第318話 体温計と捲られた上着
「…………うーん」
いつものように自室で目を覚ました桜彩。
しかし体の調子がいつもとは違い、少しばかりだるさを感じてしまう。
「あれ、おかしいなあ……」
ベッドから降りようとすると少しばかり体も重い。
なんだか自分の体が自分の体でないみたいだ。
(……まあ、このくらいなら平気だよね)
とはいえ動けないわけでもないのでいつも通りにベッドから降りる。
これから怜と共に日課にしているジョギングだ。
いくらダイエットの必要がないとはいえ、これはこれで健康の為になるし、何より怜と一緒なら走るだけでも楽しい。
それをこの程度の違和感で潰してしまうのはもったいない。
そんな思いから桜彩はいつもの通りに朝の支度を整えた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「あ……。た、ただいま、怜。おはよう」
「お、おかえり、桜彩。おはよ」
いつものように桜彩が怜の部屋を訪れる。
いつも通り挨拶を交わそうとしたのだが、好きだと自覚した相手ということで少しばかり緊張して声が上ずってしまった。
そしてジョギングに行く為に階段へと向かおうとしたところで怜がそれに気が付く。
「桜彩、どうかしたのか?」
「え……? どうかしたのかって?」
「いや、なんかいつもより元気がないなって」
「え? そ、そうかな……?」
怜の言葉に桜彩が首を傾げる。
桜彩の返事に怜は自分の気のせいかと考えたのだが、念の為に再度桜彩を覗き込むように確認する。
「え、ええっと……」
いきなり見つめられた為に顔を赤くして桜彩が照れてしまう。
そんな桜彩を見ていると、やはりいつもとは少し違うように感じる。
顔が少し赤い(怜に見つめられているせいでもあるのだが)しまだ走っていないのに呼吸も少し上ずっている。
おそらく気のせいという事ではないだろう。
「ちょっとごめん」
そう言いながら、桜彩の了承を得る前に額へと手を伸ばして手を伸ばす。
「あ、ちょ、ちょっと……」
恥ずかし気に驚く桜彩だがそれを拒否することはせずにおとなしく怜の手に身を任せたままだ。
怜もそれを気にせずにしばらく手を当ててみると、少しばかり熱を持っているように感じた。
「……桜彩、少し熱があるぞ」
「え? そ、そうかな……?」
「ああ。念の為、今日のジョギングは中止にしよう」
怜の提案を聞いた桜彩が慌てて首をブンブンと横に振る。
「えっ? だ、大丈夫だよ。別にそんなに体調が悪いわけでもないし……」
「桜彩!」
ごねる桜彩に少しばかり大きめの声を出す怜。
加えて腰を落として顔の高さを桜彩に合わせ、真剣な表情で若干睨むように桜彩を覗き込む。
「で、でも……」
「でもじゃない。言いたいことがあるんなら熱を測った後で聞くから」
そう言って強引に桜彩の手を取って階段に背を向けた。
お揃いのキーホルダーの付いた鍵でたった今施錠したばかりの玄関を開けて中に入る。
桜彩としてもこれはもう何を言っても無理だと観念しておとなしく怜の後をついていく。
「ほら。体温計持ってくるから座って待ってて」
「う、うん……」
強引に桜彩をリビングの椅子へと座らせて、寝室へと体温計を取りに行く。
その間、桜彩は借りてきた猫のように申し訳なさそうに縮こまっていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「ほら」
「うん。ありがと」
持ってきた体温計を桜彩へと手渡す。
基本的に体温計とは脇の下に直接挟んで体温を測定する器具だ。
もちろん他の個所で測ったり直接触れずに測定する非接触型の器具もあるが、怜の持っているのはごく普通の一般的な接触型の体温計だ。
つまり、桜彩が体温を測る為には今着用しているトレーニングウェアの下へと体温計を差し込まねばならない。
「それじゃあ測ってみるね」
その為、体温計を手渡した怜が視線を逸らそうとしたのだが、それより早く桜彩は体温計を差し込むためにウェアの裾を捲り上げてしまう。
普段ならこのようなことは絶対にしないのだろうが、今は体調不良により頭が上手く働いていないのだろう。
そんな桜彩の行動に慌てて怜は視線を逸らそうとしたのだが、それよりも早く、桜彩は自分のウェアを勢いよく胸部の所まで捲り上げれてしまった。
当然ながら怜の視界にはそれが入って来る。
豊満に育った桜彩の胸部を直接保護している灰色の物体、いわゆるスポーツブラ、つまるところ桜彩の下着が。
(い、今一瞬見えたのって、その、桜彩の、ブラ……だよな…………?)
大好きな人の下着が見えてしまい、怜が顔を赤くする。
いや、これまでも桜彩の下着を見てしまったことはあったのだが、好きだと自覚してからは初めてだ。
以前とは違う感情が胸の中に渦巻いてしまう。
「……? 怜、どうしたの?」
顔を真っ赤にして固まっている怜へと桜彩が問いかける。
この間、桜彩の意識と視線は体温計へと向いており、怜が何を見ていたのかは分からない。
怜としてはそれに対して黙っていることも出来るのだが、性格上それは桜彩に対して不誠実であるという考えを持っている。
故に顔を赤くして、今のことを指摘する。
「え、えっとな……、桜彩……」
「うん……?」
「そ、そのな……、体温を測るのは、その、袖の方から体温計を入れた方が……」
直接的な表現は憚られる為、遠回しに下着が見えてしまったことを告げる。
桜彩の着用しているウェアは半袖のタイプであり、当然そちらから体温計を挿し込むことも出来る。
とはいえ桜彩としては裾を捲った方が挿し込みやすいのでなぜ怜がそのようなことを言うのか分からない。
「え? どうして?」
きょとんとした顔で桜彩が問いかけてくる。
怜としてはなるべく直接的な表現は避けたかったのだが、こうなった以上は仕方がない。
このままでは体温計を取り出す際にも同じようなことが起きてしまうだろう。
その為意を決してそれを指摘する。
「そ、その、な……裾を捲ると、その、桜彩のおなかとか、そういうのが見えるし……」
「え? あ、う、うん……。た、確かにそうだね……」
怜の指摘で桜彩が自らのおなかへと視線を向ける。
いくら仲が良いとはいえさすがにおなかを直接見られるのは恥ずかしい。
そして桜彩の視線がおなかの少し上へと向く。
「……ッ!!」
慌てて怜の方へと視線を戻すと、怜は顔を真っ赤にして顔を背けていた。
「あ、あの……怜、その……み、見た、よね…………?」
一応聞いてみたのだが、怜の反応を見る限り聞くまでもないだろう。
その証拠に怜は顔を背けたままコクリと小さく首を縦に振る。
「そ、その……悪い……。もっと早く顔を背けるべきだった……」
「う、ううんっ! れ、怜は悪くないって! わ、私がいきなりまくっちゃったから……」
実際に怜も見ようと思って見たわけでもないし、今回に限っては客観的に考えて桜彩の方に非があるだろう。
「うぅ……やっちゃった……」
「ほ、本当にごめん……」
「だ、だから怜は悪くないって…………。う、うん! こ、この話はもうおしまい! 忘れよ!」
「あ、ああ、そ、そうだな……」
桜彩がそう言ってくれているのだから、怜としてもそれに乗るのが一番だろう。
以前桜彩に対して『桜彩との思い出はどんなことでも忘れたくない』と言ったのだが、さすがにこれに関しては例外が適用されるはずだ。
(うぅ……。よ、よりにもよって、こ、こんな何の変哲もないスポーツブラの時に……。ど、どうせならもっと可愛いのを……)
「桜彩、どうかしたのか?」
「えっ!? あ、ううん、な、なんでもない、なんでもないよ!」
問いかけてくる怜の声に桜彩が慌てて意識を現実へと戻す。
(うぅ……。か、可愛いのを見られたかったって、な、何考えてるの……! そ、そういうのはもっと先……って違う!)
ふと頭の中に浮かんでしまった考えに突っ込みを入れる。
スポーツブラという物は機能性のみを考えて作られており、色気というものは一切感じられないだろう。
大好きな人に見られるのであれば、もう少し素敵なお気に入りを着けていたかった。
いや、もちろん(桜彩には想像もつかない世界だが)そちらの方が良いという男性も世の中には存在するが、おそらく怜は違うだろう。
ピピッ
そんなことを考えていると体温計から電子音が鳴り響き、体温測定が終わったことを知らせてくる。
二人にとって不幸だったのは、鳴る直前に桜彩が冷静さを失ってしまっていたことだ。
頭の中が混乱した状態で耳に届けられた電子音。
それに対して深く考えることをせず、桜彩は反射的に体温計を取り出そうとする。
すなわち、先ほどと同じように服の裾をまくり上げて。
「さ、桜彩っ!!」
「え……? あっ!!」
慌てて顔を背けた怜の口から出たその言葉で、ようやく桜彩も同じ失態を繰り返していたことを理解する。
捲られた裾はとっくにおなかを通過して、スポーツブラの上まで来ている。
「あ、あの……」
「わ、悪いっ!!」
「い、いや、い、今のも私がいきなりまくっちゃっただけで、怜は全く悪くないから……」
(い、今の灰色のやつって、そ、そうだよな……。さ、さっきのと同じだよな……)
(うぅ……またやっちゃったよ……)
お互いに真っ赤にした顔を逆方向へと向けたまま、桜彩は裾を下ろして体温計を抜き出した。




