プロローグ
白く平べったい大地がうねるように揺らいで、段々と一定方向へゆったりと流れていく。少し灰色を含んだその地表は見渡す限り延々と続いていて、途切れるところを見せない。ただ己の気分でのんびりと移ろいゆくその地面は、時間感覚というものを狂わせ、自分が人間であるということを少しだけ忘れさせる。自然の力というものは非常に強大で、空間的な支配が位相にあたる時間さえも侵食して、そして蹂躙してしまうようだった。見渡す限り彼方まで敷き詰められた大地。それを柔らかい暖色に染め上げているのは、天文単位という数値ほどこの場所から離れた、太陽という天体だった。日光はこの時間帯になると白い地表に対して撫でるように接近して、レイリー散乱によって橙色のスペクトルを形成する。刺すような光は僕の網膜を触れるように興奮させて、少しだけ瞼を閉じさせた。それと同時に、陽光による光が白い大地に灰色を伴ったコントラストを再現して、ようやくそれが地続きな地表でないことを理解させる。詰まるような白は各々のフィーリングで形を変化させて、いわゆる積乱雲と呼ばれる雲々を構成した。大地に豊穣をもたらす雲。その中でもかなりポピュラーな部類にあたる積乱雲は、しかし僕の視界の中では下方に位置している。足元に巣食う白と灰のコントラストは、その形状を引き延ばして、僕を掴んで墜とそうとしているようだった。どうやら彼らはまだ僕たちの罪を許してはいないようで、どうしても本当の大地に墜として、そして贖罪をさせたいらしい。人間の手のような形状を象った積乱雲は僕の足元を掠めて、しかしこちらを引き落とすことなく後方へ過ぎ去っていった。
ふと、後方へ流れていった手のような積乱雲の形が崩壊する。それは自然に依って融解したわけではなく、人工物によって破壊されたらしい。白と灰の綿菓子は突如現れた鋼鉄の塊によってその構造を霧散させ、中空に溶けていった。人工の建造物。うだるような積乱雲から現出したそのアーティファクトは、耳をつんざくような轟音を立てて浮き上がってくる。その爆音は例えるならライブラリ内にあったクジラという海洋生物の鳴き声に少しだけ似ていたが、きっとそれは狙って作られていたのだろう。だって、雲の間から突き出るように出現したその移動物体は、どうしたってそのクジラという生物に似通っていたのだから。
僕は実際のクジラという生き物を見たことはないが、その体長は百フィートを超えるものも多かったらしい。だけどその構造物は、その横幅だけで四マイルを超えている。それほどまでに巨大な船――いや艦が、僕の目の前に現れていた。
クジラを模した居住艦――この類型はシロナガス型居住艦と呼ばれてはいるが――が数週間に一度の低高度航行を終えて高度三万フィートまで戻って来た。全長三十マイルを超える巨大な艦は、その肚や背中に人工の光を宿しながら、暖色に映し出された白い積乱雲に寄りかかる。大地を滑るように航行する艦。あまりにも巨大すぎるその箱舟は、しかしそれだけには収まらなかった。
広く間延びした積乱雲がミルク・クラウンのように打ち上げられる。その飛沫は一か所だけに留まらず、シロナガス型居住艦、通称『ビッグ・ブルー』の周りを囲うように出現した。そしてその跳ねあがりの中から、ビッグ・ブルーと比べたら一回り小さいが、それでも巨大な船が次々と顔を出す。黒、白、青――多彩な配色を施されたその居住艦群、マッコウ型居住艦は、雲上に鮮やかなカラー・バリエーションを演出した。シロナガス型居住艦の随伴艦として作られたその船団は、ビッグ・ブルーに付き添うように横に並び始め、そうしていつの間にか、いわゆる川の字を形成した。
その光景をどう表現したら良いのだろうか。白い海洋を泳ぐクジラの一団。そう評するのが適切か。あまりにもサイズが桁違い過ぎるが、それでもその居住艦群は親に寄り添う子どものような温かさを感じさせる。自分が何者かに庇護されているという安心感。その堕落したような甘い感覚が、脳内を緩く蕩かしていく。しかし僕は、その温かさが偽りであることを理解していた。だって僕たちは、本当の大地にいられなくなったから、このように空へ上がったのだ。
居住艦たちが午後五時を知らせる汽笛を鳴らす。その汽笛は周囲を圧倒するように強大な音圧を感じさせた。そうして旗艦であるビッグ・ブルーを先頭にして、次々とマッコウ型随伴艦が呼応するように汽笛を吹く。その姿はどこか現実味に欠いていて。僕はその箱舟たちをどこか傍観するように見やって、そして操縦桿を右に切った。もう時間だ。燃料も限界に近いし早いところ帰らないと、そのまま不浄の大地に墜ちることになる。
僕はそこまで考えて、やっぱり人間はどこまでもままならない生き物であることを実感するのだった。
――
西暦二千年代に入ってからも、人類が争いを止めることはなかった。人々はその純粋さゆえに他人を傷付け時には殺し、そしてその連鎖を加速させていった。恨みが怨恨を増長させて、いつしか自然を顧みなくなった人間は、破壊兵器を用いて母なる大地を汚染することになる。植物が枯れ果て、動物が息絶えた地表に、人類は生き延びる術を残してはいなかった。だがしかし、このまま絶滅を待つしかなくなった人々に、不意に光明が差すことになる。それは端的に言うと長年研究されてきた永久機関が完成したからで。そうして、人々は絶望の中、とある希望を紡ぐのだった。
空へ飛び立ち、新たな大地を築いて、そこでまた暮らせばいい。
わずかに残された人類は居住艦と呼ばれる巨大な箱舟を作り出し、そして空へ旅立った。自らの手で住めなくなった大地を棄てて、人は空へ飛び立ったのだ。あらゆる生態系を破壊し、それでも醜く生き残る。生物としてそれが本当に正しいのかわからないまま、空へ逃げた人類が新たな安寧を作り出して、そして早いこと数百年が過ぎた――
『少女飛翔セプテントリオン』