ラノベとジジイとクソガキ
絵と詩について考えていたのだが…
詩の一小節ごとに絵を付けたら絵本で、絵の中に言葉を埋め込んだら漫画で、絵の全てを表現したら小説になるとしたら、ラノベのいる場所は漫画方面ではなく、絵本と小説の間――児童書だったのだな…
とね。
……児童書か、そらだいぶ児童からかけ離れてしまったら合わない、読めない、感動しなくて当然かと思う。
だって、児童よりも人生の経験値がたかいんだもん。微笑ましく見守ることは出来るが、同じ立ち位置ではどうにも居られない。経験というフィルターのはせいで、お節介な気持ちがどうしようもなく湧いてくるのだもの…
子供と大人の壁――「昔のアレみたいで懐かしいわ」のくだりが無意識に脳裏に思い浮かんでしまうのだから、面白おかしく楽しい気持ちは、そりゃあ頑固ジジイ並みに厳しくなるわ。
見守ることは出来るが、真新しい人生の一ページになることは、とても難しい…
もし、心に頑固ジジイがちゃぶ台を引っ張り出してきて居座りはじめてしまったのなら、せめて「それはダメだ!」の一点張りをする前に耳を傾ける努力をしなければいけないなぁ……例え、あぐらをかいて腕組みして、ギュッと目を瞑ってしかめっ面で偉そうであっても、まずは相手の言葉くらい聞いてからでも結論を出すのは遅くはないだろう。
なーんて思うのでありますが…ついでに失礼なことも言っちゃいましたがしかし、自分の薄れてはじめた感動の域に達しないからって――もしくは自分の意見と同じ、また言うことを聞かないからって否定的であるのもいかがなもんか…
と、言いつつも、もとから沸点の低い自分は頑固ジジイにすら到底及ばないクソガキのままな大人であるので、結局、忍耐力になるのだろう。
……難しいな〜




