相田音根は味わえない
どうしよう。
私は車窓に映る自分に、これからのことを相談していた。窓の中の私は、夜の街並みに溶けていくばかりで、何も言ってくれない。
「広彦さん」
だしぬけにお母さんが口を開いた。
「レストラン、今日のために予約したんでしょ。なんてお店?」
「なんか横文字の、何とかって店だよ」
「ふざけてる?」
「店名は忘れたけど、イタリアンだよ」
「へえ。霧彦くん、イタリアンは好き?」
好きなのかな。
「まあ、はい」
そうなんだ。何の料理が好きなんだろう?
「何が好き?」お母さんが尋ねた。
「え? うーん」
深入くんは腕組みして、車の天井を睨みつけている。
「あ、モッツアレラチーズとトマトのサラダ」
「なんで?」
「漫画に出てきた料理で、おいしそうだったんで」
深入くん、学校ではいつもライトノベルばかり読んでいるけれど、家では漫画も読んだりするんだ。もしかして小説も読んだりするのかな。聞きたい。聞けない。
「音根ちゃんはイタリアン好きかい?」
あ。来た。私への質問。思わず肩に力が入る。
「は、は、はははい」
答えてすぐ視線を足元へやった。
私の心象風景は、否応なしに海底の真っ暗闇へと切り替わる。「はい」という返事さえまともにできない私のもとへは、陽の光さえ届かない。
「音根ちゃんはどんな料理が好きなんだい?」
「あ、あああの、わ、わわわたし」
もう立て直せない。うなだれるしかない。
「あ、ゆっくりでいいよ。吃音のことは水葉さんからちゃんと聞いてるから」
あ、いい人だ。そのとき、改めて気づいた。この人、深入くんのお父さんだった。だからかな。だから、こんなにいい人なのかな。
「ア、アアラビアータのペンネが、す、好きです」
「昔からそれしか食べないの、この子」
「そんなことないよ。出されたものは何でも食べてるでしょ」
「え?」
深入くんが目を丸くしている。私は反射的に視線をそらす。
「ご、ごごごごめんなさい」
「いや、謝る必要なんか、ない。ただちょっと、驚いただけだ」
「あ、そっか。知らなかった? 音根はね、私に対しては普通にしゃべれるの」
「家族だから?」
深入くんと深入くんのお父さんが声を重ねて同じことを尋ねた。
「そうなの? 音根」
「多分、そう」
ずいぶん都合がいいことを言うじゃないか。そう思われても仕方がない。
私は私が嫌いだ。
できることなら、一刻も早くこの世界から消えてしまいたい。けれど私は、お母さんを悲しませないで死ぬ方法をまだ見つけていない。
早く見つけなければ。
「着いたぞ」
車はいつの間にか停車していた。お母さんと深入くんのお父さんはもう外に出ている。私が降りないのを不審に思ったのか、深入くんが顔をのぞきこんできた。ち、ちち近い、です。
駐車場に降り、四人で、まるで本物の家族みたいにひと塊になって歩道を歩いていく。
レストランの看板には、「Universo parallelo」と書いてある。イタリア語だ。意味までは分からない。
中に入ると、受付の人がいて、テーブルまで案内してくれた。客の入りは、半分といったところ。机と椅子は木製で、壁にはなぜか海の絵ばかり掛けてあった。アドリア海の透き通った青色が、私にはまぶしい。
料理を注文した途端、深入くんが口を開いた。
「反対だ」
「えっ」
深入君のお父さん、広彦さんが素っ頓狂な声を出した。お母さんは狐みたいに笑っている。
「再婚反対」
「理由を訊かせてもらえる? モッツアレラチーズとトマトのサラダが好きな霧彦くん」
「あと二年、待ってほしい」
「高校を卒業するまでってこと?」
つまり、私のせいだ。深入くん、私と同じ屋根の下で暮らしたくないんだ。だから高校を卒業して一人暮らし始めるまでは、再婚しないでくれって言ってる。
「まあ、私は別にいいわよ。たったの二年」
お母さん、本当にいいの? 二年も先延ばしにしていいの? 最近、毎日のようにお風呂場で鼻歌歌っていたのは、好きな人と一緒に暮らせるようになることを楽しみにしてたからじゃないの?
「わ、わわ」
みんなの視線が私に集まる。
「わわわわ」
「音根。大丈夫よ。落ち着きなさい」
「お待たせしました。こちら、アラビアータのペンネです」
「ありがと」
店員さんが一礼し、きびすを返したそのとき、私はやっと一音目の壁を突破した。
「わわたし、ひ、ひひとり暮らしする」
「え?」
「なっ」
「だ、だだだから、さ、さささ再婚させてあげて」
お母さんが私の手を取る。
「音根、どういうこと?」
「私のせいだから」
「えっと、うん、そこがまず分からない」
「深入くん、私と一緒に暮らしたくないんだと思う。だから高校を卒業するまでって条件をつけた。そ、そそそそうだよね?」
深入くんは痛いぐらいに目を見開き、吐き捨てるように言った。
「違う」
「ち、ちちち違わないよ。だだだだ誰だってそう思う」
「思わない。決めつけるな。誰だってそう思う? 笑わせるな。お前の被害妄想を俺に押し付けてんじゃねーよ」
「ストップ。二人とも落ち付こう。な」
「お待たせしました。ペペロンチーノとマルゲリータです」
「あ、それは私で、そっちはこの人のです。どうもありがとう」
新たに二品、料理が来た。お母さんは目を爛々(らんらん)と輝かせ、フォークを手に取った。
「いただきます」
「お母さん、なに呑気にパスタ食べようとしてるの。深入くんの説得手伝って」
「もういいのよ」
「よくないよ」
「いいの」
フォークにパスタを巻きつけるのを止めた。
「広彦さんとも決めてたの。霧彦くんか音根、どちらか一人でも反対したら、再婚はしないって」
「でも」
「ダメなものはダメ。音根、あなた、もう高校生なのよ。いい加減駄々をこねるのはやめなさい」
私は下唇を噛み、それから、アラビアータのペンネにフォークを刺して食べた。味なんて分からなかった。