雲は無慈悲な夜の帝王③
すみれのヤッホーは、叶わなかった。
降り出した雨は勢いを増すばかりで、いっこうに止む気配がなく、登山は中止になった。代わりに、体育館でクラス対抗ドッジボール大会が開かれた。
空間を削り取るかのようにボールが飛んでくる。
私にできることは逃げ惑うことだけだった。
しかし運動神経の鈍い私である。当然、そのときはやってくるわけで。
ダメ。当たる。
そう思った瞬間、ぬっと人影が出てきた。背はそれなりに高いけれど、その体は運動部の男子みたいに頑強ではない。けれど、私一人をボールから守るには、それで充分だった。
「深入、アウト」
「ああああありがとう」
審判の声と私の声が重なった。
深入くんは特に何も言わずに、なぜかポケットに両手を突っ込んだまま、相手コートの外野へ行ってしまった。
「えー何あれ何あれ。音根を守るのは俺だ、みたいな。もうこれ付き合ってるでしょ。そうなんでしょ、音根。私たちには内緒であんなこともこんなことももうすでにやっちゃってるんでグエッ」
すみれの腹部にボールが命中した。
「だ、大丈夫?」
「私も、彼氏欲スィー」
お腹を抑えつつ、ふらつきつつ、すみれは外野へと向かった。
試合は続く。
危機は何度でもやってくる。
あ、これ、避けられない。しかも顔面。私は目をつむった。
間。
あれ?
目をあけると、仁王立ちのさくらが片手を横に目いっぱい伸ばし、ボールをつかんでいた。私の方を振り返り、笑顔を向けた。
「怪我ない?」
「は、はい」
どうしよう。さくらに惚れそう。
私は頭を左右に振って、降って湧いてきたこの気持ちを振り払おうとした。私が好きなのは、深入くんだ。その深入くんは、相手コートの外、というか、体育館の端にいた。座って虚ろな目で手元を見ている。しかし、そこには何もない。手が何かページをめくるような動きをした。エア読書だ。
「えっと、音根を狙ったのは――」
言うと、さくらはボールを高く投げ上げ、一歩、二歩、三歩と助走をつけてジャンプした。みんなの視線が集中する中、彼女の腕は躍動し、その手の平がボールを叩きつけた。
私にはボールが消えたように見えた。
けれど、物理法則が支配するこの世界ではそんなこと起こりえない。
相手コートを見ると、ボールが命中したらしい男子が自身の股を押さえて転げ回っていた。
私は唖然としてさくらを見た。さくらは照れくさそうに笑うばかりだった。
ボールが飛んでくる。よける。投げる。誰かがアウトになる。
延々と続くかのように思われたゲームも終わりを迎えた。
私たちは勝利した。
次の試合が始まるまでの休憩時間、さくらはクラスメート、主に運動部の人たちに囲まれ、質問を浴びせかけられていた。文化部のさくらがあんなふうに活躍するとは誰も思っていなかったのだ。
「さくら、中学のとき、バレー部だったんだ」
八重が小雨のようにぽつりぽつりと話し出した。
「私たちの学校のバレー部は、全国大会にも行けそうなぐらいに強くて、さくらは、一年のときからエースだった」
「そ、そうなんだ」
でも今はさくらはバレー部ではなく、家庭科部に所属している。
なぜか。
何かが、あったのかも。エースへの嫉妬に起因するいじめとか、膝の故障とか、燃え尽き症候群とか、自分よりも圧倒的な才能に打ちのめされたとか。そういう物語がさくらにもあったのかもしれないし、なかったのかもしれない。
「訊かないの?」
「なな何を?」
「さくらが今はバレーをやってない理由」
「き、訊かないよ」
本人が話したくなった時に話したい相手にしゃべればいいことだから。
「音根のそういうところ、私、好き」
私たちが他愛もない話をしている間に、すみれがさくらを群衆の中から連れ出し、こっちへ引っ張ってきた。
「よーし。次も私たち四人でクラスを勝利に導くわよ」
「どうしてそんなに自信満々なの? 馬鹿なの?」
「八重ひどい」
次の試合、私たちはあっけなく負けた。




