第403話 「行ってらっしゃい」と「行ってきます」 ~おまけを添えて~
「はい、桜彩。これお願い」
「うん、任せて。次はお皿だね」
旅行から帰って来て数日後の朝、いつものように二人で朝食の後片付けを行う。
もう旅行の特別感はすっかりなくなって、二人で過ごす日常だ。
「お皿、そっち置くよ」
「ありがと。そっちは俺が洗うから」
並んで立つキッチンで、怜がシンクの蛇口をひねる。
スポンジで泡立てた食器をそっと渡すと、桜彩が洗い終わった皿を拭いていく。
もうすっかり手際の良くなった桜彩と楽しく片付けを行っていく。
「ふふっ。なんか良いよね、こういうの」
「そうだな。何か特別ってことはないんだけど、こうやっていつもを一緒に過ごせるのって幸せだよ」
「うん」
こうして大切な恋人と当たり前のように日常を過ごすことができる。
それだけで充分すぎるほど幸せだ。
「今日のスクランブルエッグ、ほんとに上手くいったよな」
「でしょ? 私、もう卵割るの失敗しないよ」
「ちゃんと成長してるんだな。えらい」
「……ふふっ、褒めても何も出ないよ」
洗い物が終わり、蛇口を止める桜彩。
そう言いながらも、その横顔はどこか誇らしげだ。
そんな桜彩が可愛らしく、怜は優しく桜彩を見つめる。
「そっか。桜彩からは何も出ないと思うけどさ、俺からは……」
そう言って怜は水気を拭いた手を桜彩の頭へと伸ばし、優しく触れる。
「えらいえらい」
「えへへ~」
優しくなでなでと頭を撫でると、怜の手に頭をこすりつけるように甘えてくる。
まるで人懐っこい猫のように。
なんとなく桜彩の頭に猫耳と、お尻に尻尾が見えたような気がした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「怜のアルバイトは九時からだよね?」
「ああ。十六時までだな」
本日はリュミエールでのアルバイトが入っている。
ついでに旅行のお土産も渡すつもりだ。
「さてと、そろそろ準備するかな」
「今日って、お店混みそう?」
「多分。新作出したからな。たぶん昼からがピークだと思う。予約分も数入ってるし」
「ふふっ。相変わらずリュミエールは大人気だね」
相も変わらずリュミエールの売れ行きは好調で、ピークの時間帯はかなり忙しい。
イートインよりもテイクアウトのお客さんの方が多いのはある意味では助かっているが。
「桜彩と離れ離れになるのは辛いけどな」
「……うん、私も」
少しだけ寂しそうにしながらも、すぐに笑顔を作って頷いてくれる。
「がんばってね」
「ああ。じゃ、着替えてくる」
怜は軽く手を振って寝室へと向かう。
数分後、準備を終えてリビングに戻って来ると、桜彩もソファーの前で待っていた。
桜彩の方はこの後一度自室へと戻り、昼前に蕾華と待ち合わせの予定とのこと。
「忘れ物、なし?」
「完璧。それじゃあ行くか」
怜がそう答えて、二人で玄関へと歩いて行く。
玄関から出てお揃いのキーホルダーの付いた鍵で施錠をする。
鍵を鍵穴から抜こうとしたその時だった。
「……怜」
桜彩の声が、怜の背中から静かに響いた。
「ん?」
振り返った瞬間、後ろにいた桜彩が一歩、駆け寄るように近づいてくる。
気付いた時にはもう目の前。
そして、ためらいのない動きで、そのまま背伸びして怜の頭へと手を伸ばし――
「ちゅっ……」
唇に、柔らかな感触が伝わってきた。
「……!」
完全に不意打ちだった。
ほんの数秒の軽いキス。
でもその温度は、怜の動きを完全に止めるには充分だった。
桜彩はすっと離れると、視線を逸らしながら両手を胸の前でぎゅっと握りしめる。
「い、行ってらっしゃいの……キス……」
そう、ぽそりと口にした。
顔は真っ赤で耳まで赤く染まっているのが良く分かる。
「…………うん」
怜も赤い顔のままにこりと桜彩に笑いかける。
「な、なんだか照れるけど、こういうのって良いよな」
「うん。私、前からやってみたくて……。それで、ついチャンスだなって思って……」
まるで仲の良い新婚のような行為。
怜としてもそれを意識して照れてしまう。
「そ、それじゃあね、怜」
「待って、桜彩」
「え?」
自室の玄関へと足を向けた桜彩の背中に向けて声を掛けるときょとんとして桜彩が振り向く。
その瞬間、怜は桜彩への距離を詰めて
「ちゅっ…………」
不意打ちで唇を奪った。
先ほどと同様に柔らかく温かい桜彩の唇を堪能する。
数秒後に唇を離すと、桜彩が驚いた眼でこちらを見てくる。
「え、えっと……怜……?」
「……行ってきますのキス」
「え…………」
先ほどよりも顔を赤くして照れてしまう桜彩。
むろん怜としても、自分の顔が真っ赤になっていることは容易に想像がつく。
「あ、ありがと……」
「ど、どういたしまして……」
照れながら桜彩と向き合う。
たった今キスをしたばかりの桜彩の唇に視線が吸い寄せられてしまう。
「なあ、桜彩」
「うん……」
「そ、それじゃあ最後にさ、行ってきますと行ってらっしゃい、両方まとめて、しないか……?」
「う、うん……。ちゅっ……」
「ちゅっ……」
今日の中で一番長く唇を触れ合わせる。
とはいえいつまでもこうしているわけにもいかない。
多大なる名残惜しさを感じながら唇を離す。
「それじゃあ行って来るよ」
「行ってらっしゃい」
そして今度こそ怜はエレベーターへと向かって足を進めた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
(い、行ってきますと行ってらっしゃいの、キス……)
以前、桜彩が風邪を引いた時にもそんなやり取りがあった。
しかし今回はそれだけではなく、とんでもないおまけ付きで。
リュミエールへと歩きながら、まだ唇の感触が残っている気がしてどうにも気が散ってしまう。
果たして今、自分はどのような顔をしているのか、普通に歩けているだろうか。
道ゆく人の視線がやけに気になってしまう。
「あんなの反則だって……」
信号を待ちながらぽつりと独り言。
もし隣に陸翔や蕾華がいれば、きっとからかわれていただろう。
それでも、どうしても、頬のゆるみを止められない。
『行ってらっしゃいのキス』
耳の奥で、桜彩の声が蘇る。
勇気を出して、まっすぐな気持ちをくれた桜彩。
ふと、ポケットの中のスマホが震えた。
取り出してみると、桜彩からのメッセージが一件。
「お仕事頑張ってね ちゅっ」
文末にはいつもの猫スタンプではなく、キスのイラストが添えられていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
自室へ入り玄関のドアを静かに閉めて、桜彩は大きく息を吐いた。
本来であればアパートの通路から怜の姿が見えなくなるまで見送っていたかったのだが、さすがに今の自分にそれはできない。
以前、風邪を引いた時にもそんなやり取りがあった。
しかし今回はそれだけではなく、とんでもないおまけ付きで。
先ほどは『行ってらっしゃいのキス』だなんて、よく言えたものだ。
自分でも信じられない。
「うわああああ……」
なんとかリビングまで歩くと、そこにあるソファーに崩れ落ちるように倒れ込む。
心臓の音がバカみたいにうるさい。
「なにしてるの、私……」
思わず口をついて出た言葉に、更に恥ずかしさが込み上げてくる。
でも――
「怜も喜んでくれた、よね?」
キスをした直後、怜の驚いたような、それでいて照れた顔を思い出すと自然と口元が緩んでしまう。
ソファーの上で身体を丸めたまま悶えてしまう。
「うわ……。だめ、思い出すだけ……」
そっとスマホを開いて、怜とのメッセージ画面を呼び出す。
そこへ『お仕事頑張って』と打ち込み――その後に『ちゅっ』と付け加える。
「うぅ……」
これだけで先ほどのキスを思い出してしまい、恥ずかしさが倍増してしまう。
(さ、さすがにこれは送れないよね……)
これをこのまま送ってしまえば恥ずかしさで死んでしまうかもしれない。
そう思ってメッセージを消そうとしたのだが
(で、でもどうせ消すんなら……その前に…………)
そう思ってメッセージの後にキスのイラストを付け加える。
「――ッ!!」
これ以上はもう無理。
慌ててメッセージを消そうとするが、動揺してしまい手元が震えてしまう。
シュポッ
「え……?」
震えた指先が、どこか変な所に触れてしまった。
それに気が付いた時、既にメッセージは送信されてしまった。
「あっ……!」
今すぐにメッセージを消去しなければ、そう思ったのだが、既に既読が付いている
「う…………ううううううう~っ!!」
桜彩の部屋のリビングに悲鳴が響き渡った。




