第14話 昔から
工房の窓から差し込む夕陽が、未完成のガラス作品に赤い影を落としていた。僕はお客さんが吹き残した青い筒を掌で転がしながら、中学時代の修学旅行を思い出していた。
座席は自由で特に決まっていなくて、バスで隣の席が空いているけれど誰も「ここ空いてるよ」「座っていいよ」とは声をかけてくれなかった。あの瞬間、隣に座られたくないんだろうなと思っていた。
でも今思えば、自分から「座ってもいい?」と言えなかった自分も、よくなかったかもしれない。
小学校からの友達が中学で新しいグループに溶け込んでいって、自分だけが取り残された気がして。求められていない感じがして、そいつにも積極的に話しかけることができなくなった。
体育の授業でサッカーのチーム分けがあったときは、いつも一緒にいたやつが別のグループに入った。当然そいつとやると思っていたから僕は当てもなく、困惑した。
「ごめん、今日はこっちとやるわ」と軽く言われただけなのに、その瞬間、自分だけが取り残されたような気がしてしまった。
それから、休み時間も自分から距離を取るようになった。
給食やチームを組む授業、掃除、行事。他者と行うすべての時間。
みんなが当たり前にこなしていることが自分には苦痛で、だんだん「普通」に馴染めない自分を責めるようになった。
教室にいるのが苦しくて、しばらく保健室登校をしていた時期がある。
保健室で会う保険の先生や他の生徒とはたまに少し話せたけれど、教室に戻る勇気はなかなか出なかった。
クラスの友人たちが「大丈夫?」と声をかけてくれたのに、「平気」とだけ答えて、深く話すことを避けてしまった。
「嫌われたかも」と感じてから、実は相手も同じように気まずさを感じていたことを後で知ったが、その時は自分から一歩踏み出して話しかける勇気が出せなかった。
高校では、強い気持ちで生きてくんだって思って、隣の席ですぐ仲良くなった拓馬という親友もできて。
……僕は親友だと思っていたんだけどな。
でも、やっぱりまた関係は壊れて。
僕は人とうまくやっていける能力がないのかもしれない。
ほかのひとが当たり前にできる会話や、不快にさせない方法、そして関係を終わらせない方法を、僕は知らない。
この先の人生、ずっとこうなのかな、とも考える。
ずっと誰かと深い付き合いをすることなく生きていくことなら、できるかもしれないけれど――。
「おい、メールが来てるぞ」
完全に回想の世界に頭は飛んでいたから、じいちゃんの声に跳ね上がるほど驚いた。
パソコンの画面には見知らぬ差出人名が光っている。『先日、娘がお世話になりました』という件名を見た瞬間、胸の奥で氷の破片が軋む音がした。
『突然の連絡失礼いたします。先日娘がお世話になりました。娘は工房でとてもお世話になったと聞きました。彼女はバセドウ病を患っており、甲状腺クリーゼで緊急入院することとなり受け取りができておりません。引き取り期限がそう長くないと伺いましたが、まだ娘の作った作品はございますでしょうか? 恐れ入りますが、郵送のご対応等は可能でしょうか。予約名は美紗、体験日は9月20日です』
文字が滲んで見える。画面にへばりつく指先が冷たくなっていく。
文章の端々から、硝子の破片のような真実が突き刺さる。
スマホで検索した「甲状腺クリーゼ」という文字の隣に『致死率20-30%』の数字が踊る。画面に映った医学イラストの眼球突出した女性が、突然美紗ちゃんの顔と重なった。
あの日、工房でガラスを吹く彼女。首筋を隠すように巻いていたスカーフの意味。
動悸、頻脈。その症状を見てハッとする。
「美紗ちゃんの鼓動は……人より大きい」
かつて、美紗ちゃんが言っていたことだ。
あれは、そういう意味だったのか。
「全然……気付かなかった」
冷蔵庫の氷を握りしめるような後悔が背骨を伝う。
僕は作業台に突っ伏し、額がガラスの冷たさに染みるのを感じた。じいちゃんがそっと肩に掛けてくれた毛布の重みも、すぐに蒸発してしまった。
僕は、ガラスの器をそっと撫でた。
ひんやりとした感触が、手のひらに伝わる。
「……ごめんなさい」
僕は小さく呟いた。
壊さなくてよかった。
壊してしまったら、もう二度と、あの夏の記憶には戻れない気がした。
工房の窓から、午後の光が差し込んでくる。青いガラスの器が、その光を受けて静かに、けれど確かに輝いていた。
じいちゃんは黙って僕の隣に座り、二人でしばらく、何も言わずにその器を眺めていた。
僕の中で、何かが少しだけほどけていく気がした。
それでもまだ、心の奥には消えない痛みが残っていた。
でも、ガラスの器の中に閉じ込めた夏の光だけは、誰にも壊せない――そんな気がした。
マネージャーが受け取りに来ることになったその日、工房はいつもより緊張した空気に包まれていた。
僕は朝から何度もガラス作品の状態を確認し、手が汗ばんでいるのを感じていた。
窓の外では、初夏の風が木々の葉を揺らしている。
「今日は大事なお客さんが来るんだろう?」
じいちゃんが静かに言う。
「うん。美紗ちゃんのマネージャーが、取りに来るって。こっちで仕事があるついでにって」
じいちゃんの言葉に、少しだけ背筋が伸びた。
その時だった。
体験コーナーで遊んでいた子供が、ふいに走り出したのだ。
嫌な予感がした。
が、もう遅かった。
「危ない!」
子供の親が声を上げた瞬間、棚の端に置いてあった美紗ちゃんの作品が、小さな手に当たって、ゆっくりと床へ落ちていく。
パリン! と高い音が工房に響いた。
あっけなく、壊れてしまった。
僕と美紗ちゃんを繋ぐものは、もう終わってしまった。
この世から、なくなってしまったのだ。
青いガラスの破片が、陽の光の中で細かくきらめいていた。
「……嘘だ」
膝が震え、視界が滲む。
僕は砕けたガラスの前で、しばらく立ち尽くしていた。




