第413話 アルバイトしないか?
「あ、怜君。そろそろ終了作業の方お願いね」
「了解しました」
望の言葉で怜はリュミエールの閉店準備に入る。
イートインスペースをダスターで拭き終えた怜がふと顔を上げると、カウンターの奥で伝票をまとめていた望と目が合った。
「どうかしましたか?」
「ねえ、怜君。最近、なんかすっごく帰り際そわそわしてない?」
「えっ……? なんですか、急に」
不意打ちに戸惑いつつも、怜の耳がわずかに赤くなる。
その反応に望はますます笑みを深めて腕を組んだ。
「やっぱり愛しの彼女が待ってるから?」
「…………さて、仕事仕事」
話がめんどくさくなりそうだったので、無視して仕事に戻ることにする。
だがそう簡単に望が逃がしてくれるわけがなかった。
「ちょっと怜君。もうちょっと良いじゃない」
「まだ作業終わってませんから。望さんだってそうですよね?」
「いいじゃんそんなのー」
「光さーん。望さんがサボってま――」
「わーっ、わーっ! ストップストップ!」
面倒なので光に告げ口しようとすると、望が慌てて手をブンブンと振る。
「まあいいや。それでね、本題なんだけど」
と望はカウンター越しに身を乗り出してきた。
「本題あったんですね」
てっきりからかうだけかと思ったのだが、一応真面目な話もあるようだ。
できることなら、始めからそちらの話題を振ってほしかった。
「そろそろ夏のギフト注文が増えてきそうなの。加えて何人かバイトの終わりもあるしさ。それで人手が足りなくなりそうで……。で、前から思ってたんだけど――」
「……まさか」
なんとなく言いたいことを察する。
これはもう十中八九そう言うことだろう。
そんなことを考えている怜に、望は予想通りの言葉を口にする。
「うん。桜彩ちゃん、どうかなって」
怜の思考が一瞬止まる。
「……桜彩を、ですか?」
「そう。桜彩ちゃん。怜君の恋人さんの」
うんうんと頷きながら答える望。
「ちなみにさ、前に桜彩ちゃんが描いてくれたイベント用のイラスト。怜君も知っての通り、あれ今でも店内の一角に飾ってるけど、評判良いのよ。『柔らかくて優しい雰囲気が好き』って」
それを聞いて怜が振り向くと、桜彩の絵が見えに入り表情が少し緩む。
六月にイベント用に桜彩が描いた、たくさんの動物とスイーツのイラスト。
イベント後に額に入れて飾られているそれは、このリュミエールの雰囲気にも合っており、とても心が安らぐ。
「あ、それ良いアイデア! 怜君、彼女連れてきなよ!」
すると厨房から出て来た関根がうんうんと頷きながら望に同意する。
「つっても桜彩は結構人見知りするタイプですよ」
過去のトラウマから、桜彩は初対面の人と深く話すのがあまり得意ではない。
幼稚園の子供達ならともかく、同年代や年上に対しては委縮してしまうところがある。
転校してきた当初は蕾華が積極的に絡んでいった為、女子とは早めに打ち解けることができたが。
「あ、そうなの?」
怜の言葉に関根が残念そうに声を出す。
「はい。だから難しいと思います」
「うん、それは私もなんとなく分かってる。でも桜彩ちゃんって気遣いがあるでしょ? 接客業でそういう子って、貴重よ」
望はそう言って、いたずらっぽく片目をつむる。
「なによりさ、怜君だって彼女さんと一緒に働きたいでしょ?」
「……からかわないでくださいって」
「えー、ちょっとくらいいいじゃない。ねぇ、『彼女と一緒に働けるバイト先』って、最高じゃない?」
照れくさそうに目をそらす怜に、望はふわりと笑った。
「桜彩ちゃんのことを大切にしてるのは凄く伝わってくるし、ちゃんと恋人として尊重してるのもわかるよ。だけどね、そういう子にうちの看板を任せてみたいって思ったの」
「…………」
「それにさ、こう言っちゃなんだけど、人と人とのコミュニケーションは将来避けては通れないでしょ? その点、このお店の従業員はみんな優しいし、桜彩ちゃんだって働きやすいと思うんだ。だからさ、今のうちにそういうのを経験してみるってのも良いと思うよ」
望の言葉に少し考えてみる。
確かに今の高校生活は問題ないかもしれないが、将来的に対人関係は避けては通れない道だ。
特に獣医となった後は、直接客とのコミュニケーションが求められる。
そういった意味で、リュミエールで経験を積むというのは桜彩の為になるのかもしれない。
「……分かりました。俺から、桜彩に話してみます」
「うん、よろしく。もちろん、無理はしなくて良いからね」
「はい。……でも、きっと、桜彩なら頑張れると思うんです」
これまでの桜彩とのことを思い出しながら頷く。
その言葉に、望は満足げに頷いた。
「言い方がもう彼氏って感じで、うん、ごちそうさま」
「ひゅーっ! いやー、ついに怜君の彼女と話せるのかーっ」
「もう……。二人共やめてくださいってば」
その後、片付けを終えて桜彩が働くことについてしばらく話し合う。
当然、望をはじめとする何人かからのからかいも入ったが。
焼き菓子の香りとともに、ほんのり甘く、照れくさい会話が厨房に響く。
それは、恋人になったからこそ見える新しい日常の始まりのひとコマかもしれない。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
まったりとした時間が流れるリビング。
洗い終えたカップを拭いていた桜彩に、怜は静かに声をかける。
「桜彩。ちょっと話したいことがあるんだけど……今、大丈夫か?」
「うん。どうしたの?」
唐突な問いかけに、桜彩はふわりと微笑んでくれる。
怜は少しだけ姿勢を正し、言葉を選びながら続けた。
「リュミエールのことなんだけどさ」
「うん」
「実は、八月の後半にちょっと人手が足りなくなりそうで。望さんが、誰かアルバイトできる子いないかって聞いてきてさ」
「それって……」
言わんとすることが分かったのか桜彩が目を丸くする。
「桜彩、リュミエールでアルバイトしてみないか?」
一瞬、桜彩の手がぴたりと止まった。
そして、ほんの少し戸惑ったように言葉を返す。
「私がリュミエールで……?」
「ああ。前に桜彩がリュミエールで簡単なアルバイトをしたって言ってただろ?」
「うん。まあ、正確にはアルバイトじゃなくお手伝いだたけどね」
先日、望がイラストで困っている時に、桜彩が絵を描いたという話は怜も聞いた。
せっかくなら本格的にアルバイトを初めるというのも一つの選択肢だろう。
「もちろん無理なら断ってくれてもいい。でも、望さんも『しっかりしてそうだし、お店の雰囲気に合うと思う』って言ってた」
「そっか……」
洗い物を終えて少し沈黙が落ちた。
「嬉しい、っていう気持ちはあるんだけど、私、人見知りだから。新しい場所とか、初対面の人がたくさんいると、凄く緊張しちゃって……」
言葉を選びながら、桜彩は手を拭いてそっと視線を落とす。
「望さんや光さんは知ってるけど、他のスタッフさんとか、お客さんとか……。上手にできるかなって、不安で」
その声はほんの少し震えていた。
桜彩が知らない人を相手にすることに不安を抱えているのは良く分かる。
だが怜は、そんな桜彩の悩みを否定することなく、そっと微笑む。
「確かに桜彩は誰にでも明るく話すタイプじゃないけど……。でも物事には丁寧に向き合うだろ。ラッピングのリボンだって、手紙の文字だって、凄く丁寧だし」
怜がそう告げると、桜彩は嬉しそうに頬を染める。
「……そんなふうに思ってくれてたんだ」
「ああ。望さんも、桜彩なら大丈夫って言ってた」
それを聞いて、桜彩は小さく笑う。
だが、まだ不安は消えていないようだった。
「……でも、万が一失敗したら、怜に迷惑かけちゃうかも……」
「それなら、俺も一緒にいるから安心していいぞ。ミスしてもフォローするし、初日はずっとそばにいる。そこは望さんに許可貰ったから」
「……ほんとに?」
「ほんと。こんな嘘はつかないって」
「疑ってないけどさ……。でも、優しすぎてちょっとずるい」
桜彩が照れたように笑う。
怜はそっとその手を取り、指先を軽く包む。
「ゆっくりでいい。少しずつでいいから。もし一歩踏み出せるなら、俺はすごく嬉しいよ」
将来、獣医になるのであれば、どうしても対人関係は重要になってくる。
であれば望の言っていたように、今の内から徐々に改善に向けて努力した方が良い。
「……うん。私、やってみようかな」
「ありがとう。きっと、お店の人達も喜ぶよ。皆優しい人達ばかりだから、桜彩も安心できると思う」
「そうなんだ。うん、頑張るね」
「それじゃあ望さんには話を通しておくから。あ、あと一応履歴書も作ってくれ」
「うん。分かったよ」
桜彩の新しい一歩が始まろうとしていた。
あのイラストを描いた時には想像もしていなかったであろう未来がゆっくりと近づいてくる。
次回投稿は月曜日を予定しています




