辜の形②
宿泊棟からキャンプ場まで歩いて十数分だった。朝の空気はそのすがすがしさを失いかけていた。
遅刻して行った俺は当然、説教をくらった。他の奴らの姿はなかった。すでに森へ行き、バードウォッチングを開始しているのだろう。
「まあ、先生。それぐらいでいいじゃありませんか。せっかくの林間学校なんですし」
助け舟を出してくれたのは、ウチのクラスの現代文を受け持っている女教師だった。たしか、名前は秋目。二十代で、長くウェーブのかかった髪が麗しく、男子生徒には人気がある。女子からは嫌われている。俺も嫌い。
「優しい秋目先生に感謝するんだな」
そう言って、男の教師は飯盒炊飯の準備があるからとどこかへ行ってしまった。
「じゃ、行きましょうか」
「え? どこへですか?」
「バードウォッチングよ。ここの近くの林でやってるんだけど、迷ったらいけないから先生が案内するわ」
「あ、俺、いいです」
俺は体操ジャージの中に隠し持っていたラノベを取り出した。
「そこらへんで読書してるんで」
「ダメに決まってるでしょ」
ラノベを没収された俺の胸中に芽生えたもの、それは憎悪だった。
曲がりくねる林道を突き進んでいくと、生徒の姿がちらほらと見え始めた。手には双眼鏡や持ち歩けるサイズの野鳥図鑑を持っている。
野鳥の会の人は、遅れてきた俺にも鳥の見つけ方や双眼鏡の使い方を教えてくれた。生徒の私物を強奪するような極悪人がいる一方で、こういう親切な人もいるのである。
鳥の鳴き声をキャッチしようと耳を澄ませる。
「あ、いたいた」
「あれ、何て鳥?」
「図鑑図鑑」
「やばい。全部同じに見える」
「だりー」
鳥の声ではなく、人間の声ばかりが聞こえる。
俺は人がいない方、いない方へと歩いた。しかし、生徒は林の広範囲に散らばっており、視界に人間を入れないことは困難だった。
時たま、おしゃべりの声が途切れる一瞬がある。そんなときに風が吹くと、梢がこすれ合う音まで聞こえるのだった。
ふと、足を止める。
見られている。
うまく気配を消しているから、どこから見ているのかまでは分からない。が、確かに視線を感じる。しかも複数。
バードウォッチングではなく、ヒューマンウォッチングをしている奴らがいる。
悪趣味だ。
注意してやりたい。
どこだ? どこにいる?
辺りを見回す。しかし、すでに見えている生徒は俺のことなど気にせず、野鳥を探している。悪趣味くそ野郎どもは、木の影もしくは茂みに隠れているようだ。
そのとき、ピーピーピーピーと鳴き声がした。
振り返ると、木の枝に鳥が乗っていた。大きくはない。小鳥、といってもいいのだろうか。胸の部分は黄色い。翼は黒。
そうだ。双眼鏡だ。
俺はレンズをのぞきこんだ。
鳥は顔を色々な方へ向けている。警戒している。突如、林にやって来た愚かな人間どもは全員死んでしまえと思っている。
「ふふふふふふ深入くん」
突然背後から声をかけられたので、わっと叫びそうになった。喉に力を入れて己の声をつぶす。
一息ついてからそいつの方を見る。
「いきなり何だ?」
音根は体操ジャージの袖をつかんだまま、ほんのかすかに体を揺らしていた。いや、これは震えているだけかもしれない。
「ああああの鳥、な、なんて名前か知ってる?」
「知らんな」
「キビタキって言うんだよ」
「よく知ってるな」
「しし調べたから」
しかし音根は図鑑を持っていない。
「ん? 佐藤や鈴木や山田と一緒だったんじゃないのか?」
「いいいい一緒だったよ」
「じゃあなんで今一人なんだ?」
「え、えっと、そその、ふ、深入くんを見かけたから、さ三人にはことわって私だけ来たの」
「何か用か?」
「よよよよ用とかじゃなくて、そ、その、は、話したかったから、き来たの」
俺は音根から視線をそらしてしまった。今、音根の目を見たら、また、あの夜のように抱きしめたくなる自信があった。
「ききき昨日、て、天体観測のときどこにいたの?」
「部屋だ。あんな天気じゃ星は見れないと思ったから」
「う、うん。み見れなかった。じゃ、じゃあ今朝は? ふ、深入くんの班の人たちを食堂で見かけたんだけど、ふ、深入くんはいなかったよね? どどこにいたの?」
「寝てた」
もしかして今俺は責められているのか?
なんだかそんな気がする。
「寝てたって何よっ」
すぐ近くの木の影から鈴木が出てきやがった。
「あんたねえ、さっきからふざけてんの? 天体観測のとき、音根がどれだけあんたのこと探したと思ってんのよ。今日だって一緒に朝ごはん食べようと思ってたのに、なのに寝てた? いい加減にしなさいよ」
「お前にとやかく言われる筋合いないだろ」
「ある。私は音根の友達よ。あんたのその不誠実な態度を矯正してやムガムガ」
佐藤が鈴木の口を押さえてくれた。
「ごめん、二人とも」
「私たち、あっち行ってるから」
三人は去った。
俺は悟った。俺を監視していたのは、佐藤、鈴木、山田の三人組だったのだ。それに音根。こいつも俺をウォッチしていたのかもしれない。
人間の視線が鬱陶しかったら、鳥は飛んで逃げることができる。
俺は逃げられない。
この林間学校の間に、もし音根が俺に告白するようなことがあったらと、想像してしまう。
なんと言って返せばいいのだろう。
返答の先延ばしは許されない。俺はハーレムラノベの主人公ではないのだから。好きか嫌いかはっきりせず、相手の好意を持続させることほど残酷なことはないのだから。
キビタキはもうどこかに消えてしまっていた。




