義妹が私の持参金を勝手に使って、どなたに花束を?
「お義姉さま、あのお金ならもう花束になりましたわ」
金庫の扉が開いたとたん、後ろからセリーヌの声がした。
ヴィオレットは、空っぽの棚を見つめたまま動けなかった。
(花束? 金貨三百枚が? いったい何人で抱える花束ですの)
三百枚は、ヴィオレットが嫁ぐ朝に父が持たせてくれた持参金だった。ヴェルヌ子爵家の金庫に、彼女の名で預けてあったはずのお金だ。
来月は実家の父の誕生日だから、一枚だけ出して銀の文鎮でも贈ろうと思っていた。それで朝のうちに、執事のガスパールに頼んで金庫を開けてもらったのだ。
棚の奥に残っていたのは、花屋の届け票が一枚きりだった。リュミエール座、ラファエル様楽屋へ。大花束ひとつ、財布添え。
セリーヌは髪のリボンを指に巻きつけながら、廊下の壁にもたれていた。
「ラファエル様はご存じでしょう? リュミエール座の看板役者よ。あの方の楽屋には、毎晩花束が山のように届くの。わたしの花束がいちばん小さいなんて、我慢できなかったんですもの。だからお財布ごと、花束に添えてお贈りしましたの。ラファエル様のお好きな花を、毎晩買っていただけるように」
「それで、わたくしのお金を?」
「家族のお金でしょう? お義姉さまは使わないんだから、置いておくだけ損ですわ」
セリーヌは十七歳になる。悪いことをした顔を、見せたことのない子だった。
ヴィオレットは届け票を指先でつまんだまま、金庫の扉を閉めた。言いたいことなら、ひとつに決まっている。花束を贈るなら、ご自分のお財布でどうぞ。言えたら、どんなに胸がすくだろう。
「金庫の鍵は、どうなさったの」
「お兄様にお借りしましたの」
セリーヌは悪びれもせずに、ほどけたリボンを結び直した。ガスパールが、扉の陰で目を伏せている。
書斎の扉を叩くと、夫のエルネストは書類から顔も上げなかった。
「ああ、セリーヌの話か。聞いたよ」
「聞いていらしたのなら話が早いですわ。金庫の鍵を、あの子にお渡しになったの?」
「先月の終わりにね。贈り物の箱を入れておきたいと言うから」
「中にわたくしの持参金があることは、ご存じでしたわよね」
エルネストはペンを置いて、ようやくこちらを見た。面倒そうな顔だった。
「妹の楽しみくらい、大目に見てやってくれ。君はどうせ、あれを使わないだろう」
ヴィオレットは、すぐには言葉が出なかった。
「使わないから、取られてもいいとおっしゃるの?」
「取られたなんて大げさだな。家族のあいだのことだ。セリーヌはまだ子どもなんだよ。好きな役者に花を贈るくらい、どこの家の娘でもやっている」
「三百枚の花束を、どこの家の娘が?」
「君はいつもそうやって数字を言う」
エルネストはため息をついて、また書類に目を落とした。
「あとで話そう。今日は忙しいんだ」
あとで、が来たためしはなかった。セリーヌのドレスの請求書のときも、温室の割れたガラスのときも、夫は同じ顔で同じことを言った。そして結局、ヴィオレットが実家からの仕送りで払ったのだ。
書斎を出ると、廊下の窓に自分の顔が映っていた。思っていたより、ずっと怒っている顔だった。
二年前の春、嫁ぐ朝のことを、ヴィオレットはよく覚えている。
父のモーリス男爵は、不器用な手つきで財布に金貨を詰めていた。母が夜なべして縫ったすみれの刺繍の財布で、すみれの下には小さく「ヴィオレット」と名前が縫い取ってある。母は灯りを落とした居間で、三晩かけてそれを縫い上げた。
「三百枚ある。おまえの名で預けておきなさい。何かあったら、これで帰ってくればいい」
「帰りませんわ。お父様ったら縁起でもない」
笑って受け取った財布は、思ったより重かった。
あの日のエルネストは優しかった。馬車を降りるとき手を貸してくれて、「重いだろう、持とうか」と言った。ヴィオレットは首を振って、財布を自分で抱えたまま新しい家の階段を上った。
あれから二年、財布は金庫の奥で眠っていたはずだった。金貨はともかく、あの財布だけは手元に戻したい。
その夕方、玄関の広間が騒がしくなった。
セリーヌが泣きながら階段を駆け下りてきて、兄の胸に飛びこんだのだ。
「お義姉さまが、わたしの花束にお値段をつけたのよ。金庫の前で、ガスパールの前で」
値段など口にしていない。ヴィオレットが訊いたのは、金庫の鍵はどうしたのか、それだけだ。
けれどエルネストは妹の髪を撫でながら、広間を見回した。執事のガスパール、家政婦のドロテ、若い従僕たち。夕食の支度に集まっていた顔が、みんなこちらを見ている。
「ヴィオレット。騒ぎ立てて妹を泣かせたんだ。謝りなさい」
「謝るのは、どちらかしら」
「ここで揉めるつもりか。皆が見ているんだぞ」
皆が見ているから謝れ、と夫は言っているのだった。ヴィオレットは夫の顔を見た。二年前に、重いだろうと言ってくれた人と同じ顔をしていた。
広間がしんと静まった。ドロテが前掛けを両手で握りしめている。
ここで泣いたら、セリーヌの勝ちだ。
ヴィオレットは義妹の前に進み出て、頭を下げた。
「頭なら下げますわ。下げたぶん、あとで利子をつけて返していただきますけれど」
顔を上げると、セリーヌは瞬きもできずにいた。エルネストは聞こえなかったふりをして、妹の肩を抱いたまま食堂へ入っていった。
使用人たちは、誰も目を合わせなかった。ガスパールだけが何か言いたそうに口を開いて、そのまま閉じた。
「行きましょう、ポレット」
翌朝、ヴィオレットは外套を羽織りながら言った。実家から付いてきてくれた侍女のポレットが、靴を磨く手を止める。
「どちらへ」
「リュミエール座よ。ラファエル様の楽屋口」
「奥様まで役者に入れあげるおつもりですか」
「貢がれたお金を、返していただきに行くの。三百枚、財布ごと」
「返すと思います? 役者ってのは、もらったものは全部食べちまう生き物ですよ」
「食べてしまっていたら、お皿くらいは返していただくわ」
「旦那様に知れたら」
「知れてまずいのは、旦那様のほうですわ」
ポレットはしばらく主人の顔を見て、それから磨きかけの靴を放り出した。
「お供します。楽屋口の作法なら、あたしのほうが詳しいですからね」
「どうして詳しいの」
「若いころ、いろいろありまして」
「そのいろいろを、今夜はぜひ役立ててちょうだい」
「楽屋口ってのはね、奥様。花束を持ってない客は、門番に追い返されるんです」
「では花束を持っていない理由を、門番の方にじっくりご説明するわ。三百枚ぶん」
「……長くなりそうですねえ」
昨日の玄関で下げた首筋が、まだ少しこわばっている。泣くより先に足が動くのは、ヴィオレットの昔からの癖だった。
昼過ぎから雨になった。
終演後の楽屋口までは、まだ時間がある。劇場の場所を確かめておこうと裏手へ回ったところで、ヴィオレットは足を止めた。
搬入口へ続く石畳の坂で、大道具の荷車が一台、ぬかるみに車輪を取られていた。積んであるのは、板と布でこしらえたお城の壁らしい。若い男がひとり、雨に濡れながら後ろから押しているけれど、荷車はびくともしない。
「奥様、行きますよ。濡れます」
「もう濡れてるわ」
ヴィオレットはドレスの裾をたくし上げて結び、荷車の反対側に回った。
「押しますわね。せーの、で」
男が驚いた顔でこちらを見た。地味な外套に、雨で額に張りついた前髪。役者の付き人か大道具の見習いだろう、とヴィオレットは思った。
「いや、ご婦人に押させるわけには」
「押させるのではありませんわ。わたくしが勝手に押すのです。はい、せーの」
二人で体重をかけると、車輪がずぶりと泥から抜けた。荷車は坂を上がり、搬入口の軒下に滑りこむ。勢いあまってヴィオレットはつんのめり、泥水が頬まで跳ねた。
ポレットの悲鳴と、男の笑い声が同時に上がった。
「すみません。笑うつもりは」
「笑ってくださって結構よ。わたくしだって、自分の顔を見たら笑いますもの」
ヴィオレットはハンカチを出して頬を拭いた。白い麻に、母が刺したすみれが小さく並んでいる。
男の目が、そのすみれで止まった。
「その刺繍、いい色ですね」
「母の刺繍ですの。わたくしの名前と同じ花」
「お名前を伺っても?」
「ヴィオレット。さあ、これで貸し借りなしですわね」
男は何か言いかけて、やめた。雨の中で、妙に真剣な目をしていた。
「今夜、劇場にいらっしゃいますか」
「ええ。終演後に楽屋口へ。少し取り立てがありますの」
「取り立て」
「看板役者のラファエル様に、です。あの方は楽屋口の客がお嫌いかしら」
「さあ。用件によるんじゃないかな」
男は軒下で外套の雨を払うと、それだけ言って搬入口の奥へ消えた。名前を聞きそびれたとヴィオレットが気づいたのは、坂を下りきってからだった。
「感じのいい方だったわね」
「泥だらけの顔でおっしゃることですか」
終演の鐘が鳴ると、楽屋口の細い廊下はたちまち人で埋まった。
花束を抱えた婦人たちが、壁際にずらりと並んでいる。薔薇に百合、季節はずれの牡丹。廊下じゅうが花の匂いでむせかえるようだった。自分の外套からだけ、昼間の雨と泥の匂いがする。
ヴィオレットは昼間の泥がまだ裾に乾いて残る外套のまま、列のいちばん後ろに立った。花は持っていない。
「奥様、浮いてます」
「浮いているくらいがちょうどいいのよ。目立たないと、取り立てが始まらないもの」
そのとき、廊下の入り口が華やかにざわめいた。
桟敷から降りてきたセリーヌだった。廊下でいちばん大きな花束を両腕に抱え、その後ろにエルネストがついている。
セリーヌの目が、列の後ろのヴィオレットで止まった。
「まあ、お義姉さま! どうしてこんなところに」
わざとらしいほど大きな声だった。並んでいた婦人たちが、いっせいに振り返る。
「その外套、泥がついていますわよ。花束も持たずに楽屋口へいらっしゃるなんて、お義姉さまらしいわ。花束の値打ちなんて、お分かりにならないものね」
くすくす笑いが、廊下の前のほうから広がった。
「あの方、ヴェルヌ様の奥様じゃなくて?」
「花も持たずに? 楽屋口に何のご用かしら」
すぐ前に並んでいた若い婦人が、扇の陰でささやき合っている。ヴィオレットは聞こえないふりをして、外套の泥の跡を指でつまんで払った。
「お義姉さまったら、昨日もわたしの花束にお値段をつけたのよ。花束ひとつ贈るのに、いちいち帳簿をつける方なの」
セリーヌはわざと列の全員に聞こえるように言って、兄を振り返った。
「ヴィオレット」
エルネストが大股で近づいてきて、彼女の腕をつかんだ。
「恥をかかせる気か。こんなところで騒ぐつもりなら許さないぞ」
「ええ、騒ぎませんわ。申し上げるだけです」
ヴィオレットは夫の手を腕からはずして、列の前のほうまで届く声で言った。
「わたくしの持参金です。金貨三百枚。すみれの財布ごと、義妹がこちらの楽屋へ花束に添えてお贈りしました。金庫の鍵を渡したのは夫です。今夜はそれを返していただきに参りました」
廊下のくすくす笑いが、ぴたりと止んだ。扇の陰の若い婦人が、扇を動かす手を止めてこちらを見ている。面白がっていた目に、好奇の色が混じった。
「お、お義姉さま。みなさまの前で、なんてことを」
「声が大きいぞ。家族のお金だと言っただろう」
エルネストの声のほうが、よほど大きかった。
そのとき、廊下の奥で楽屋の扉が少しだけ開き、太った男が顔を出した。支配人のバルナバだった。
「ヴェルヌ子爵家の方、どうぞお入りください。ラファエルがお待ちしております」
セリーヌが歓声を上げて、兄の腕にしがみついた。
「ほら、お兄様! わたしよ。毎晩お花を贈った甲斐がありましたわ」
エルネストは妻の腕を放し、妹に引っぱられて扉へ向かった。廊下じゅうの婦人たちが、羨ましそうにそれを見送る。
ヴィオレットも、その後ろについて歩きだした。
「奥様?」
「わたくしもヴェルヌ家の者ですもの。今のところは、ね」
楽屋の扉が開くと、廊下にあふれていた花の匂いが一度に流れ込んだ。
「ラファエル様!」
セリーヌが兄の腕を振りほどいて駆け寄る。けれど鏡の前の役者は、化粧を半分落としたまま彼女を素通りして、その後ろに立つヴィオレットを見た。
「ああ、やっと来てくれた」
彼は衣装箱の底へ腕を入れ、小さな木箱を引き出した。腰を落として重い物を抱える、その構え方に、ヴィオレットはどこか見覚えがある気がした。思い出すより先に、蓋が開いた。
金貨がきっちり並んでいる。その上に、すみれの刺繍の財布がひとつ載っていた。
ヴィオレットの指が、勝手に財布へ伸びた。母が縫ってくれたものだ。嫁ぐ朝、父がこれに金貨を詰めて手渡してくれた。
「三百枚。一枚も使っていません」
さっき彼女が口にしたのと同じ数を、ラファエルは廊下の客にも聞こえる声で言った。
「花束を贈られる覚えならあります。でも、よその奥方の持参金で贈られる覚えはありません」
彼は財布だけを箱から取り上げ、伸びかけていたヴィオレットの手に載せた。
「差出人のお嬢さんにお返ししても、また花になるだけですから。持ち主の方を待っていました」
廊下の誰も動かなかった。
「ど、どうして。毎晩お好きなお花を買ってくださいって、カードに書きましたのに」
セリーヌの声が、その廊下にきれいに響いた。言ってしまってから、彼女は自分の口を手で押さえた。
花束を抱えた婦人たちが、ゆっくりセリーヌのほうへ顔を向ける。その目は彼女の顔ではなく、腕の中の、廊下でいちばん大きな花束に落ちた。
「ち、違いますの。今夜のお花は、ちゃんとわたしの……」
セリーヌは花束を抱え直そうとして、百合を一本床に落とした。拾おうと屈んだ拍子に、今度は薔薇がこぼれる。誰も拾ってやらなかった。さっき扇の陰で笑っていた若い婦人が、自分の小さな花束をそっと背中へ回した。
「だって、お義姉さまは使わないんですもの。お兄様だって、いいって」
「セリーヌ!」
エルネストの顔から血の気が引いた。言い訳を探して口を開け、何も見つけられずに閉じる。その目が、さっき妻の腕をつかんだ自分の手へ泳いだ。扉の隙間から、劇団の若い役者たちが顔を何段にも覗かせていた。
セリーヌは床に膝をついたまま、散らばった花を見下ろしていた。唇が震えて、もう何も出てこない。
支配人のバルナバが、わざとらしく咳払いをした。
「ついでに申し上げますと、子爵。お宅の桟敷のお代も、この三月ぶんは若奥様のお名前で払われておりましたな」
誰かがぷっと吹き出した。小さな笑いが、廊下の端までさざ波のように広がっていく。
ヴィオレットは財布を胸に抱いた。膝が震えていることに、そこで初めて気がついた。泣くのかしらと思ったのに、喉の奥からこみ上げてきたのは笑い声だった。
「ねえ、セリーヌ」
彼女は義妹の目をまっすぐに見た。
「花束を贈るなら、ご自分のお財布でどうぞ」
劇場を出たのは夜更けだった。
楽屋口の軒下で見送りに出てきたラファエルは、化粧をすっかり落としていた。地味な外套に、まだ少し湿った前髪。
「泥は、ちゃんと落ちましたか」
ヴィオレットは、財布を抱いたまま固まった。
「……荷車の方」
「お名前を伺って、すぐに分かりました。財布の縫い取りと同じお名前で、ハンカチのすみれも同じ色でしたから」
「それなら、あのとき言ってくださればよかったのに」
「言ったら、あなたは取り立ての段取りを変えたでしょう。僕はあなたが自分で取りに来るところを、見ていたかったんです」
ヴィオレットは何と返せばいいのか分からなくて、深く頭を下げた。昨日の玄関のお辞儀とは、まるで違う重さだった。
「ありがとうございました。これで、今度こそ貸し借りなしですわ」
「さあ。それはどうかな」
ラファエルは楽屋口の扉にもたれて笑った。後ろで待っていたポレットが、ヴィオレットの袖をそっと引く。
「奥様。あたし、役者ってのを少し見直しました」
「少しだけ?」
「残りは、金貨を数え終わってからにします」
ポレットは本当に、帰りの辻馬車の中で金貨を一枚ずつ数えた。三百枚、きっちりそろっていた。
翌朝、玄関の広間には、一昨日の夕方と同じ顔ぶれが並んでいた。
違うのは、ヴィオレットの隣に父のモーリス男爵と、黒い鞄を提げた弁護士が立っていることだった。夜のうちに、ポレットが実家まで走ってくれたのだ。
「エルネスト様。離縁していただきます」
ヴィオレットは、すみれの財布をテーブルに置いた。
「持参金は、離縁でわたくしに戻ります。今日のうちに、父の取引先の銀行へ預け直しますわ」
「待ってくれ。昨日のことは、セリーヌが勝手に」
「鍵を渡したのは、あなたですわ」
父のモーリス男爵が、そこで初めて口を開いた。
「娘から話は聞いた。君が妹に鍵を渡し、娘が訴えても取り合わなかったこともな」
「お義父上、それは誤解です。家族のあいだのことで」
「その家族に、娘は入っていなかったようだが」
父の声は静かだった。嫁ぐ朝に、財布へ金貨を一枚ずつ詰めていたのと同じ手が、杖の頭を握っている。
エルネストは父の顔をうかがい、弁護士の鞄を見て、それから妻を見た。
「仕送りはどうなる。来月の桟敷も、セリーヌのドレスも」
そのとき、執事のガスパールが一歩前に出た。
「旦那様。一昨日の夕方、申し上げられなかったことがございます。この冬の石炭も私どもの給金も、若奥様の仕送りから出ておりました」
広間がざわめいた。エルネストは身じろぎもせず、執事を見ている。
「お兄様、それってどういうこと? わたしの春のドレスは」
階段の途中からセリーヌが声を上げたけれど、エルネストは振り向かなかった。
ドロテが前掛けを外して、ヴィオレットの前で深く頭を下げた。それを合図にしたように、並んでいた使用人たちが一人、また一人と頭を下げていく。一昨日、彼女が頭を下げさせられた床の、同じ石の上で。
階段の途中で、セリーヌは手すりを握ったまま立ち尽くしていた。一昨日、泣きながら駆け下りてきたのと同じ段だった。下げられていく頭は、どれも彼女のほうを向いていない。
ヴィオレットは少し考えてから、にっこり笑った。
「利子は、これで十分ですわ」
エルネストは震える手で書面に署名した。弁護士が書類を鞄にしまうのと入れ違いに、劇場の使いが手紙を届けにきた。支配人バルナバからで、ヴェルヌ家の桟敷は今季かぎりでお返しいただきたい、とだけ書いてあった。
噂が回るのは早い。昼前には「妻の持参金で妹が役者に貢いだ家」と言われているらしい、とポレットが嬉しそうに報告しにきた。
午後は荷造りだった。
ドレスに本、母の刺繍道具の箱。二年分の荷物は、思っていたより少なかった。
「奥様、この砂糖菓子の缶は」
「持っていくわ。中身ごと」
「中身ごとですか」
「当然よ。わたくしのお小遣いで買ったんですもの。一粒だって置いていきません」
「さっき台所でドロテさんに会いましたけど、泣いてましたよ。奥様のお菓子がなくなるって」
「それなら半分置いていくわ。ドロテたちの分」
「旦那様の分は」
「旦那様には、空っぽの金庫でも眺めていただきましょう」
ポレットが吹き出した。
問題は、運ぶ手段だった。エルネストは、馬車は貸さないと言い張っている。せめてもの意地らしい。
「辻馬車を呼びましょうか」
「この量だと三台は要るわ。ポレット、荷車を貸してくれそうなところに心当たりはない?」
言ってから、自分でもおかしくなった。心当たりなら、ひとつしかない。
ポレットはにやりと笑って、外套を引っかけた。
「行ってまいります。楽屋口の作法なら、詳しいですから」
夕方、屋敷の門の前に、見覚えのある荷車が止まった。お城の壁は降ろされて、空っぽの荷台が待っている。
押してきたのは地味な外套の青年で、その後ろでポレットが得意げに胸を張っていた。
「大道具の連中は、今夜は休演日なので」
「看板役者がご自分で荷車を押していらっしゃるなんて、聞いたことがありませんわ」
「看板役者には、雨の坂で荷車を押してもらった借りがあるので」
「貸し借りなし、と申し上げたでしょう」
「名前ひとつで、荷車一台ぶんは返せませんよ」
「では、いまはどちらが借りていますの」
「僕のほうです。おまけに三百枚を預かっていた十日あまりは、あの箱が気になって台詞を二回間違えました」
「まあ、看板役者が」
「支配人には内緒にしてください。あの人、咳払いが長いので」
三人で荷物を積み終えると、門の陰から使用人たちがこっそり手を振った。ヴィオレットは大きく手を振り返して、それから屋敷に背を向けた。
ラファエルと並んで荷車の取っ手を握る。父の家までは、劇場の前の大通りを抜けて、坂を一本下りればいい。
劇場の前を通りかかると、楽屋口の花売りが籠を広げていた。ラファエルが足を止めて、外套のポケットを探る。出てきたのは銅貨が三枚だった。
「すみれを一輪」
花売りが差し出した小さな花を、ラファエルはそのままヴィオレットの手に載せた。
「花束は無理でした。でも一輪なら、自分の財布で買えます」
ヴィオレットは手のひらのすみれを見下ろした。金貨三百枚の財布よりずっと軽いのに、なぜか頬が熱くなった。
「……贈られる覚えは、ありませんわよ」
「これから覚えてもらいます」
ヴィオレットはすみれを両手で包んだ。ラファエルは彼女の顔を見ていた。二人とも、取っ手から手を離したきりだった。
坂の上で、荷車がごとりと動いた。
誰も押していないのに、荷車はゆっくりと坂を下りはじめる。荷台の上で、砂糖菓子の缶がからんと鳴った。
「わたくしの砂糖菓子!」
「奥様、荷車!」
ヴィオレットはすみれを握ったまま、スカートの裾をつまんで駆けだした。ラファエルも隣を走っている。荷車は二人を置いて、ひと足先に父の家のほうへ下りていく。
坂の下で、荷車は父の家の門柱にこつんと当たって、勝手に止まった。




