たったひとつの冴えた呼びかた
声が聞こえる。
「長老様、こっちこっち」
「この人たちね、禁忌の穴から飛び出して来たんだよ。こんな不思議なこと、私、初めて」
「おお、よく知らせてくれた。ついでに頼みたいんじゃが、ルドモの実を二粒ほど持ってきてはくれんか?」
「任せて」
「そうだ、他のみんなも呼んでこよう」
「これこれ」
ため息をつく音。
「行ってしまったか。まあよい。あちらの世界から客人が来るなど何年ぶりだろうか。こういうときはどうすればいいんじゃったかな。わしもルドモの実を食べた方がいいかしらん。いやいや、まだそこまでボケてはおらんわい。おや、お気づきになられたか?」
目を開けると、そこは明るい森の中だった。目の前にいるこの生き物は妖精さん? 手の平にのるぐらい小さい。二本の足で立っているし、二本の腕がある。あごからは長い白髭が生えている。耳はとんがっており、背中から生えている一対の羽は、茶色く濁り、ところどころ穴が空いている。老化、という言葉が頭に浮かんだ。
「わしはリトルエルフの長老、ゴシクと言いますじゃ。お嬢さんに危害を加えるつもりはないから安心してくだされ」
「はあ」
私には何が何だか分からなかった。
というか、私って何だろう。
「そちらの坊っちゃんも目覚めるといいのじゃが」
かたわらに男の子が倒れていた。
私が着ているのと同じデザインで色違いのジャージを着ている。
「この男の子が誰かも気になるけど、それ以上にあなた、何者? 人間じゃないよね? 妖精さん? だとしたらここってファンタジーの世界かなにか? あ、もしかして夢の中。そうか。そうだよ。納得っ」
「よくしゃべるお嬢さんじゃな」
そう言われて、強烈な違和感を覚えた。
あれ?
私ってこんなによくしゃべる子だったっけ?
私の舌ってこんなに滑らかに動いてたっけ?
ていうか、私、誰だっけ?
私は頭を抱えた。
「嘘嘘。大変。これって記憶喪失ってやつだよ。どうしよう。ねえ教えて。私って誰?」
「お、落ち着きなされ」
「何とかならない? あなた、妖精さんなんでしょ。魔法でえいって記憶戻せない?」
「だ、大丈夫じゃからいったん冷静に」
「長老様―」
無邪気な声とともにアクロバットな飛行を見せながらやって来たのは、二匹の妖精たちだった。高速で動いている羽は、長老のと違って透きとおっている。顔つきもどこか若々しい。
ん?
何か持ってる。
妖精たちが頭上に高く掲げて見せたのは、赤くて皺皺の、丸い何かだった。
「持ってきたよー」
「あ、起きたんだね。はい、手、出して。あ、両手がいいな」
言われた通りに両の手の平でお椀を作る。すると、妖精たちは嬉々としてそこへ、謎のしわくちゃの球体エックス、色は赤、を投げ込んできた。うわあ。しかも二つも。要らないよ。
「それを一粒食べなさい」
「え? ていうかこれって何? 梅干し?」
「ルドモの実と言ってな、これを食べると記憶が戻るのじゃよ」
「やったー。そんな便利なものがあるなら早く言ってよ。もうっ。このまま一生記憶が戻らないんじゃないかって心配したじゃない。でもよかったー。これで私は私に戻れるんだ。ありがとう、妖精さんたち」
早口に言って私は実を食べた。すっぱい。でもその後にじんわりと甘さが広がった。
記憶がなだれこんでくる。泣きたくなるようなつらい記憶も、泣きたくなるような嬉しい記憶も、すべて。
私は誰か。
深入音根だ。
「自分が何者か、思い出したかね?」
「は、はい。あああの、あ、ありがとうございます。こ、こんなに親切にしてくださって」
長老様は目をぱちくりさせた。
「それが本当のあなたなのじゃな」
記憶を失っていたときの自分のことも覚えているから、自然、頬が熱くなった。恥ずかしい。あんなの、私じゃない。正反対だ。
「お嬢さん、坊っちゃんが起きたら、ルドモの実を食べさせてやってくだされ」
そうだ。深入くん。私はまだ目覚めない彼の体に手を触れ、少し揺すってみた。
「ふ、深入くん」
「ううう」
薄く目を開けた彼は、私が知っている深入くんではなかった。
「あなたは、誰ですか? というよりもまず、僕は誰なのだろう?」
他人を見ているようで心が痛んだ。
「ここここれを食べて」
「何ですか、これ」
私は、長老様が私に説明してくれたように、深入くんに実の効用を説明した。
「なるほど。ありがとうございます」
違う。深入くんはそんなに簡単に人を信じない。深入くんなら、「で、お前が嘘をついていない証拠は?」とか言い出すところだ。
けれど、記憶をなくしている深入くんは、不用心にも裏付けも取らず、ルドモの実を食べてしまうのだった。
咀嚼のあと、のどが健康的に上下した。
深入くんはため息をついた。
「僕とか言ってたやつのことは、忘れてくれ」
「う、うん」
気持ちはよくわかる。




