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『井戸の妖精なんて雑用係でしょう?』と婚約者に嗤われた聖女令嬢、村へ追放される 〜ですが、その井戸こそが国の生命線でしたので、水を失った王都で今さら泣きつかれても『だが、断る』ですわ〜

作者: uta
掲載日:2026/08/18

「リィナ、お前との婚約を破棄する。井戸の妖精と話すだけの田舎聖女など、王家に相応しくない」


水の女神を祀る大聖堂。

朝の礼拝が終わったばかりの回廊で、第二王子ゼファーは高らかにそう言い放った。


居並ぶ貴族たちの視線が、いっせいに私に突き刺さる。


ああ、また始まった。


私はスカートの裾をそっと握り、静かに息を吐いた。


(婚約破棄の宣言を、わざわざ人の集まる回廊でやる。この演出過剰なところ、本当に変わらないのね)


前世の私は、ダムの管理技師だった。

洪水期に不眠不休で放流量を計算し、渇水期には一滴の水を惜しんで配分表と睨み合った、地味で泥臭い仕事。


その記憶を持って転生した今世、私に与えられたギフトは《水精交渉アクア・ダイアログ》。

水に宿る妖精と対話し、水脈を操る力だ。


だがこの華やかな王都では、それは嘲笑の対象でしかなかった。


「陰気な水色の髪に、湖みたいに冷たい目。井戸の底が似合いの女だ」


ゼファーの隣で、桃色の髪の少女がくすりと笑った。

《治癒》の聖女、アイリス。私の義妹分を名乗り、王子の心を奪った聖女さま。


「お姉さま、ごめんなさい……わたしのせいで、こんなことに」


涙ぐんでみせるその演技を、私は黙って眺めた。


(あなたのその《治癒》が、どこの水で成り立っているか。知らないのでしょうね)


「田舎聖女には田舎がお似合いだ。辺境の涸れ井戸村へ行け。二度と王都に戻るな」


どよめきが起こる。追放。左遷。憐れみと嘲りの入り混じった空気。


私は喚かなかった。

泣きもしなかった。


ただ、ドレスの裾を摘まみ、水の女神に捧げる最も丁寧な礼をとった。


「――かしこまりました。どうぞ、お健やかに」


顔を上げた私の唇に、微かな笑みが浮かんでいたことに、誰も気づかなかった。


(王都の水が、どこから来ているか。この人たちは一度も考えたことがないのね)


そう。

私が去れば、この王都は――やがて、渇く。


だけど今は、まだ言わない。


静かに一礼して、私は聖堂を後にした。


***


涸れ井戸村。

名前からして救いのない村だった。


馬車を降りた私を迎えたのは、ひび割れた大地と、痩せた村人たち、そして――村の中央にぽつんとある、干上がりかけた古井戸。


「聖女さま……いえ、追放されてきた令嬢さまと聞いておりますが」


皺深い手をエプロンで拭きながら、老いた女が歩み寄ってきた。

井戸番のハンナだと名乗る。


「こんな水も出ぬ村に。お気の毒に」


「お気の毒なのは、私ではなく村のほうでは?」


私は井戸の縁に手をかけ、底を覗き込んだ。


暗い水面。淀んで、澱んで――けれど、確かに何かがいる。


(脈がある。かすかだけど……これは、本物の水脈だわ)


私は膝をつき、水面に指を沈めた。


「聞こえる? 私はリィナ。あなたと話しに来たの」


水面が、ぴくりと揺れた。


『……うそ』


幼い声。

井戸の底から、青銀の髪の少女が浮かび上がってくる。

雫のような大きな瞳に、みるみる涙が盛り上がった。


『やっと……やっと、あたしの声が聞こえる人が来た』


「あなたは?」


『あたしはミオ。ずっと、ずっとここにいたの。何百年も、誰も聞いてくれなかった。だから……水、出すのやめたの。拗ねてたの』


私は息を呑んだ。


この子の気配――ただの井戸の妖精じゃない。

水脈の太さ、深さ、その根の広がり。


(間違いない。この子は《源泉》。国中の水脈の、大本だわ)


王都の噴水も。

豊穣聖女の灌漑も。

アイリスの聖泉も。


すべては、この寂しがりの子が分け与えていた水で成り立っていた。


そしてこの子は今、この村の井戸の底で、たったひとり泣いていた。


私はそっと、ミオの濡れた頬に手を添えた。


「ごめんね、遅くなって。もう、ひとりにしないから」


ミオが、わっと泣きながら私の腕に飛び込んでくる。

冷たくて、柔らかくて――ずっと寂しかった水の匂いがした。


ハンナが、井戸の前で静かに手を合わせていた。


「井戸が……笑っておる。ああ、あんたは、本物の聖女さまだ」


私は苦笑した。


(聖女、ね。前世じゃただの水道屋だったんだけど)


さて。

袖をまくろう。


この村を、緑に変える。

技師の腕の、見せどころだ。


***


「ミオ、この村の地下の水脈、全部見せて」


『いいよ! リィナのためなら!』


ミオが手をかざすと、地面が透けて見えるように、水の流れが青く浮かび上がった。


(……なるほど。水脈自体は豊かなのに、村の水路が全部間違ってる。せき止めて、無駄に蒸発させて、必要な畑に届いてない。これは典型的な配分ミスだわ)


前世で嫌というほど描いた、あの配分図が頭に蘇る。


私は木の枝を拾い、地面に設計図を描き始めた。


「ハンナさん、村の男手を集めてください。ここに分水路を掘ります。それからこの窪地――ここを溜め池にすれば、渇水期の備えになる」


「そ、そんな大工事、この人手で……」


「大丈夫。ミオが水を導いてくれる。人が掘るのは水の通り道だけでいい」


半信半疑だった村人たちも、実際に鍬を入れ始めると目の色が変わった。


ミオが楽しそうに水路を辿り、澄んだ水がさらさらと流れ込む。


『水、来たよー! みんな見て、きらきら流れてる!』


枯れかけた畑に、みるみる潤いが戻っていく。


数週間後。

涸れ井戸村は、名前が嘘のような緑の村に変わっていた。

黄金の麦。青々とした菜園。子どもたちが水路で笑い、水を掬っている。


「水だ! 水が来たぞォ! 井戸の聖女さま! 井戸の聖女さま!」


ハンナが真っ先にそう呼んだその名は、あっという間に村中に広がっていた。


私は少しだけ、胸が熱くなった。


(王都では、地味だ役立たずだと嗤われた力が。ここでは――人を生かしている)


その夜。

井戸の縁に腰かけ、ミオと星を眺めた。


『ねえリィナ。あたし、ずっとここにいていい?』


「もちろん」


『あのね……あたし、拗ねてる間、王都にも水、送るの、やめちゃったの。怒ってる?』


私は、ゆっくりと瞬きした。


「いいえ。むしろ、ね」


遠い王都の空を見上げる。


(きっと今頃、あちらは――噴水が止まり始めている頃かしら)


私は、静かに微笑んだ。


***


――時を同じくして、王都アクエリオ。


異変は、噴水が止まったことから始まった。


「なぜ水が出ない! 王城の井戸が、昨日まで湧いていたはずだ!」


王城の井戸が涸れる。

貴族の屋敷の水路が細る。

豊穣聖女の畑が、みるみる黄色く枯れていく。


王都はパニックに陥った。


そして――もっとも致命的な露見が、王宮の広間で起きた。


「聖女アイリス! 早く陛下の傷を癒すのだ!」


病に倒れた国王の枕元で、アイリスが《治癒》を発動しようとした。


だが、光が――灯らない。


「な、なぜ……いつもなら聖泉の水を捧げれば、《治癒》が発動するのに……」


「その聖泉が、涸れておりますぞ、聖女さま」


侍従の声が、しんと響いた。


アイリスの《治癒》は、聖なる泉の水がなければ一切発動しない、見せかけの力。

源泉の水に、完全に依存したインチキだった。


水が止まった今、彼女はただの、何もできない娘に過ぎなかった。


「ち、違うのっ、これは何かの間違いで――光が、灯らないなんて……」


「治癒の聖女が、水がなければ何もできぬ、だと?」

「では、これまでの奇跡はすべて、聖泉の水頼み……?」

「詐称だ! 偽りの聖女だ!」


崩れ落ちるアイリス。

健気な仮面の下から覗いたのは、空っぽの素顔だった。


そしてゼファーは、ようやく――ようやく気づいた。


「まさか……水脈が細り始めたのは、リィナが去った直後から……」


蒼白になる王子の耳に、水の女神の神託が響いた。


『水の恩恵を軽んじ、源泉の聖女を追放せし王家よ。汝ら、水の加護を失うべし』


ゼファーは膝から崩れ落ちた。


「井戸の妖精と話すだけの……地味な力、だと思っていた……」


あの日、静かに一礼して去った少女の背中が、脳裏をよぎる。


あれは、諦めの礼ではなかった。

あれは――「要石が抜ける」と知っていた者の、別れの礼だったのだ。


「リィナを……リィナを連れ戻せ! 今すぐ涸れ井戸村へ!」


***


王都から使者が飛ぶより先に、涸れ井戸村には別の来客があった。


「隣国の軍が来た!」


村がざわめく中、私が井戸へ駆けつけると――そこには、思いもよらぬ光景があった。


銀白の髪に、氷のように鋭い蒼眼。長身痩躯を軍服に包んだ、氷点下の気配を纏う男。


その男が。


井戸の縁で三角座りをして、ミオと目線を合わせ、菓子を差し出していた。


「……食べるか。隣国の焼き菓子だ。蜂蜜がよく効いている」


『わあ、あまい! おいしい! おじさん、いい人!』


「……おじさんではない。アルヴィスだ」


この威圧感で、この構図。

私はしばし、言葉を失った。


(この威圧感で、井戸の縁に三角座り……この構図は、いったい)


「……あなたは?」


男――アルヴィス・グラキエスが立ち上がる。とたんに空気が凍りつくような迫力。村人が後ずさる。


だが彼は、私を見て、静かに頭を垂れた。


「隣国の水利担当、アルヴィス・グラキエス。氷竜の血を引く者だ。……この村の水路を、見せてもらった」


「勝手に?」


「無礼を詫びる。だが――見て、震えた」


彼は真っ直ぐに私を見据えた。


「あの分水設計。溜め池の配置。渇水と洪水の両方を見越した水量計算。あれは、ただの聖女の奇跡ではない。あれは――水を知り尽くした者の、"技術"だ」


私の胸が、とくんと鳴った。


(前世でも今世でも、誰ひとり、そう言ってくれた人はいなかった)


「あなたのギフトを"井戸の妖精と喋るだけの地味な力"と嗤った者がいると聞いた」


アルヴィスの蒼眼が、すっと細くなる。


「愚か者だ。国家インフラの根幹を、その目で見ておきながら」


そして――氷竜の将軍の、鋭い目の縁が、ふいに潤んだ。


「この妖精は……数百年、独りで泣いていたと言うではないか。誰にも声を聞かれず……そんな……そんな哀れな話が、あるか」


ぐす、と鼻をすする氷竜。


『アルヴィス、泣かないで。はい、お菓子』


「……逆だろう」


私は、思わず吹き出してしまった。


(冷酷な竜人将軍かと思えば、涙もろい甘党のポンコツだった、と……ギャップが過ぎるわ)


だが――この人は、本物だ。

私の力を、正しく見てくれた、初めての人。


「アルヴィス将軍。ひとつ、伺っても? あなたの国には――水に、困っている人がいますか?」


彼は、まっすぐに頷いた。


「いる。だからこそ――あなたを、我が国に迎えたい」


***


そうして、やってきた。


干上がった王都から、みすぼらしい馬車を仕立てて。

かつて私を嗤い、追放した第二王子ゼファーが。


「リィナ! ああ、リィナ、無事だったか! 頼む、王都へ戻ってくれ! いや、戻ってください! 婚約もやり直そう。君を正妃に迎える。だから――王都に、水を!」


緑豊かな村に足を踏み入れたゼファーは、その光景に目を見開いた。

黄金の麦。潤う水路。笑う村人たち。

王都が失ったものすべてが、ここにあった。


地に膝をつき、両手を差し出す王子。

その後ろで、痩せ細ったアイリスも震えていた。


「お姉さま……わたしも、悪かったわ。だからどうか……」


村人たちが、ざわりと殺気立つ。

ハンナが、井戸を守るように前へ出た。


だが私は、ゆっくりと片手を上げて、皆を制した。


緑の畑を背に。

潤う水路のせせらぎを聞きながら。

私は、静かに微笑んだ。


「まあ。あれほど"井戸の妖精と話すだけの田舎聖女は王家に相応しくない"と仰っていたのに」


「そ、それは……!」


「その"地味な力"がなくなった途端、王都は水を失った。……あら、不思議ですこと」


淡々と。

怒鳴らず、責めず。

ただ、事実だけを置いていく。


「私、思うのです。水というものはね、ゼファー殿下。当たり前に湧いてくるものではないのですよ。誰かが、見えないところで、守っている。あなた方が一度も考えたことのない誰かが」


ゼファーの顔が、ぐしゃりと歪む。


「頼む、リィナ……このままでは、国が滅ぶ……」


私は、スカートの裾をそっと摘まんだ。


あの日と同じ、水の女神に捧げる最も丁寧な礼。


そして、顔を上げ――


「だが、断りますわ」


静寂。


せせらぎだけが、さらさらと流れていた。


「私はもう、この村と、ミオと共に生きると決めました。私を"役立たず"と切り捨てた場所に、戻る理由はございません」


『そうだそうだー! リィナはあたしの! 王都なんか、水、あげないもん!』


井戸から顔を出したミオが、べえっと舌を出した。


ゼファーが、絶望に顔を覆う。


そこへ――水の女神の神託が、天から降った。


『源泉の聖女を軽んじし王家よ。汝らに水の加護なし。水の交渉権は、これよりリィナ・フォンティーヌに委ねられん』


私は、頭を垂れる王子を静かに見下ろした。


(これは、私が下した罰ではないわ。あなたが、自分で招いた結果よ)


ゼファーは水も、名声も、婚約者も失った。

アイリスは詐称聖女として、二度と表舞台に立てない。


王家は、水を乞う立場に転落した。


そして私は――私を正しく見てくれた人の隣で、新しい道を歩む。


***


王家の馬車が去った後、村は祭りのような賑わいに包まれた。


「井戸の聖女さま万歳!」

「ミオさま万歳!」


ハンナが、皺深い手で私の手を握った。


「あんたが来てくれて、本当によかった。この村は、あんたのことを一生忘れんよ」


「私こそ。ここが、私の居場所を教えてくれました」


夕暮れの井戸の縁。

私は、アルヴィスと並んで座っていた。


「改めて、答えを聞かせてほしい」


彼が、静かに言った。

氷のような蒼眼が、夕陽に染まって柔らかい。


「我が国へ来てほしい。だが――政略でも、打算でもない。あなたの"水を守る技師としての誇り"に、敬意を払いたいのだ」


私は、少し驚いて彼を見た。


「技師、と」


「聖女、では不服か?」


「いいえ」


私は、思わず笑ってしまった。


(前世でも今世でも。誰も"技師"だなんて呼んでくれなかったのに。この氷の竜人が、一番わかってくれるなんて)


「ですが、私にはこの村と、ミオがおります。二人とも連れて、というなら――」


「無論だ」


アルヴィスが即答した。

懐から焼き菓子を取り出す。


「ミオの菓子も、たっぷり用意させる」


『やったー! アルヴィスの国、行く!』


井戸から飛び出してきたミオが、私の膝にぽすんと収まる。


そして――ふと、小首を傾げた。


『ねえリィナ。あのね……あたし、水を通して、遠くの声が聞こえるの。隣の国にもね……寂しがってる水の子が、いるみたい』


私は、アルヴィスと顔を見合わせた。


「あなたの国に?」


「……心当たりがある。長らく涸れたと言われている、古い泉が」


『その子ね、ずっと泣いてるの。誰か、声を聞いてほしいって。リィナ、その子にも……会いに行ってあげて?』


ミオが、私の袖をきゅっと握った。


私は、そっとミオの頭を撫でた。


遠い異国の、まだ見ぬ井戸の底で。

誰にも声を聞かれず、独りで泣いている水の子。


(前世で洪水と渇水を相手にしてきた、ただの水道屋。その力が、この世界では――泣いている水の子を、癒すことができる)


私は立ち上がり、夕陽に染まる地平線を見つめた。


「アルヴィス将軍。参りましょう。次の"寂しがりの水源"のところへ」


「喜んで。……その前に一つ。あなたを"リィナ殿"と呼んでも?」


私は、水の女神に捧げるより、ずっと自然な笑みで頷いた。


「ええ。どうぞ」


『えへへ、二人ともなかよし! 井戸の水も、うれしそうにきらきら跳ねてるよー!』


ミオが二人の間で、けらけらと笑う。

井戸の水が、うれしそうに、きらきらと跳ねた。


――涸れ井戸村の物語は、ここに幕を閉じる。


だが、水の旅は。

まだ、始まったばかり。

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