第401話 パンと口元のクリーム
桜彩と共に楽しい散歩デートを終えて、自室へと到着。
手を洗ってリビングへ入ると、出発前にスイッチを入れた冷房が体を冷ましてくれる。
「わぁっ。まだパンの香りがするし、ほかほかだね」
桜彩が紙袋を抱えたまま、嬉しそうに鼻をくすぐる。
そんな桜彩の仕草を見て、怜も心が温かくなる。
「焼きたてって幸せだなあ……」
「ほんと、それだけで朝からテンション上がるよな」
テーブルの上にパンを置く。
これだけでもうお腹が鳴りそうだ。
「早速食べたいけどサラダとコーヒーも用意するか。あっ、さっきコーヒー飲んだけど紅茶の方が良いか?」
「ううん、コーヒーで良いよ。私もお手伝いするね」
桜彩もエプロンを着用してキッチンに入る。
「ドレッシングどうする? この前怜が作ってくれたやつ、まだあるよね」
「あるある。あれ、オリーブオイルとバルサミコのやつ。ベビーリーフに合うよ」
冷蔵庫から瓶を取り出し、丁寧に蓋を開ける。
野菜を包丁で切りながら、ちらりと桜彩の横顔を見る。
ケトルにお湯をセットした後、楽しそうにコーヒーの準備を始めている。
「ん、どうしたの?」
「いや、なんだかこういう普通の一時も幸せだなあって」
恋人になったからといって特別な事ばかりをしなければいけないわけでもない。
こうして今まで通りの日常も充分すぎるほどに幸せだ。
「えへへ。私もだよ」
桜彩も怜の言葉に頷いてくれる。
丁度野菜を切り終え包丁を置いたところで、桜彩がこちらに向かって顔を上げた。
「怜、ちゅっ、てして?」
「桜彩……」
目を閉じた桜彩に唇を重ねる。
一度唇を離すと、今度は桜彩の方から唇を重ねてくれる。
「怜……。好き……」
「桜彩……。好きだ……」
そのまま何度もキスを繰り返して、名残惜しそうにしながらも唇を離す。
「サラダ盛りつけるね。あとパン温めようか?」
「ああ。キッシュとクロワッサンは少しトースターで温めたほうがいいかも」
「ふふっ、了解」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「よし。これで完成だ」
「わぁっ!」
怜の部屋のリビング、そのテーブルの上にサラダの入ったボウルを置くと、それを見て桜彩が歓声を上げる。
テーブルに並ぶのは自家製ドレッシングが添えられたサラダと湯気の立つコーヒー、そして先ほどパン屋にてかって来た多数のパン。
これが本日の朝食だ。
「それじゃあ食べるか」
「うん。いただきまーす」
「いただきます」
二人揃って手を合わせてまずはサラダを一口。
緑の上にそっと置かれたチーズとトマトの色彩が目に嬉しい。
そしていよいよ待ちに待ったパンに手を伸ばす。
まずは二人揃ってワックスペーパーに挟まれたカレーパンを手に取る。
揚げカレーパンということで直接持つのではなく、ワックスペーパーごと手に持ってかぶりつく。
「んん~っ!」
一口齧ると、ザクザクの揚げ衣の感触と、そしてあふれ出るカレー。
目の前の桜彩の口から幸せそうな声が漏れる。
「すっごく美味しいよ」
「俺も久しぶりに食べるけどやっぱ美味しいよな、これ」
「うんっ! 中に大きなお肉が入ってて食べ応えもあるし」
一番人気で怜も好物のカレーパン。
あまりの美味しさに二人揃ってすぐに食べ終えてしまった。
「次はこれ食べるか。ベーコンエピ」
そう言って怜はベーコンエピを一ピースちぎって桜彩へと差し出す。
「はい、あーん」
「あーん。カリッとしててジューシー……。朝から贅沢だなあ」
幸せそうに頬を膨らませながらうっとりと呟く桜彩。
そして怜の持っていたエピをその手に持って、先の例のようにちぎって差し出してくる。
「それじゃあお返しね。はい、あーん」
「あーん……。美味しい。ベーコンの塩気が俺好み」
「だよね。次はキッシュにしようか。これもちゃんと半分こね。はい、あーん」
キッシュをフォークで半分にして差し出してくれる。
「あーん」
「どう?」
「うん、キッシュもいい感じ。生地がサクサクだし」
「それじゃあ次は私も」
そんな感じでお互いにパンを食べさせ合っていく。
「さっきも言ったけどさ……。こういうのって、凄く良いな」
「うん……。旅行も楽しかったけど、こうやって二人で怜の部屋で朝ごはん作って、食べるのも……凄く幸せ」
桜彩の声には、少し照れたような優しさが混ざっていた。
「俺達さ、恋人になる前からこんなに幸せな事してたんだよな」
「うん。思い返せば凄いことしてたよね」
手を繋いだり膝枕をしたりあーんで食べさせ合ったり、その他諸々。
今にして思えばそこらの恋人以上のことをやっていたのかもしれない。
「ほんと、今のこの瞬間が幸せ過ぎ」
「だよね。こうした日常を過ごせるのが一番幸せなのかも」
そんな幸せを感じながら、最後のパン、猫の形をしたパンへと手を伸ばす。
「チョコちゃんとカスタードちゃん、可愛いけどごめんね」
名前を付けるほどに愛おしい猫パンに謝りながら、二人でそれをちぎっていく。
当然ながらこれもお互いにあーんで食べさせ合う。
「うん。これも美味しいね」
「ああ。美味しかったな。……あれ?」
それを発見した怜は眉をひそめながら微笑む。
「ん? どうしたの?」
「桜彩の口にクリームが付いてる」
桜彩の口先にはほんの少しのカスタードクリームが付いている。
テーブルの傍らに置いていたスマホを差し出すと、ブラックアウトしている画面を鏡にして桜彩へと見せる。
「わあ、ホントだ……。あ、でも怜も、ほら」
怜も桜彩から返されたスマホで自分の口元を眺めてみる。
そっと桜彩に指さされた口元には、甘いチョコクリームがついていた。
「ははっ」
「ふふっ」
二人で顔を見合わせて笑い合う。
「なあ、桜彩。今日の朝食のデザートはこの猫パンだったけどさ、まだクリームが残ってるよな」
「……うん、私も。もっとクリームを食べたいな」
怜がそう言うと、桜彩も頬を赤らめながら頷いてくれる。
二人で椅子から立ち上がり、お互いの元へと歩いて行く。
心臓の音が急に大きくなった。
ゆっくりと、少しずつ顔を近づける。
お互いの吐息が混ざり合い、かすかな甘い香りが鼻をくすぐった。
怜の手がそっと桜彩の頬に触れ、指先で髪をかき上げる。
ふわりとした髪の感触が心地よく、思わず息を詰める。
「ちゃんと、クリームまで全部食べないとな」
「うん。最後の一口まで、ね」
桜彩も頷き、そっと目を閉じる。
そして、相手の唇についたクリームへと唇を伸ばし、触れ合う。
ふわりとした柔らかさと温かみがじわりと心に広がり、甘いカスタードとチョコの香りが混ざり合う。
桜彩の手が怜の首に回り、ぎゅっと引き寄せてくる。
怜も桜彩の腰に手を添えて優しく抱きしめた。
キスは次第に深くなり、途切れそうで途切れない甘い呼吸が二人の間に漂う。
「ふぅ……」
「ん……」
唇を離してお互いの顔を見つめ合う。
今の行為で口元に付着していたクリームは全てなくなってしまった。
だが――
「……まだ、クリーム残ってる」
「……怜もだよ」
そしてもう一度、見えないクリームを目掛けて唇を合わせた。
「幸せ……」
潤んだ目で怜を見上げながら桜彩が呟く。
怜も微笑みを返しながら、そっと桜彩の手を握った。
「これからも、ずっと一緒にこんな時間を過ごしていこう」
「うん、約束だよ」
新たな朝の光の中で、二人の距離はこれまで以上に近く、確かなものになっていた。




