出ないで一日を過ごしているということを意味する。
おれとハーシュは立ち上がった。
「シーバース社マイネシア支社長の木戸です」
おれは身構えた。この日本人は握手で来るのか、名刺で来るのか? 木戸支社長は手を出したので、おれは握手を交わした。続いてハーシュも握手をした。おれは一瞬身構えた自分の滑稽さに笑いをかみ殺した。
女子社員がレモネードを持って応接室にやってきた。おれもハーシュも目の前に置かれたレモネードにすぐに口を付けた。この暑さの中、喉が乾ききっていたのだ。
しばらくは雑談をして過ごした。月形部長の英語は、その年齢にしてはかなり巧みだった。海外勤務が長いのだろう。
木戸支社長はなにも言わず、ただうなずくばかりだった。おれたちを歓迎しているのか、そうでないのか、顔色からうかがおうとしたが、なんの表情も読み取れなかった。
「そろそろいいですか」おれは話の切れ目を待って、そう言った。
「そうですね。それではまずゲストハウスに荷物を置いてはいかがですか」
「はい。そうさせていただきます」
ゲストハウスは、社屋の隣にあった。おれとハーシュは、それぞれ一室ずつ与えられた。部屋は広く、清掃が行き届いていて、居心地は良さそうだった。こぢんまりとしているがキッチンが備わっており、簡単な調理には充分事足りるようになっている。
セミダブルのベッドに、ソファー、テーブル、肘掛け椅子と、さしあたって毎日仕事をして休息を取るのに調度品には事欠かない。
部屋には先送りしていた荷物が届いていた。おれは梱包を解き、赤外線輻射温度計や超音波測距器など、各種の測定器を取り出した。
おれが一番欲しいものは一番底にあった。グロック二〇。オーストリア製、小型軽量のオートマチック拳銃。おれの仕事は時として物騒な目に遭うことも少なくない。グロックは護身用の武器として頼もしい道具だった。グロックをズボンの後ろに差し込んで、ようやくそれまで胸のどこかにあった心細さが収まるのを感じた。
おれとハーシュがゲストハウスの前で待っていると、浅野が作業服に着替えてやってきた。両脇にヘルメットを持ち、自分もひとつ被っている。彼女から受けとったヘルメットを被ると、おれたちはぼやの現場に案内された。
途中、何人もの作業員に出会ったが、みなマイネシア人だった。
ハーシュがたずねた。
「マイネシア人がずいぶんたくさん働いていますね」
「マイネシアの法律で、外資系企業は、全従業員の三分の一にあたる数だけマイネシア人を雇用する事を義務づけられているんです」
日本企業は金払いが良いから、シーバース社で職を得る事は現地人にとって、おそらく羨望の的だろう。
五分ほど歩いて、おれたちは火災現場の小さなコンクリートの建物に着いた。おれはたずねた。
「この建物は?」
「変電施設です。マイネシアの電力供給はとても不安定なので、弊社では自前で火力発電を行っています。ここは、その電力を変圧器で各施設に供給できるようにしているところです」
煤以外はきれいに掃除され、火事の痕跡はなにも残っていなかった。おれは測距器で建屋のサイズを測り、煤のサンプルをビニール袋にとった。
「なにが燃えたんですか?」
「油を染みこませた布だったようです」
「もともとは火の気のないところなんですね?」
「そうです」
ハーシュはポケットからデジタルカメラを取り出して、盛んに写真を撮っていた。
「ここへは誰でも来る事が出来るんですか?」
「そうですね。従業員なら誰でも来れます。建屋の中には入れませんが外側なら」浅野は答えた。
次は給水塔だった。地上五十メートルの給水タンクを、六本の鉄骨の脚で支えている。その脚の一本に放火がされていた。燃えたせいで塗料が剥げ、むき出しの鋼材に煤がこびりついていた。ハーシュは写真を、おれは煤の痕から炎の推定高さを測った。
「ハーシュ。ここはもう終わりだ。次へ行こう」おれが暑さにじりじりしながら、ハーシュに言うと、ハーシュはデジタルカメラを構えながら、
「まだだ」と言った。暑いのはおれより苦手なはずなのに。事実、彼は顔中汗だらけだ。
続いて車庫の外壁。ここもコンクリートの外壁に焼け跡が残っていた。おれは煤の範囲の大きさを測りながら、退屈していた。どこも同じに見えた。おれは放火の経験はないし、願望もないが、放火犯というのはこんなところに、少しばかり火を放って楽しいのだろうか? 最後のポンプ室もしかりだった。建屋の外壁に火をつけて、ただちに消火されている。
このように、変電施設、給水塔、車庫、ポンプ室と、火の気のないところの、しかも外壁に火をつけられていた。おれもハーシュも、気がついた事などをそれぞれメモ帳に書き留めていった。書きながら、おれは素朴な疑問を拭えなかった。高等な計画があったのか単なるうっぷん晴らしなのかはわからない。ただ、計画があったのならこれはあまりにもお粗末だし、うっぷん晴らしならこれでは気分はすっきりしなかっただろう。
現場を見終わると、おれたちは再び社屋に戻った。冷房がありがたい。汗が引いていくのを感じた。ハーシュを見ると、意外にばてている様子はない。仕事になると人が変わるというのは、彼のような男のことを言うのだ。
おれたちは浅野に元の応接室に案内され待っていた。浅野も顔に大汗をかいている。
「浅野さんも暑いでしょう。半袖の作業服とか、もっと軽装を召されてはどうです?」
おれは浅野に同情の言葉をかけた。浅野は、ヘルメットを脱ぎ、汗でべったりと額に貼り付いた前髪を掻き上げた。
「次からはそうします」浅野は笑った。
しばらくして月形部長がやってきた。
「どうでした?」月形部長はたずねた。
おれはメモ帳を開きながら言った。
「ぼやが放火である事は確かですね」
「そうでしょう。あれはどう見ても放火です。四回目の時に、犯人をうまく取り押さえることができて、警察が逮捕しました」
ハーシュが言った。
「しかしですね。いずれも、外部の人間が入れない敷地内の火事でしょう。犯人はどうやって中に侵入したんですか?」
「入口ゲートにはゲート警備員が三人いて、三交代制で働いていますが、いずれもマイネシア人です。彼らが外から人を招き入れたに違いありません。
四回目の事件の後、三人とも警察に突き出しました」
ハーシュは鋭く追求した。
「なぜ四回も続くまで手を打たなかったのですか?」
「手を打たなかったわけではありません。内部調査を進めていたのです」
ハーシュが続けてたずねた。
「シーバース社は、アケラの漁業組合とトラブルを起こしていますね」
おれは驚いてハーシュを見た。さすがハーシュ、やると決まった以上徹底的に情報を集めていたようだ。
「よくご存じで。当工場では浄化した温排水を一日に八十トン、海に排出しています。汚染度はマイネシア政府の定める基準内です。しかしアケラの漁業組合では、この排水のせいで海水温が上昇して生態系に異常をきたし漁獲量が減ったと主張しています。そしてプラント操業反対派を組織し、わたしたちに賠償を求め、デモ活動などをおこなっています」
「しかし、あなたたちはそれには取り合わない」
「そうです。科学的根拠はなにもないのですし、政府も組合の訴えに耳を貸しませんでした。わたしたちはなにも悪くないのですから当然です。しかも、わたしたちは、その上で、漁業組合に何度か和解金を支払っています。地域社会との融和が社是ですから。
しかし、それでも納得しないマイネシア人たちが、ゲート警備員と結託して工場に侵入し放火したのだと考えています。現に四回目の放火で捕まった犯人たちは、警察の取り調べではプラント操業反対派のマイネシア人だとのことです。それとゲート警備員には新しい人間を当てました」
「新しいゲート警備員は日本人なのですか?」
「いいえ。マイネシア人です。法律で一定数マイネシア人を雇わなければなりませんが、プラント運転などの知識と経験が必要な業務は無理です。そうなるとどうしてもゲート警備員などの単純作業にマイネシア人を割り当てるしかないのです。
その代わり、新しいゲート警備員の三人には以前の倍の給料を支払う事にしました。大きな事故につながったら一大事ですから」
「そうですね」おれは相づちを打った。打ちながら、どこか手ぬるさを感じた。ゲート警備員は日本人にした方が良いのではないか。
夜十時、おれはにゲストハウスの部屋で缶ビールを飲んでいた。現地産のビールだったが中々いける。体の疲れはシャワーで流した。次は心の疲れをビールで流す番だった。
そこへノックの音がした。ドアを開けるとハーシュだった。
「どうしたんだ?」
「いや、きょう調べた事を整理しようと思ってね」
「最初に道連れにした時はあんなに不機嫌だったのに、ずいぶんとまた熱心じゃないか」お返しにこのくらいの嫌味は許されるだろう。
おれはハーシュを部屋に招き入れた。ビールを勧めたが、ハーシュは断った。おれはソファーに、ハーシュは椅子にかけ、テーブルにノートパソコンを置いた。
ハーシュは何十枚もの写真を撮っていた。各現場を様々な角度から。あらためて、ハーシュの仕事の徹底ぶりには感心する。おれは今回彼をパートナーに選んで良かったと改めて思った。
「ここまで好き勝手にさせるとは、見上げた警備体制だな」おれは、被害現場の写真を次々と見ながら他人事のような感想を言った。
だが「観光ツアー」などと揶揄はしてはいるものの、調査中に不正を見つけた場合、給料にボーナスが加算されるのだ。いきおい真剣に調べてみようという気になる。物見遊山の気分はいつの間にか抜けていた。
見たところ、月形部長の話したあらすじ通りに思える。つまり、ゲート警備員が反対派グループを招き入れ、彼らが放火したということだ。
ハーシュが言った。
「きょう見た限りでは、どこにも穴はなさそうだ。シーバース社には敵対する反対派の漁業組合がいて、プラントの停止を画策している。一方で、法律上、シーバースは現地人を一定数雇用しなければならない。その中の、ゲート警備員が密かに入口ゲートから反対派を招き入れ、犯行に及んだ――そういうことだな」
「ああ、そうだな……」
ハーシュは、おれの濁った相づちに敏感に反応した。
「なんだ、健吾? なにか気になることでも?」
おれはこの話が、現場で見ていたときから気に入らなかった。なにが気に入らないのか、自分でもはっきりしないのだが、とにかく気に入らなかった。
「なんというか話が面白くない。できすぎているように思えるんだ」
「できすぎている?」
ハーシュの問い返しに、おれは、自分の考えを整理しながら話していった。
「ああ。一連のぼやだが、場所にも手口にも当たり障りがなさすぎる。子どもの火遊びのようで、実害はほとんどなかった」
「そう言われればそうだな」ハーシュも同意した。
おれは言った。
「どうしてあんな意味のない放火をしたんだろう?」
「プラントの詳細についてはなにも知らないマイネシア人だから、適当に目に付いたところに火をつけたんじゃないか?」
「その通りだ」そう言っておれはくすくす笑った。
「どうした?」
「いや、日本にはあまのじゃくという言葉があるんだが、おれはその、あまのじゃくなんだよ」
ハーシュは訳も分からず、にこりともせずに、おれを見ていた。
「おれは、こう考えるわけさ。ここは影響がないからここに火をつけろと指示されて火をつけていったら、ああなるだろうなと」
「だれがそんな指示をするんだ?」
「さあ。ただ、そういう見方もできるということだ」
おれは、最初にシーバース社に電話した時のことを思い出していた。
おれたちが顧客のところを訪ねるというと、相手はたいていは社交辞令的な歓迎の態度を示すが、それでもどこか無愛想なのが普通なのだ。それが月形部長は、嬉々として応対してくれた。そう、まるで、おれたちを待っていたかのように。
「そして、四回目でやっとゲート警備員を警察に引き渡したのもおかしな話だ」おれは言った。
「月形部長は内部調査をしていたと言っていた」とハーシュ。
「その説明はたしかに筋が通るが、これも同じようにうがった見方もできる」
「たとえば?」
「ぼやは四回必要だった、とかさ」
「四回必要だった?」ハーシュは狐につままれたような顔をした。
「ああ、べつに三回でも五回でもいい。とにかく、ある程度の回数が必要だった。そう考えることもできる」
「なんのために?」
おれはため息をついた。思いつくままにしゃべってきたが、そこまでだった。
「理由は分からん。根拠はないんだ」ビールをあおった。ただ、なにか不正のにおいがする。おれの勘がさかんに騒いでいる。
ハーシュが腕を組みながら言った。
「充分な警備を怠っているとつついてみるか? それも一応免責事項に含まれているから」
「いや、四回もぼやを出したのはたしかに問題だが、犯人を取り押さえてゲート警備員と一緒に警察に引き渡しているのだから、その線で揺すっても意味ないだろう」
飲み終えた空き缶を右手で握りつぶすと、おれはなかば自分に言い聞かせるように言った。
「いまはただ様子を見ているしかない。会社にもそう報告しておいてくれ。ただ、なにかきな臭い感じがする。そのことには触れるな」
ハーシュがノートパソコンをたたみながら立ち上がり、笑顔を見せた。
「シーバースは自前でネットワーク回線を引いているので、アケラでも、この敷地の中だけはインターネットが使えるんだ。メールを出せるんで助かったよ。さもなければファックスで会社とやりとりしなければならないところだった」
第二章 チョコレート
おれはよく眠れなかった。それは時差のせいでもあったが、なにより頭の中の、形にならないぼんやりとした疑問のせいだった。四回のぼや。それがどうにも引っかかる。
おれに疑惑を抱かせるのは月形部長だった。どこがあやしいとたずねられても困る。だがあの愛想の良さが、逆におれには違和感を覚えさせる。
よく言われるが、おれの欠点は、疑り深いところだ。つまらないことに妙にこだわって、無駄骨を折ることも少なくない。だが、この欠点のおかげで飯を食えているのも事実だ。月形部長に対する不信感は、おれの心に打ち込まれた小さなくさびのようにうずいた。
おれは窓の外の月を見ながら、頭の中のもやもやを解きほぐそうと思案していた。
いつの間にかまどろんだようだった。目覚めたらソファの上だった。月は朝日に変わっている。体の下になっていた左腕が、痺れて感覚を失っていた。
体を起こそうとすると、一晩無理な姿勢を強いられていた腰や膝、背中などの関節や骨が一斉に抗議した。
「いたた……」おれはうめいた。
体の痛みが去るまで、少し待ち、冬眠明けの熊のようにのろのろとソファから這い出した。理性はまだ眠ったままだった。本能があるものを請い、重い体をゆすり動かしていた。コーヒーだ。
冷蔵庫には、シーバース社の方でおおかた揃えてくれた食材が詰まっていた。ありがたいことにコーヒー豆も含まれている。
コーヒーメーカーでドリップしているうちに、朦朧としていた意識がはっきりし始めた。コーヒーの芳ばしい香りは、絶妙の気付け薬になる。
きょうやろうと思っていたことの一番目は、警察に行って、捜査の状況を聞くことだった。放火犯三名、ゲート警備員三名の六人が捕らえられている。単発的な犯行なのか、何らかの組織――月形部長の話に出てきたプラント操業反対派などだ――が関わっているのか、そのあたりを聞いてみたい。
コーヒーを堪能したあと、おれはハーシュの部屋行き、レストランに誘った。
シーバース社の敷地の中には、レストランがあり、早番の従業員たちのために朝食も出していた。シーバースの作業服を着た工員たちが、およそ二十人ほど食事を摂っている。
おれたちも簡単な朝食を食べた。メニューにはあまり選択肢はなかったうえに、半分はマイネシアの料理だったので、おれは思いきって地元料理に手を出してみた。アサクランデオというそれはタイ米をココナツミルクと一緒に炒めて、マイネシアでとれるアサクという香辛料をふんだんにあえたものだ。アサクは唐辛子の一種だが、唐辛子の数倍はからい。おれはたちまち汗まみれになったが、味は決して悪くなかった。
ハーシュはメニューの隅にトーストとスクランブルエッグを見つけると、安心したようにそれを選んだ。おれは苦笑した。いかにも冒険心のないハーシュらしい選択だ。
「きょうは首都リバラに行き、警察を訪ねてみようと思うんだ」
おれはハーシュに考えていることを話した。
ハーシュはそれに対し首をひねった。
「第三者のわれわれに警察が情報をくれるだろうか?」
「ああ、無理かもしれないな。だからシーバース社に委任状を出してもらって、それを見せる」
「なるほど」
おれはすでに食べ終わり、ハーシュがトースト二枚をやっつけるまで黙って待っていた。
八時半を待って、おれは社屋をたずねた。総務部の部屋に入ると、二十数人の社員がもう仕事に取りかかっている。その一番奥に月形部長の部屋があった。月形部長はおれが来るのを見て、また屈託のない笑顔を見せた。
おれは、警察をたずねたい旨、ついては委任状を書いてほしい旨を伝えた。すると月形部長は、なぜかとたんに真顔になって眉を寄せた。
「うちとしては、もう解雇した人間ですし、終わったことです。これ以上関わろうとは思いません」
「あなたたちの立場はよく分かります。しかし、われわれには、これは必要な仕事なのです」
「まことにあいすみませんが、そのために社として委任状を発行することはできません。ご容赦ください。その代わりといってはなんですが、オールドストーン社から紹介状を出してもらってはいかがですか?」
最後はもとの笑顔に戻ったが、月形部長の返事は断固とした拒絶だった。
たかが委任状の一枚や二枚、出してくれりゃいいのに、つまらないことで格式ばるものだと、おれは思った。
オールドストーンの紹介状などなんの役にも立ちはしない。保険会社、それも外資のそれは警察にほとんど影響力を持たないだろう。
だが浅野に案内してもらうことについては承諾を得られた。それも渋々、といった様子ではあったが。
そのあとおれは浅野真子をたずね、首都リバラに行くので手が空いたらゲストハウスに来てくれるよう頼んだ。浅野もにこやかに応対してくれたが、おれは彼女もまだ深くは信用できなかった。彼女の場合、なにかを隠しているように見える。
それは、おれたちがマイネシアに到着してアケラに向かう車中、プライベートなことには一切答えないばかりか、触れられたくないそぶりを見せたことに端を発している。どんなことにでも明るく気さくに答えてくれたが、ことプライベートな話題、たとえば両親は健在なのかなどの質問には、目をそらして返事もしなかった。
人間の好奇心の常として、閉ざされるとよけい中をのぞいてみたくなる。その時のおれは同じような質問を重ねたが、彼女はとたんに貝のように口を閉ざしてしまった。もちろん、女性に対しあれこれ私生活のことを詮索したおれに非があるのは分かっている。だが、彼女はあまりに偏狭に過ぎるように思えた。
おれの経験では、このように普通に話していて不意に立ち入り禁止を食らわせる女は三種類いる。ひとつは口説かれ慣れている女。次のひとつはすこぶる内気な女。最後は秘密のある女だ。浅野があの手この手で口説かれてはそれをかわすような恋愛の駆け引きにたけた女には、若さからいっても到底見えなかったし、新入社員で単身このマイネシアを希望して飛び込んできたような人物だから内気であるはずがない。そうするとなにか秘密がある女ということになる。
それがなにかはおれには分からないが、いまのところ彼女がおれたちに協力的であることは確かなので、あえてほじくり返そうとは思わなかった。彼女は心の中で人に踏み込まれたくない部分があるが、その他ではおれたちと連携することにやぶさかではない。いまはそれで充分だった。
それに、そういうこととは別に、おれは彼女が気に入っていた。彼女のような垢抜けない若い日本人女性に最後にあったのはいつだろう? 思い出せないくらいだ。いまのおれには浅野はずいぶんと新鮮な印象を与える女性なのだ。
ゲストハウスの前で待っている間、おれはハーシュに、月形部長から委任状をもらえなかったと告げた。ハーシュは眉をひそめた。
「委任状なしで警察にいくつもりなのかい?」
「ああ、仕方ない。行くだけ行ってみるさ」おれは答えた。いくらなんでも門前払いされることはないだろう。見上げるとマイネシア・ブルーが広がっていた。この時間ですでに相当な暑さだ。
浅野は九時過ぎに、アリスタを連れてやってきた。
「きょうはアリスタも同行します。わたしではお役に立てそうもないので」
おれも、マイネシア語がほとんどしゃべれない浅野では不安だったので、アリスタの登場は大歓迎だった。
浅野も笑顔だった。おれは調子を合わせながら、浅野の瞳をうかがっていた。同じ笑顔でも、月形部長のそれとは違っていた。浅野の笑みには裏がなさそうだ。月形部長はそれとなくおれたちが警察に行くことを歓迎していなかったが、浅野は腹になにも持っている様子はなかった。
おれたちはアタッシュケースを持って浅野が手配してくれた社用車に乗り、強い日差しの中、アケラを出発した。運転はアリスタだ。エアコンを最大限にきかせているのだが、それでも車内は蒸し暑かった。ふと思いついて天井に手を触れてみたところ、火傷しそうなほど熱い。どうりで暑いはずだ。車は日本車だったが、このマイネシアで使うなら、エアコンをもう一台搭載しなければだめだ。
昨日一度見た風景なので、おれはより注意深くアケラの町並みを観察することができた。一軒の店に目を留めた。
「お、バーがあるじゃないか」おれは思わず言った。
「お酒、お好きなんですか」浅野がたずねた。
「好き? それをいうなら酒と結婚しているともいえますね」おれはおどけた。
「でしたら、あの店は、あまりお勧めできません。柄の悪い連中のたまり場で、シーバースの日本人従業員は決して入りません。もう一軒、安心して飲める店がありますからあとでご紹介しますよ。新人歓迎会で連れて行ってもらい、それ以来気に入ってよく足を運んでいます」
「ということは、浅野さんも、いけるクチですね」
「はい。学生時代はザルといわれていました」浅野はえくぼを見せて、かりかりと頭をかいた。
おれは、そんな仕草や言葉につい惹かれそうになっている自分に気づき、ちょっと狼狽した。先に言ったように、二十歳なかばの若い日本人女性に接するのは、ほんとうに久しぶりだった。こういった女は計算がない。ときどき自分では意識することなくコケティッシュなふるまいをするものだ。
だが、おれももう、さかりの付いた猫のような年代は過ぎている。それなりに女を見る目も備えているつもりだ。それなのに、浅野の所作に揺らぎそうになったことが我ながら可笑しかった。
おれは浅野に答えた。
「じゃあ、今度連れて行ってください。わたしがおごりますよ」
「そうしましょうか。ミスター・バークレイも」浅野がハーシュに声をかけた。
ハーシュはにやりと笑ってうなずいた。ハーシュは酒はあまり飲まない。妻子持ちの堅実な男だ。仕事では頼りになるが、プライベートではどちらかというと退屈な人物だった。もちろん、おれはハーシュが煙たいわけでも苦手なわけでもない。付き合い方さえ心得れば、良い男だ。
じきに車はアケラを脱し、ヤシの林に入った。原始林を切り開いて作られた未舗装の道路は、ほとんど補修されたことがないらしく、ところによっては車輪がはまりそうになるくらい陥没していた。始終揺られっぱなしで、頭を天井にぶつけないように注意する必要があるくらいだった。単調な景色といい、この悪路といい、昨日すでに通っているだけに閉口した。
苦行は一時間以上続き、藪から棒に舗装道路に変わった。おれは、平らな道のありがたみをしみじみと味わった。やがて民家が並ぶようになり、それが数階建てのビルになり、過ぎゆくビルの数と高さが増したと思ったら、首都リバラに入っていた。通りも三車線になり、歩道は人であふれている。
緑、黄色、赤。商店街の装飾はどれもどぎつい三つの原色が使われていた。
「どうしてこう派手好みなんでしょうね。お国柄ですか?」おれは浅野にたずねた。
すると、それまで黙っていたハーシュが、窓枠に肘を乗せてほおづえをついたまま言った。
「国旗の色だよ。マイネシアの国旗は緑と黄色と赤の縦じまなんだ。もともとは民族衣装に使われている色だ。だからこの三色の服をまとった連中が多いのさ」
浅野が、その通りといわんばかりにうなずいた。国旗も知らずに乗り込んできた無知な調査員だということが明らかになってしまい、おれは顔を火照るのを感じた。
いくらおれでも、いつもはもうちょっと事前調査を念入りにするのだが、ハーシュを相棒にできたことで、すっかり頼りきってしまい、今回はどの資料も通り一遍の斜め読みしかしていなかった。
もちろんそんな弁解にもならない弁解を口にすることはできないので、黙って窓の外に目をやった。するとHOTELの文字が視界に飛び込んできた。瀟洒で外見に関する限り申し分ない。
「ホテルがありますね」
浅野が答えた。
「ええ。それはあるでしょう」当然という口調だ。
おれはさらにたずねた。
「あそこはなにか問題あるのですか? たとえば衛生面とか」
「さあ? わたしは泊まったことがありませんから。アリスタ、今のホテルは悪いホテルなの?」
運転しているアリスタは前を見たまま答えた。
「いいえ。アメリカから遊びに来た友人を泊めたことがありますが、満足してましたよ」
おれとハーシュは顔を見合わせた。おれたちは、あまり良いホテルはないという理由でシーバース社のゲストハウスを勧められたのだ。相手は月形部長だった。
車はマイネシア中央警察署の門を通り抜けた。駐車場に車を停めると、おれたちは地面に降り立ち、大きく体を伸ばして、悪路ですっかり痛めつけられた腰を叩いてほぐした。それから紺色の制服の警官が出入りする署内に入っていった。
アリスタの通訳のもと、受付で用件を話すと、無愛想な女性警官が応接室におれたちを案内した。まもなくシーバース放火事件の担当刑事がやってくるという。女性警官はそのまま入口の脇に寄りかかり、煙草を吸い始めた。無表情のまま冷たい目で、椅子にかけたおれたちを見ている。応接室とは名ばかりで、打ちっ放しのコンクリートの壁に、粗末なテーブルがひとつ。じっと座っていると、これから取り調べを受けるのではないかという錯覚さえ起きそうだ。
やがて、刑事がやってきた。片手にファイルを抱えている。マイネシア人には珍しく大男で、褐色の肌に口ひげをたくわえている。面倒くさそうな様子でテーブルの向かいに座るなり、太い声で言った。
「説明することはなにもない」
おれがたずねた。
「捜査はどのくらい進んでいるんですか?」
刑事が再び言った。
「説明することはなにもないと言ったろう。この事件は終わったんだ」
「どういうことですか? できれば容疑者に直接面会したいのですが」
次の刑事の言葉に、おれたちは耳を疑った。
「容疑者は全員釈放した。証拠不十分で不起訴だ」
「そんなばかな。放火の目撃証言もあるし、そもそもゲート警備員の協力なしでは敷地内に入ることはできないはずだから、ゲート警備員も重要な容疑者でしょう」
「目撃証言は信用性に乏しい。したがって放火犯を特定できない。特定できない以上、ゲート警備員が事件に関与したという論拠も成り立たない。そういうことだ」
そういい放つと刑事はじろりとおれたちを端から端までにらみつけ、立ち上がり部屋を出て行った。あとには呆然としたおれたちが取り残された。
全員釈放……。予想もしていなかった。
「聞いたでしょ。話は終わりよ。忙しいんだから帰ってちょうだい」
女性警官が壁にもたれたまま、半眼で冷めた視線を浴びせていた。
おれはその時、ワイバーン部長がなぜおれをこの件の担当にしたか分かった気がした。おれは立ち上がり、通訳のためにアリスタをうながして一緒に女性警官に歩み寄ると、ポケットから金を出した。そこには二百ドルほどあった。紙幣を数えて、百ドルを女性警官に握らせた。
「もう一度あの刑事を呼んでくれ」
女性警官は表情を崩さずに、おれの顔に煙草の煙を吹きかけた。彼女はおれに百ドルを突き返した。
おれはすぐに彼女の心を理解した。持ち金の約二百ドルを全部彼女に握らせた。
とたんに彼女は初めて笑顔を見せた。しゃくり上げるようにおれの目を見上げた。むっつりしているときには分からなかったが、意外とチャーミングだ。彼女は金を胸のポケットに入れた。
「待っていて」
そういうと、彼女は部屋を出て行った。
おれは席に戻った。みなぽかんとした顔をしている。
「これがおれのいつもの仕事さ。こんなのはまだ序の口だよ」おれは言った。
刑事と女性警官が戻ってきた。
彼は座って、ゆっくりと言った。
「まだ話があるそうだな」
おれはアタッシュケースから封筒を出した。
「そちらの警官のかたに、あなたはチョコレートが好きだと聞きましてね。どうぞ、高級チョコレートです」
そういって封筒をテーブルの上にすべらせて刑事の前に押しやった。
刑事は封筒を持ち上げると、さりげなく開いて中をのぞいた。
「これはうまそうだ。で、なにが知りたい?」
先ほどの事務的で高圧的な応対はどこへやら、今度は微笑みさえ浮かべている。
おれは単刀直入にたずねた。
「容疑者たちの身元情報を欲しいんです」
「まあそんなところだろうな」刑事はそういうと、ファイルを開いて一枚の紙を出して渡してくれた。「リストだ。持って行け」
おれは礼を言った。
「ありがとうございます。それと容疑者たちが釈放された本当の理由はなんですか?」
刑事は少し思案した。だが、もう一度封筒を見下ろすと笑みをたたえ、答えた。
「突然上から、釈放するように圧力がかかったんだ。時々あることだ」
「どのくらい上です? すぐ上? それとも……」
「ずっと上だよ。はっきりとは言えない」刑事は肩をすくめた。
おれはさらにもう一つ封筒を出した。ポーカーの勝負をしている気分だ。封筒に両手を置き、刑事の目をまっすぐに見た。刑事はおれの手の下にある封筒に視線を落として、それからおれの目を見た。そこにはさらに物欲しげな色がにじみ出ていた。
おれは勝機ありと見た。二つ目の封筒を滑らせて、刑事に差し出した。
刑事はそれをひとつ目の封筒と重ねて、ふーっと息を吸い込んだ。
おれはたずねた。
「中央警察署長ですか?」
「いや」
「それじゃ?」
「治安省次官だよ」刑事は思わぬ上級官庁の名を口にした。
そんな高官から圧力がかかったとは予想外だった。動かしたのは誰だ。
そのレベルからの圧力では、容疑者釈放も容易だろう。
「じゃあ、話はもういいかね?」刑事は言った。
「はい。大変参考になりました」
刑事は立ち上がると封筒を上着の内ポケットに入れて、部屋を出て行こうとした。おれは呼び止めた。
「刑事さん」
刑事は振り返った。
「チョコレートの食べすぎは虫歯になりますよ」
刑事はにやりと笑うと、部屋を出て行った。
おれたちも立ち上がった。女性警官がにこにこしながら「また用があったら、いつでもわたしをたずねてきて」と言った。おれはみんなの最後に続きながら、彼女に微笑で返礼すると応接室をあとにした。
駐車場に戻り、車に乗るなり、浅野とハーシュが食らいついてきた。
「あの封筒の中身はなんだったんですか?」
おれはいつもやっていることとはいえ、自嘲を含んだ笑いを浮かべずにはいられなかった。
「千ドルが二束、あわせて二千ドルだよ。米ドルの現金だからさらに数倍の価値はあるだろうな」
浅野は口を開いたまま言葉を失い、ハーシュは目をむいた。
「刑事にわいろを二千ドルも! 健吾、きみはいつもあんなことをしてるのか?」
「もともとおれはこういう汚れ仕事が専門なんだ」
浅野は、自分の見たのが贈収賄の現場だったことを知り、ただただ驚いているようだった。驚きが収まったあと、おれのことを軽蔑するかもしれない。それでも仕方ないと思った。こういう仕事をやっていると、蔑視を浴びるのはよくあることだ。むしろ嫌われていくらの商売といってもいい。
ワイバーン部長は、マイネシアの内情を別ルートから調べ上げていたのだろう。その結果、この件は汚職がからんでいるとにらみ、おれを担当にしたのだ。
「わいろというと聞こえは悪いが、情報を金で買ったと思えばごく自然なことじゃないか。本を手に入れるには金を払うだろう。あれと同じさ」しゃあしゃあといいながら、自分でも無茶な理屈だと思う。おれは続けた。
「二千ドルで三つのことが分かりましたよ。
まず、放火事件の容疑者はおそらく実際に犯行を行って証拠もあるのに釈放された。
次に、警察を統括する治安省次官がおそらくわいろを受け取って容疑者を釈放させた。誰が贈ったかというのはいまのところ分からないから置いておきましょう。
第三に、上から下までわいろが通用するくらいだから、この国の警察機構はまったく信頼できない」
おれの言葉には説得力があった。みんな黙って聞いていた。
帰り道は、一転してスコールに見舞われた。こうなると未舗装の道路は始末が悪い。ところどころぬかるみに変わり、振動に加えて黄土色の泥水が車の窓を叩きつける。おれはずっと、刑事にもらった容疑者リストを見ていた。年齢、住所、職業などが記載されている。やはり放火犯はいずれもアケラ漁業組合の人間だった。
おれにはもはや、今回の件は、単なるぼや騒ぎで収まるとは到底思えなかった。
放火犯たちが圧力で無罪放免になったことは、かえって、四件のぼやを不自然と考えたおれが正しかったことを示していると思う。
裏になにかあるのだ。ぼやは四回必要だった。それはなぜか?
また、わいろで放火犯たちを釈放させたのは誰なのか? 誰かが無理を通して放火犯を釈放させた場合、考えられる理由は二つだ。ひとつはその人物は放火犯もしくは背後の人物に借りがある。もうひとつは、放火はその人物の意図で行われ、放火犯はその指示に従っただけということだ。今回はどちらなのだろう?
夜、おれはゲストハウスの自分の部屋で物思いにふけっていた。
そこへノックの音がした。ハーシュだろうか。立っていってドアを開けると、そこにはアリスタがいた。
「アリスタ、どうしたんです?」
アリスタは真剣なまなざしで、訴えるように言った。
「お話ししなければならないことがあるんです」
「まあ、入ってください」おれは招き入れた。
冷蔵庫からビールを二缶取り出し、ひとつをアリスタにわたして、差し向かいで座った。
「まずは、きょうは色々とありがとうございました」そういって乾杯した、アリスタはひと口ビールに口を付けただけで、缶をテーブルに置いた。
「アリスタがいてくれたおかげで、かなりの収穫がありましたよ」
そういうとアリスタは目に少し悲しそうな色を浮かべた。
「ソムニと呼んでください。わたしたちは友人でしょう。違いますか?」
おれはソムニに微笑んだ。
「違わないですよ。オーケイ、ソムニ、それなら、わたしは健吾と呼んでください。話とはなんです?」
「健吾、このアケラの漁業組合がプラント操業反対派を組織して、わが社と対立していることは月形部長から聞きましたね?」
「ええ。月形さんは、その反対派が侵入して放火をしたのだといっていました」
ソムニは身を乗り出した。
「漁業組合というと、漁師の集まりのように聞こえると思いますが、このアケラの漁業組合は少し特殊なんです」
「というと?」
「きょう、アケラの中心街を抜けていくときに、浅野さんが、健吾が見つけたバーに行かない方がいいといいましたね?」
「ああ、柄の悪い連中が出入りしているとかですね」
「あれはマーナというこの国のマフィアのメンバーがたむろする店なんです。マーナとはマイネシア語で斧を意味します。マーナは国中のあちこちに下部組織を持っていますが、実はアケラの漁業組合も実態はマーナの下部組織なんです」
おれも缶をテーブルに置いた。話がもつれだしたぞ……。
「シーバース社は外資系でもとくに待遇のいい会社で、従業員はこの国の労働者が稼ぐ平均月収の四倍の給料を受け取っています。だから、みなシーバースで働きたい。
マイネシアの法律で従業員の三分の一はマイネシア人を雇用しなければなりませんが、実はシーバースでは、そのマイネシア人の三分の二はマーナのメンバーです。島の全土から通ってきています」
ということはシーバース社では、約二割の従業員がマーナということだ。
「どうしてそんなことが可能なんです?」おれはたずねた。
「そこです。わたしも分かりませんが、ただいえることは、従業員の雇用については月形総務部長と二人の人事係ですべて仕切っているということです」
明らかに恣意的操作が加わっている。月形部長はマーナから金を受け取っているに違いない。
「月形部長はマーナとつながりがありそうですね」
ソムニはおれを凝視したまま、同意も否定もしなかった。だが、それは暗に同意しているも同然だった。
「健吾たちのお仕事、お役目はよく分かっています。ただ、なにごとも月形部長の意向には十分注意を払ったほうがよい。わたしはあなたたちのことが心配です」
「それはありがとう。気をつけます」
「三年前のことになりますが、うちの総務部の立花という男が、海で水死体となって発見されました。警察は水泳中の溺死として事故と断定しました。しかし夜の出来事です。夜に水泳をする人間がいますか?」
おれは少し驚いた。もちろんそんな死因に納得はしなかった。
「怪しいですね。マーナの仕業では?」
「当時わたしもそう思いました。そもそも水泳なんてする男じゃありませんですし。ただ、事故じゃないとすると、理由が分からない。わたしは立花さんとは共同で仕事をすることが多かったのですが、死ぬ四日ほど前から、なにか予感していたようです。急に会社を辞めたいと言いだし、それから三日後に行方不明になりました。水死体になって発見されたのがその翌日です。あの頃は、三号発電機の立ち上げ工事のさなかで、立花さんはその担当でしたので、とても忙しくしていました。
会社は、遺品を遺族に返すというので、立花さんのデスクを片付けました。それは、月形部長と人事課の社員が行ったのです。当たり前の仕事と言ってしまえばそれまでです。しかし、わたしは死因のこともあったので不信感を持っていました。それで、一緒に手伝いながら、彼らの様子を見ていたのですが、私物とは関係ない、業務の書類ファイルをやけにしつこく調べていたのが妙でした」
おれは思った。立花は消されたのだ。こういうことは、これまで何度も見てきた。多くの場合、知ってはいけないことを知ってしまった者が消される。
「わたしは手伝うふりを装いながら、なにか大事なものを会社に渡さないようにしようとしていました。しかし、一挙手一頭足を見張られながらでしたので、引き出しの奥にあった見慣れない鍵を手に隠して持ち出すのがやっとでした。
わたしには、それがなんの鍵か分かりません。もしかすると事件とはなんの関係もない鍵かもしれない。ただ、名刺の空ケースに大事にしまってあったので、なにか意味があるように思ったのです。とにかくわたしはなすすべもなくこれを保管してきました。
あなたたちは調査のエキスパートです。この鍵をお渡ししますので、調べていただけませんか? あなたたちのお仕事にも役に立つかもしれない」
ソムニがポケットから小さな鍵を取り出すと、おれに渡した。ドアのたぐいの鍵ではない。小さすぎる。デスクの引き出しの鍵でもない。ああいう鍵は、鍵山が片側だけに切ってあるがこの鍵は両側に鍵山が切ってある。しかし、それ以上はおれにも見当がつかなかった。
そのときだった。
なにかこもったような、しかし、腹に響く轟音が聞こえ、少し間を置いて、今度ははっきりと聞こえる金属的な破裂音がした。窓ガラスがびりびりと共鳴して割れそうな音を立てた。音の出所がプラント敷地内であることは間違いない。おれはすぐにプラントのどこかが爆発したのだと思った。
おれたちは部屋を飛び出した。声をかけるまでもなく、ハーシュも自室から駆け出るところだった。
ゲストハウスから出ると、まず目に入ったのは、赤い炎だった。プラント中央部だ。炎が見え隠れしているが、火災が激しいのは見て取れた。夜の闇の中に縦に細長いものが爛々と燃えて輝いていた。自動消火装置が作動して、あちこちの地面や消火塔に取り付けられたノズルから消化剤が吹き出している。しかし炎の勢いは増すばかりで、まったく役に立っていない。現場で仕事をしていたらしい遅番の作業員たちがばらばらと一斉に避難して走ってくる。作業服が真っ黒に煤けているものも何人かいた。それとは反対にシーバース社の消防隊がホースの束を積んだジープで社屋から火災現場に向かっていった。
ハーシュがおれに言った。
「健吾、あれは?」
「蒸留塔だ。蒸留塔が爆発したんだ」蒸留塔は石油精製プラントの中枢部に位置し、原油から様々な石油精製物を取り出す装置だ。
火災を告げるサイレンが、敷地中のスピーカーからけたたましく鳴り響いた。
近寄っていくと、だんだんと状況が分かってきた。高さ八十メートルほどの蒸留塔は上から下までおよそ五カ所ほど裂け目ができて、そこから音を立てて紅蓮の炎が吹き出している。裂け目から流れ出した精製油にも火が燃え移り、蒸留塔全体を赤い炎で包み込んでいた。それはまるで巨大なたいまつのようだった。周辺設備への延焼が心配だったが、今のところ燃えているのは蒸留塔だけだ。
おそらく高熱で蒸留塔全体がひずみ出したのだろう。あちらこちらから鶏が断末魔の悲鳴をあげているかのようにかん高い金属の軋む音が響いた。燃えさかりながら蒸留塔はわずかに「く」の字に折れ曲がり始めている。ただ何カ所も支持されている建造物なので、そうやすやすと倒壊はしないだろう。
火炎はあたりを赤々と照らし出し、灯りはまるで必要なかった。熱もものすごく、おれたちは充分離れた安全な場所にいるにもかかわらず、輻射熱で顔がひりひりするほど熱かった。
あたりの空気はよどみ、石油精製物の鼻をつく異臭で満ちていた。おれはハンカチで口を覆った。だがそんなものはほとんど役には立たない、気休めだ。
消防隊がホースを消火栓につなぎ、四方向から消火剤が浴びせられ、ようやく本格的な消火活動が始まった。しかし火勢は衰えを知らず、消防隊と火災の攻防は、一進一退のように見えた。消化剤は炎に飛び込むと高温のために蒸発し、次々と真っ白な煙があがった。
消防隊は、蒸留塔に開いた裂け目を狙って、消化剤を放射していた。蒸留塔の内部に消化剤を送り込まないと、らちが開かない。だが吹き出す火勢に押し返されて、中々狙い通りにはいかなかった。
一時間ほどして、たぶん精製油がおおかた燃やし尽くされたために、火勢はようやく下り坂に転じた。
明け方、蒸留塔はほぼ完全に鎮火し、白みだした空に、黒々とした野太い煙が立ち上っていた。