3 世界中でいちばん大切な話
猫はぐうっと伸びをすると、すたっと地面に降り立ちました。猫の周りの青白いもやは、ますます、くっきりしてきていました。もやが濃くなったせいで、猫の黒い毛皮そのものがうっすらと光っているように見えます。辺りがすこし暗くなってきたからなのかな、と思いましたが、猫の光も、最初の頃より格段に強くなっているような気がしました。
猫は、ポーチをお腹にくっつけたまま、尻尾を上げてわたしを見ました。
「へんではありません。世界中でいちばん、大切なお話です」
猫は、ぺろりと舌を出して、ひげの根元をなめました。
「今日は、はるかちゃんが選ばれた日なんですから。街の灯を灯す特別プログラムに」
そういうと、猫は街灯の一つを選んで、器用によじ登りました。
街灯のランプの部分の下のあたりに、金属の舌のようなものが小さく、突き出しています。
猫は、その舌をぱくっとくわえました。
その瞬間、びりびり、と小さな音とともに、猫の毛がぶわっと逆立ちました。あんなにがっしりとひっついていたポーチが、猫の横っ腹から外れて街灯の根元にぽろんと落ちたので、わたしは手を伸ばして、あわててそれを拾いました。
街灯が一瞬、太陽のように明るく光りました。まぶしくて、わたしは慌ててぎゅっと目をつぶりました。何が起こっているのか知りたくて、急いで目を開けると、猫が登った街灯から隣の街灯、その隣の街灯へと、強い光がどんどん移って、枝分かれして、広がっていきます。一瞬、カメラのストロボのように強い光を放ったあとの街灯は、穏やかなオレンジ色の光を灯していました。
「ごらんください」
ねこは、ポンプ場の屋上のへりにあるフェンスの所に走っていきました。
びりびりと、ポンプ場の窓ガラスが震える音がしたと思ったら、ポンプ場を中心に、公園じゅうの街灯が次々と、あの強い光を放って、それからオレンジ色の光に変わっていきました。公園から、周りの道路の街灯へ、明かりは次々に網の目のようにリレーして、街中の電灯が灯っていくのが見えました。
「うれしい気持ちも、かなしい気持ちも、ぜんぶたいせつ。おいしい気持ちも、むかむかする気持ちも、ぜんぶたいせつ。なでなで、もふもふしながら、言葉に出してくれた、素直な気持ちだけが、街の灯りをつけられるんです」
「素直な気持ちが?」
「とっても大事で、簡単にはわたさないものです。信用した相手だけに、そっとさしだすもの。それをいただいて、毎晩、猫は、街の灯をともすのです」
「わたし、猫ちゃんのこと信用してるって言ったっけ」
「光栄でございます」
猫がうやうやしく頭を下げるので、わたしは笑ってしまいました。
でも確かに猫は、わたしの言うことを馬鹿にしたり、悪いところを指摘してやろうと思ったり、悪用してやろうとしたりはしないだろう、と、わたしにもきっと、分かっていたのです。信用って、きっと、そういうちょっとしたことを言うのでしょう。
オレンジ色の灯のリレーは、どんどん広がっています。向こうに見える、今通っている第二小学校の校庭の灯りも、その少し先の、前通っていたみのり幼稚園の前の街灯も。右手のほうを見れば、弟が今待合室で順番を待っているはずの病院の近くの灯りも、お父さんが帰ってくるはずの駅のほうにも。オレンジ色の光が、毛布のように広がって、街中を包み込んでいきます。
「すごいね!」
ふと隣に目をもどすと、猫の周りの青白いもやのようなものは、すっかり消えていました。
「なでなでもふもふすると、はるかちゃんの気持ちのはしっこが、でんきになって、わがはいにうつるのです。猫の毛皮にたくさんたまったら、猫がそれを世界中の街灯にひろげます。それが、猫のでんきやさんです」
猫はぴんとひげと尻尾を立てて、誇らしそうに言いました。
わたしは、その様子を想像してみました。
日の出公園から広がった街灯の明かりが、この街中をてらして、県全体にひろがって、日本中を埋め尽くして、それから、夜の闇が西に向かって進んでいくにつれて、地球の上を、外国までずうっと、リレーしていくのです。
「お母さんに言うのも悪いかなって思ってたんだけど、それならいいね。無駄がなくて。リサイクルみたいだね。これもSDGs?」
「せかいが、のS、だれかの、のD、がんばりで、のG、ええと……シャイニング!のSですね」
「いきなり英語だよ」
わたしは笑ってしまいました。このしょうもないだじゃれ、くせになりそう。
「その日の特別プログラムのお客様のでんきをたくさんもらって、猫は街灯を灯します。でも、わがはいは、これまでのお客さんとも、つながりができています。遠く離れていても、素直な気持ちがこころに浮かべば、それはでんきになってほんのすこしずつ、わがはいのもとに飛んできます。そして、たくさんのお客様の電気も、ほんのすこしずつ、わがはいの毛皮にたまっていくのです」
「ああ。だから、猫ちゃんはわたしがもふもふなでなでする前から、ちょっと光ってたんだね」
「そうです。そのでんきが、最初に下の遊歩道で出会ったとき、ポーチをひっつけてしまいました。わざとじゃなかったんです。本当に、ごめんなさい」
「もう、いいよ」
「ありがとう」
猫は、照れくさそうにお礼を言って顔をぬぐってから、さっぱりした声で続けました。
「今日、お客様になっていただいたので、はるかちゃんもわがはいとつながりができました。これからは、はるかちゃんの素直な気持ちは、宙を飛んでわがはいに届き、大きな流れに加わって、毎日街灯を灯すでんきの一部になるのです」
「へえ」
わたしは、自分のこころに浮かんだ気持ちがでんきのちいさなちいさな粒になって、藍色の夕空を飛んでいく様子を思い描いてみました。それはやっぱり、もやのようにあわく、青白く光っているのでしょうか。猫の毛皮にたどりついたときに、ぱちんと小さな火花を散らしたりするのでしょうか。
「世界中を照らしたら、灯りに使ったでんきは消えちゃうの?」
(それでもいいかもしれない。さっぱりしていて)
そう思って尋ねると、猫はどうどうと胸を張りました。
「なんと、のぼっていく朝日に吸収されて、お日様の一部になるのです」
「そこもリサイクルなんだ」
今日私がこころに浮かべた、ヨシノリくんのふくれっつらも、給食のとん汁のかつおだしの香りも、がやがやとうるさい教室の声も、病院で診察を待っているはずの弟のため息も、丸一日経てば、みんな、お日様の一部になっているのか。
なんだか、悪くない気分でした。
ふと気づけば、辺りは暗くなってきています。
「わあ、急いで帰らなくちゃ。お母さんが帰ってくる前に、お風呂を洗ってお湯張りのスイッチ入れておいてあげたいんだ。きっとびっくりして喜んでくれるから」
わたしがベンチに置きっぱなしにしていた塾のバッグを肩に掛けると、猫は、普通の猫のようににゃあ、と鳴きました。それから、見送ってくれるとでも言うかのように、屋上を下りる階段の方へ、たたっと走っていって立ち止まると、わたしを振り返りました。
階段を降りてあたりを見回したときには、もう、猫の姿は宵闇に溶けてしまったみたいに、どこにも見えませんでした。
◇
あれから何度か、家族で日の出公園に遊びに来ましたが、ポンプ場の屋上に上がる階段は、煙のように消え失せて、そこにはのっぺらぼうのレンガの壁があるだけでした。
猫のでんきやさんは、今日も、どこかの街で、選ばれた人のための特別営業をしているのかもしれません。
お読みいただき、ありがとうございました!
☆評価やご感想などでフィードバックしていただけると、今後の参考にもなり、嬉しいです。
ひだまり童話館「びりびりな話」企画、他にも参加作品がたくさんあります。
バナーから一覧にジャンプできます。
お好みの作品に出会っていただければ♪