いじめ、ね
新着エッセーにて、いじめについてのエッセーを読むが…
中途半端だなあ、って思う。
善いいじめか、悪いいじめか……“いじめ”その言葉自体、ネガティブ要素しか入ってないのだ。
親鳥などが子のためを思ってわざと厳しい環境を作ることは、“羽ばたくための『試練』である”とでも言っておけばいいのに……と、“いじめ”の言葉に拘り過ぎて、作者の言いたいことは理解できるが理解したくない拒否反応が出て、読了後はとても複雑な気分になる。
善いいじめか、悪いいじめか――いじめられている側に見極めろと諭されても、「自分はなんでいじめられているんだろう、泣かされているんだろう、親に不安な顔をさせているんだろう……」
「なんで自分はこんなに駄目なやつなんだろう、生きている価値はあるのかな?」
――と追い詰められていくのは、善悪は関係ないだろうと思う。言い返せるだけの人格を親は作り上げればいいのだというが、みんな同じ人間ではない。
理性があるから、谷に落とせば這い上がってくる精神が生まれるなんて、単純でなまっちょろいもんでもないだろう。
その谷底で足が折れてどうにもいかなくなったとき、腕が生まれつき片方なくてどうしようか途方に暮れたとき、ただ放置して「登ってくるだけだろ」と言っているだけでいいと思っているなら、お前は自分の親から五体満足、常に健康的である人間ばかりが世の中にいるんだと教えられて生きてきたんだろう…きっと。
というか、何歳の子をそこへ放置しろという話なのか?
それにしても、親の役目はただ突き放して勝手になんとかしろじゃないと思う。
それは鳥だって、なんだって、親の背中を見せて子を育ているからだ。
狩りの仕方の手本を見せ、羽ばたく風を毎度のごとく浴びせ、その翼がなんのためにあるのか、牙が何故あるのか、生まれつき備わっている本能に呼びかけ続け、その日に『試練』を与えるのだと思う。
誰かに何故イヤなことを言われるのか、何故遊んでいるだけで石をぶつけられるのか、理不尽な行ないにどう向かって行けばいいのか――
「仕返しする前に、外堀を埋めるんだ」
なんて。
人間のいじめについて語るなら、色んな人間がいることを忘れたらいけない。
また、理性もあれば、法律もある。弱肉強食で片付けられるほど、世の中、単純じゃないのだ。
助けを求められた時、最低でも聞く耳を持つ親になりたいものだが、そのエッセー作品が酷く叩かれないことを祈る――が、もしかしたらサラリと流されていくかもしれないなあ。
※追記※
語る人間に知識はあっても、経験がなけりゃあただの綺麗事――偏るのかもしれないと思った。どこから得る知識かは知らん。でも、実際、見た触れたこともないのだろうと、その言葉に不信が浮かんだら、もうその人の語り場へは行かない。
エッセーが難しいところは、文章がうまく?纏められていても、不安と不満以外感じられるものは一体なんだろうか?と不思議でならない。
※追記2※
考えれば考えるほどおかしな話だな。
「あなたのためだ」「お前のことを思って」
で、相手を傷つけることを正当化するのは“モラハラ”野郎や“毒親”の常套句だろうし、そうやって追い詰められたこともあるからその時の精神状態は別れられた後で「あれはおかしい」と気づいたもんである。
それに、言う側はそもそも相手を育てようと思って、「そんなこともできないのかよ馬鹿だな」を繰り返し言い続けているのだろうか? ノロマ、豚、ブス、気持ち悪い、糞……足が早くなるように練習したり、お菓子やご飯を食べるのをやめたり、顔が隠れるように俯いて歩いたり、皮膚が真っ赤になるまで洗ったり、茹で上がるくらいに熱い湯に入ったり…
死んだほうがマシなんじゃないか、楽になれるんじゃないかって思いながら過ごさなければならなくなるまで追い詰められることが、虐められる側に与えられた『善いいじめ』か?
きっとそれは「悪いいじめだったんです」って言われるだけだろうね。
じゃあ、『善いいじめ』ってなんだよ?
……堂々巡りになるわ。




