『井戸の妖精なんて雑用係でしょう?』と婚約者に嗤われた聖女令嬢、村へ追放される 〜ですが、その井戸こそが国の生命線でしたので、水を失った王都で今さら泣きつかれても『だが、断る』ですわ〜
「リィナ、お前との婚約を破棄する。井戸の妖精と話すだけの田舎聖女など、王家に相応しくない」
水の女神を祀る大聖堂。
朝の礼拝が終わったばかりの回廊で、第二王子ゼファーは高らかにそう言い放った。
居並ぶ貴族たちの視線が、いっせいに私に突き刺さる。
ああ、また始まった。
私はスカートの裾をそっと握り、静かに息を吐いた。
(婚約破棄の宣言を、わざわざ人の集まる回廊でやる。この演出過剰なところ、本当に変わらないのね)
前世の私は、ダムの管理技師だった。
洪水期に不眠不休で放流量を計算し、渇水期には一滴の水を惜しんで配分表と睨み合った、地味で泥臭い仕事。
その記憶を持って転生した今世、私に与えられたギフトは《水精交渉》。
水に宿る妖精と対話し、水脈を操る力だ。
だがこの華やかな王都では、それは嘲笑の対象でしかなかった。
「陰気な水色の髪に、湖みたいに冷たい目。井戸の底が似合いの女だ」
ゼファーの隣で、桃色の髪の少女がくすりと笑った。
《治癒》の聖女、アイリス。私の義妹分を名乗り、王子の心を奪った聖女さま。
「お姉さま、ごめんなさい……わたしのせいで、こんなことに」
涙ぐんでみせるその演技を、私は黙って眺めた。
(あなたのその《治癒》が、どこの水で成り立っているか。知らないのでしょうね)
「田舎聖女には田舎がお似合いだ。辺境の涸れ井戸村へ行け。二度と王都に戻るな」
どよめきが起こる。追放。左遷。憐れみと嘲りの入り混じった空気。
私は喚かなかった。
泣きもしなかった。
ただ、ドレスの裾を摘まみ、水の女神に捧げる最も丁寧な礼をとった。
「――かしこまりました。どうぞ、お健やかに」
顔を上げた私の唇に、微かな笑みが浮かんでいたことに、誰も気づかなかった。
(王都の水が、どこから来ているか。この人たちは一度も考えたことがないのね)
そう。
私が去れば、この王都は――やがて、渇く。
だけど今は、まだ言わない。
静かに一礼して、私は聖堂を後にした。
***
涸れ井戸村。
名前からして救いのない村だった。
馬車を降りた私を迎えたのは、ひび割れた大地と、痩せた村人たち、そして――村の中央にぽつんとある、干上がりかけた古井戸。
「聖女さま……いえ、追放されてきた令嬢さまと聞いておりますが」
皺深い手をエプロンで拭きながら、老いた女が歩み寄ってきた。
井戸番のハンナだと名乗る。
「こんな水も出ぬ村に。お気の毒に」
「お気の毒なのは、私ではなく村のほうでは?」
私は井戸の縁に手をかけ、底を覗き込んだ。
暗い水面。淀んで、澱んで――けれど、確かに何かがいる。
(脈がある。かすかだけど……これは、本物の水脈だわ)
私は膝をつき、水面に指を沈めた。
「聞こえる? 私はリィナ。あなたと話しに来たの」
水面が、ぴくりと揺れた。
『……うそ』
幼い声。
井戸の底から、青銀の髪の少女が浮かび上がってくる。
雫のような大きな瞳に、みるみる涙が盛り上がった。
『やっと……やっと、あたしの声が聞こえる人が来た』
「あなたは?」
『あたしはミオ。ずっと、ずっとここにいたの。何百年も、誰も聞いてくれなかった。だから……水、出すのやめたの。拗ねてたの』
私は息を呑んだ。
この子の気配――ただの井戸の妖精じゃない。
水脈の太さ、深さ、その根の広がり。
(間違いない。この子は《源泉》。国中の水脈の、大本だわ)
王都の噴水も。
豊穣聖女の灌漑も。
アイリスの聖泉も。
すべては、この寂しがりの子が分け与えていた水で成り立っていた。
そしてこの子は今、この村の井戸の底で、たったひとり泣いていた。
私はそっと、ミオの濡れた頬に手を添えた。
「ごめんね、遅くなって。もう、ひとりにしないから」
ミオが、わっと泣きながら私の腕に飛び込んでくる。
冷たくて、柔らかくて――ずっと寂しかった水の匂いがした。
ハンナが、井戸の前で静かに手を合わせていた。
「井戸が……笑っておる。ああ、あんたは、本物の聖女さまだ」
私は苦笑した。
(聖女、ね。前世じゃただの水道屋だったんだけど)
さて。
袖をまくろう。
この村を、緑に変える。
技師の腕の、見せどころだ。
***
「ミオ、この村の地下の水脈、全部見せて」
『いいよ! リィナのためなら!』
ミオが手をかざすと、地面が透けて見えるように、水の流れが青く浮かび上がった。
(……なるほど。水脈自体は豊かなのに、村の水路が全部間違ってる。せき止めて、無駄に蒸発させて、必要な畑に届いてない。これは典型的な配分ミスだわ)
前世で嫌というほど描いた、あの配分図が頭に蘇る。
私は木の枝を拾い、地面に設計図を描き始めた。
「ハンナさん、村の男手を集めてください。ここに分水路を掘ります。それからこの窪地――ここを溜め池にすれば、渇水期の備えになる」
「そ、そんな大工事、この人手で……」
「大丈夫。ミオが水を導いてくれる。人が掘るのは水の通り道だけでいい」
半信半疑だった村人たちも、実際に鍬を入れ始めると目の色が変わった。
ミオが楽しそうに水路を辿り、澄んだ水がさらさらと流れ込む。
『水、来たよー! みんな見て、きらきら流れてる!』
枯れかけた畑に、みるみる潤いが戻っていく。
数週間後。
涸れ井戸村は、名前が嘘のような緑の村に変わっていた。
黄金の麦。青々とした菜園。子どもたちが水路で笑い、水を掬っている。
「水だ! 水が来たぞォ! 井戸の聖女さま! 井戸の聖女さま!」
ハンナが真っ先にそう呼んだその名は、あっという間に村中に広がっていた。
私は少しだけ、胸が熱くなった。
(王都では、地味だ役立たずだと嗤われた力が。ここでは――人を生かしている)
その夜。
井戸の縁に腰かけ、ミオと星を眺めた。
『ねえリィナ。あたし、ずっとここにいていい?』
「もちろん」
『あのね……あたし、拗ねてる間、王都にも水、送るの、やめちゃったの。怒ってる?』
私は、ゆっくりと瞬きした。
「いいえ。むしろ、ね」
遠い王都の空を見上げる。
(きっと今頃、あちらは――噴水が止まり始めている頃かしら)
私は、静かに微笑んだ。
***
――時を同じくして、王都アクエリオ。
異変は、噴水が止まったことから始まった。
「なぜ水が出ない! 王城の井戸が、昨日まで湧いていたはずだ!」
王城の井戸が涸れる。
貴族の屋敷の水路が細る。
豊穣聖女の畑が、みるみる黄色く枯れていく。
王都はパニックに陥った。
そして――もっとも致命的な露見が、王宮の広間で起きた。
「聖女アイリス! 早く陛下の傷を癒すのだ!」
病に倒れた国王の枕元で、アイリスが《治癒》を発動しようとした。
だが、光が――灯らない。
「な、なぜ……いつもなら聖泉の水を捧げれば、《治癒》が発動するのに……」
「その聖泉が、涸れておりますぞ、聖女さま」
侍従の声が、しんと響いた。
アイリスの《治癒》は、聖なる泉の水がなければ一切発動しない、見せかけの力。
源泉の水に、完全に依存したインチキだった。
水が止まった今、彼女はただの、何もできない娘に過ぎなかった。
「ち、違うのっ、これは何かの間違いで――光が、灯らないなんて……」
「治癒の聖女が、水がなければ何もできぬ、だと?」
「では、これまでの奇跡はすべて、聖泉の水頼み……?」
「詐称だ! 偽りの聖女だ!」
崩れ落ちるアイリス。
健気な仮面の下から覗いたのは、空っぽの素顔だった。
そしてゼファーは、ようやく――ようやく気づいた。
「まさか……水脈が細り始めたのは、リィナが去った直後から……」
蒼白になる王子の耳に、水の女神の神託が響いた。
『水の恩恵を軽んじ、源泉の聖女を追放せし王家よ。汝ら、水の加護を失うべし』
ゼファーは膝から崩れ落ちた。
「井戸の妖精と話すだけの……地味な力、だと思っていた……」
あの日、静かに一礼して去った少女の背中が、脳裏をよぎる。
あれは、諦めの礼ではなかった。
あれは――「要石が抜ける」と知っていた者の、別れの礼だったのだ。
「リィナを……リィナを連れ戻せ! 今すぐ涸れ井戸村へ!」
***
王都から使者が飛ぶより先に、涸れ井戸村には別の来客があった。
「隣国の軍が来た!」
村がざわめく中、私が井戸へ駆けつけると――そこには、思いもよらぬ光景があった。
銀白の髪に、氷のように鋭い蒼眼。長身痩躯を軍服に包んだ、氷点下の気配を纏う男。
その男が。
井戸の縁で三角座りをして、ミオと目線を合わせ、菓子を差し出していた。
「……食べるか。隣国の焼き菓子だ。蜂蜜がよく効いている」
『わあ、あまい! おいしい! おじさん、いい人!』
「……おじさんではない。アルヴィスだ」
この威圧感で、この構図。
私はしばし、言葉を失った。
(この威圧感で、井戸の縁に三角座り……この構図は、いったい)
「……あなたは?」
男――アルヴィス・グラキエスが立ち上がる。とたんに空気が凍りつくような迫力。村人が後ずさる。
だが彼は、私を見て、静かに頭を垂れた。
「隣国の水利担当、アルヴィス・グラキエス。氷竜の血を引く者だ。……この村の水路を、見せてもらった」
「勝手に?」
「無礼を詫びる。だが――見て、震えた」
彼は真っ直ぐに私を見据えた。
「あの分水設計。溜め池の配置。渇水と洪水の両方を見越した水量計算。あれは、ただの聖女の奇跡ではない。あれは――水を知り尽くした者の、"技術"だ」
私の胸が、とくんと鳴った。
(前世でも今世でも、誰ひとり、そう言ってくれた人はいなかった)
「あなたのギフトを"井戸の妖精と喋るだけの地味な力"と嗤った者がいると聞いた」
アルヴィスの蒼眼が、すっと細くなる。
「愚か者だ。国家インフラの根幹を、その目で見ておきながら」
そして――氷竜の将軍の、鋭い目の縁が、ふいに潤んだ。
「この妖精は……数百年、独りで泣いていたと言うではないか。誰にも声を聞かれず……そんな……そんな哀れな話が、あるか」
ぐす、と鼻をすする氷竜。
『アルヴィス、泣かないで。はい、お菓子』
「……逆だろう」
私は、思わず吹き出してしまった。
(冷酷な竜人将軍かと思えば、涙もろい甘党のポンコツだった、と……ギャップが過ぎるわ)
だが――この人は、本物だ。
私の力を、正しく見てくれた、初めての人。
「アルヴィス将軍。ひとつ、伺っても? あなたの国には――水に、困っている人がいますか?」
彼は、まっすぐに頷いた。
「いる。だからこそ――あなたを、我が国に迎えたい」
***
そうして、やってきた。
干上がった王都から、みすぼらしい馬車を仕立てて。
かつて私を嗤い、追放した第二王子ゼファーが。
「リィナ! ああ、リィナ、無事だったか! 頼む、王都へ戻ってくれ! いや、戻ってください! 婚約もやり直そう。君を正妃に迎える。だから――王都に、水を!」
緑豊かな村に足を踏み入れたゼファーは、その光景に目を見開いた。
黄金の麦。潤う水路。笑う村人たち。
王都が失ったものすべてが、ここにあった。
地に膝をつき、両手を差し出す王子。
その後ろで、痩せ細ったアイリスも震えていた。
「お姉さま……わたしも、悪かったわ。だからどうか……」
村人たちが、ざわりと殺気立つ。
ハンナが、井戸を守るように前へ出た。
だが私は、ゆっくりと片手を上げて、皆を制した。
緑の畑を背に。
潤う水路のせせらぎを聞きながら。
私は、静かに微笑んだ。
「まあ。あれほど"井戸の妖精と話すだけの田舎聖女は王家に相応しくない"と仰っていたのに」
「そ、それは……!」
「その"地味な力"がなくなった途端、王都は水を失った。……あら、不思議ですこと」
淡々と。
怒鳴らず、責めず。
ただ、事実だけを置いていく。
「私、思うのです。水というものはね、ゼファー殿下。当たり前に湧いてくるものではないのですよ。誰かが、見えないところで、守っている。あなた方が一度も考えたことのない誰かが」
ゼファーの顔が、ぐしゃりと歪む。
「頼む、リィナ……このままでは、国が滅ぶ……」
私は、スカートの裾をそっと摘まんだ。
あの日と同じ、水の女神に捧げる最も丁寧な礼。
そして、顔を上げ――
「だが、断りますわ」
静寂。
せせらぎだけが、さらさらと流れていた。
「私はもう、この村と、ミオと共に生きると決めました。私を"役立たず"と切り捨てた場所に、戻る理由はございません」
『そうだそうだー! リィナはあたしの! 王都なんか、水、あげないもん!』
井戸から顔を出したミオが、べえっと舌を出した。
ゼファーが、絶望に顔を覆う。
そこへ――水の女神の神託が、天から降った。
『源泉の聖女を軽んじし王家よ。汝らに水の加護なし。水の交渉権は、これよりリィナ・フォンティーヌに委ねられん』
私は、頭を垂れる王子を静かに見下ろした。
(これは、私が下した罰ではないわ。あなたが、自分で招いた結果よ)
ゼファーは水も、名声も、婚約者も失った。
アイリスは詐称聖女として、二度と表舞台に立てない。
王家は、水を乞う立場に転落した。
そして私は――私を正しく見てくれた人の隣で、新しい道を歩む。
***
王家の馬車が去った後、村は祭りのような賑わいに包まれた。
「井戸の聖女さま万歳!」
「ミオさま万歳!」
ハンナが、皺深い手で私の手を握った。
「あんたが来てくれて、本当によかった。この村は、あんたのことを一生忘れんよ」
「私こそ。ここが、私の居場所を教えてくれました」
夕暮れの井戸の縁。
私は、アルヴィスと並んで座っていた。
「改めて、答えを聞かせてほしい」
彼が、静かに言った。
氷のような蒼眼が、夕陽に染まって柔らかい。
「我が国へ来てほしい。だが――政略でも、打算でもない。あなたの"水を守る技師としての誇り"に、敬意を払いたいのだ」
私は、少し驚いて彼を見た。
「技師、と」
「聖女、では不服か?」
「いいえ」
私は、思わず笑ってしまった。
(前世でも今世でも。誰も"技師"だなんて呼んでくれなかったのに。この氷の竜人が、一番わかってくれるなんて)
「ですが、私にはこの村と、ミオがおります。二人とも連れて、というなら――」
「無論だ」
アルヴィスが即答した。
懐から焼き菓子を取り出す。
「ミオの菓子も、たっぷり用意させる」
『やったー! アルヴィスの国、行く!』
井戸から飛び出してきたミオが、私の膝にぽすんと収まる。
そして――ふと、小首を傾げた。
『ねえリィナ。あのね……あたし、水を通して、遠くの声が聞こえるの。隣の国にもね……寂しがってる水の子が、いるみたい』
私は、アルヴィスと顔を見合わせた。
「あなたの国に?」
「……心当たりがある。長らく涸れたと言われている、古い泉が」
『その子ね、ずっと泣いてるの。誰か、声を聞いてほしいって。リィナ、その子にも……会いに行ってあげて?』
ミオが、私の袖をきゅっと握った。
私は、そっとミオの頭を撫でた。
遠い異国の、まだ見ぬ井戸の底で。
誰にも声を聞かれず、独りで泣いている水の子。
(前世で洪水と渇水を相手にしてきた、ただの水道屋。その力が、この世界では――泣いている水の子を、癒すことができる)
私は立ち上がり、夕陽に染まる地平線を見つめた。
「アルヴィス将軍。参りましょう。次の"寂しがりの水源"のところへ」
「喜んで。……その前に一つ。あなたを"リィナ殿"と呼んでも?」
私は、水の女神に捧げるより、ずっと自然な笑みで頷いた。
「ええ。どうぞ」
『えへへ、二人ともなかよし! 井戸の水も、うれしそうにきらきら跳ねてるよー!』
ミオが二人の間で、けらけらと笑う。
井戸の水が、うれしそうに、きらきらと跳ねた。
――涸れ井戸村の物語は、ここに幕を閉じる。
だが、水の旅は。
まだ、始まったばかり。




