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第35話 あれから

 それから時間が経ち、秋も終わりにさしかかろうとしている頃。

 じいちゃんの家で、僕はうずくまっていた。

 

 美紗ちゃんがいなくなってから、何もかもが色褪せて見える。

 カレンダーも九月の葡萄の写真のまま、めくられることなく埃を被っていた。


 ガラスの欠片が散らばった作業台も、冷たい窓ガラスも、すべてが遠い世界のもののようだ。

 僕は工房の奥の小さな部屋で、ただ布団にくるまり、昼も夜もわからないまま目を閉じていた。


 食事も、もう何日も口にしていない。

 ガラスを吹くことも、火を入れることも、何もできない。

 ただ、天井の木枠をぼんやりと眺めては、美紗ちゃんの声や笑顔を思い出しては、また眠りに逃げ込む。


 夢の中でさえ、美紗ちゃんは遠く、手を伸ばしても届かない。


 夢の中で僕は、秋の温泉街を歩いていた。空はどこまでも透き通るように青く、紅葉が風に舞い、石畳の道を鮮やかに染めていた。遠くからは祭りの太鼓の音が微かに響いてくる。


 その道の先に、美紗ちゃんが立っている。白いワンピースを着て、柔らかく微笑んでいる。彼女の髪が風に揺れ、陽の光を受けてきらきらと輝いて見えた。


「美紗ちゃん!」

 僕は思わず駆け寄ろうとする。けれど、どうしても距離が縮まらない。

 足元の落ち葉を踏みしめて走っても、彼女はほんの数歩先にいるまま、どれだけ手を伸ばしても指先が届かない。


 そのとき、美紗ちゃんの姿が金色の光に包まれ、ゆらりと浮かび上がる。

 彼女の背後から、長い髪を螺旋状に渦巻かせた女神が現れた。

 その姿は、ミュシャが描く「黄道十二宮」の女性のようだった。


「待って、美紗ちゃん!」


 必死に叫ぶのに、彼女の口元がかすかに動くだけで、声は風にさらわれてしまう。

 美紗ちゃんは優しく笑いながら、ゆっくりと手を伸ばしてくれる。

 でも、その手はまるでガラスの壁越しにあるようで、僕の手は空を切るだけだった。


 僕が駆け寄ろうとする足元から、ヒナゲシの花が無数に湧き出した。赤い花弁が空を覆い、女神の周りに円環の模様が広がる。美紗ちゃんは女神に手を引かれ、ゆっくりと離れていく。


 女神の腕には、チェコの菩提樹の葉を模したブローチが輝いていた。ミュシャが故郷への想いを込めたというハート形の葉だ。


「どうして……」


 僕の声はかすれ、胸が苦しくなる。美紗ちゃんの姿は少しずつ霞む。

 僕は必死に手を伸ばすが、女神の周りを巡る星座の輪が壁のように立ちはだかる。


「彼女はもう、行くのです」


 女神の声が、頭の中に直接響いた。

 美紗ちゃんの姿はエメラルド色の光に変わり、女神の衣装の模様と同化していく。

 美紗ちゃんの足元からはツタが這い上がって体に巻きついていく。


「またね」


 ――美紗ちゃんの声だけが、遠く、柔らかく響いた。


 目が覚めると、頬には涙の跡が残っていた。

 夢の中でさえ、美紗ちゃんは遠くて、どんなに手を伸ばしても、もう二度と届かないのだと痛感した。


 窓の外から風が入り、部屋に貼っていたミュシャ展のポスターが風に揺れて落ちた。

 その喪失感は、目覚めた現実よりもなお鮮やかに、僕の胸に残った。



 そんな日々が続いたある日のことだった。


 工房の扉が、そっと軋んだ音を立てて開いた。

 じいちゃんだった。


 無口で、背中の丸いじいちゃんが、手に小さな包みを持って入ってきた。

 その包みからは、ほのかに味噌の香りが漂っていた。


「……ちょっとだけ、食ってみろ」


 じいちゃんはそう言って、僕の枕元に湯気の立つお椀を置いた。

 味噌汁だった。

 けれど、どこか懐かしい、今どきの料理とは違う素朴な香りがした。


「温泉街の魚屋が今朝くれたワカサギが入ってる。それと、八百屋の婆さんがくれた里芋と大根。山の方の連中が持ってきたキノコもな。……まあ、いつもの味噌汁だ」


 じいちゃんは、僕が何も言わないのを気にする様子もなく、さらに小さな皿をいくつか取り出した。


「これは、温泉卵だ。湯の花の湯で作ったやつ。こっちは、山の芋をすって、醤油をちょっとかけた。……ああ、それと、近所の人がくれた漬物もある。大根と胡瓜のぬか漬けだ」


 湯気が立ちのぼる味噌汁の表面には、ワカサギの小さな身が浮かんでいた。

 里芋はとろりと煮崩れ、キノコの香りが鼻をくすぐる。


 温泉卵は、白身がとろりと半透明で、箸で割れば黄身がゆっくりと流れ出す。

 すった山芋は、粘り気が強くて、醤油の香りと混ざり合う。


 漬物は、塩気がやさしく、ぬかの香りがふんわりと鼻に抜けた。

 お粥に合わせたら美味いだろうな、と思った。


「みんな、祭りの残り物やら、余った野菜やら、持ってきてくれるんだ。……昔から、こういうのは分け合うもんだ」


 じいちゃんは、僕の返事を待たずに、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。

 僕は布団の中で、じいちゃんの手料理の湯気を見つめていた。

 食欲はなかった。


 それでも、味噌汁の香りだけが、遠い記憶のどこかを優しくくすぐった。


「まだ食えんか」

 じいちゃんはぽつりと言った。


「……そろそろ何か食べてみろ。俺は出てるから」


 僕は何も言えなかった。

 ただ、じいちゃんが器用ではないなりに静かに僕のそばにいてくれることだけが、 ほんの少しだけ、夜の底に灯る小さな明かりのように感じられた。


 じいちゃんの料理は、どれも今どきの華やかなものではなかった。

 けれど、温泉街の人たちが分けてくれた食材で作られた、素朴であたたかい味がした。

 僕は布団の中で、涙がこぼれそうになるのをぐっとこらえた。



 次の日もじいちゃんは様子を見に来た。


 何も言わずに窓を開け、冷たい空気を部屋に流し込む。

 かと思えば、

「東一局から教えてやる」

 と、信じられないことを言い出した。


 気持ちもなにも追いつかないまま。じいちゃんは、床に緑色の絨毯を敷き、牌を並べ始める。

 布団のなかからそれを、ぼうっと見ていた。「発」の牌が光に照らされた時、僕の頬を、初めて涙が伝った。なぜかはわからない。

 すごくすごく、美しいと感じた。


 じいちゃんは何も言わず、ただ牌を洗っていた。

 目を瞑ると、その音が、美紗ちゃんと一緒に祭りで食べた焼きそばのプラのパック容器が擦れる音に似ているような気がして。脳裏に美紗ちゃんの姿が浮かんで。


 僕は、布団の奥で震える手を握りしめた。


 じいちゃんは何も言わず、ただ静かに、僕のそばに座り続けてくれた。


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