第402話 バルーンアート
昼下がりの陽射しが、カーテン越しに柔らかく差し込んでくる。
外は夏の暑さが真っ盛りだが、冷房の効いたリビングの中では関係ない。
そんな部屋のリビングには、カラフルなバルーンがいくつも転がっていた。
ボランティア部の活動において子供を相手にした怜の持ちネタの一つ。
二年生になってから作っていなかったので、コツを忘れないように練習がてらに作っている。
「――ねじって、ひねって、ここでキュッと……っと」
ソファーに座る怜は真剣な眼差しで両手にもった青いバルーンに集中する。
少し力を加えるだけで、細長いバルーンがまるで生き物のように指先でくるくると変形していく。
少しずつ形を変えていくたびに、楽しかったり面白かったり、上手くいかずに悩んだり。
桜彩が座るのはその隣、いつもの桜彩の定位置――ではなく怜の正面。
怜から少し離れた位置で、スケッチブックを膝に置いて鉛筆を走らせている。
「怜、また顔しかめてるよ」
「え、マジで? そんなに?」
「うん。なんか、世界が終わるかのような真剣さ」
クスリと笑いながらそう告げてくる。
「これ、けっこう細かいし難しいんだよ」
怜が苦笑しながら振り返ると桜彩はスケッチブックをこちらに向けて見せてくる。
描かれていたのは、先ほどまでの怜――バルーンに集中しすぎて眉間に皺を寄せるその表情がとても分かりやすく描かれていた。
「……うわ! こんなに険しい顔してたのか?」
作業中に自分の顔を見ることはできないし、一々表情に気を配ったりはしない。
桜彩の描いてくれた自分の顔を見て、思わず苦笑してしまう。
「でもさ、それもかっこいいから困るんだよね。描いててドキドキした」
「そ、それは……。桜彩、ずるいぞ、そういうの」
「ふふんっ。恋人の特権ってやつだよ」
「う……。そ、それじゃあしょうがないよな……」
「うん。しょうがないよね」
胸を張った桜彩がいたずらっぽく笑う。
怜は照れ隠しに視線をバルーンに戻したが、指先の動きは少しだけぎこちなくなってしまう。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「じゃん。――ウサギ、できた」
ついにバルーンアートが完成すると、対面に座っていた桜彩がぱっと顔を上げてこちらを見てくる。
その視線は、まるで小さな子どもみたいにきらきらしていた。
「ほんとだ、可愛い……。耳がぴょこんってなってる」
「そこがポイント。ウサギと言えばやっぱり長い耳だからな」
「うん。怜が作るとウサギまでちょっと頼れる感じになるね」
「それは褒めてるのか?」
「うん、たぶん。いや、絶対」
ふふっと笑う桜彩に怜も心が温かくなり、少しだけ照れたように笑いながらバルーンをそっとソファーテーブルの上置いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「それじゃあ次はいよいよ猫だな」
練習のウサギが終わったところで、次は本命である猫にチャレンジする。
「待ってました! でもほんとに作れるの?」
「まあ多少なりともコツは分かったから。少なくとも、それっぽくはなると思う」
「うん。楽しみにしてるね」
冗談交じりに笑いながら細長いベージュのバルーンを取り出し、指先でくるくると軽く引っ張って伸ばし、空気の入りやすいように柔らかく整える。
ポンプの先端に差し込んで、ぎゅっと一度手を握る。
空気の入る音が響き、バルーンが少しずつ膨らんでいき、すぐに艶やかな細長い筒へと形を変えていった。
「……これ、力加減難しいんだよな。ちょっとでも入れすぎると破裂するし」
「え、そんな繊細なの?」
「ああ。それに結んだりする分も考えなきゃいけないし」
バルーンの端を手早く結び、怜は先ほどよりも慣れた手つきで作業に取りかかった。
まず先端を小さくひと巻き、キュッとひねって頭の部分を作る。
次に、そこから数センチ下を再びひねって首と胴体を分けるような形に。
「ここまででだいたい胴体の構成は半分って感じかな」
期待するような眼差しを向けている桜彩へと簡単に説明する。
やはり猫を作っているというのは気になるのか、スケッチブック進捗は先ほどよりも遅いようだ。
「へえ……。そのひねりだけで、ちゃんと形になるのが凄いよね」
「まあな。……こっからちょっと工夫する」
怜は手を止めずに、同じバルーンの中でくるくると節を作りながら、前脚、胴、後脚と一つ一つの部位を形成していく。
途中、何度かバルーンがギュギュッと不安定な音を立てる。
そのたびに桜彩はスケッチブックから目を離して不安そうに見つめてくる。
「割れない……よね?」
「割らないように気を付けてるけど、でも割れたらごめん。そのときはもう一回やる」
「見てるこっちが緊張するよ」
「まあさっきは大丈夫だったし」
笑いながら最後に残った先端部分を丸くまとめて、ふわふわとしたしっぽを作った。
「……ふぅ、よし。こんな感じ」
バルーンを割ることなく何とか完成にこぎつける。
見た目的にもまあ猫と呼んでも良い出来だろう。
完成したバルーンアートを手に取り、怜は少し得意げに微笑んだ。
「わあっ! ほんとに猫っぽい!」
「だろ? 耳とか首の長さとか、ちょっとこだわったんだよ」
「後は顔を描いて完成だよね」
「そうだな。目はシールなんかも付属してるけど、でもマジックで描き足すか。桜彩、お願いして良いか?」
付属品のシールよりも、猫好きで絵の上手な桜彩が描いた方が可愛いだろう。
「うんっ! まっかせて!」
頼られたことが嬉しいのか胸を張って桜彩が頷く。
桜彩は一度スケッチブックを置いて、細めのペンを手に取る。
「それじゃあ描くね」
「楽しみにしてるぞ」
桜彩はすぐにサラサラと目、鼻、口、髭を描き加える。
それだけで先ほどのバルーンアートがより猫っぽくなった。
「うん。猫ちゃん完成!」
「可愛いよな」
そっとバルーンを持ち上げる。
顔の描き足されたバルーン猫もなんだか嬉しそうだ。
「そうだ。桜彩が描いていた絵の方はどうなったんだ?」
「うん。完成したよ。見る?」
「もちろん」
当然ながら見ないという選択肢はありえない。
机の上に置かれたスケッチブックを開くと、そこには先ほど見た絵が完成していた。
風船をねじる手つきに真剣な横顔。
それでいて表情の奥にある微かな笑み。
それはきっと、桜彩だからこそ描くことができたのだろう。
「やっぱ凄いな……」
胸の奥から自然と言葉が零れ落ちる。
これまでにも怜は何度も桜彩の描いた絵を見てきた。
しかしこれはこれまでで一番引き付けられる。
「いや、ほんとに。言葉で言うのは難しいけどさ、凄いなって」
スケッチブックから目を離せなくて、だけど、桜彩の方も見たくて。
スケッチブックと桜彩の間を視線が何度も行き来する。
「……俺、こんな顔してたんだな」
「……うん。真剣で、ちょっと不器用で……。でも、本当に優しい顔」
「……桜彩がさ、そう見てくれてたってことが、何より嬉しい」
心がふわりと溶けていくようで、気づけば声まで穏やかになっていた。
言いながら、そっと桜彩の指先に触れる。
「うん。こういう怜は前から知ってたけどさ、でもこうして絵に表現できるようになったのは、やっぱり恋人になったからかな?」
嬉しそうに、はにかみながら告げる桜彩。
「そうだな。そうかもしれないな」
絵の中の自分がまるで桜彩に笑いかけているようで――不思議な感覚だった。
「桜彩に描いてもらえた俺って……ちょっと、かっこいいかも。この絵の中の俺に嫉妬しそう」
「……ちょっとじゃないよ。凄くかっこよかった」
「む……。嬉しいけど悔しいって言うか……」
「ふふっ、大丈夫だよ。現実の怜はこの絵よりももっと素敵だからさ」
頬がほんのりと赤く染めながら、桜彩が口にしてくれる。
その言葉に嫉妬心が全て照れに変わってしまった。
「ねえ、怜。絵のご褒美、貰える……?」
桜彩の上目遣いでのおねだり。
もちろんその答えは決まっている。
「もちろん。……ちゅっ」
「ん……」
桜彩と優しく唇を合わせる。
一度離れた後、今度は自分の希望を口にする。
「それじゃあさ、バルーンアートのご褒美が欲しいな」
「怜……ちゅっ」
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