或る小鬼
GWに暇は無かった——
今日も起きれば木漏れ日が。
静かに翡翠色の目をてらてらと輝かせる。
遠くから聞こえる川のたゆたう音。
森のさざめき、吹き降ろす山風が枯葉と落ち葉を腐った土にさりさり擦り付ける音。
ボクはその一帯の自然と共に起きる。
ボクは、小鬼だ。
緑の肌、早熟する頭と体、長い爪と鷲鼻、旺盛な性欲。
最後のは他の同族と比べると大分薄いかもしれないけど、れっきとした小鬼だ。まだ名前は貰えてない。
「...」
無言で周りを見れば兄弟や同族がそこらで雑魚寝している。気持ちよさそうにぐっすりと。
ボクはこれまでの事を振り返る。
ボクは離れの向かい側の小屋で、三十が四つも前に産まれたそうだ。記憶はあまり無い。母親は今日も子を孕み、頭数を増やそうと奮闘している。
父さんは、最近死んだらしい。
別に、何も思わなかった。
なんでかは分からないかったけど、そういうものだと、——の描く文字らしきもののように小さい頭に押し込んだ。
でも、ボクにも大切だと思える家族が出来た。妹だ。
「ガぁ......」
欠伸をして横を覗き見ると、ボクの腕の上に頭を乗せてくぅくぅと寝息をたてている。愛おしいボクの妹。絶対に守りたいモノだ。
「ゴゴゴ、ギィ。」
矮小な体躯に鞭を打ち、日課の散歩としよう。盗んだアレも隠してあるから、勉強もしたい。
ボクはそう考えると、妹を背負い、軽くて雑で脆い木の扉を開けて小さな世界へ飛び出した。
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人間という存在がいる。
皆はボクらを殺す悪い存在だと言う。
でもボクはそう植え付けられているだけだと思う。
物心つく前からそういうものだと言われてきていたから、周りが見えなくなっているんだ。
父さんは人間に殺されたらしいけど、それはきっと毒の付いたの刃物と弓矢をもっていたからだ。
あれに触れると皮膚がボロボロになって、空を吸う事が出来なくなっていって、死ぬ。実際に同族が誤って死んだ。人間だって同じ目には遭いたくない筈だから、きっとやられる前にやったに違いない。
それと多分、ボクは他の同族よりも頭がいい。同族や兄弟に会話をしようとしても、途中で向こうが付いてこれなくなる。というか、ボクらの種族には必要最低限の単語と手話しかない。
弓を工夫して作ったあれもボクが作ったものだ。ボクが人間を殺しに行かなくて済むのは、そのお陰でもある。
こんなことを考えているのもボクだけだ。
だから、ボクは人間よりも恐いやつが身近にいる事も知ってる。
——だ。——は何かの成れの果てだ。
みんなは同族に見えているそうだけど、全く違う風にボクには見える。
——に逆らった兄弟がいたけど、——に呼び出されて、戻った時には翡翠色の目は濁っていた。
生きていないような、淀んだ目をしていた。
それからは大半の同族が濁った目をしている。前まで笑顔で喋っていた同族はいつの間にか人形みたいになっていた。
気付いているのは、ボクだけだ。
他の同族がどうなろうとどうでも良いけど、妹だけは必ず守ってみせる。
ボクは裏山へと登っていく。誰もこの裏山には来ないことを知っているから。
少なくとも同族は。
その小ぶりな山を越えた所に、木の梢や雑草に隠された穴があった。ボクの秘密基地だ。
その中を、木で作った掬う物で少し掘ると硬い感触が手に伝わる。ボクの木の箱だ。それをさらに掘って取り出して、蓋を開ける。
中身は本だ。とてもとても厚くて、幾度の年月を重ねたであろう風化と汚れの目立つ本だ。何故か、題名が無い。
開けば様々な事象や事柄が載っている。人間の言葉も、ボクらの言葉も。そして異種族側での公用語も載っている。
これを——から盗んだ。
産まれて一週間の頃、ボクは言葉を覚えた。そして——の不気味さも感じていた。
最初は好奇心で——を困らせてやろうと盗んだつもりだったのだが、内容を読むなりボクは知識という沼にズブズブとのめり込んだ。
そして、小鬼の中でも異端な考え方を持つようになった。
最近は人間の言葉を覚え始めている。やっぱりボクらの種族は呑み込みが早い。
人間ならば、言葉を覚えるのに何年も掛かると書いてあるけどボクはその何十、何百倍の早さだ。
その代わりに寿命は驚くほど短いけど。
ついでに呂律のまわらない妹にも少しづつ教えている。勉強をするならば幼いうちからが良い。
「ギィ・ゲ《自分》......『ボク』」
「ゴゴ...ボ.....く?」
「ガァラ《そうだよ》。」
首を傾げて訊ねてくる妹に優しくそう返す。
この本の中にある常識知れば知る程、——が異常な存在かが分かる。
そして知る度にボクは恐怖をしている。だから、人間がこの集落を潰そうとしているのならば利用する。
会話が出来るのならそれが一番良いけど、どうにもそう簡単には行きそうにない。
自分と妹を守るには危険が多過ぎる。
思考を繰り返していると、集落の方からいつもの朝の営みが聞こえてくる。
猥雑で慣れた、朝のゴブリン達の生活音。昔、という程長生きはしていないが前の頃の方がもっともっと『生きている。』という感じがした気がする——...。
「ギ・ドゥガ《戻ろう》」
「わかっ...タ?」
ボクは目を見開いた。
ボクらの言葉で話したのに、妹は人間の言葉で返してきた。
その成長が愛おしくて愛おしくて堪らない。両脇を掴んで思わずたかいたかいをしてしまう。
さぁ、戻ろう。
◆
裏山からは戻らず、大回りして川の方面から集落に戻った。
その場面は当然見られてはいたが、川の見回りと木の実や生き物の様子も見回ってきたと言い訳するとあっさり信じた。
いつもの事だ。深くは考えず、浅く広く物事を捉えている。
どうしようもなく、心が痛む。その同族の眼も、木の葉と泥をぐちゃぐちゃにかき混ぜたような色をしていたから。
その態度や感情の機微は、自我共に希薄だ。
その事を他の同族に伝えても信じてはくれない。笑われた。
狩った獲物を食す時にも祈らなくなった。本に書いてある小鬼の風習とも大分異なってきている。
暫くすると、五、六匹に数を分けて警備や食料調達の為のパーティを組み始めていく。
もちろんボクはいない。
棍棒に毒付きのナイフ、短剣。それにボウガン。唾液で鞣した獣の皮と腰巻を装備して二十匹程が警備に当たっていく。
川方面に魚を取りに行く連中の護衛、巨大な五つの岩での警備。
今、集落にいる同族の数は三十匹程だろうか。
この数のゴブリンが生活するのに、一体どれだけの資源が必要なのか。周りの自然を考えれば、この状況はいずれ崩壊する。
それを——はどう考えているのか。
——ボクにはまだ、分からない。
「............」
例えば、人間の街を襲うとか?
でも、たったの百匹ぽっちで...?
無謀過ぎると思う。
文明も数も負けていて、何処に勝機があるのだろう。
そもそも、——はゴブリンという存在をどう捉えている?
「————————!!!!」
...これまでの事を推察し、ボクはある仮の結論へ辿り着いた。
その瞬間にボクは駆け出した。
「ゲ・ィグギリィ《不味い》...」
あとはあの本で確認を行えば——の正体が分かる。
走る。斯く速く走る。
駄目だ駄目だ駄目だ。もしそうだとしたら、ボクらの営みも、価値も、生きた証さえも否定されて踏み躙られる。
堪らなく悔しいし、赦せるモノじゃ無い。
「ガぁ...ァっ!......」
そして石造りの祭壇を横切る時、ボクは襲われた。
意識が暗転する間際に見た、——の顔は小鬼の皮を被った何者か。
━━━━━━━━その眼は深淵のようにボクの意識を奈落へと放り込んだ。
◆
は
憎しみ を 咀嚼する
は
哀しみを つなぐ
は ふたつを分けた
どちらも同じ
なのに
なぜ
ならば
——の残滓か