第30話 夢
体調が良くなってきたと聞き、僕は今日も病院に会いに行ってきた。
美紗ちゃんはベッドの上で膝を抱え、窓の外の青い空を眺めていた。
僕は椅子に座り、彼女がスケッチブックをめくる音を聞いていた。
「ねえ、もし元気になったら、またラトビアに行きたい?」
僕は聞いた。
美紗ちゃんがふいに言った。
「うん。前に見せたリガの街、覚えてる? アルベルト通りのアール・ヌーヴォー建築。
壁一面に蔦のレリーフが絡まってて、窓枠が植物の茎みたいに曲線を描いてて……朝の光が差し込むときなんて、自分も芸術のなかにいるような気持ちに装飾がなるの」
彼女はスケッチブックの一枚を開く。そこには淡い水彩で描かれた、ラトビアの街並みがあった。
「もう一度、あの石畳を歩いて、カフェのテラスで蜂蜜ケーキを食べて。隣の国のエストニアまで足を伸ばして、そこの美術館もゆっくり眺めたい。知ってる? すごくハイテクな国なんだって」
僕は首を横に振った。
「あの街の空気を、今度はもっと深く吸い込みたいんだ」
僕はその絵を覗き込みながら、
「美紗ちゃんなら、きっとまた行けるよ」と言った。
彼女は少し考えたあと、「でもね、本当はもっと行ってみたいところがあるの。多分、無理だけど」と言って「オーレスンって知ってる? ノルウェーにあるの」と僕を見た。
「初めて聞いた。ノルウェーって北欧だよね。ラトビアとも近いんじゃないの?」と聞くと、「そうかも。でも前に調べたらリガからも8時間かかるって」とすぐ答えた。
「遠くない?」
「では、ここで問題です。日本からだとどのくらいかかるでしょう?」
「えっと、想像もつかないけど……10時間以上?」
「22時間」
「丸一日か。でも、どうしてどこに行きたいの?」
「どうしても。……でも、行けない」
なにか悲しい覚悟を決めているかのような言いぶりだった。なんだか、それが彼女らしくないと思った。
「どうして? 行きたいなら、行けるよ。行こうよ」
「行っちゃだめなの。行きたいって“言う”のも、きっと――ううん、“思っちゃ“ダメ」
そういう彼女の横顔はどこか切なそうで。言葉は、どこか意味深だった。
美紗ちゃんはその空気を変えるかのように少しだけ微笑んで、
「それとね、もし体調がよくなったら、美術大学に行きたいの」
と続けた。
「本当は、もっと絵を描いたり、それこそガラスも使ってみたりして……いろんな素材で自分の世界を表現してみたいの。だから、美大に入って、本気でアートを学んでみたい」
彼女はスケッチブックの端を指でなぞりながら、
「今はまだ夢だけどね。夢があるだけで、わくわくするんだ」
と、静かに言った。
僕は、さっきの彼女の憂いを帯びた横顔を忘れずにいる。
でも、きっと彼女が話したいときにそれは話してくれるような気がしたから、詮索はしなかった。
窓から差し込む光が、スケッチブックの水彩画を照らしていた。
その色彩が病室の白い壁をやわらかく染めていた。
その日の夜。
自分の部屋で、美紗ちゃんが「元気になったら美術大学に行きたい」と、
まっすぐな目で夢を語るのを思い返していた。
親から届いた学校案内の封筒は、しばらく机の隅に置いたままにしていた。
「美紗ちゃんは、あんなに体が不自由ななか頑張ってるのに……」
僕は工房に戻ると、無意識にあの封筒を手に取っていた。
パンフレットをめくる指先が、少しだけ震える。
親の気持ちなんて、どうせ分かるわけない――
そんなひねくれた思いが、ずっと心の奥にあった。
僕は、ただ黙ってパンフレットをめくり続けた。
通信制の学校の写真。
オンライン授業の様子。
「美紗ちゃんは、夢に向かって歩いてる。それなのに、僕は……?」
ページをめくるたび、胸の奥に小さな焦りと、それでもどこか温かいものが生まれていく。
じいちゃんは何も言わず、ただ僕の背中をそっと見守っていた。




