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第33話 約束の日

 あれから1週間後、御旅所から御本社へと神輿が戻る日。

 温泉街は朝からざわめきに包まれていた。


 僕は神輿の巡行を待ちながら、スマートフォンの画面を何度も見つめていた。


 美紗ちゃんとのメッセージ履歴には、一週間前の「絶対来るからね」という言葉が残っている。指先でその文字をなぞると、胸の奥に鈍い痛みが走った。


 もしかして、また約束を破られるんじゃないか……。


 祭りの喧噪が耳元で騒ぐ。

 露店の灯りが夕闇に浮かび、子どもたちの笑い声が風に乗ってくる。


 でも僕の体は、冷たい石段に張り付いたまま動かない。過去に何度も味わった失望が、喉の奥に澱のように溜まっていた。中学の時、修学旅行の約束を破られたあの日。高校でサークルの仲間に誘われたのに、結局誰も来なかったあの夕暮れ。


「……でも、美紗ちゃんは違う」


 ふと、川辺で紅葉を見上げた彼女の横顔を思い出す。薬のケースを握りしめながら「来週も絶対来る」と言った声の震え。あの時、彼女は本気で約束を守ろうとしていた。


 信じるのは怖い。

 でも――。


 神輿の担ぎ手たちの掛け声が近づいてきた。僕は立ち上がり、握りしめた手のひらの汗をズボンで拭う。


「騙されたって、いい。今は……彼女を信じたい」


 風が頬を撫で、落ち葉が僕の足元を舞った。

 僕は、1週間前の約束通り、神社の石段の下で美紗ちゃんを待っていた。


 夏の終わりを告げる風が、箱根の山々を吹き抜けていた。

 祭りの喧騒が遠くから聞こえてくる。参道には今日もたくさんの屋台が並び、焼きそばの香りや飴細工の甘い匂いが風に乗って流れてくる。


 子どもたちのはしゃぐ声、神輿の担ぎ手たちの威勢のいい掛け声、太鼓や笛の音――すべてが、色鮮やかな秋の一日を最高に彩っていた。


 約束の時間から、四十分が経った。

 手の中のスマートフォンがやけに重く感じる。画面は美紗ちゃんとのトーク画面。さっき送った「大丈夫?」のメッセージは、まだ既読にならない。画面を閉じてはまた開き、時刻を確認しては、ため息をつく。


 その繰り返し。指先がじっとりと汗ばんでいるのがわかる。


 参道を行き交う人々の顔を、僕は何度も探した。

 浴衣姿の子どもたちが、金魚すくいの袋を嬉しそうに揺らしている。屋台の灯りが、薄暗くなった空にぼんやりと浮かんでいた。


 神輿の担ぎ手たちが威勢よく声を張り上げ、太鼓が腹の底に響く。そんな中で、僕はひとり、石段に取り残されていた。


 僕は何度もスマートフォンの画面を見た。メッセージは既読にならない。もしかしたら、体調が悪くなったのかもしれない。


 ――そう思いながらも、どこかで「また裏切られたのかもしれない」という思いが頭をよぎる。でも、すぐにその考えを振り払った。美紗ちゃんは、そんな子じゃない。先週、あんなに強い目で「絶対来る」と言っていた。あの言葉に嘘はなかったはずだ。


 一時間が経った。夕暮れが近づき、空が茜色に染まり始める。神輿が本社へと戻る時間が迫っていた。僕はもう一度だけ石段を見上げてから、その場に座った。


 何時間経っただろう。空はすっかり群青色に変わり、露店の灯りがより鮮やかに浮かび上がる。


 人波に紛れて、何度も美紗ちゃんの姿を探した。けれど、どこにもいなかった。

 探しても、この世界のどこにもいない気がした。


 冷たい風が頬を撫でていく。僕は、スマートフォンをぎゅっと握りしめて立ち上がり、静かにその場を去った。涙が、頬を伝って止まらなかった。



 美紗ちゃんは来なかった。



 家に帰ると、じいちゃんもまだ祭りに出かけていて、工房には誰もいなかった。


 僕は作業台の椅子に腰掛け、窓を少しだけ開けて外の音に耳を澄ませる。

 遠くで、神輿の掛け声と太鼓の音が響いている。

 普段なら、祭りの音はどこか心を浮き立たせるもの。1週間前の今日だって、そうだった。でも今は違う。

 胸の奥が締めつけられるように苦しかった。


 机の上には、先週美紗ちゃんと一緒に食べた飴細工のうさぎが、まだ残っていた。

「こういうの、昔から好きだったんだ」と微笑んだ彼女の顔が、ふいに脳裏に浮かぶ。


 僕は飴細工をそっと指先でなぞりながら、震える手でもう一度スマートフォンを手に取った。


「どうしたの?」

 送信ボタンを押す指が震える。しばらく待っても、既読はつかない。僕は思い切って電話をかけた。


 コール音が何度も響く。切ろうか。もう出ないってことは、ここで切ったって同じだ。

 そう思って切るボタンに指を置こうとしたとき、誰かが電話に出た。


「はい……美紗の母です」


 母?

 聞き慣れない、でもどこか美紗ちゃんに似た優しい声だった。


「あの、僕、美紗ちゃんの友達でガラス工房の……」

 言いかけたところで、電話の向こうから嗚咽が漏れた。


「ごめんなさい……美紗、今、病院にいるの。急に容体が悪くなって……今朝から意識が……」

 言葉が詰まり、しばらく沈黙が続いた。


「ごめんなさい……もう、あまり……」


 頭の中が真っ白になった。


 美紗ちゃんが?


「どこの病院ですか!」

 思わず叫ぶように尋ねていた。


「箱根中央山野病院です……受け入れがここしかできないって、受け入れ先もなかなか見つからなくなって」


 調べる。美紗ちゃんと今まで会っていた病院とは違った。山のほうの病院だった。

 それだけを聞き終えると、僕はスマートフォンを握りしめて玄関を飛び出した。


 絶望なんかしていられない。

 病んでなんかいられない。

 美紗ちゃんが、僕を待っているかもしれない。


 町はまだ祭りの熱気に包まれていた。神輿が町を練り歩き、観光客や地元の人たちが笑い合っている。その中を、僕はただひたすら走った。秋の風が頬を打ち、息が苦しいほど胸が締めつけられる。


「美紗ちゃん……!」


 名前を何度も心の中で叫びながら、僕は石畳の坂道を駆け上がった。


 箱根中央病院の明かりが見えたとき、僕の足はもう限界だった。でも、止まるわけにはいかなかった。受付で美紗ちゃんの名前を告げると、看護師さんが静かに首を振った。


 僕は病室へと走った。

 廊下の先、扉の前で美紗ちゃんの母親が泣き崩れていた。


「美紗ちゃん……!」


 扉を開けると、そこには静かな空気が流れていた。ベッドの上には、美紗ちゃんが、まるで眠っているかのように横たわっていた。

 彼女の頬は少しだけ紅潮していて、唇には微かな笑みが残っていた。


「間に合わなかった……お祭りで、救急車もなかなか道を進めなくて……」


 美紗ちゃんの母親が、震える声でそう告げた。


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