第434話 一日の始まり
午前五時半過ぎ、いつものように自室で目を覚ました怜は、そのままベッドの上で伸びをする。
部屋の中はまだ静かで、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。
いつものように朝の支度を整えて桜彩を待つ。
そろそろインターホンが鳴って、大切な恋人がこの部屋を訪れるはず。
しかしいつも聞こえるはずのインターホンが聞こえない。
「……おかしいな。まだ鳴ってない」
時計を見れば、いつもの時間を一分程過ぎている。
時間に几帳面な桜彩がこうして遅刻するのは珍しい。
(まあ、今日からまた学園だしな。寝坊ってこともあるか)
そう思って寝室へと戻り、壁のフックに掛けられている一つの鍵を手にする。
ハートが半分描かれたお守りが結び付けられているその鍵は、この部屋の玄関の鍵ではない。
隣に住む愛しい恋人、桜彩の部屋の玄関の合鍵だ。
電話で起こしても良いのだが、せっかく先日合鍵を渡されたのだから有効活用することにする。
というのは言い訳であり、実際は合鍵を使ってみたいだけなのだが。
そんなことを考えながら玄関へと足を運び、シリンダー錠に手を掛け――
カチャリ
手を掛けようとしたところで、怜の手が触れる前に、静かに鍵が回る音が聞こえてきた。
いったい何が起きたのかと考える暇もなく、玄関のドアがゆっくりと開く。
そこには、四月に隣の部屋に越して来た隣人であり、家族のような存在でもあり、そして先日恋人になった渡良瀬桜彩が立っていた。
いつもの明るい笑顔で、それでいて少し恥ずかしそうに、そして嬉しそうに怜の顔を見上げてくる。
「おはよう、怜」
桜彩の言葉は普段の朝の挨拶よりも少しだけ柔らかくて、どこか甘い響きを含んでいた。
怜は少し驚きながらも自然に口元が緩む。
「おはよう、桜彩。今日はインターホンを鳴らさなかったんだな」
怜がそう指摘すると、桜彩は顔を赤くしながら照れ笑いを浮かべた。
「うん。合鍵を貰ったから、ちょっとだけ甘えてみたかったんだよ」
その言葉に怜は心の底から嬉しくなって、ゆっくりと桜彩へと近づいていった。
「そっか……。なんだか、急にドキドキしたな」
「うん、私も」
桜彩は少し戸惑ったように目を逸らしながらも、怜の目をじっと見つめ返してくる。
怜はそのまま、桜彩の頬にそっと手を伸ばす。
その意図を理解したのか、桜彩も目を閉じて顔を上げた。
「ちゅ…………」
「ん…………」
そして、二人の唇がゆっくりと重なり合う。
柔らかくて温かい、その感触に怜の胸が温かくなる。
唇が触れ合うたびに、言葉では言い尽くせない優しさが伝わってくる。
鼻先が触れ合い、睫毛が微かに震える。
まるで時間がゆっくりと流れているかのようだった。
キスが終わり、ゆっくりと離れて赤い顔を見つめ合う。
「一日の最初がキスから始まるのって……、やっぱ、凄く、良いよな……」
「うん……。怜、大好き」
恥ずかしそうに頬を染めて小さく笑い合う。
そして再び唇を重ねた。
「それじゃあ今日も一緒に走ろうね」
「もちろん。それじゃあ行こうか」
玄関を開けて、今度は怜がキーホルダーの付いた鍵を取り出し玄関を施錠する。
そのキーホルダーを見た桜彩が、クスリと微笑む。
そして二人で静かな夏の朝の街へと走り出していった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ジョギングの後はシャワーを浴びてリビングへと戻る。
軽くタオルで髪を拭きながら、冷房の効いた部屋にひと息ついた。
少しすると猫のぬいぐるみであるれっくんを抱えた桜彩が合鍵で入ってくる。
「ただいま」
「おかえり」
それだけ言って笑い合い、れっくんを怜のぬいぐるみの千円の隣に置く。
そしてすぐに怜の元へと歩みより、顔を見上げてきた。
「怜……ちゅーして」
そう囁く桜彩に怜も微笑んで軽く腰をかがめて顔を近づける。
桜彩の柔らかな唇に自らの唇を触れ合わせる。
「ん……ちゅ……」
「ん……ん……」
唇を離して、額をこつりと寄せ合う。
その距離が愛おしくて、何度見ても見飽きない。
思わず桜彩を抱きしめると、桜彩も同じく抱きしめてくれる。
「桜彩……。好きだ」
「えへへ。私も好き。だ~い好きっ」
「愛してるよ、桜彩」
「うん。私も怜のことを愛してるよ」
桜彩が頬を赤くしたまま、嬉しそうに見上げてくる。
怜としても、自分の顔が赤くなっているのは鏡を見るまでもない。
「それじゃあ、朝食を作ろうか」
「うんっ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
いつも通りキッチンに二人並んで手を動かし始める。
「今日は……フレンチトースト、で良いよな?」
「うん。卵と牛乳は昨日のうちに買ってあるし……。あ、私、混ぜるのやるね」
「任せた。パン切って、焼くのは俺がやるよ」
「ふふっ。なら焼いてる間に、私がサラダ作っちゃうね。あ、でも私が焼いて、怜がサラダ作っても良いかな?」
「桜彩の場合、途中でつまみ食いしそうだな。ってか前にやったし」
「……う、それは……前は、ちょっとだけ……」
以前、フレンチトーストを作っている最中、食パンの端の方を小さく切ってつまみ食いしていたのを思い出す。
指摘に言葉に詰まった桜彩が頬を染めるのもなんだか可愛らしくて、怜は楽しげに笑う。
桜彩がボウルの中で卵と牛乳を混ぜ合わせる。
とろりとした液体が泡立ち始める頃、桜彩がそっと身体を寄せてきた。
「最近、ちょっとは上達したよね……私……」
「そうだな、上手くなった。前なんて焦がしそうになって涙目になってたし」
パンを切りながら、以前の姿を思い出してクスリと笑う。
「ちょ、それ今言うの!? もう……」
ぷくっと頬を膨らませる姿が可愛くて、作業の一段落した怜は桜彩の頭を自然と撫でる。
ふにゃっとほぐれる表情に、心がとろけるようだった。
ボウルを置いた桜彩が、再び胸に顔を寄せてくる。
怜は両腕を回して、桜彩をそっと抱きしめる。
ほんの数秒の沈黙ののち──
「ちゅ…………」
「ふぅっ……」
今日三度目のキスをした。
「早く作らないと、時間なくなるぞ?」
「分かってるけどさ、今は……もうちょっと、こうしてたいな」
「俺も。……じゃ、五秒だけな」
「……じゃあ、七秒」
「よし、間を取って六秒にしよう」
「分かった、六秒だね」
当然六秒程度で終わるはずもなかったのだが。
第八章の後書きでも書きましたが、とりあえず第八章までで書きたい事の九割程度は書くことができました。
そしてここからは日常シーンは少なめにして、各イベントにフォーカスして書いていくつもりです。
第九章でも宜しくお願い致します。




