【番外編】第432話 初めてのアルバイト③
店内の時計が十六時を指し示し、アルバイトは終わりの時間だ。
代わりの者とレジを変わり、二人で休憩室へと戻って行く。
タイムカードを切って、小さく息を吐きながら椅子に腰を下ろす桜彩。
「ふぅ……。疲れたなあ……」
「うん……。でも、意外と楽しかったよ」
桜彩は少し微笑みながらも、まだ緊張の名残からか手を少し握りしめるようにしていた。
「大丈夫か? 無理してない?」
怜は微笑みながら、桜彩へと水の入ったコップを差し出す。
桜彩はそれを受け取り一口飲んで、リラックスした表情で口を開く。
「うん……、ちょっと疲れたかも。でもさ、怜がいてくれたからね」
小さく頷き髪を耳の後ろにかけながら、ほんの少し照れたように微笑む。
そんな仕草が一々可愛らしい。
怜は椅子に座ることなく、桜彩の後ろへと回り、優しく肩に手を置いて指先で軽く揉む。
「ここ、ちょっと凝ってるな」
「え……あ……」
桜彩が思わず小さく声を漏らす。
怜が指先を肩や首の辺りに動かすと、桜彩の緊張が少しずつ解けていくのを感じる。
「疲れたよな、立ちっぱなしで。ずっと笑顔で……。頑張ったぞ」
「怜……」
桜彩の頬が赤く染まり、視線が少し下を向く。
だが、その声には安心と嬉しさが滲んでいた。
怜は更に手を下ろし、肩甲骨あたりを軽くほぐす。
「こんな感じでどうだ?」
「気持ち良いよぉ……」
桜彩の声は小さいが、確かな気持ち良さが含まれている。
そのままマッサージを続けていくと、怜の手が動くたびに気持ち良さそうな声を上げる。
「ありがとう。今日、結構頑張れたのかな?」
「もちろん。ちゃんとできてたし、お客さんも喜んでたぞ」
労いとちょっとした誇らしさを感じながらそう告げる。
桜彩は目を細め、肩越しに怜の顔を見上げて小さく微笑む。
言葉少なでも互いの気持ちは自然に伝わり、手を離すのが惜しくなるような温かい時間がゆっくりと流れる。
「……あ、でも私、まだ緊張しちゃうかも……次、接客する時」
「心配するな。俺がそばにいるだろ?」
怜は肩越しに軽く笑いながら伝える。
その言葉に桜彩は少し照れくさそうに顔を背けたが、すぐに嬉しそうな表情で振り向く。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
しばらく桜彩の肩を揉んでいると休憩室の扉が開き、何人かの同僚が笑顔で入ってきた。
「お疲れ様! 初日なのに落ち着いてたね」
「笑顔も自然で、接客も丁寧だったよ。見てて安心した」
「あ、ありがとうございます」
桜彩は頬を赤くしながら、怜をちらりと見上げる。
怜は小さく頷き、桜彩の手をそっと握った。
「ほら、言った通りだぞ。ちゃんとできたって」
「うん……。怜がいてくれたから、大丈夫だった」
そんな二人を見ながら同僚の一人が更に続ける。
「本当に初日とは思えないくらい落ち着いてた。お客さんへの気配りも完璧だったし」
「これからもっとお店に馴染むのが楽しみだね」
桜彩は怜を見上げながら嬉しそうにほほ笑む。
怜も自然に桜彩の頭を軽く撫でて、柔らかく微笑む。
「怜がそばにいてくれたから、落ち着けたんだよ」
「そう言ってくれると嬉しいな」
言葉は少なくても、手を握ったり、肩を軽く寄せたりするだけで互いの気持ちが伝わる。
すると同僚のもう一人が、少しからかうような笑顔で言った。
「でも……、休憩中の二人のやり取り、ちょっと聞いちゃったんだけどね」
その言葉に怜と桜彩は顔を見合わせ、同時に目を丸くする。
「は、はぁ……」
「え、えっと……」
ニヤニヤとしながら覗き込んでくる。
「と、とりあえずもう終わりなんで着替えますね! そ、それじゃあ……!」
「し、失礼します……!」
これ以上からかわれては仕方ないと、桜彩と二人で顔を真っ赤にして席を立つ。
そんな二人を、同僚達は微笑ましそうに眺めていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
最後に皆に挨拶して、リュミエールを後にする。
手を繋いでの帰り道、今日の反省やこの後についての話になる。
「この後は夕食の買い物だよね?」
「ああ。それで帰ってからシャワーで汗を流せばいい時間になるだろ」
「うん。そうだね」
夕食のことを考えながら、楽しそうにスーパーへと向かう。
「じゃあ今日は桜彩の初出勤ってことで、ご褒美だな」
怜の言葉に、桜彩は目をきょとんとさせる。
そんな桜彩も可愛くて、怜の心は自然と柔らかくなる。
「ご褒美?」
「そう、初めてのアルバイト記念。夕食はちょっと特別にしよう」
以前桜彩がリュミエールで絵を描いて、望からお小遣い扱いで給料をもらったことがあったが、あれは別枠で良いだろう。
正式にアルバイトとして働いたのは今日が初めてだ。
桜彩は少し照れくさそうに、しかし嬉しそうに頷く。
「うん、初日だもんね。少しだけ特別にしよっか」
「何食べたい?」
「うーん……怜と一緒に食べるなら、なんでも美味しいかな。でもやっぱり肉巻きっ!」
嬉しそうに予想通りの答えがくる。
怜もその言葉に微かに頬を緩め、ゆっくりと頷く。
「やっぱりな。じゃあ、他には何を作るかな?」
「あ、それじゃあさ、あれも食べたい! ミネストローネ! 始めて肉巻きを食べた時のやつ!」
「オッケー。それじゃあ肉巻きとミネストローネな」
「楽しみだなあ」
ふと風が吹き、桜彩の髪が揺れて怜の頬にかかる。
そんなこそばゆさを感じながら、そっと桜彩の髪に手を伸ばすと、桜彩も照れながらそれを受け入れてくれる。
「そういえば、サラダはどうする?」
「うーん……、彩りも大事だよね。トマトとアボカドとか、あとレタス」
「なるほどな。スーパーに行ってから決めるか」
「ふふっ……。期待してるよ、怜」
言葉通り、期待に満ちた目で見つめられて、怜は少し照れくさくなる。
だが胸の奥は温かく、自然と微笑みがこぼれる。
「デザートは既に用意されてるからな」
「うんっ。リュミエールのケーキも楽しみ~っ!」
「初アルバイト記念に光さんと晴臣さんの試作品、持って帰ってくれって言ってくれたからな」
「うんっ! しっかりと味わって、明日感想を伝えようね」
手をしっかりと恋人繋ぎしたまま、更に桜彩が体を寄せてくる。
日常の延長の中の、ささやかな幸福。
しかしこう言ったものが何よりも愛おしい。
「ふふっ。こうやって二人でメニュー考えるの、楽しいね」
「俺も。桜彩と一緒だと、なんでも楽しい」
二人揃ってクスリと笑い合う。
次の角を曲がればスーパーが見えてくる。
「スーパー、もうすぐだね。材料、全部揃えられるかな?」
「少なくとも肉巻きの分は大丈夫だろ。後は売ってる食材に合わせてアレンジするし」
「ふふっ、頼もしいね」
二人で手を繋いだままスーパーへと足を速める。
これから二人で過ごす夕食への期待が、心の奥でふんわりと膨らんでいった。
アルバイト編はこれで終了となります。
明日カレンダーを投稿し、第九章は月曜日から再開予定となります。




