第465話 書道体験
「さて。それじゃあ行こうか」
「うん」
怜が桜彩へと手を差し出すと、桜彩がキュッと握り返す。
手のひらや絡み合う指の感触が互いに伝わり、これからの文化祭デートに顔が赤くなるのが分かる。
クラスの方の出し物はトリックアートということもあり、基本的に客が自由に見て回る為、待機する必要はほとんどない。
一応三十分単位で数名ごとに店番としてローテーションされているのだが、とはいえこの二日間の文化祭は、ほとんどクラスに拘束されることはない。
これも桜彩の提案したトリックアートの恩恵だろう。
というわけで、数人のシフト担当を残し、早速教室を出ていく。
まず校庭へ出ると、早速呼び込みの声が耳に届いてきた。
「いらっしゃいませーっ!」
「サッカー部のから揚げいかがっすかー!?」
「こちらのチョコバナナ、十年目の老舗でーす!」
他にも焼きそばの香りや呼び込みの声、校庭に設けられたステージから流れる音楽と、文化祭ならではの熱気が押し寄せてくる。
普段とは違い、学園の敷地内の全てで日常とはかけ離れた祭りの雰囲気を感じさせる。
「凄い……! やっぱり文化祭って、朝からでもテンション上がるね」
目を輝かせながら怜を見上げる桜彩。
その瞳は、これからの文化祭への期待に満ちていた。
「ああ。今日は一日楽しもう」
「そうだね。なんか、ワクワクするね」
「うんっ!」
桜彩は笑顔で頷き、恋人繋ぎのまま怜の腕に軽く寄り添う。
腕に伝わる桜彩の温もりが、怜の胸を優しく満たす。
「ねえ、怜。今日は、いっぱい写真撮りたいな」
桜彩の言葉に怜は当然だと頷く。
「ああ。二人で思い出をたくさん作ろう!」
「うんっ!」
「撮った写真はちゃんとデジタルフォトフレームに入れるからな」
誕生日プレゼントに貰ったデジタルフォトフレーム。
あれ以来毎日、桜彩との写真を怜の部屋のリビングに映し出している。
怜は空いている方の手でパンフレットを広げ、どこに行こうかと考える。
「さて。まだ始まったばかりだから食べ物は後で良いか。あ、でも食うルさんなら食べ物からかな?」
「むうっ! 怜!?」
恋人繋ぎしている右手に力が込められる。
いつも通り可愛い顔をして上目遣いで桜彩が睨んでくる。
「今、食うルって言ったよね!?」
「気のせいじゃないか?」
とりあえずとぼけておくことにする。
だが当然ながら、桜彩はリスのように頬を膨らませたままだ。
「むううううううううーっ!!」
「ってなわけで、とりあえず家庭科部の方に顔だけ出しておくか」
「むぅーっ! 後で覚えておいてね!」
人前で反撃するのを躊躇ったのか、頬を膨らませたまま桜彩が付いてくる。
そんな姿がまた愛おしくて、怜は自然に微笑んでしまった。
とはいえ、しっかりと恋人繋ぎでかつ、腕をぎゅっと抱きしめたまま。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
校舎内は普段の静まり返った空気はどこへやら、外と同様に笑い声や呼び込みの声で溢れている。
廊下の壁には色とりどりのポスターが貼られ、クラスの展示や模擬店の案内が並んでいる。
紙や布で作られた飾りが天井から吊るされ、視界の端でゆらゆらと揺れている。
友達と肩を寄せ合って歩く生徒、パンフレットを片手に興味深げに展示を覗き込む来校者、声を張り上げて呼び込みをする学生。
外からは足音や笑い声、時折漂う食べ物の香りが鼻に届く。
ふと通りかかった教室の中を見ると、いつもは勉強している教室内が喫茶店と化して賑わっており、こうして見ているだけで楽しさが伝わってくる。
これが文化祭の特別な空気なのだと、改めて胸に感じた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
文化部のゾーンを歩く怜と桜彩の足取りは、軽やかでありながらも特別感のあるデートで少し浮き足立っていた。
美術室の中をちらり覗くと、色鮮やかな絵画や手作りの展示物が並んでいる。
窓際に並んでいる石膏像にも仮装が施されており、普段の美術室が華やかになっている。
そんな中、ふと聞き覚えのある声が耳へと届く。
「クーちゃん! 光瀬ーっ!」
声の方を見ると、同じクラスの田島がこちらを見て手を振っていた。
制服ではなく黒いシャツに濃紺のスカート、よく見ると黒い汚れがあちこちに付着している。
そんな田島の後ろには『書道部』と大きく書かれた看板と、『書道体験実施中』という立て札が置かれていた。
「田島さん、書道部でしたね」
「うん。せっかくだから二人共、体験してみる? 今はまだ空いてるよ」
田島の提案に桜彩と視線を交わして頷き合う。
「ねえ、やってみようよ。楽しそうだね」
「そうだな。やってみるか」
「はーい! お二人様ごあんなーい!」
楽しそうに声を上げて室内へと入る田島の後ろに続き、ゆっくりと書道部の教室へ足を踏み入れる。
教室内の壁には作品がいくつも飾られており、床にはシートが敷かれ、その上で数人の生徒が楽しげな声を上げながら筆を紙に滑らせていた。
「二人は床じゃなくて机の方が良いかな?」
そう言って田島は、机と椅子を指差す。
その上には、筆と墨、半紙が並べられていた。
桜彩と二人で並んで座り、筆を手に取り眺める。
手元の筆の感触や墨の匂いが、自然と気持ちを落ち着かせる。
「中学の時以来だな」
「私も」
「安心して。ちゃんと教えてあげるから」
田島が手早く使い方を教えてくれる。
筆の握り方、手首の角度、墨の量、少しの違いで文字の印象が変わるとのことだ。
桜彩は少し緊張した様子で筆を握り、怜も同じように準備を整えた。
墨汁を付けた筆先が紙に触れ、黒い線を広げていく。
桜彩も同じように筆を動かしていく。
一文字書いたところで桜彩がこちらを文字を見てニコリと微笑む。
「ふふっ。怜の字、綺麗だね」
「それなら、桜彩もだろ」
実際に桜彩の書いた字は、怜の書いた物よりも上手だ。
それは普段のノートなどを見ても分かっている。
「ふふっ、ありがとね」
筆を持って笑いかける桜彩。
普段は見ることのできない桜彩の姿がとても可愛らしい。
そんな恋人の可愛くも凛々しい姿を見て、怜の口から自然と言葉が漏れる。
「桜彩の書いた字も、そうやって書道をしている桜彩も、どっちも綺麗だ……」
「え……?」
二文字目を描こうとした桜彩が顔を上げ、少し首をかしげる。
「そ、そうなんだ……。嬉しいな。だけどね、怜だって格好良いよ。とっても真剣で、それでいて楽しそうで」
「そ、そっか……。うん、ありがと」
「えへへ……。どういたしまして」
照れるように笑う桜彩。
先ほどまでの凛々しさが抜け、普段通りの柔らかい笑み。
「……ねえねえお二人さーん。こっちの存在忘れてない?」
田島の声に室内を見回せば、同じように書道体験を訪れていた生徒が微笑ましい笑みを向けていた。
その中には見知った顔もある。
「『桜彩の書いた字も、そうやって書道をしている桜彩も、どっちも綺麗だ……』だってーっ!」
「クーちゃん、幸せそうだねーっ!」
からかいの言葉に、顔が真っ赤になってしまう二人。
気が付けば田島が苦笑しながらスマホを向けていた。
次の瞬間、パシャリというシャッター音が響く。
「おい、撮るなら撮るって言えよ」
「あはは、ごめんごめん。まあ、文化祭の最中の活動写真ってことで。この写真は後でそっちにデータで送ってあげるからさ」
「ええっと、ありがとうございます」
こうして二人は静かに、しかしどこか新鮮な空気に包まれながら、書道の世界にを楽しむ。
墨の香り、紙の手触り、そして桜彩の柔らかい笑顔。
それら全てが特別な時間となって。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
書き終えると筆を置き、少し手を拭くと桜彩が小さく息をつく。
「ふぅ……。楽しかったね」
「ああ。桜彩、上手だったぞ」
「えへへ、ありがと。でもさ、なんか、一緒にやると楽しいね」
「新しい発見だな」
怜の胸が温かくなる。
手を握ったまま微笑む桜彩の存在が、いつも以上に愛おしい。
「いやだからさ、そんな簡単にいちゃつかないでっての」
「「う……」」
「あはは。それじゃあまたねー」
「おう。それじゃな」
「失礼します」
田島に挨拶をして教室を後にし、文化祭の熱気の中へと再び歩き出す。
このような非日常の瞬間が、何年経っても色褪せない大切な思い出になるのだと感じていた。
次回投稿は月曜日を予定しています




