第五十八話 風が届けた景色
ヒカリ荘の廊下に、そっと風が吹いた。
窓も開けていないのに、カーテンがゆらゆら揺れる。
「来たわね」とルナがつぶやく。
「誰が?」とミラが顔を出した、その瞬間――
「やぁ、いい風、吹いてる?」
どこからともなく、長いマフラーをなびかせた青年が立っていた。
風だった。
気まぐれで、どこから来たのか誰にもわからない。けれど、ふいに現れて、ヒカリ荘に“空気”を変えていく。
「相変わらず、現れ方が物理法則を無視してるわね」とルナ。
「ボクは“気流”そのものだからね。ドアも壁も関係ないんだよ」
ミラが興味津々で聞く。
「今日は、なにを運んできたの?」
風は、ポケットから何も取り出さず、ただ目を閉じて言った。
「遠くの草原の匂い。アスファルトの上に咲いた、小さな花の記憶。あと、港町で鳴ってた古い風鈴の音」
「それ、どうやって持ってきたの……?」とミラが首をかしげた。
「風ってのはね、思い出と未来のあいだを通るんだよ。そこに漂ってるものを、ちょっとだけ借りてきただけさ」
ルナが、静かに微笑む。
「いつも通り、詩的すぎて意味があるのかないのかわからないわ」
「意味っていうより、“感じて”ほしいんだよね」
ミラは目を閉じて、鼻をすんと鳴らした。
「……ほんとだ。草のにおいがする」
「風は嘘つかないからね」
しばらくの沈黙のあと、風はまたふっと、空気の中へ溶け込んでいった。
ミラがつぶやく。
「……あの人って、どこにでもいて、どこにもいないんだね」
ルナが、紅茶を一口。
「風って、そういうものよ。留まらないからこそ、美しいの」
そのあとしばらく、ヒカリ荘のカーテンは、ゆっくり揺れていた。




