第27話 信じる勇気
病院の廊下は、午後の陽光で明るく照らされていた。
僕は手に持ったガラスの花束を何度も確認しながら、303号室の前で立ち止まる。
「本当に会いに行っていいのだろうか」
不安と期待が入り混じる。
だって。もしかしたら、会いたくなくて三日目来なかったのかもしれない。その事情を間に受けて、まさか来るとは思っていないかもしれない。
ドアの前で深呼吸をした。
「信じることは、勇気がいる」
そう自分に言い聞かせる。
裏切られるかもしれない。
嫌な顔をされるかもしれない。
なんで来たの? と驚いた顔をされるかもしれない。
驚くだけならまだいい、嫌悪される表情の可能性も。
でも――信じなければ何も始まらない。
ノックをする手が、震える。
あぁ、こわい。
「どうぞ」
中から女性の声がした。美紗ちゃんの声ではない。
ドアを開けると、窓際のベッドに美紗ちゃんは座っていた。
首元のスカーフは、今日は淡いピンク色。
そして彼女の両側には、初めて見る男性と女性が立っていた。
「あ...」
言葉が詰まる。
美紗ちゃんは微笑みながら言った。
「来てくれたんだね。ありがとう」
「こちらが、工房で教えてくれた人?」
立っていた女性——おそらく美紗ちゃんの母親だろう——が僕に向かって一歩進み出た。
四十代半ばくらいだろうか。
ただ、僕は少し驚いた。二人とも、見るからに日本人だった。母親は小柄で控えめな雰囲気、父親も小柄で、真面目そうな顔立ち。正直、どこにでもいそうな人という印象だった。
美紗ちゃんの白い肌や高い鼻、すらりとした体つきは、両親とはまるで違って見えた。
「いつも娘がお世話になっています」
深々と頭を下げる姿に、僕は慌てて花束を抱えたまま頭を下げ返した。
「い、いえ、こちらこそ...」
緊張で声が上ずる。
「そちらは? ずいぶん立派な花束ですね」
今度は男性——きっとこちらは美紗ちゃんの父親だろう——が静かな声で言った。
温厚そうな表情の中に、どこか鋭い観察力を感じる目。
「まさか……これ、全部ガラスなんですか?」
「は、はい。工房で少しずつ作って...」
「うそ。全部手作りなんですって」
ガラスの花束が午後の光を受けて、
青と紫の輝きを放った。
「わぁ」
美紗ちゃんの目が大きく見開かれ、しばらく言葉が出ないようだった。
「これ、全部ガラスなの?」
「うん。作ったんだ」
「勿忘草、私の好きな花」
彼女がそっと花束を持ち上げると、
ガラスのリボンが光を反射して、彼女の頬に小さな虹を描いた。
「スケッチブックに描いてあったから」
「うん……」
美紗ちゃんの目に、うっすらと涙が浮かんでいる。
「これ、永遠に枯れないよ。ガラスだから」
「ありがとう。こんな素敵なプレゼント、初めて」
彼女は花束を胸に抱き、窓の光にかざした。
花びらを通した光が、彼女の顔に青い影を落とす。
「いったい、どうやってつくるんですか?」
「はい。一枚一枚の花びらを、時間をかけて――」
母親はそっと花束に触れ、感嘆の声を上げた。
「まるで本物の花みたい。こんなに繊細なものが作れるなんて」
「祖父がガラスの職人をしていて、教わったんです」
僕は少し落ち着きを取り戻した。
美紗ちゃんのお父さんが「なんだか、どこかガレのようだ」と言って、僕は驚いて顔を上げた。
「父は、学芸員なの」
美紗ちゃんが説明する。
「だから私もアートが好きになったんだ」
それはどこか、自分を言い聞かせるような言い方だった。
「娘から、あなたの作ったガラスを見せてもらいました」
母親が優しく微笑む。
「あの作品のおかげで、美紗の表情が明るくなったんです」
「そんな、大したものじゃ」
言葉に詰まる僕に、美紗ちゃんの父親が静かに言った。
「芸術は人の心を救うことがある。あなたは娘にとって、大切な存在です」
病室の空気が、急に温かくなったように感じた。
美紗ちゃんの両親の目には、警戒ではなく、感謝の色が浮かんでいる。
僕が想像していた「厳しい両親」とは違う姿があった。
病室のカーテンの隙間から、淡い光が差し込んでいる。
そのとき、ベッドの脇の壁に美紗ちゃんが持っていた「音楽」のポスターが一枚、丁寧にテープで貼られていたことに気がついた。
ミュシャの女性像だけが優雅な曲線と花々をまとい、静かに美紗を見守っているようだ。
美紗ちゃんはベッドの上で、時折そのポスターをじっと見つめていた。
「へへ。ここに貼った」と微笑む美紗ちゃんの顔が、ポスターの女性と重なって見えた。
「ありがとう。本当に――ありがとう」
好きなものを、信じたいものを信じる勇気。
それは自分自身を信じる勇気でもあった。
美紗ちゃんの言葉に、僕は素直に頷いた。
窓から差し込む光が、ガラスの花束に反射してきらきらと輝いていた。




