たったひとつの冴えた呼びかた⑤
ドームに映る空の色が青から紫へと変わり始めた。
竜は夜に追いつこうとしている。どころか、このままいけば、夜を追い抜いてしまうかもしれない。
エルーが教えてくれた。この世界では太陽は西から昇り、東に沈むらしい。だから西の果て、ナハテの海に着いたとき、運が良ければ日の出が拝めるという。
竜の頭がわずかばかり角度を落した。
雲の層へ突っ込む。
ドームが白く包まれた。
しばらくすると、雲を抜けた。
大陸に山脈が走っている。人の足では登れそうにないほど険しい山々だ。
竜は降下を続け、山脈の中でもひときわ高い山の頂近くに着陸した。
「お客様にお知らせします。当竜のメンテナンスのため、ここで十分間の休憩を取らせていただきます」
一度、言葉を切って、エルーは素の笑顔を見せた。
「というわけで、音根、霧彦、外へ出るよ」
「待て。ここ標高何メートルだ? 絶対寒いだろ。雪だって積もってるし、高山病の心配も」
「もうっ。相変わらずいちいち細かいことを心配するっ。大丈夫。体調が悪くなったら私がすぐ治してあげるって。それに、せっかくシホタース山脈まで来たんだから、見ないと損だよ」
「何をだ?」
「いいからいいから」
エルーが指を鳴らした。
風に吹かれても雨雲の中を通っても割れることのなかったしゃぼん玉のドームが、割れた。
冷たい外気にさらされ、私は体を縮こませた。
竜を降りると、辺りには雪が薄く積もっていた。
「あっちが山頂だよ」
エルーの案内に従って、私たちは尾根道を進んだ。滑らないよう、細心の注意を払いながら、一歩一歩、空との距離を縮めていった。
こんな形で登山をすることになるとは思ってもいなかった。
異世界に来てから現実味のない出来事が続いたが、靴の裏から伝わる雪の冷たさには確かに私の現実があるのだった。
山頂に立つと、夜空が広がっていた。細切れの雲が幾筋もたなびている。雲がかかっていないところ、剥き出しの夜空には星の光が見て取れた。いくつも。無数に。
天の光はすべて星。
確かそんなタイトルのSF小説を読んだことがある私は、ここにきて初めて、そのタイトルの意味するところを知ったのだった。
視界の端を、星が流れた。
「ふ、深入くん、い、今見た? な流れ星」
「え? どこだ?」
「キシシシ。音根、霧彦のこと深入くんって呼んでるの? 自分も深入なのに? おっかしい」
その通りだ。
でもそんな簡単に呼び方を変えるなんてできなくて、兄妹になってからも、私はこの人のことをずっと深入くんと呼んできた。
彼は何も言わない。
どう呼んでほしいとか、ないのだろうか。
私はあなたのことを霧彦と呼びたい。でもできない。どういうわけか、自分の中で踏ん切りがつかないのだ。深入くんは深入くんだという刷り込みが頭から離れないのだ。
そうだ。
願い事をすればいいんだ。
流れ星が消えてしまう前に三回願いを口にすればその願いは叶うはず。
私は空を探した。
「何か探してる?」
エルーが私のまどうような視線を察知してくれた。
「え、えっと流れ星、ままた見れないかなって」
「見たいなら見せてあげるよ」
「そ、そんなことできるの?」
「できるできる。二人とも、耳、押さえてて」
「は? なんでだ?」
「今から奇跡を起こしてあげるから」
私は速やかに、深入くんは渋々、耳を押さえた。
エルーが何か言った。
星を降らせる。そんなこと、本当にできるのだろうかと訝しんでいると、竜シックザークが夜空へと昇っていくのが見えた。
エルーがまた何か言ってる。おそらくシックザークに指示を出しているのだ。どれだけ離れていても、この小さな妖精の小さな声を、あの竜は聞き取ってしまう。耳がいいのだろうか。それとも、魔法だろうか。それとも、エルーのよく言う奇跡だろうか。
はるか上空、夜空の奥深いところに到達すると、竜は背中をのけぞらせた。次いで、大口を開けた。それはもう口が裂けるんじゃないかってぐらいに、大きく。
瞬間、すべての雲は同心円状に吹き飛んだ。
一瞬のち、すさまじい衝撃波が私たちのもとにのしかかってきた。体がしびれる。山脈までもが震えている。
シックザークが鳴いたのだ。
咆哮した、と言った方がより正確かもしれない。
しかし、エルーの言う奇跡はここからだった。
夜空をひっかくように星が流れ始めた。あっちでもそっちでも。いちいち数えるのが馬鹿らしくなるほどだった。
流星群だ。
私は耳から手を離し、見とれた。
エルーが飛んできた。
「すごい?」
私はゆっくりとうなずく。
「竜の本気の咆哮は、星をも降らせる。そういう伝説が、私たちの暮らすこの世界にはあって、しかもね、この世界の伝説は、たいてい、実現できちゃうの。キシシ」
星はまだ止まない。
そうだ、願い事。
「呼べる、呼べる、呼べる。私は深入くんを下の名前で呼べる」
独り言だから、私自身へ向けた言葉だったから、つっかえずに言えた。
深入くんはまだ耳を押さえていた。夜空を見つめ、その瞳に流星群を降らせている。
私は歩み寄り、彼の手を耳からはがした。
そして言った。
「き、霧彦、くん」
声が震えた。けれど、言えた。深入くんが霧彦くんになった。
「別にくんつけなくてもいいぞ?」
「う、ううん。く、くん無しの呼び捨ては今はまだ無理。は、恥ずかしいし。で、でも、いいいつか呼びたい」
霧彦と。
そんなふうに呼び捨てにするのは、私の恋が叶ったときだ。
そのときのために、たった一つの冴えた呼び方は取っておくことにする。




