第353話 後ろから抱きしめて 後ろから抱きしめられて
「それじゃあ桜彩……」
「う、うん…………」
スタート地点に到着すると、そこへおずおずと座る怜。
覚悟は決めたものの、さすがに恥ずかしさまでは消えてはくれない。
とはいえいつまでもこうしているわけにもいかないので、ゆっくりと足を開いていく。
これにより怜の足の間には一人分の座るスペースが出来た。
「お、お邪魔、するね……?」
「ど、どうぞ……」
顔を真っ赤にしながら桜彩の問いに頷くと、桜彩がゆっくりと怜の足の間に腰を下ろす。
そしてそのまま背中を怜へと預けて来た。
怜の方が背が高いとはいえ、視界はほとんど桜彩の後姿が占めている。
(こ、これ……お、思ってたよりも、はるかに緊張する……)
先日の誕生日の翌日、怜の部屋でソファーに座る怜の足の間に桜彩が腰を下ろしたことがあった。
あの時とシチュエーションは似ていると言えば似ているのだが、今の桜彩は普段着ではなく水着姿(にラッシュガード)だ。
大好きな相手が水着姿(一応上着は着ているが)で目の前に座り込んで体を預けてくれている。
緊張しない方がおかしいだろう。
(ま、まあ桜彩もやっぱり緊張は解けてないみたいだし……)
目の前に座る桜彩の後姿。
長く綺麗な黒髪の間からわずかに見えたその耳は真っ赤になっているのが良く分かる。
「はーい。彼氏さん、危ないですからしっかりと彼女さんを抱きしめて下さいねー」
「「えっ!?」」
いきなり耳に届いた声に、桜彩共々横を向く。
そこではおそらくアルバイトであろう大学生と思われる女性がニコニコと笑っていた。
「二人で滑るんならそのままじゃ危ないですよー。途中で二人が離れちゃったりしたら、大怪我に繋がりますからー。ってなわけでほら、彼氏さん。彼女さんをぎゅって!」
(か、彼氏と彼女って……。や、やっぱりそう見られるよな……!)
係員の不意打ちの指摘に心臓がドキリと跳ねる。
これまでに何度も桜彩と恋人同士だと勘違いされたことがあるのだが、未だに慣れない。
いや、むしろ恋心を意識してからは、よりドキドキしてしまう。
「ほら、彼氏さん。早く早く!」
言いながら両腕を前に出して円を描くように回し、虚空を抱きしめる係員。
そんなリアクションを見て、より一層恥ずかしさが増してしまう。
(あ、あいつら、よくこれで普通に滑って行ったよな……)
目の前のコースを見て、直前で滑り降りた親友二人の姿を思い出す。
やはり本物のカップルというのはそういうところ、慣れているのだろう。
先日ソファーで桜彩が後ろに持たれてきた時に桜彩の前に手を回してゲームのコントローラーを操作したのだが、抱きしめるとなれば話は別だ。
とはいえずっとこのままこうしているわけにもいかない。
生唾をゴクリと飲み込み、意を決して声を出す。
「そ、それじゃあ……い、いくぞ……」
「う、うん…………来て…………」
桜彩が小さくコクリと頷きながら返事をしてくれたので、思い切って目の前の桜彩をぎゅっと抱きしめる怜。
(う、うわっ……!)
ここまででも充分に緊張していたのだが、これはもうそんなレベルではない。
水着とラッシュガード越しとはいえ、桜彩を強く抱きしめてしまった。
桜彩の背中に触れていただけの時とはレベルが違う。
桜彩の対応、柔らかさ、香り、うなじの色っぽさや綺麗な髪、その他諸々。
それらがこれまで以上にダイレクトに伝わって来る。
これまで、桜彩と腕を繋いだり、腕を組んだりしたことはあったのだが、こうして抱きしめた記憶はない。
それこそ葉月と初めて会った時、葉月から怜をかばおうと桜彩が頭を胸に抱え込んで来た時くらいではないだろうか。
心臓のドキドキが止まらない。
(さ、桜彩がラッシュガード着ててくれて助かった……。そ、そうじゃ無かったら、俺の心臓の鼓動、桜彩に届いちゃうよな……)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
(れ、怜が後ろに……)
おずおずと怜の足の間に腰を下ろす桜彩。
大切な相手の気配をすぐ後ろに感じながら、ふと視線を斜め下へと向けると怜の足が目に映る。
もう何度も間近で見て知っているのだが、やはり怜は普段の見かけよりも筋肉質だ。
いわゆる隠れマッチョというやつだろう。
(こ、怖いけど、怜がすぐ側にいるって考えればなんだか安心出来るよね……)
そんなことを考えていると、係員の女性が怜に桜彩を抱きしめるように注意するのが聞こえてくる。
(えっ……!? あ、そ、そうだよね……。さ、さっきの蕾華さんや陸翔さんみたいに、怜にぎゅって……!)
直前で滑り降りた親友二人の姿を思い出し、よりドキドキしてしまう。
(そ、それに、私達の事、彼氏と彼女だって……。や、やっぱりそう見えちゃうよね……! う、嬉しいな……!)
係員の言葉に顔を真っ赤にしてしまう。
これまでにも何度か恋人同士だと勘違いされることはあった。
そのたびに恥ずかしさを感じていたのだが、恋心を自覚した今としては恥ずかしさと共に嬉しさも感じてしまう。
「そ、それじゃあ……い、いくぞ……」
「う、うん…………来て…………」
怜の言葉にコクリと頷くと、怜の両腕が体の前に回されて目の前で結ばれる。
次の瞬間、その両腕が自分の方へと引き寄せられ、そのままグイッと体ごと怜に密着する。
正直、怜を背もたれにして座った時に比ではない。
大好きな相手にぎゅっと力強く抱きしめられている。
背中に感じる怜の体温、力強さ。
幸せの絶頂を感じてしまう。
(し、心臓が破裂しそう……。ら、ラッシュガード着てて良かったよ……。心臓の鼓動、怜に響いちゃう……)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「はい、大丈夫ですよー。それじゃあ彼氏さん、両足で彼女さんをぎゅって挟んで!」
「は、はい……」
言われた通り、怜は太ももに力を入れて両足で桜彩を挟み込む。
桜彩の柔らかな感触が足にも伝わり、よりドキドキしてしまう。
「絶対に彼女さんを離さないで下さいね」
「は、はい……」
むろん、滑っている途中で桜彩を離しては大怪我に繋がりかねないことは理解している。
だが、それよりも怜にとっては、この大好きな相手をずっと離したくはない。
「れ、怜、ぜ、絶対に離さないでね……?」
桜彩の言葉が耳に届く。
絶対に離さないでくれ、というのがそういった意味でないとしても(実際はそういった意味でもあるのだがだが)本当に嬉しい。
「わ、分かってる! 絶対に離さない! ずっとこうして捕まえてるから!」
「う、うん! あ、ありがと……」
絶対にこの腕を離さない。
そう強い思いを込めて、桜彩の前面に回した腕に力を込めて桜彩を引き寄せる。
(や、役得ってわけだけど……。う、嬉しいって言うか恥ずかしいって言うか、緊張するって言うか……むしろ幸せって言うか……!)
桜彩を抱きしめる怜の心を様々な感情が支配する。
(うぉ、ウォータースライダーより緊張する……)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「はい、大丈夫ですよー。それじゃあ彼氏さん、両足で彼女さんをぎゅって挟んで!」
「は、はい……」
怜の太ももに力を入れられ、桜彩太ももの辺りがぎゅっと挟み込まれる。
(こ、これ……。は、恥ずかしすぎる……!)
太ももの外側に感じる怜の感触。
ソファーに座った時には味わえなかった新たな感触が伝わって来る。
「絶対に彼女さんを離さないで下さいね」
「は、はい……」
(ず、ずっとこうして捕まえてるって……!)
怜の言葉が桜彩の耳に届く。
こうして捕まえている、というのがそういった意味でないとしても(実際はそういった意味でもあるのだがだが)本当に嬉しい。
「う、うん! あ、ありがと……」
嬉しさに酔いしれて語尾が小さくなってしまったのが自分でも分かる。
すると前面に回された怜の腕に、これまで以上にぎゅっと力が込められて怜の方へと引き寄せられる。
(い、今、れ、怜にぎゅって抱きしめられてる……! し、幸せすぎるよぅ……!)
怜に抱きしめられる桜彩の心を様々な感情が支配する。
(うぉ、ウォータースライダーより緊張するよぅ……)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
滑る前から心臓はもうバクバクと波打っている。
正直、ウォータースライダーそのものよりも、密着していることに緊張してしまっている。
「はい、オッケーでーす! それじゃあ準備は良いですねーっ!?」
「「は、はい……!」」
二人の返事がハモると係員はにっこりと笑って頷く。
「それじゃあどうぞーっ!」
「い、行くぞ……!」
「う、うん……!」
係員の合図を聞き、怜はこれまで以上に腕の中の大切な相手を強く抱きしめる。
そしてついに、二人はコースの先へと旅立って行った。




