第387話 日焼け止めとお礼
「それじゃあ怜、お願い」
「ああ。それじゃあ塗っていくぞ」
「うん」
昨日と同じように、海に入る前に桜彩に日焼け止めを塗ることになった。
昨日と違うのは、水着のホックは既に外されており、背中が完全に丸見えになってしまっている。
その背中に怜は手を当てて日焼け止めを伸ばしていく。
「冷たいかもしれないけど我慢してくれよ」
「大丈夫だよ。昨日だって塗ってもらったんだから」
やっていることは昨日よりも大胆なのに、緊張は少ない。
背中に優しく日焼け止めを伸ばす。
そのたびに桜彩の肩が、かすかに震える。
「……やっぱりくすぐったいか?」
「少し、だけ……」
「ごめん、なるべく手早くやるから」
「ううん……丁寧で嬉しいよ。それにやっぱり怜の手は気持ち良いから」
「ありがと。それじゃあこんな感じで続けていくぞ」
桜彩の言葉を嬉しく感じながら、日焼け止めを塗り広げていく。
怜の指が肩甲骨をなぞるたびに、桜那の頬がほんのり染まっていくのが分かる。
「……昨日もこうして塗ったけどさ」
「うん」
「なんか、昨日とは全然違うな」
「私も分かるよ。昨日は、まだ……恋人じゃなかったから」
静かに返される言葉に、怜の胸がじんわりと熱くなった。
「不思議だよな。手に伝わる感触まで変わってる気がする」
「それ……私も……。怜の手、優しい」
怜の手が背中から肩へと移動するにつれ、二人の距離はますます近くなっていく。
「なんだか昨日より丁寧になってない?」
「恋人になったから、グレードアップしたってことで。ほら、昨日はやっぱり緊張してたからさ。まあ今も昨日ほどじゃないとはいえ緊張してるけど」
「ふふっ。確かにそうだね。こうして丁寧に塗ってくれるの嬉しいなあ……」
怜の冗談には小さく笑う桜彩。
けれどその声も背中も、どこか恥ずかしそうだった。
やがて肩までしっかり塗り終え、怜は桜彩の肩を軽く叩く。
「次、腕塗るぞ」
「うん」
桜彩がうつ伏せになったまま、隣に座る怜に左手を差し出してくる。
再び日焼け止めを出して、左腕に丁寧に塗っていく。
指が触れるたび、桜彩は少しだけ体を縮こませる。
けれど、それでも逃げたりはしない。
指先まで丁寧に日焼け止めを塗っていく。
「桜彩」
「うん」
きゅっ、と。
日焼け止めを塗るついでに手を握り合う。
何も言わずに見つめ合う、それだけで心が満たされていく。
ずっとこうしていたいが、さすがにそういうわけにもいかない。
「次、右手な」
「うん……」
名残惜しそうにしながらも手を離し、逆側へと回って同じように右手にも日焼け止めを塗っていく。
「それじゃあ脇腹にも塗っていくぞ」
「うん」
昨日は躊躇してしまったその場所へと、そっと腕を伸ばしていく。
と、そこで怜はそれに気付いた。
「ここ、脇腹……少し焼けてるっぽい。ちゃんと塗っとかないと」
「え? ホント?」
昨日も日焼け止めを塗ったのだが、緊張していたせいか充分に塗り切れていなかったようだ。
怜はふぅ、と小さく息を吐き、彼女の腰元へと手を伸ばす。
「桜彩。ちょっと……横、上げて?」
「……え?」
「ちゃんと塗っておくからさ」
「う、うん……」
躊躇いがちに桜彩が両腕を少し上げると、指先でゆっくりと脇腹に触れる。
薄く伸ばされた日焼け止めが肌に広がっていくと、桜彩は小さく身をよじる。
「な、なんだかくすぐったいよ……」
「我慢してくれ。ほら、こっちも」
怜は指先をなるべくそっと触れるように、けれど確実に肌の上を滑らせていった。
その仕草はどこか慎ましく、そして自分で思った以上に丁寧に。
「これで後ろは完了。前……自分でいける?」
「……塗ってもらっても、いい?」
一瞬の沈黙のあと、桜彩が小さな声でそう言った。
桜彩の得意技である上目遣いのおねだり。
「……ああ。もちろん」
「そ、それじゃあ仰向けになるね」
そう言って桜彩は体をぐるりと回転させ――
「ってちょっと待った! 水着の後ろ、閉じてないから!」
慌てて怜が桜彩の両肩を掴んで静止させる。
日焼け止めを塗る為に桜彩の水着の後ろについているホックは外れたまま。
このままでは仰向けになった時に水着が外れてしまう。
「え……? あっ! ご、ごめんっ!」
体を動かそうとしていた桜彩が慌てて動きを止める。
羞恥で震える桜彩の水着を、怜が後ろで留める。
「お、オッケー。もういいぞ……」
「う、うん……。ありがと……」
怜が頷くと、桜彩はぎこちなく仰向けになる。
胸元にある大きなふくらみが、より一層その存在を主張している。
その胸部を隠すように桜彩は両手で胸元を押さえ、目を伏せながら小さな声で
「……その、目……逸らさないでほしいけど、じっと見られるのも……ちょっとだけ、恥ずかしい……」
「わ、悪い。そしたら目線は……これくらいで」
「うん、それで……」
怜はできるだけ真面目な顔を作って、そっと桜彩に日焼け止めを伸ばし始めた。
指はゆっくりと、桜彩の腹部へと降りていく。
みぞおちのあたりに広げながら、怜は無意識に息を止めていた。
そこから下へ、指先がおへそのあたりに触れると、桜彩がぴくりと肩を震わせた。
「ん……」
桜彩の口から小さな声が漏れ、怜は思わず手を止める。
「……痛かった?」
「ううん……。その、ちょっと、くすぐったくて……」
顔を真っ赤にした桜彩は、両手でタオルをぎゅっと握りしめたまま、視線を泳がせていた。
「へえ……。くすぐったいのって、ここ?」
「え? ひゃんっ!」
桜彩の反応にイタズラ心がくすぐられ、ついおへそへと指を伸ばしてしまう。
「れ、怜っ!?」
「あはは、ごめん。でも、ちゃんと塗らないと焼けちゃうからさ」
できるだけ優しく、指先でおへその周りに伸ばしていく。
おへそそのものには触れないようにしつつ、指はその周囲をなぞるように動く。
柔らかい皮膚の感触に、怜の心臓がやけにうるさくなる。
「れ、怜……」
「うん?」
「……もう少しだけ、早く終わらせてくれると、嬉しいかも……」
桜彩の言葉には、責めるような響きはなかった。
むしろ、照れ隠しの中にほんの少しだけ名残惜しさが気持ちが混じっているようにも感じられた。
怜は小さく笑って頷き、手早く残りの部分に日焼け止めを塗り終える。
「……終わり。はい、よく頑張りました」
「むぅ……。まるで子ども扱いだよね……。でも、ありがと」
少し不満そうにしながら、それでいて満足そうに桜彩が体を起こす。
ようやく顔を上げた桜彩の笑顔が怜の胸にじんわりと沁み込む。
「ねえ、怜」
「ん? どうかしたのか?」
「日焼け止め、塗ってくれてありがとね」
「気にしないで良いって。その……恋人なんだし」
「そ、そっか……。こ、恋人だもんね……」
顔を真っ赤にして照れてしまう。
「で、でもね。ありがとうって思ってるのは本当だからね。その……だ、だから、怜……」
桜彩がそっと怜の顔へと手を伸ばしてくる。
桜彩の手で視界が塞がれてしまう。
『いったい何を?』
そう問おうとしたのだが、それを口にすることはできなかった。
なぜならその言葉を発するよりも早く
「ん…………」
唇に何かがそっと触れた。
いや、何かではない。
この感触は昨夜――
そっと桜彩の手が引かれ、視界が露わになる。
「――――ッ!!!」
目の前には先ほど以上に顔を真っ赤にした桜彩が、目をぎゅっと閉じて羞恥に耐えていた。
「そ、その……、ぬ、塗ってくれた、お礼…………」
「あ、ああ……」
まさかこのようなお礼をしてもらえるとは思わなかった。
恋人同士になりこんなにも近くなれたことが信じられないようで、でも本当に嬉しかった。
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