第31話 スケッチブックに描かれたものは
その日、病室の午後の光は、いつもより柔らかかった。
窓辺に吊るされたガラスのサンキャッチャーが、白い壁に淡い虹色の光を落としている。
美紗ちゃんはベッドの上で膝を抱え、膝小僧の上にスケッチブックを載せていた。
僕は椅子を引き寄せて、彼女の横顔をそっと見つめる。白い肌と高い鼻筋、長い睫毛の下に薄く影が落ちている。
「ねえ」と美紗ちゃんが口を開いた。
「最初に言ったでしょ、私、海から来たって。あれ、本当の意味は違うの」
僕は思わず息をのんだ。
「……どういう意味?」
「じゃん!」
美紗ちゃんは、スケッチブックを出して僕に見せた。
「これに描いたの。今日はお話を聞いて欲しくて」
「紙芝居?」
「あ、絵本のつもりだった。 いや、サイズ的には紙芝居か? ま、どっちでもいっか。頑張って描いたの。見てくれる?」
僕はもちろん頷いた。
美紗ちゃんは窓の外、箱根の山並みに一度目をやって、そしてゆっくりと話し始めた。
スケッチブックには、カラフルな外国の街並みが描かれている。
「私、ノルウェーのオーレスンっていう港町で生まれたの」
「そこ、行きたいけど行けないって言ってた……」
「そう。オーレスンってね、アール・ヌーヴォー建築がたくさんある、すごく可愛い街。お父さんと、お母さんはそこで出会ったんだって」
彼女の声はどこか遠くを見つめているようだった。
病室の窓から差し込む光が、美紗ちゃんの青緑色の瞳を透明なガラスのように輝かせた。
「オーレスンはね、海に浮かぶ宝石箱みたいな街なの」
「宝石箱?」
彼女はスケッチブックのページを一枚めくり、カラフルな宝石箱の絵を見せる。
「100年前の大火事でこの町が焼け野原になった後、建築家たちがアール・ヌーヴォーのデザインで再建されたの。だから、お家のほぼ全部がアール・ヌーヴォー調。建物の上の方には数字があって、それはその建物が再建された年なんだって。おしゃれだよね」
そして、また別の家が立ち並ぶ絵のページを見せる。
スケッチには港に映える建物の数々が細かく描かれていた。
「パステルブルーとかサーモンピンクとか……色が全部ポップだね。たしかに、これは宝石箱だ。アール・ヌーヴォーって言ってもいろんなデザインがあるんだな。港町なんだったら、海にも空にも映えそう」
「そうでしょ? 昔、父が撮った動画で見たんだけど、冬はフィヨルドに雪が積もって、建物の色が雪明かりに浮かび上がるんだって。私は小さい頃しかいなかったから覚えてないけど……潮風の匂いと、カモメの声はうっすら覚えてる気がするの」
「お父さんは長崎の港町出身で、大学時代に北欧に留学してた。就職はこっちでしたけど、ノルウェーが忘れられなくて、ゲーム会社で働いてたんだって」
「こんな可愛い町でゲーム会社とか、なんか楽しそうだね」
「ううん。オーレスンは仕事先とは離れてたんだって。でも、産んでくれたお母さんが気に入ったから、そこに住むことにしたらしい。きっと可愛いものが好きな人だったんだと思う」
美紗ちゃんはスケッチブックの端を指でなぞった。
「お母さんは、ラトビア人でね。リガが地元で……大学では美術史を専攻してたんだって。特にジャポニスムが専門、卒論をエミール・ガレで書いたんだって。それでガレのガラスとか、アール・ヌーヴォーの世界がすごく好きだったみたい。私ね、お母さんが『いい』と思ったものを知りたくて、色々勉強するようになったんだ」
夢中で話す美紗ちゃんは、なにかを焦っているようにも見えて。
僕は美紗ちゃんの目をじっと見る。
「目、綺麗な色だよね」
「へへ。なかなかいないよね。お母さんの写真を見るとね、もっとはっきりしたブルーだったみたい。あっちの人って、背も高いでしょ? ラトビアは、女の人も170cmくらいが平均なんだって。なのに、私は162m。日本人のお父さんとラトビア人のお母さんのハイブリッドだから、きっと中途半端なの」
彼女は自嘲気味に笑い、スケッチブックをぱたりと閉じた。
美紗ちゃんはベッドサイドのテーブルに置かれたエミール・ガレの図録を手に取った。ページをめくると、次々とガレの作品が流れていく。
「……お母さんが好きだった理由、最近やっと分かる気がする。私も、ガラスとか、ミュシャとか、アール・ヌーヴォーに惹かれるのは、きっと血が繋がってるからなんだろうなって」
「お母さんは大学時代、美術史ゼミでガレを研究してたんだって。ジャポニスムを取り入れた初めての西洋ガラス作家だって」
僕は、彼女の横顔をじっと見つめた。
「……それで、日本に?」
「うん。お母さんは私が小学生に上がる前に亡くなった。車の事故だったんだって。そのあと父と私は日本に戻って、小学校に上がって。父は学芸員になった。再婚したお母さんの地元が箱根で、ここで暮らすことになったみたい。小さい頃しかなかったから、この見た目でも私、日本語しか喋れないの」
美紗ちゃんは少しだけ微笑んだ。
「その、オルゴールが思い出っていうのは……」
「亡くなっちゃった方のお母さん。ベツレヘムの星――あ、こっちだと、“星に願いを”って」
僕は、美紗ちゃんが初めて工房に訪れたときオルゴールの音を聞いて、「ベツレヘムの星」と言った意味が、やっとわかった。
「向こうだとクリスマスの時期によく聞いてた記憶があるの。でもそれが大好きで。年中、オルゴールで聞いてたわけだけど」
「今のお母さんは、私が病気になってから、ずっと私のために頑張ってくれてる。本当のお母さんを知りたいって思うようになったのは、自分のため。エゴだと思う。でも、どうしてもお母さんの生まれたラトビアに行ってみたくって。今のお母さんに、お願いしたんだ。初めてした二人だけの旅行。――でも、それをさせてくれる環境じゃなきゃ、きっとできなかった。だから、育ててくれた今のお母さんには、私すごく感謝してるの」
窓の外から、遠く祭りの太鼓の音が微かに聞こえてきた。
美紗ちゃんはサンキャッチャーの光を指先で追いながら、静かに言った。
「病気になって――残りの人生の時間を考えるようになって。自分のことを大事にしたくなって。ルーツをちゃんと知りたいと思うようになったの」
彼女は、終わりを意識して生きてるんだ。
そう思うと、胸がきゅっとなった。
「でも、それは今のお母さんを否定したいからじゃない。でも、うまく伝えられない。傷つけたくないから」
スケッチブックに残されていたもの。
それは、彼女の好きなものというより、アイデンティティそのものだったんだ。
彼女はそれを探す旅をしていたのだ。
ふと僕は気がついた。
「もしかして、じいちゃんの工房に来たのは……」
「もちろん、偶然じゃないよ。東洋のガレと呼ばれるお祖父様が、パリの展覧会にガラス作品を出していたのを、私の母は何度も訪れていたみたい。母のことを知っている人と、会ってみたかった。――それで、ガレが日本文化から影響を受けたように、私もガレを通じて母のルーツを探りたかった」
僕はそっと、美紗ちゃんの手の甲に自分の手を重ねた。
「……ありがとう、話してくれて。また工房にも遊びに来て。じいちゃんも、会いたがってるから」
「うん。退院して、行くね」と美紗ちゃんは小さくうなずき、スケッチブックのページを静かに閉じた。
「え、待って。退院?」
「うん! いいって」
「本当に?!」
僕は、思ったより大きな声が出てしまったことに自分で驚いた。
「大袈裟だって」
「だって! おめでとう! よかった、本当に……!」
「だから、工房にも行けるのだ」
ピースサインを見せてくる。
「あ、それなら、工房もいいんだけど――」
「なに?」
「九月の終わりに、祭りがあるんだって。……その、もし良ければだけど、僕と一緒に行ってくれませんか」
「はい。喜んで」
窓辺の虹色の光が、ふたりの手の上にそっと降り注いでいた。
工房に戻った僕は、深呼吸を繰り返していた。
――勇気を出さなきゃ。
「本当に、やんのか?」
じいちゃんが、工房の片隅で僕に尋ねた。
「うん……」
僕は通信制の学校のパンフレットを手に、ページをめくっていた。
「オンラインで体験入学ができるんだ」
声が震えた。
「知らない人ばっかりだし、不安だけど……」
美紗ちゃんの「夢を持ってるだけで強くなれる気がする」という言葉が、何度も頭の中で響いた。
「僕も、もう一度だけ頑張ってみようかなって」
そう呟くと、じいちゃんは何も言わず、背中を軽く叩いてくれた。




