第306話 同じベッドで迎える朝① ~目覚め~
午前五時半過ぎ、いつものように怜は自宅のベッドの上で目を覚ます。
いつもであればこの後伸びをして身支度を済ませた後、桜彩と共にジョギングへと向かうのが日課だ。
しかし起きた時の感じがどうにもいつもとは違い違和感がある。
何かが胸に乗っているというかしがみついているというか、しかしそれでいて不快感などは全くない。
寝起きでまだ充分に頭が働かない中その違和感の方、具体的には自らの胸の辺りへと視線を向ける。
「くー……くー…………」
穏やかな寝息をたてながら桜彩が寝ている姿が目に映る。
(あ…………)
徐々に覚醒して良く頭がようやくこの状況を正確に理解し始める。
(そっか……昨日…………)
昨日、誕生日のダブルデートを終えた後、一緒のベッドで寝ることになった。
(桜彩…………)
人生十七年目にして初めての恋の相手。
その相手が穏やかな寝息をたてながら幸せそうな顔で自分と同じベッドに寝ている。
「んん……」
「……ッ!」
今気が付いたのだが、右隣に寝ている桜彩はこちらの方へと体を向けたまま、右手で怜の寝間着のウェアを掴んでいる。
そればかりかまるで怜を抱きしめているかのようにぎゅっと体が押し当てられている。
当然ながらその胸部にある柔らかなふくらみは怜の体へと押し付けられているということで。
(……………………ど、どうする?)
まだ覚醒途中の頭がオーバーヒートするかのように高速で回転していく。
一方でまだ目の覚めていない桜彩は幸せそうな顔のまま、なんと顔を怜の胸へとこすりつける。
まるで猫や犬が甘えているかのようだ。
(…………い、いや、嬉しいんだけど、な…………)
大好きな相手がこうして甘えるように身を寄せてくれる。
それはそれとして怜としても大変に幸せを感じられるのだが、とはいえこのままというわけにもいかない。
(と言っても、どうしようもないしな……)
こんなに幸せそうに寝ている桜彩を起こすのもそれはそれで忍びない。
「ん……れい…………」
「ッ!!」
小さな声で、しかし間違いなく桜彩の口から怜の名前が零れ落ちる。
そして再び甘えるように頭を胸にこすりつけて来る。
ふと自分の右腕に意識を向ければ、そこはしっかりと桜彩の左手と繋がれている。
手のひらから温かく、柔らかく、そして優しい感触が伝わってくる。
「桜彩……」
無意識の内に右手に力を入れて握り返すと、桜彩からも握り返してくれる。
それがまた何とも言えない幸せを感じてしまう。
そっと左手を桜彩の頭へと伸ばし優しく撫でると、更に嬉しそうに桜彩が身をよじらせる。
すると桜彩の瞼がゆっくりと開き、まだ寝ぼけ眼の瞳に自分の姿が映るのが分かる。
「あ…………」
怜が驚くのも束の間、まだ頭が覚醒していない桜彩はとろんと瞳を優しく細めて先ほどと同様に幸せそうな笑みを向けて来る。
「れい…………」
自分を呼ぶその声が愛おしく聞こえてくるのははたして気のせいなのか。
「桜彩……」
そんな動揺を表に出さないように苦労しながら、怜も桜彩へと挨拶を返す。
「ん……れい…………」
「あ、ああ…………」
「れい、だ……」
「…………」
「えへへ……れいがいる……」
そう言って桜彩が今までよりも更にぎゅっと力を込めて抱き着いて来る。
「んん……。頭、気持ち良い……。もっと撫でて……」
「わ、分かった……」
桜彩のリクエストに応えるように、止まっていた手を動かしていく。
「ん……みゅ……ふぅ……あ……」
一撫でするごとに桜彩の表情が嬉しそうに変わり、口から何とも言えない愛らしい吐息が漏れて来る。
その何とも言えない色香にドキドキとしながらも、怜は桜彩を撫で続ける。
「えへへ……。私、こうやって怜に撫でられるの、好き…………」
「ッ……!!」
好き、その言葉に怜の心臓が一際大きくドクンと跳ねる。
(お、落ち着け……。今の『好き』ってのは、頭を撫でられることに対してであって、俺のことを恋愛感情として見てるとかそういうわけじゃ…………)
もちろん理屈では分かっているのものの、だからと言って『好き』という言葉自体は間違いなく自分に向けられたもの。
もう顔が真っ赤になっているのが自分でも分かる。
「ん……れい、もっと……」
好きと言われたことで動揺して桜彩の頭を撫でる手が止まっていた。
それを不満そうに(と言っても表情には笑みの浮かんだままだが)桜彩が撫でるのを再開するように要求してくる。
その要求に応えるように頭を撫でると、再び桜彩がとろんとした目を向けて甘えるように頭をこすりつけてくる。
(っていうか、これ、さすがに生殺しすぎだろ……)
これでも怜は年頃の男子高校生だ。
そんな怜にとって、桜彩という片想いしている(実際は両想いだが)相手がこのように無邪気に体を押し付けて甘えてくるというのは大変に理性を削られる。
(いや、信用してくれるのは嬉しいんだけど……)
もちろんこれは自分のことを桜彩が信用してくれているからだということも分かっているし、その信用を裏切ることなど断じてしない。
とはいえこの状況がある意味で拷問級にキツイこともまた事実。
しかし相変わらず寝ぼけたままの桜彩は、そんな怜の葛藤に気付かずに体を密着させる。
「れい……」
桜彩に名前を呼ばれるのが嬉しい。
優しく微笑みかけてくれるのが嬉しい。
こうして甘えてくれるのが嬉しい。
ぬくもりを感じられるのが嬉しい。
これからもずっと、桜彩が隣にいて欲しい。
(これが、誰かを好きに……、いや、桜彩を好きになるってことか……)
初恋を自覚した今、初めて知る新しい気持ちが波打って胸に押し寄せて来る。
「れい……」
「ああ……」
再び桜彩に名前を呼ばれる。
ただそれだけで胸いっぱいに幸せが広がる。
しかし桜彩の行動はそれだけでは終わらない。
「れい……。私の名前、呼んで……」
寝ぼけたまま、とろんとした幸せそうな顔で、いつものおずおずとした上目遣いとは別のおねだり。
(こ、こんな甘え方まで……)
不意打ち気味にその新しいおねだりを知って、思考が一瞬止まってしまう。
(……惜しむらくは、普段の状態でこう言って欲しいよな)
あくまでこうして桜彩が甘えてくれるのは起き抜けでまだ頭が寝ぼけているから。
素面であれば絶対にこのようなことは言ってこないだろう。
「ねえ、怜……。名前、呼んで……?」
再び同じようにおねだりしてくる。
当然ながらこれを断ることは不可能だし、そもそも断りたいとも思わない。
「桜彩……」
「ん……」
おねだりに応えるように名前を呼ぶと、桜彩の顔が更に幸せそうに緩んでいく。
そして頭をこすりつけるように甘えた仕草をしながら今度は怜の名前を呼ぶ。
「れい……」
「桜彩……」
「れい……」
「桜彩……」
「れい……」
「桜彩……」
「れい……」
「桜彩……」
繰り返し繰り返しお互いの名前を呼び合っていく。
名前を呼ばれる毎に幸せな気持ちが胸に広がっていく。
初恋を自覚して初めて迎える朝。
それはこれ以上ないくらいの幸せを感じる新しい人生の始まりであった。




