第435話 学校での過ごし方は?
テーブルの上には、焼きたてのフレンチトーストが二人分。
ほんのり甘く香ばしい香りが鼻先をくすぐり、ふわりと立ち上る湯気。
シャキッとしたサラダに、カリカリに焼かれたベーコンとオムレツ。
お揃いのカップに注がれたコーヒーからは、ほのかに苦い香りが漂っている。
何も特別なことはない、ごく一般的な朝食。
しかし二人にとってはそれがとても幸せだ。
「わあ……。美味しそうだねえ」
脱いだエプロンを掛けて席に着く桜彩もご満悦の表情。
怜も席に座り、二人で手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
互いにクスリと笑い合ってフォークを手に取る。
頬を赤く染めたまま、桜彩はフレンチトーストにフォークを入れる。
一口食べるとたちまち嬉しそうに顔がほころんだ。
「さすが怜。ちゃんと焼けてるね。ふわふわしてる」
「桜彩が卵液の混ぜ加減、前より上手くなったからだよ。パンの中までしっかり染みてるし」
「……えへへ。怜がが教えてくれたおかげだよ」
桜彩は口に運んだフレンチトーストをもぐもぐと噛みながら、嬉しそうに目を細めた。
コーヒーを一口飲みカップを置くと、怜に向かってほほ笑む。
「今日もさ、こうして一緒に朝ごはん食べられるの、幸せだなって思う」
「俺も。同じ時間に起きて、一緒に作って、一緒に食べられるなんて……。本当に最高だな」
「うん。何も特別な事なんていらない。こうやって怜と一緒にいつもを過ごせるだけで……」
「ああ。一人で食べる高級なモーニングより、こうやって桜彩と一緒に作って食べる方が比べ物にならないくらい幸せだよ」
そっと手を前に伸ばすと、桜彩も同じように手を伸ばす。
手をそっと触れ合わせると、桜彩も同じように指を絡ませてくれる。
「えへへ。幸せ」
「俺も」
しかしこのままでは朝食が進まない。
名残惜しくも手を離して再びフレンチトーストを切り分けて
「あーん」
「あーん……。美味し~いっ! はい、怜もお返しに、あーん」
「あーん……」
食卓の上の温かい朝食と、二人の間に流れる甘い時間。
ときおり目が合うたびにドキッとして、二人共クスリと笑い合って。
サラダを食べさせ合ったり、何でもないニュースについて話したり。
そんな他愛もないことすら特別だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
食後、二杯目のコーヒーを飲みながら、怜は桜彩へと視線を向ける。
「……それで、学校でこれからどうするか、ちゃんと話しといた方がいいと思ってさ」
桜彩は手元のカップを両手で包むように持ちながら、小さく頷く。
「うん。私と怜の関係は内緒だからね」
カップの縁にそっと唇を寄せながら目線だけを上げる桜彩。
夏休み前までは、部活で話すくらいの多少は仲の良い普通のクラスメイト。
陸翔と蕾華を除く皆がそう思っているはずだ。
そして今日は恋人になってから初めての登校日。
「ま、陸翔と蕾華は別として、他の皆にはいつも通りを装った方がやっぱ楽だよな」
「うん。……私達、隣の部屋に住んでることも誰も知らないし」
桜彩は静かに続ける。
「年頃の男女が隣同士で一人暮らしなんて……ね。前に怜の言った通り、もし知られたら、多分色々と言われちゃうと思う」
「ああ。だから、今まで通りそこそこ仲の良い友人であり、ボランティア部の仲間ってことで通しておこうか」
怜がそう言うと、桜彩は少しだけ笑った。
安心したように、けれどどこか寂しげに。
「正直に言うとね……、ちょっとだけ、もどかしいって思っちゃう。せっかく怜と恋人同士になれたのに、好きって気持ちは隠して、普通の友達として振る舞うなんて」
「俺も。手とか、つい繋ぎたくなっちゃいそうだし」
「私もだよ。でも我慢しなきゃね」
二人揃って苦笑する。
怜はカップを置いて、テーブル越しにそっと手を伸ばす。
桜彩の手を優しく包んでにこりと笑う。
「でもさ、学校の外では隠さなくていいから」
桜彩は一瞬驚いたように目を丸くして、それからほんのり頬を染めながらそっと手を握り返してくれる。
「……うん。学校の外ではちゃんと恋人同士ってことで良いんだよね」
「ああ。俺は全力で恋人でいたい」
こくりと小さくうなずくと、桜彩が嬉しそうに顔をほころばせる。
「……じゃあ、学校ではこれまで通り普通の距離。外ではこうしていようね」
「ああ。それにさ、学校の中でもボランティア部の部室の中では恋人でいられるしな」
「あっ……、そうだね」
ボランティア部のメンバーである陸翔と蕾華は怜と桜彩の関係を知っている為に、二人の前だけでは恋人としていつも通りに過ごすことができる。
「それじゃあ、怜と触れ合いたくなったら部室に行こうかな」
「完璧な作戦だな」
「……ふふっ」
「ははっ」
お互いに口元を緩めながら、再びコーヒーに口をつける。
時計を見ると、もうそろそろ準備をした方が良い時間だ。
「……あ、もうこんな時間か。そろそろ支度しないと」
桜彩もちらりと時計を見て、名残惜しそうに唇をすぼめる。
「制服着なきゃだね。……うん、着替えてくる」
椅子を引いて立ち上がると、桜彩がゆっくりとそばに寄る。
「……また、すぐに来るね」
「ああ。待ってるよ」
名残惜しそうにしながらも桜彩の姿がドアの向こうに消えると、怜もカップを片づけて制服へと着替える。
シャツに腕を通しながら、胸の奥にほんのりと残る甘い余韻を楽しむ。
数分後——
「お待たせっ」
制服姿で再び部屋へ入って来た桜彩。
襟元を少し直しながら、柔らかい笑顔を向けてくる。
怜はその姿を見るだけで、胸の奥がじわりと熱を帯びるのを感じた。
「久しぶりに制服見るけどさ……似合ってるよ、桜彩」
「ふふ、ありがと。怜もちゃんとかっこいい感じになってるよ」
「それこそありがと。それじゃあ行こうか」
お互いに制服姿を褒め合って、そして照れ合う。
そう言って怜も靴を履いて玄関のドアノブへと手を掛け――る前に、新たなルーティーン。
「桜彩」
「うん」
そっと顔を近づけると桜彩は目を閉じ、自然に体を預けてきた。
唇が触れ合った瞬間、ほんの一瞬呼吸が止まったような錯覚に陥る。
だがそれはすぐに、温もりとともに溶け合っていく。
心と心がぴたりと重なって、お互いの気持ちが確かめ合えるような一時。
唇が離れた後、桜彩は額を軽く怜の胸に当てて、小さな声でつぶやいた。
「……学校、行きたくないね」
「俺も。でも……行こう、一緒に」
「……うん」
名残惜しさを感じながらドアを開ける。
瞬間、怜の手を握る桜彩の手がきゅっと強くなった。
怜も同じだけの力で握り返し、二人揃って外へと出る。
部屋の外の通路に出ると、いつものアパートの空気が広がっていた。
エレベーターまでの短い距離を、しっかりと手を繋いだまま歩く。
エレベーターのドアが開き、二人だけの小さな空間に入ると桜彩は少しだけ怜の肩に寄りかかる。
「ねぇ……、アパートから出るまでは、恋人でいていいよね?」
「もちろんだろ」
怜もその言葉に微笑みながら、もう一度桜彩の手を強く握り返した。
エレベーターが一階に着くまでの静かな時間。どちらも何も言わず、それでも心はぴったりと重なっていた。
そして、一階へと到着しエントランスを抜けて外の通りへ出る前に、手をそっと離した。
「それじゃあな、桜彩」
「うん。また学校でね」
学内ではこれまで通り、恋人という関係は隠して付き合っていく。
その為、人目のある通学は別々に歩かなければならない。
最後に振り返り、愛しい恋人の顔を目に焼き付けて、怜は通学路を歩き出した。




