第16話 美紗ちゃんは人魚?
言葉は選んだ。でも、なんて質問だろう、と思った。
というか、こんなこと別に今聞かなくても、いいじゃないか。
黒田さんは意外と落ち着いた様子だった。
「いや、美紗の家はがっつり山のほうですね。母親の実家がそこなんですよ。緑が深くて、朝は鳥の声がよく聞こえるような」と答えて、「では」と言い静かに工房を後にした。
けどすぐに戻ってきた、「そうだ。大事なことを言い忘れてました」と戻ってきて言った。
何かと思って、身構える。
「安心してください。恋人関係とかじゃないです。私は結婚してますから」と彼は薬指の指輪を見せた。
僕は顔が赤くなるのがわかって、「あ、あぁ、そうですか」なんてしどろもどろに答えるほかなかった。
工房を出るや否や、仕事の電話らしきものに対応していた。忙しいなか来てくれたのだろう。
美紗ちゃん想いのマネージャーなのだとわかり、ほっとした。
体験の人たちの視線を感じながらも、僕はその後また体験の補佐に徹した。
体験の時間が終わって、工房の隅に寄せていた美紗ちゃんの作品の破片を数えていると、じいちゃんがそっと僕の肩を叩いた。
「壊れたものは、新しい形に生まれ変われる」
涙が滲みそうになったけれど、僕はガラスの破片を一つずつ拾い数え続けた。
そして、美紗ちゃんの残したスケッチブックを開く。
スケッチブックに残されていたもの。
それは、海、海外の街並み、そして勿忘草のスケッチ。
きっと彼女の好きなものなのだろう。
彼女の思いと、僕の思いと、すべてを込めて。
もう一度、あの青いガラスを作り直そうと心に決めた。
工房の床に散らばっていた青い破片は、無数の星屑のようにきらめいていた
。僕はひざまずき、指先で一片を拾い上げた。その時、鋭い縁が皮膚に食い込み、血のしずくが床に落ちた。
「これ使え」
じいちゃんが金属製のピンセットを差し出した。その手には、同じように無数の細かい傷が刻まれていた。
窓の外で蝉時雨が突然高鳴った。
「色ごとに分けるんだな」
僕は破片を分類し始めた。
深蒼色はあの日彼女が暮らしているのかもしれない海の深い方の色。水色は、純粋無垢そうに微笑む爽やかな笑顔。そして、透明な欠片は――壊れる直前まで抱いていた信頼の形。
「こっちの破片に模様が入ってるぞ」
じいちゃんが照明にかざした破片に、うっすらと模様が入っていた。拡大鏡でのぞくと、この螺旋状の紋様は、美紗ちゃんがつけていたものだ。
「あの子のこだわりだな」
じいちゃんは満足そうに呟いた。
夜更け、作業台の明かりだけが燈る中、僕はスケッチブックの白いページにデザインを描きなぐった。
でも、納得いかない。
あれも違う、これも違う。
そもそも、ここの破片が見つからないのだからどうしようもないじゃないかという部分もあった。
うまく考えがまとまらなくて、苛立つ。
「お前な」じいちゃんが突然背中に声をかけた。「最初から完璧に接しようと思うんじゃない。適度な隙間が、こうやって光を通すから」
そう言ってじいちゃんは、ガラスを光に当てた。
ガラスの破片と破片の隙間から一筋の光が差し込んだ。
壊れたガラスのグラスを紙袋に入れ、僕は温泉街のはずれにある陶芸工房へ向かっていた。じいちゃんに「話はしてあるから、一人で行ってこい」と背中を押されたものの、知らない場所に一人で行くのは正直気が重かった。
工房の主というくらいだから、偏屈な年配の職人だろうか。
ぶっきらぼうにあしらわれたらどうしよう――そんな不安が胸の奥で渦巻いていた。
工房の扉を開けると、そこには僕の予想を裏切る人物がいた。
白いシャツにエプロン、メガネをかけた今風の若い男性。
優しげな笑みを浮かべ、手を止めてこちらを見た。
「こんにちは。君が、乙津さんのお孫さんだね?」
「あ、はい……」
ぎこちなく返事をすると、彼はにこやかにうなずいた。
「僕は平倉優介です。数年前からここの陶芸工房の責任者をやっています」
年齢は30代半ばほどに見えた。まだ若いのに、責任者。
そう思うと、クリエイティブに対してすごく厳しい人なのではという気がして途端に体が強張った。
「もともと小学校で美術教師をしてたんだけど、今は実家のこの陶芸工房を継いだんだ。君のおじいさんには、親が昔から本当にお世話になっててね。あの人はすごい人だよ。職人としても、人としても」
その言葉に少し緊張がほぐれた。
「教師……だったんですか」
「うん。ずっと教師になりたかったんだけどね。いざなってみたら思ったよりうまくいかなくてね。子どもたちに何かを伝えるのって、難しいんだなって痛感したよ。毎日朝早く起きて準備することもね」
彼は少し照れたように笑った。その素直さに、僕も自然と心の扉を少し開くことができた。
「今日は、どんな修理を希望?」
壊れたものを繋ぎ直すのは、初めてだった。
僕はグラスを取り出し、一部の破片が見つからず、口が大きく欠けていることを説明した。
「金継ぎで直すのが一般的だけど……それでいいかな?」と平倉さんは言ったが、僕は思い切って尋ねた。
「この青いガラスの色を涼しげに生かしたいんです。金だと少し華やかすぎるというか、イメージが違う気がして……もっと涼しげな仕上がりにできませんか?」
平倉さんは目を輝かせてうなずいた。
「いいね。実は、銀継ぎという方法もあるんだ。銀は金よりもクールな印象になるし、青いガラスと合わせると、すごく爽やかに仕上がる。銀粉にも種類があって、少し緑がかったものも選べるよ」
「それがいいです。ぜひお願いします」
早速、作業が始まった。
「こういうの、やったことはある?」と聞かれ、「したことないです。というか、割れたものを治すとか考えたこともなかったです」と言うと、「そうだよね」と平倉さんは嫌味なく頷いた。
僕は続けた。
「だって、壊れたんですよ。壊れたら、壊れるだけのことがあったんなら、もう別にいいかなって……」
「なにか意味深に話す子だね。色んなことがあったんだね」と平倉さんは、神妙な顔で僕を見た。
平倉さんがまず丁寧に手本を見せてくれて、その横で同じように真似をする。
まず、欠けた部分の断面を丁寧に磨き、漆で新しい口を形作る。
平倉さんは「この漆は乾くのに時間がかかるから、焦らずゆっくりやろう」と、僕の手元を優しく見守ってくれる。
漆が乾いたら、青いガラスに馴染むように、緑がかった銀粉を筆でそっと蒔いていく。
「力を入れすぎず、優しくね。銀粉は繊細だから。綿でなじませると、光沢が増すんだ」
平倉さんの言葉ひとつひとつに、作るものへの愛情を感じられた。
工房の奥には、修復された器やガラスが並び、それぞれに新しい命が吹き込まれているようだった。
作業の合間、平倉さんがぽつりとつぶやいた。
「僕もね、教師になった時は、もっと子どもたちと分かり合えると思ってた。でも現実はうまくいかなくて……今はこうして器を直してる方が、誰かの役に立ててる気がするんだ」
その言葉に、僕の心の中の何かが静かにほどけていくのを感じた。
「……壊れたものを直すのは怖いと思ってました。失敗したら、もう元に戻らないんじゃないかって。でも、それは違うのかもしれないって」
自然と口から出た自分の言葉に、少し驚いた。
「そうだよね。でも、壊れたからこそ、直した時に新しい価値が生まれる。金でも銀でも、直した痕は消えないけど、それがまた新しくその器の物語を作るんだよ」
平倉さんの指導のもと、グラスの修復は少しずつ進んでいった。
仕上げの日、銀で縁取られたグラスは、青いガラスと溶け合い、涼やかな光を放っていた。
「いい仕上がりだね」と平倉さんが微笑む。
「これなら、また新しい物語が始められるよ」
「最初とは、別物……だけど、いい感じです」
工房を出るとき、僕は心の中に小さな自信の灯がともった気がした。
壊れたグラスを抱えながら、僕はもう一度、何かを繋ぎ直す勇気を持てるかもしれない――そう思った。
帰ってそのグラスを見せると、じいちゃんが「名付けは?」と聞いた。
僕はスケッチブックの最終ページをめくった。彼女のことを頭に思い浮かべて、小さく『碧の軌跡』と追加した。
完成した『碧の軌跡』をテーブルに置き、僕はしばらくその青い輝きを見つめていた。
割れた破片を一つひとつ拾い集め、何度も指を切りながら、僕はあの夏の記憶をもう一度組み直した。
窓から差し込む夕陽が、ガラスの中に閉じ込めた夏の光をゆっくりと照らしていく。
それは、どこか儚く、それでいて確かに温かい光だった。
僕はスマホを手に取り、ガラスの写真を撮った。
青と透明の破片が幾何学模様に並ぶ。
それは、どの角度から見ても違う表情を見せてくれて、昼夜ずっと見ていても飽きないほどだった。




