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優しい彼女の後悔

新連載です。

仕事の関係で知り合った女性から聞いた話です。

第1話に相応しい、素敵なお話です。

 これは、とある家事代行サービスで働く女性から聞いた話です。


 彼女の職場は、システム化された環境で、会社が事前に決めた内容の家事を顧客宅でこなすのが基本でした。ただ、現場では想定外の追加作業を求められることもありました。通常は会社を通して料金変更を伝える仕組みになっていますが、特に高齢の顧客はこのシステムを理解していないことが多く、彼女は同情から無償で対応することもありました。結果として顧客満足度は高く、リピート率も非常に良かったため、会社の責任者も黙認していたそうです。


 そんな彼女が、ある日担当することになったのが、とある新規顧客の家でした。事前の打ち合わせから奇妙だったそうです。営業担当が「具体的な指示がない」と困惑しており、「とにかく家のことを全部やってほしい」とだけ伝えられたと言います。さらに、顧客が住むとされる家の住所を聞いた彼女は驚きました。その豪邸は地元では有名なゴミ屋敷だったのです。


 その屋敷は、一つのブロックを丸ごと購入して建てられたもので、異様なほど高い壁に囲まれ、中の様子がほとんど見えません。ただ、遠目にはお城のような建物が確認でき、しかしその窓という窓は割られ、広大な庭にはゴミが散乱していました。地元住民の間では「昔の富豪が愛人のために建てたが放置された」「大企業の社長が経営難で一家心中した」といった噂が飛び交い、長らく廃墟だと思われていた場所でした。


 当日、彼女が屋敷に到着し、インターホンを押しても反応がありません。門を叩いて名乗るも無音。いたずらを疑い、会社へ連絡しようとした矢先、門の横にある小さな通用口がわずかに開いているのに気づきました。試しに手をかけたところ、ガタガタと崩れ落ちるように扉が壊れました。焦る彼女に「大丈夫ですよ」と不意に声がかかります。


 振り向くと、ぼろぼろの衣服をまとった老人が立っていました。70代ほどに見えますが、異様にやせ細り、顔色が悪い。しかも、彼女がここまで気配を感じなかったことに強い違和感を覚えました。しかし、プロとしてすぐに気を取り直し、丁寧に謝罪しながら、家事代行のサービスで来たことを説明。老人が家主であることを確認し、案内されるまま屋敷の中へ入りました。


 屋敷の中は、想像を超える惨状でした。玄関を抜けると、ゴミの山が至るところに積み上がり、強烈な悪臭が漂っています。まるで異世界に足を踏み入れたような感覚に陥りながらも、彼女は客間へ案内されました。客間は比較的片付いていましたが、掃除された様子はなく、古びた家具が無造作に置かれているだけでした。


 彼女はサービス内容を説明し、今回は家全体を見て必要な作業を判断することにしました。家主は静かに頷き、家の中を案内してくれます。彼は各部屋を回るたびに思い出話を始め、片付けが一向に進みませんでした。しかし、彼女は嫌な顔ひとつせず、彼の話に耳を傾けました。この屋敷だけでなく、家主自身が長年放置されてきたのではないか……彼女はそんな気がして、彼を急かすことなく向き合うことにしたのです。


 三部屋ほど回ったところで昼になりました。彼女は昼食を作るために台所へ案内してもらいましたが、その光景に絶句します。異様なまでの汚れ、腐敗臭、そして大量の黒い虫。電気をつけた瞬間、それらがざわめくように蠢きました。彼女は過去にもひどい現場を経験していましたが、ここまで酷い台所は見たことがありません。


 それでも家主は平然と「ここにフライパンが、ここに包丁が」と説明を続けます。シンク下の収納を開けると、そこには虫の巣窟が広がり、床下収納からは朽ち果てた食材の残骸が出てきました。冷蔵庫の中も異臭を放ち、液状化した何かがこびりついています。


 思わず立ち尽くして絶句していると、家主はそんな様子を気にするそぶりも見せず、ずかずかと台所に進んでいきました。そして、ここにフライパンが、ここに包丁が……と淡々と説明を始めます。


 慌てて駆け寄り、その説明を聞くものの、彼女の中で考えはすでに固まっていました。――ここで料理をするのは無理だ、と。シンク下の収納部分には、もれなく大量の黒い虫と、その生命活動の跡がびっしりと詰まっていたのです。当然、シンクにはカビだらけで異臭を放つ食器が山積みになっていました。


 それでも家主は意に介さない様子で、「ここにたまねぎが、ここにじゃがいもが……」と食材の説明を始め、床下収納を開けました。しかし、そこにあったのは、すでに土へと還りかけた何かの残骸。冷蔵庫の中を開けると、「ここに肉が」と指さしながらも、そこには液体化したどす黒い何かがあるだけでした。


 「どうしよう……」そう考えていると、家主は「これでどうかお願いします」と言い、笑顔で食事を楽しみにしているような独り言をつぶやきました。


「食材の買い足しに行ってもいいですか?」


 そう聞くと、家主はにっこりと微笑みながら首を横に振ります。


「こんなに食材があるのだから、その必要はないよ。早く食べたいから、すぐに調理に取りかかっておくれ」


 口調こそ優しいものの、その雰囲気から、どう言っても外へ出ることは許されないと直感しました。


 しかし、彼女はプロです。腐敗しきった食材を避け、どうにか使えそうなものを探しました。すると、比較的新しそうな乾麺と缶詰が見つかります。当然、賞味期限などとっくに切れていますが、原形を留めていない何かを使うよりは、よほどマシに思えました。


 シンクに積み上がった食器を家主の許可を取っていったん床へ移動させ、フライパンを洗います。最初、赤茶色の水が出てきたことに驚きましたが、しばらく流し続けると透明になったので、一安心。持参したスポンジと洗剤を使い、丁寧に洗いました。


 ベテランの彼女にとって、それらを綺麗にすることは造作もありません。コンロも、上に乗った大量の荷物というかゴミをどけ、火事の危険がないよう掃除し、ガス漏れがないかを確認した上で、慎重に火をつけました。問題なく青い炎が灯ったことに、ほっと息をつきます。


 彼女が作ったのは、非常に簡単なツナ缶パスタでした。使える調味料はほとんどなく、味はかなり薄めでしたが、ツナ缶の濃い風味に頼ることにしました。綺麗に洗った皿とフォークを添えて、家主に提供します。


「賞味期限は切れていますが、大丈夫ですか?」


 念のため確認すると、家主は「問題ない」と言い、パスタを口に運びました。


 ひと口食べたところで、家主の手が止まります。


 ――やはり美味しくなかったのか。


 食材の状態が不安だった彼女は、味見をしていません。失礼かもしれないが、もし食べられないほどひどい味だったのなら、謝らなければと思いました。


 ところが、家主は突然ボロボロと泣き始めたのです。


「美味しい……美味しい……」


 そう言いながら、老人とは思えない勢いでパスタを口へ運び続けます。彼女はその姿があまりにも哀れで、また、むせてはいけないと思い、そっと背中をさすりました。


「ありがとう……ありがとう……」


 家主は涙を流しながら、あっという間にすべてを平らげてしまいました。彼女も、気づけば涙を流していました。


 食べ終えた家主は、深く息をつくと、ぽつりとつぶやきました。


「本当にありがとう……優しいお嬢さんだね。もう、わかっているだろう。ここは普通じゃないんだ。すまなかったね……最後にどうしても、人と話したくて……」


 彼女は意味が分からず、きょとんとしてしまいました。


「大丈夫ですよ。私が何とかしますから、明日には仲間もたくさん連れてきます。この家を綺麗にしましょう。そして、もっと美味しいご飯を作るので、また食べてください」


 そう励ますと、家主は彼女の手にそっと触れ、優しく微笑みました。


「いや……十分満足だ。ありがとう」


 彼女が何か言おうと口を開いた瞬間、家主の身体はふっと霧のように消えてしまいました。


 驚き、彼女は叫びました。


「……え?」


 パニックになり、家中を探します。しかし、どこにもいません。名前を呼びながら探し続けましたが、返事はありません。


 らちが明かないと思い、会社へ連絡すると、すぐに同僚が駆けつけてくれました。二人で隅々まで探しましたが、やはり家主は見当たりません。


 汗だくになった彼女は、同僚に家主が消えた瞬間の話をしました。


「やめてくださいよ、怖いじゃないですか」


 同僚はそう言いましたが、彼女自身は不思議と怖いとは感じていませんでした。


 夕方になり、仕方なく会社へ戻ろうとしたそのとき。


 彼女は門近くのゴミの下に、家主の着ていたぼろぼろの衣服が見えているのに気づきました。


「……え?」


 駆け寄り、ゴミをどかします。同僚が「どうしたんですか?」と声をかけますが、彼女はそれに答えられませんでした。


 次の瞬間、ゴミの下から現れたのは――白骨化した遺体。


 驚いて声をあげる同僚。しかし、彼女の目からは涙が溢れて止まりませんでした。


 警察を呼び、その後、ゴミ屋敷に住む老人の事故死として処理されました。仲間たちは「あなたのおかげで成仏できたし、遺体も見つかった。良かったね」と言ってくれました。


 けれど、彼女は思うのです。


 ――もっと早くに依頼してくれていたら。もっと早く、私が動いていれば……。


 そう、深く後悔したのでした。




最後までお読みいただきありがとうございました。

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